第83話「100年前の怒りは効率が悪い」
翌朝、集落に乗り込んできたのは、あのエルフだった。
住民たちがざわめく。カイが大剣に手をかける。
フィーネは全員を見回して、冷たく言い放った。
「森の木を一本でも切ったら──許しません」
朝っぱらから怖い。せっかくの穏やかな朝が台無しだ。
俺はハンモックから半身を起こして、目をこすった。
……もう少し寝ていたかったんだが。
「おい、いきなり来て何だそれ!」
カイが一歩前に出る。大剣の柄を握ったまま、フィーネを睨んでいた。
住民たちも顔をこわばらせている。昨日、俺が森の端で蔦に縛られた話はもう広まっていたらしい。
朝の支度をしていた手が止まり、広場に緊張が満ちていく。
「昨日、そこの人間に警告しました。にもかかわらず、あの男はまた森に近づくつもりのようですね」
フィーネの翡翠の瞳が、俺を射抜く。
……近づくつもりというか、木材が必要なだけなんだが。
「だからって集落に乗り込んでくるか? ここは俺たちの場所だ!」
「あなたたちの場所。ええ、そうでしょうね。人間はいつもそう言って、自分の都合で土地を切り拓く」
カイの顔が赤くなる。まずい。こいつは真っ直ぐすぎるから、売り言葉に買い言葉になりかねない。
「待て、カイ」
俺は重い体を起こして、二人の間に入った。
めんどくさい。朝から本当にめんどくさい。でも、ここでカイが暴れたら余計にめんどくさくなる。
「話を聞いてからでも遅くない」
カイが唇を噛む。だが、大剣から手を離した。
よし。こいつは頭に血が上りやすいが、引くべきときは引ける男だ。
「……話? わたくしに話すことなどありません。警告に来ただけです」
フィーネが腕を組む。金髪が朝日に透けて、まぶしい。美人だが怖い。昨日も思ったが、やっぱり怖い。
「警告ってのは、理由があって初めて意味がある。なぜそこまで森の木に拘る?」
フィーネの瞳が揺れた。
ほんの一瞬だったが、確かに揺れた。
「……あなたたちに、わかるはずがない」
声が低くなる。冷たさの奥に、別の何かが滲んでいた。
「100年前のことです」
住民たちが静まり返った。カイも口を閉じている。
「人間の探検隊が、あの森に入りました。木材が欲しいと言って。わたくしたちは断りました。それでも人間は引き下がらなかった」
フィーネの声は淡々としていた。だが、握りしめた拳が白くなっていた。
「彼らは火を放ちました。森が邪魔だというなら、焼き払えばいいと」
一瞬、広場の空気が変わった。
ルナの耳がぴくりと動いて、ぺたんと伏せた。
「煙が空を覆いました。灰色の、重い煙です。木々が──悲鳴を上げました。幹が裂け、葉が燃え、根が焦げるにおいが何日も消えなかった。枝がはぜる音が、夜になっても止まなかった」
フィーネの声が、かすかに震えていた。
「焼けた幹から立ち上る煙は、甘い木の香りなどではありません。苦く、重く、喉を焼く煙でした」
フィーネの目が、ここではない遠くを見ていた。
「わたくしは覚えています。あの煙の色も。木々の叫びも。焼けた大地に立ち尽くした朝のことも。すべて、昨日のことのように」
100年前。
人間にとっては、もう誰も覚えていない昔の話だ。
だがエルフにとっては──300年以上生きる種族にとっては、「最近の出来事」なのか。
……100年前。俺には長すぎて、想像できない時間だ。エルフにとっては、時間の流れ方がそもそも違うのか。
住民たちが黙っている。カイも黙っていた。さっきまでの威勢はどこにもない。
「人間は変わらない」
フィーネが言った。静かな、けれど決定的な一言だった。
「あなたたちも、いずれ同じことをする。だからわたくしは──あの森には、指一本触れさせない」
広場に沈黙が落ちた。
誰も何も言えなかった。100年前の火を見た目で、「信じろ」と言われても無理だろう。そりゃそうだ。
フィーネが踵を返した。金髪が揺れる。
もう用は済んだとでも言うように、背筋を伸ばして歩き出す。
──まあ、気持ちはわからなくもない。100年前に森を焼かれたら、そりゃ怒る。
だが木材は要る。
そのとき、銀色の影が走った。
「フィーネさん、待って!」
ルナだった。
フィーネの袖を、両手でぎゅっと掴んでいる。銀色の耳がぺたんと伏せていた。
「……離しなさい」
フィーネの声が冷たい。だがルナは手を離さなかった。
「だめ。まだだめ」
ルナの耳が伏せたまま、尻尾が低く揺れている。怯えているのに、手だけは離さない。
フィーネが眉をひそめた。
「離しなさいと言っています」
「フィーネさん……泣いてるにおいがする」
フィーネの目が見開かれた。
「……何を言っているの」
「泣いてないけど、泣いてるにおい。ずっとしてる。昨日も。今日も」
ルナの鼻がひくひく動いている。
あいつの嗅覚は感情を読む。怒りも、悲しみも、匂いでわかってしまう。
フィーネの表情が、一瞬だけ崩れた。
本当に一瞬だけだった。すぐに冷たい仮面を被り直して、ルナの手を振り払った。
「……余計なお世話です」
フィーネが森に向かって歩き出す。振り返らなかった。
金髪が風に揺れて、木立の影に消えていく。
ルナが、フィーネの消えた方をじっと見つめていた。
伏せていた耳が、ゆっくりと起き上がる。
「泣いてるにおいがした」
100年前の傷を、俺が治す義理はない。
だが木材は要る。あのエルフを説得する方法を考えないと、集落の拡張が止まる。
腕を組んで、フィーネが消えた森の方角を見た。
「……まあ、話にならないなら放っておく。だが交渉の余地があるなら──めんどいが、やるか」
ルナの耳がぴくっと動いた。
「ユウトさん、フィーネさんのこと、助けるの?」
「助けるとか大げさなこと言うな。木材が欲しいだけだ」
ルナが首をかしげる。尻尾がゆっくり揺れている。
「でも、ユウトさん──やさしいにおい、してる」
……余計なことを嗅ぐな。
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