第82話「美人だが怖い」
「そこの人間。その木に触れるな」
頭上から、声が降ってきた。
氷のように冷たくて、透き通った声。見上げると──長い金髪が、木漏れ日に透けていた。
昨日、ルナが嗅ぎ取った「怒ってるにおい」の正体を確かめるべく、俺たちは再び西の森の縁に来ていた。
木に触れて【効率化】を使おうとした、その瞬間。
ざわり、と枝が揺れた。
太い枝の上に、女が立っていた。
長い金髪が腰まで流れている。翡翠色の瞳が、まっすぐ俺を射抜いていた。
そして──耳だ。人間の倍はありそうな、先の尖った長い耳。
「この森はエルフの領域。人間が立ち入っていい場所ではありません」
女が片手を振ると、足元の地面から蔦が這い出した。
まるで生き物のように蔦が俺の腕に巻きつき、体を締め上げる。
「うおっ……!」
動けない。蔦の力は想像以上に強い。
締め付けられた腕に、蔦の青くさい匂いが染みてくる。頭上で枝がみしりと軋んで、驚いた鳥が羽音を立てて飛び去った。
──美人だ。だが怖い。
反射的に【効率化】が蔦を分析する。
『蔦の強度──引きちぎれる範囲。ただし、切断すると術者の怒りが推定40%上昇。拘束に従う方が効率的』
……スキルが「おとなしくしてろ」と言っている。珍しく同意見だ。
めんどくさい。力ずくで抜ける選択肢もあるが、ここで暴れたら話がこじれる。
「あの、俺は別に森を荒らしに来たわけじゃ──」
「黙りなさい」
冷たい声が落ちてくる。翡翠の瞳に怒りが揺れている。
エルフ。物語や伝承では聞いたことがある。長寿で、森に住み、人間嫌いで──なるほど、伝承通りだ。
「あなたたちは昨日もここに来ていた。森の木に触れ、根元を調べまわった。この森はわたくしたちの領域。一枚の葉にも──」
「ユウトさんっ!」
茂みの向こうから、銀色の影が飛び出してきた。
ルナだ。少し離れた場所で匂いを嗅いでいたはずが、俺の声を聞いて駆けつけたらしい。
「はなして! ユウトさんを、はなして!」
ルナが蔦に掴みかかる。銀色の耳がぴんと立ち、尻尾が逆立っている。
エルフの女が一瞬、目を見開いた。
「……獣人? なぜこんなところに獣人が」
獣人とエルフ。住む場所も文化も違う。滅多に顔を合わせない種族同士だと、どこかで聞いた気がする。
ルナが蔦を引っ張りながら、ふと顔を上げた。
エルフの女の顔を見て──動きが止まった。
「……おみみ、ながい!」
ルナの目がきらきら輝いた。
「きれい! かみも、きれい! きらきらしてる!」
蔦を引っ張る手が止まり、ルナはぽかんとエルフの女を見上げている。
完全に警戒モードから興味モードに切り替わっている。
「……は?」
エルフの女が面食らっている。翡翠の瞳が大きく見開かれ、整った顔に困惑が浮かんだ。
怒りに満ちていた表情が、一瞬だけ崩れる。
「な……っ、変わった獣人ね。人の話を聞いて──」
「ねえねえ、さわっていい? おみみ!」
「駄目に決まっているでしょう!」
フィーネ──いや、まだ名前は知らない。エルフの女が、一歩後ずさった。
蔦の締め付けが、わずかに緩んだ。動揺しているのが蔦にまで伝わっている。
腕に巻きついていた蔦の締め付けが、ふっと緩んだ。
「あなたの名前は?」
ルナがまっすぐ聞いた。相手がどれほど怒っていようが、ルナには関係ないらしい。気になったら聞く。それがこいつのやり方だ。
エルフの女が唇を引き結んだ。答えるつもりはない、という顔。
だが──ルナの目はきらきらしたまま、微動だにしない。
「…………フィーネ」
ぽつりと、名前が落ちた。
「フィーネさん!」
ルナが花が咲いたみたいに笑った。
フィーネの長い耳が、ほんのわずかに揺れた。
「……っ。名前を教えたからといって、何も変わりません」
フィーネが手を振ると、俺の体に巻きついていた蔦がするすると解けていった。
腕に蔦の跡が赤く残っている。めんどくさい……蔦で縛られるとか何のプレイだ。
「警告です。二度目はありません」
フィーネが俺を見下ろした。翡翠の瞳は、再び冷たい光を取り戻している。
「この森に手を出すなら──相応の覚悟をなさい」
金髪が翻り、フィーネは木の枝を伝うようにして森の奥へ消えていった。
音もなく。影のように。
……速い。そして静かだ。あの身のこなし、戦っても勝てる気がしない。いや、戦う気もないけど。めんどいし。
「ユウトさん、だいじょうぶ?」
ルナが駆け寄ってきて、蔦の跡を心配そうに見つめる。
「ああ、平気だ。ちょっと縛られただけだ」
「しばられた……?」
「忘れろ。何でもない」
腕をさすりながら、フィーネが消えた森の奥を見つめた。
エルフの領域、か。西の森がまるごと誰かの縄張りだったとは。
ルナが前に嗅ぎ取った「木の匂いと花の匂い」──あれはフィーネだったのか。ずっと前からこの森にいて、俺たちの集落を見ていた。
木材は欲しい。だが森の持ち主が激怒している。
力ずくは論外。説得はめんどくさい。かといって放置すれば集落の拡張が止まる。
……何で楽に暮らしたいだけなのに、次から次へと厄介事が来るんだ。
「ユウトさん、あの人……」
ルナが西の森を見つめている。耳がゆっくりと揺れている。
「怒ってた。すごく怒ってた。でも……さみしいにおいもした」
さみしい、か。
あの怒り方は、ただの縄張り争いじゃない気がする。
もっと深い──何か古い理由がありそうだ。
理由が分かれば、対処のしようがある。
対処できれば、木材が手に入る。
木材が手に入れば、集落が広がる。
集落が広がれば、俺の仕事が減る。
……回りくどいな。でもそういう段取りでしか、楽にはなれない。
「ルナ、帰るぞ。腹減った」
「うん! ……でも、フィーネさん、またあえるかな」
「さあな。あのエルフが来たいなら来るだろ」
ルナの耳がぴこりと動いた。
「さみしいにおいの人は、また来る。あたし、わかる」
根拠のない確信。だが、ルナの鼻は嘘をつかない。
美人だが怖い。怖いが──さみしい。
めんどくさい相手が、増えた。




