第84話「ひとくちだけ、と言ったのに」
「……なんでまた来てるんだ、あのエルフ」
フィーネが集落の入り口に立っていた。
昨日『人間は変わらない』みたいな顔で去ったのに。腕を組んで、むすっとした顔で仁王立ちしている。
いや、待て。
俺はまだハンモックから起きたくない。朝日がちょうどいい角度で差し込んで、今がいちばん気持ちいい時間帯なんだ。
あのエルフの相手は、誰かに任せたい。
「フィーネさん! また来た!」
ルナが真っ先に駆け寄った。
昨日あんなに険悪な空気だったのを覚えていないのか。いや、覚えてるだろうに気にしていない。獣人のコミュニケーション能力、おそるべし。
「……なぜそんなに嬉しそうなの、あなた」
フィーネが一歩後ずさった。
翡翠の瞳がわずかに泳いでいる。
「だって、来てくれたから!」
「来てくれた、ではありません。監視に来たんです。あなたたちが森に近づかないか見張りに」
「かんし! うん!」
ルナ、たぶんその言葉の意味わかってないぞ。
俺は渋々ハンモックから降りた。
朝のまどろみを返してほしい。
「昨日のあれは何だったんだ。『人間は変わらない』って去っていったのに」
「勘違いしないでください。わたくしは森を守る義務があります。あなたたちの動向を把握するのは当然のこと」
長い金髪が朝風に揺れる。
端正な顔に、何か言い訳のようなものがにじんでいた。
……めんどくさいが、まあいい。追い返す方がもっとめんどくさい。
「好きにしろ。ただし集落の中を歩くなら、住民を怖がらせるな」
「怖がらせるつもりなどありません。わたくしはただ──」
「おなかすいた?」
ルナがフィーネの袖を引っ張った。
フィーネの言葉が途切れる。
「は?」
「おひるごはん、もうすぐだよ。マーレンのごはん、すっごくおいしいの!」
フィーネの翡翠の瞳が、わずかに揺れた。
***
昼になった。
マーレンが広場に大鍋を運んできた瞬間、風向きが変わった。
──いや、比喩じゃない。本当に風が変わったのだ。
鍋の蓋が開く。
白い湯気がふわりと立ち上り、こんがり焼いた根菜と香草の匂いが広場に広がった。
今日の献立は、干し肉と根菜の煮込み。
ごろごろと大きく切った芋が黄金色に煮崩れかけている。干し肉から染み出た旨みが汁全体に行き渡って、仕上げのマナ香草の緑が鮮やかだ。
ぐつぐつ、と鍋底から泡が上がるたびに、濃厚な匂いが波のように押し寄せる。
「ご飯よー! 並んで並んでー!」
マーレンの声に住民たちが集まってくる。
カイが真っ先に木の器を差し出した。いつものことだ。
俺は定位置──広場の端の日陰に座って、器を受け取る。
熱い。湯気が顔に当たると、鼻の奥がじんわりする。
ひとくち啜ると、干し肉の塩気と芋の甘さが舌の上で混ざり合った。
うまい。マーレンの飯はいつもうまいが、今日は特に芋の火の通り加減が絶妙だ。
「フィーネさん、たべて! おいしいよ!」
ルナがフィーネの前に器を差し出していた。
湯気の向こうで、フィーネが固まっている。
「……結構です。エルフは人間の食事など口にしません」
「えー」
ルナがしょんぼりと肩を落とした。
あの落ち込んだ顔の破壊力を、このエルフはまだ知らない。
フィーネの視線がルナの耳に向かい、そして器に戻った。
湯気が金髪にかかって、ふわりと揺れる。
「…………ひとくちだけ」
フィーネが器を受け取った。
長い指で木の匙を持ち、煮込みをすくう。
ためらうように唇に運ぶ。
──瞬間、翡翠の瞳が見開かれた。
フィーネの動きが止まった。
匙を口に含んだまま、まばたきを三回。
頬がわずかに紅潮している。
「……どう?」
