第1話「目覚めたら草原だった。スキルは地味だった」
残業二百時間の末に死んだ俺が、目を覚ましたら草原の真ん中にいた。
仰向けだった。視界いっぱいに広がる空が、前世じゃ見たことないくらい、バカみたいに青い。蛍光灯の白い光しか知らなかった目には、眩しさを通り越して暴力的ですらある。
指を開くと、握りしめていた草の汁が掌に滲んでいた。甘い匂いが鼻をくすぐる。背中に当たる地面はちょっと硬いが、オフィスの椅子よりはマシだ。
──もう会社に行かなくていい。
その事実だけで、なんか泣きそうになった。
満員電車の汗の匂い。上司の怒鳴り声。終電のホームで立ち尽くす夜。全部、もう終わったのだ。
深呼吸した。肺が広がる感覚が、やけにはっきりする。こんなに空気を吸えたのは、いつ以来だろう。
……このまま寝ていたい。心の底から寝ていたい。
とはいえ、だ。いつまでも寝転がってはいられない。
***
起き上がると、膝が笑った。身体が重い。前世のデスクワーク生活が魂にまで染みついているらしく、起き上がるだけで息が切れる。
周囲を見渡す。北には山脈のシルエット。西には深い緑の森。南には大きな丘が連なり、東は少し空の色が違う気がする。
人の気配はない。建物も、道も、何もない。
そして俺は手ぶらだ。着ているのは見覚えのない麻っぽい簡素な服。ポケットの中身は空っぽ。
あるのは──頭の奥で、何かが薄くぼんやりと光っている感覚だけだった。
なんだこれ。
意識を向けると、それは少しずつ輪郭を持ち始める。声でも映像でもない。ただ「理解」がすとんと落ちてくる。
どうやらこの身体には、スキルというものが備わっているらしい。
名前は【効率化】。
……地味。
いや待て。見知らぬ世界に放り出されて、もらえたのが【効率化】って。もうちょっとこう、火を出すとか剣が光るとか、そういう派手なやつはなかったのか。
前世で効率化の提案書を何枚書いたと思ってるんだ。「業務改善提案書」を毎月出しては、上司に「いいね、じゃあそれも君がやって」と笑顔で返される日々。効率化すればするほど仕事が増えるという地獄の矛盾を、誰よりも知っている。
──もう誰にも効率を求められない。
その事実に、肩の力がすっと抜けた。
***
だが感傷に浸っている場合でもない。腹が鳴った。喉がひりつく。手ぶらで草原に放り出されて、このままだと普通に死ぬ。
……めんどくさい。死にたくはないけど、めんどくさい。
しゃーない。水だ。水がないと人は三日で死ぬらしい。
水源を探すか、と思った瞬間だった。頭の奥で、あの薄い光がふわりと揺れた。
『南西の方角──ここから約八百歩。水が流れている音がする』
声でも文字でもない。ただ「分かる」。南西に水がある、と。距離まで含めて、直感のように頭に流れ込んでくる。
……え、便利じゃないか。おまえ、そういうのもできるのか。
半信半疑のまま南西に歩き始めた。が、十五分で息が上がる。足が前に出ない。歩くという行為すら苦行だ。この身体、本当に転生したてなのか。
勘弁してくれ。死んで転生したのに、体力まで引き継いでどうする。
しかし──耳に水の音が届いた。
草原を割るように、透き通った川が流れていた。幅は三歩分ほど。浅くて穏やかで、底の石まではっきり見える。
膝をついて両手で水をすくい、口に含む。
冷たい。喉を通った瞬間、身体の隅々まで染み渡っていく。生き返った。比喩じゃなく、一回死んでるから、文字通り生き返った気分だ。
ふと足元の石に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、またあの感覚が走る。
『断面が鋭い──刃物の代用に最適』
持ち替えて、隣の石を拾う。
『こちらは重い。打撃用、もしくは土台として最適』
さらにもう一つ。
『脆い。砕いて粉にすれば研磨に使える』
触れるだけで、その石が何に向いているかが分かる。次から次へと。勝手に。
地味だ。相変わらず地味だ。火の玉も出ないし剣も光らない。でも──使える。こいつ、かなり使える。
鋭い断面の石で枝を削り、簡易的なナイフのようなものを作った。不格好だが、木の実を割ったり蔓を切ったりはできるはず。
川沿いを少し歩くと、低木に赤い実がなっている。手を伸ばすと、スキルが囁いた。
『毒性なし。酸味が強いが食用可能──水分の補給にも向く』
ありがたい。毒見係がいらないのは助かる。
齧ると、確かに酸っぱい。口の中がきゅっと締まる。だが飢えた身体には、それすら御馳走だった。
***
日が傾き始めた。
川面が橙色の光を返している。前世では見る余裕すらなかった夕焼けだ。綺麗だな、と思う前に、腹が冷えてきた。
火を起こさないと夜は越せない。めんどくさい。本当にめんどくさい。だが凍えて死ぬのはもっと嫌だ。
木の枝を二本拾い上げると、またスキルが反応した。
『この二本の組み合わせが摩擦発火に最適──角度は四十五度、回転は速すぎず一定の速さで』
言われた通りにやってみる。が、腕がすぐにだるくなる。手のひらが擦れて熱い。汗が目に入る。
歯を食いしばって回し続けた。前世でキーボードしか叩いてこなかった手だ。棒を回すだけでこの有様か。笑えてくる。
煙が出て、火種ができた。枯れ草に移して、ふうっと息を吹きかけると──小さな炎が生まれた。
枯れ枝を足して炎を育てる。パチパチと木の爆ぜる音が、暗くなりかけた草原に響く。
火の暖かさが顔を照らしたとき、ふいに気づいた。手が震えている。疲労じゃない。──俺はいま、自分の手で火を起こしたのだ。提案書でも報告書でもなく、自分が生きるためだけに、何かを成し遂げた。
前世には、こんな時間がなかった。朝は満員電車、昼は蛍光灯の下、夜は残業。空を見上げる余裕なんて一秒もなかった。
このスキルは地味だ。けど、確実に俺の役に立っている。
前世では、効率化の提案書を出しても「じゃあもっとやれ」と返されるだけだった。やればやるほど報われない。それが俺の知っている「効率化」だった。
だが今は違う。この【効率化】は、俺が楽をするためだけに使える。誰にも横取りされない。誰にも「もっとやれ」と言われない。
──全力で、楽をする。
それが、この世界での俺の生き方だ。
焚き火に枝を足しながら、南の方角に目をやった。暗くなりかけた空の下に、大きな丘のシルエットが見える。
──アォォォォォンッ。
はるか遠く、丘の向こうから、獣の遠吠えが響いた。
背筋がひやりとする。反射的に焚き火との距離を縮めた。
……まあ、こっちに来てないなら、関係ない。
めんどくさいことには極力関わらない。俺はここで、静かに暮らすんだ。




