第173話「兄さんの匂いが、泣いている」
ルナの耳がぺたんと伏せた。
それを見たのは二度目だ。一度目は、兄からの帰還命令を受け取った日。
だが今日の「ぺたん」は、あの日とは違う。怖さじゃない。――覚悟だ。
「あたしが行く」
町の南門。朝もやが草原に続く道を白く染めている。ルナが一度だけ鼻をひくつかせた。草の匂いが風に乗ってくる。甘い、乾いた――故郷の匂いだ。
「一緒に行こうか」
気がついたら言っていた。言った後で、しまったと思う。これはルナの問題だ。俺が出しゃばる場面じゃない。
「ううん」
ルナが首を振った。でも尻尾は――ぴんと立っている。
「これは、あたしの仕事。あたしが、二つの世界を繋ぐの」
ルナの目は真っ直ぐだった。初めて集落に来たときの怯えた目とは違う。ここで暮らして、多くの種族と関わって、成長した目。橋渡し役になると決めた目だ。
「……しゃーない。お前に任せる」
俺にできることは、別にある。
作業場で昨晩のうちに準備しておいた紙を渡した。スキルで分析した結果だ。部族との距離感、接続の条件、互いに譲れない一線。それを一枚にまとめてある。
「これ、参考にしろ。部族の長老たちが気にしそうな点と、こっちが出せる条件を書いてある」
ルナが紙を受け取った。目を通して、にっと笑う。
「ユウトさん、昨日の夜、これ作ってたの?」
「……楽するためだ。お前が手ぶらで行って揉めたら、後始末が俺に回ってくる」
「ふふ。ありがとう」
ルナの尻尾が、ぱたぱたと揺れた。二回、三回。
それから、ルナは歩き出した。
朝もやの中に、銀色の髪が溶けていく。小さな背中が、草原に続く道を南へ向かっている。一人で。
俺はそれを見送った。銀色の背中が小さくなっていく。やがて朝もやに溶けて、見えなくなった。
風だけが残った。草原の、甘い風。
***
ルナが行ってから、何もすることがなくなった。
いや、正確には、やることはある。外交案件の書類整理。交易条件の詰め。商人ギルドの追加要求の確認。山ほどある。
だが、手が動かない。
作業場の椅子に座って、南の窓を見ている。草原が広がっている。ルナはもう見えない。朝もやに消えた。
……待つだけだ。待つのは得意だ。怠惰だから。
いや、得意じゃない。全然得意じゃない。落ち着かない。
スキルが何か起動しかけた。頭の奥で、かすかな振動。分析しようとしている。何を? ルナの安全確率か? 交渉の成功率か?
――今は、いい。
止めた。止めたというより、使う必要がないと悟った。スキルが教えてくれるのは確率と条件だ。ルナの覚悟の重さは、数字じゃ測れない。
あいつが自分で決めたことだ。俺は待つ。それだけ。
窓の外の光が変わっていく。朝の白い光が、昼の黄色に変わり、午後の橙に傾いていく。
書類を一枚も触らなかった。史上最高に怠惰な午後だ。でも、楽じゃなかった。
***
日が傾いた頃、南門に人影が見えた。
二つ。大きいのと、小さいの。
大きい方は――金色の耳。丸太のような腕。身の丈六尺半を超える巨体。ルガだ。ルナの兄。
小さい方は、ルナ。
二人が並んで歩いてくる。距離が近い。昨日までの書状のやりとりとは違う。直接会った後の距離だ。
俺は南門の脇に立って、待った。近づいてくる二人の姿を見ている。
ルガの金色の瞳が、ルナを見ていた。
その目は――威厳とか、頑固さとか、そういうものが全部抜けていた。ただの兄の目。妹を見る、ただの兄の目。
「――お前が正しかった」
ルガの声が聞こえた。
低い声。太い声。だが、わずかに震えている。言えなかった年月の重さが、その一言に全部乗っていた。
ルナの耳がぺたんと伏せた。
尻尾が震える。
声が出なくなった。口が開いて、閉じて、また開いて。
涙が――一筋、頬を伝った。
「にい、さん……」
ルガの大きな手が、ルナの頭に乗った。
獣人の、許しの仕草。部族において、年長者が年少者の頭に手を置く。それは「お前を認める」という意味だ。言葉よりも重い、接触による承認。
ルナの肩が震えている。声を殺して泣いている。銀色の耳がぺたんとしたまま、尻尾が小刻みに揺れている。
俺は――何も言えなかった。
言葉が見つからない。気の利いた台詞も、怠惰なツッコミも、何も出てこない。喉が詰まって、うまく息が吸えない。めんどいとか、楽したいとか、そういう言葉が一つも浮かんでこない。初めてだ、こんなの。
ルガがルナの頭をぽんぽんと叩く。不器用な手つき。丸太のような腕で、加減がわからないのだろう。でもルナは――泣きながら、兄の胸に額を押し付けた。
草原の風が吹いた。ルガの革鎧から、草と土の匂いがする。南の草原の匂い。ルナの故郷の匂いだ。
日が傾いていく光の中で、兄と妹が立っていた。長い影が草原に伸びている。
俺はただ、半歩離れたところで、黙って立っていた。邪魔をする権利もなければ、入る理由もない。ただ――ここにいるだけだ。
***
しばらくして――どのくらいだろう。長い時間のようで、短い時間だったかもしれない――ルナが顔を上げた。
泣き腫らした顔。赤くなった目。鼻の頭も赤い。でも、耳が――少しずつ、起き上がっている。
「ユウトさん」
「ん」
「兄さんが……正式に話し合いたいって」
声がまだ震えていた。鼻声だった。尻尾が俺の腕に巻きついている。無意識だろう。安心したときの癖。ふわふわで、温かい。
「……よかったな」
それしか言えなかった。もっと気の利いたことを言うべきだったかもしれない。でも、それしか出てこなかった。
ルナが泣き笑いの顔で頷いた。
「うん」
帰り道、夕日がルナの銀髪を橙色に染めていた。ルナの尻尾がゆっくりと揺れている。穏やかな揺れ。嬉しいときの揺れとも、安心したときの揺れとも違う。もっと深い――何かが解放された後の揺れだ。
「ユウトさん」
「ん」
「兄さんがね、明日、正式な使者を送るって。部族として、多種族の共同体に――加わりたいって」
その声は、もう泣いていなかった。
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