第2話「働きたくない。でも死にたくもない」
胃が鳴った。
ぐうぅ、と。続けてきゅるきゅる。合奏するな。
全力で楽をする──昨日そう決意した俺が、翌朝最初にしたことは、焚き火の灰の横で大の字に転がって天を仰ぐことだった。
朝日はとっくに昇りきっている。容赦なく顔を照りつけてくる光が、瞼の裏まで白く染める。
昨日の木の実は三つ齧っただけだ。あれで一晩もつわけがない。
動かなきゃ食えない。食うには体力がいる。体力を得るには食わなきゃならない。
……詰んでないか、これ。
前世なら、這ってでもコンビニに行けばおにぎりが百円で買えた。ここにはコンビニどころか道すらない。自然って、やさしい顔してえげつない。
めんどくさい。
でも──このまま横になっていたら、マジで死ぬ。
働きたくない。でも、死にたくもないんだよ。
せっかく会社のない世界に来たのに、三日目で餓死とか、笑えもしない。
しゃーない。
這うようにして川辺へ向かう。途中で二回座り込んだ。膝に手をついて息を整えるたびに、前世の体力のなさを呪った。
昨日見つけた低木に、まだ実が残っていた。手を伸ばす。
『毒性なし。甘味あり──ただし栄養は低い。これだけでは一日の活動を賄えない』
知ってる。腹に入ればなんでもいいんだ、今は。
三つ、四つ、口に放り込む。甘酸っぱくて水っぽい。前世のブルーベリーに似た味が舌に広がって、空っぽの胃がじわりと温かくなる。
どうにか立ち上がれるくらいの気力が戻ってきた。
***
川沿いに少し上流へ歩くと、木々が密集し始める場所がある。西の森の縁だ。
一歩踏み入れた途端、靴底の感触が変わった。柔らかい腐葉土。踏みしめると、じっとりした湿り気が足裏に伝わってくる。
目に入った低木に、赤い実が鈴なりになっている。手を伸ばす。
『食える。酸味が強い──加熱すると甘みが増す。保存には向かない』
一つ摘んで、口に放り込んだ。
──すっぱ。
顔がくしゃっと歪む。舌の奥がきゅっと痺れて、そのあとから甘みがじわっと追いかけてくる。野生の果実ってこんな濃さなのか。
さらに奥へ進むと、拳大の緑色の実がぶら下がった大きな木が見えた。
『食用可。でんぷん質が豊富──焼くか蒸すことで消化効率が大幅に上がる。腹持ちがいい』
触れた瞬間に情報が流れ込んでくる。毒があるかないか、どう食べれば一番いいか。まるで歩く植物図鑑だ。
片手で届く範囲の実を採りながら、少しずつ奥へ。
ふと、足を止めた。
見上げると、木々の梢が空を覆い隠している。奥はほとんど見通せない。この森、思ったより広いな。
──まあ、今の俺には関係ない。入り口付近で食えるものが見つかるなら、わざわざ奥まで突っ込む理由がない。
腕いっぱいの木の実を抱えて、森の入り口に戻る。赤い実、緑の実。他にも名前のわからない実がいくつか。
確かに食料は確保できた。
──で。これを毎日やるのか?
森に入って、手当たり次第に実を集めて、持ち帰って、選別して、下処理して。
前世で資料をかき集めて回って、整理して、まとめて、上司に出すのと何が違う。
「……俺が求めてるのは、こういうのじゃない」
毎日の手作業を減らす工夫。未来の俺が楽になるための、根本的な仕組み。
胸の奥で、何かがざわつく。効率化の虫だ。前世で散々こき使われた、あの厄介な衝動。
***
川辺に戻り、平らな地面に腰を下ろした。
石のナイフの先端で、地面に文字を刻み始める。
──やることの書き出し。
追い詰められると整理せずにいられない。前世の嫌な癖だ。
一、食料の安定確保。
二、寝床。屋根と壁。
三、火の管理。毎回ゼロから起こすのはしんどい。
四、道具。石のナイフだけじゃ限界がある。
書き出してみると──多い。やることが多すぎる。
前世の俺なら、ここで「業務改善の提案書」を書いていたところだ。こうすればもっと速くなります、こうすれば無駄が減ります。何枚書いたか覚えていない。
そのたびに上司は笑顔で頷いて、こう言った。
「いいね、じゃあそれも君がやって」
効率化すればするほど仕事が増える。楽になるのは俺じゃなくて、上の人間だけ。
──でも。
地面に刻んだ文字を見下ろす。
ここには上司がいない。「それも君がやって」と笑う奴がいない。
このリストは、俺のためだけのものだ。
前世では誰かのために書かされていた計画が、今は──俺が楽をするための段取りに変わっている。
口の端が、少しだけ上がった。
一番楽になる順番で並べろ。「上司の都合」じゃなくて、「俺が楽になる順」で。
──寝床だ。
屋根と壁があれば、雨風をしのげる。火の管理が楽になる。食料の保管もできる。寝床さえ作れば、全部が連鎖的に楽になる。
立ち上がり、川辺を歩く。拠点にできそうな場所を探しながら。
すると、頼んでもいないのにスキルが反応した。
『この場所──拠点に極めて向いている。川まで二十歩。地盤が安定している。北側の斜面が風を遮る──建材に使える倒木が周囲に豊富にある』
足元の地面を踏んでみる。確かに固い。川へはほぼ平坦。北側には緩やかな丘が控えていて、風除けになっている。
散歩してただけなのに、お前は勝手に土地の査定を始めたのか。
……まあ、助かるけど。
ここだな。
水は目の前。森は歩いてすぐ。風は丘が防いでくれる。
最高の引きこもり拠点だ。
地面の文字に目を戻す。
前世じゃ何枚書いたかわからない計画書。全部、誰かのため、会社のため、上司のため。
今は全部、俺のためだ。
俺が楽をするための段取り。俺が快適に寝るための計画。俺が怠けられるための仕組み作り。
「明日は、家……いや、寝るところを作るか」
最低限でいい。最低限で。
……たぶん。
お読みいただきありがとうございました!
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