ルナが期待いっぱいの目で覗き込む。
「…………まあ」
フィーネが匙を下ろした。
顔をそむけて、早口で小さく言う。
「食べられなくは、ないわね」
二口目。
三口目。
四口目。
食べ続けている。
「エルフが人間の食事を口にするなど……三千年の歴史で初めてかもしれない……屈辱……」
そう言いながら、三杯目に手を伸ばしていた。
マーレンが腕を組んで、にやにやしながら見ている。
「あらあら〜。エルフのお嬢さん、お代わりもあるわよ?」
「お代わりなどしていません。器に残った分を片付けているだけです」
「はいはい、お片付けね〜」
マーレンが大きなお玉で追加を注ぐ。
フィーネは抗議の視線を向けたが、匙は止まらなかった。
ルナが勝手にやった。
だが土台はできた。
まあ、俺がやったことはハンモックから降りただけだが。
***
食後。
フィーネが広場の木陰に座っていた。
普段は背筋をぴんと伸ばしているのに、今は少しだけ姿勢が崩れている。満腹のせいだろう。エルフは木の実と果実を生のまま食べると聞いた。火を通した温かい料理は初めてだったのかもしれない。
「フィーネさん」
ルナがフィーネの隣にちょこんと座った。
「なに?」
「ね、ね」
ルナがフィーネの肩に顔を寄せた。
金髪に鼻先をくっつけて、くんくんと嗅ぐ。
「いいにおい! はなのにおい!」
フィーネの全身が硬直した。
「な、なっ──」
「ルナのまわり、土のにおいと、木のにおいと、ごはんのにおいばっかり。フィーネさんは、おはなのにおい。すき!」
フィーネの言葉が一瞬止まった。
長い耳がぴくぴくと震えている。
「ちょっ……離れなさい! エルフに許可なく触れるなんて……」
「えー、だめ?」
ルナが上目遣いで見上げる。
フィーネが目をそらした。
「……少しだけなら、いいけど」
ルナの尻尾が爆発するように振れた。
「やった!」
金髪に顔をうずめるルナと、視線を泳がせて固まるフィーネ。
なかなかいい絵面だ。
「あらあら〜」
マーレンが台所の窓から身を乗り出していた。
「エルフのお嬢さんも、素直じゃないわねぇ」
「素直も何も……! わたくしは監視に──いえ、別に」
「監視のお仕事、お疲れさま。お茶もあるわよ?」
フィーネが言葉に詰まった。
マーレンには敵わない。あの姉御のペースに巻き込まれたら、エルフの三千年の矜持も形無しだ。
干し肉の煮込みを啜りながら眺めるには、なかなかいい光景だ。
やがて、日が傾き始めた。
フィーネが立ち上がる。金髪についたルナの銀色の毛を、そっと払っている。
「……また来るかもしれません。監視のためです。それ以外の理由はありません」
背筋を伸ばして、凛とした声。
だが耳の先はまだほんのり赤い。
「フィーネさん、あしたも来る?」
ルナが駆け寄る。尻尾がぶんぶん。
「……森の状況次第です」
フィーネが足早に去っていく。
金髪がさらりと風になびいた。
「来るだろうな」
俺はハンモックに戻りながら呟いた。
「あの反応で来ないわけがない。エルフのプライドより、マーレンの飯の方が強い」
台所からマーレンの声が響いた。
「明日はシチューよー! エルフのお嬢さんの分も作っとくわね!」
ルナの耳がぴんと跳ねる。
尻尾がまたぶんぶん振れた。
「しちゅー! フィーネさん、ぜったいくるね!」
たぶんな。
まあ、あいつが来てくれりゃ、交渉の糸口も見えてくる。
それまで俺はハンモックで寝てよう。
……働きたくないが、食わせるだけで話が進むなら、悪くない。
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