第171話「四千年を生きた者が折れるとき」
フィーネの声が震えていたのは、一瞬だけだった。
次の瞬間にはいつもの端正な表情に戻っていたが、長い耳の先端が微かに揺れている。あの耳は、嘘がつけない。
エルフの長老が、フィーネを外交顧問として正式に認めた。三百年間「はみ出し者」扱いだったフィーネが、ようやく故郷に認められたのだ。俺にとっては一行で済む話だが――フィーネにとっては、三百年分の重さがある。
「……よかったな」
「はい」
フィーネの声は平静だった。でも耳は揺れたままだ。
***
翌朝、町の入り口に見慣れない来訪者が現れた。
見慣れない、と言っても最近は見慣れない顔だらけだ。来訪者が増えすぎて、新しい顔が来ても驚かなくなった。慣れというのは恐ろしいものだ。
だが、今回の来訪者は少し違う。
生真面目な顔立ち。張り詰めた弦のような緊張感。長い耳。エルフだ。しかも、フィーネが「あ」と声を漏らした。
「セレン……」
フィーネの声が、震えている。今度は隠す余裕もなく。
「フィーネ」
セレンと呼ばれたエルフが、真っ直ぐにフィーネを見た。手に、古い革の筒を持っている。風に乗って革の匂いが漂ってくる。長い年月を経た革だ。少なくとも百年は経っているだろう。
「長老からの認証状だ。お前を外交顧問として認める――その正式な書面を持ってきた」
昨日の通達は口頭だった。それを書面で裏付けるために、わざわざ西の森から来たのか。
俺はフィーネの隣で立っていた。邪魔にならないよう、半歩後ろ。こういう場面で俺にできることは何もない。
「……あなたが持ってきてくれたの?」
フィーネの声が小さい。
セレンの生真面目な顔が――ほんの少し、柔らかくなった。目尻の力が抜けた、というべきか。四千年を生きた長老が動いた。その重みを担って来た者の顔だ。
「長老の言付けがある」
「聞きます」
「『百年、我らは人間を遠ざけてきた。だが、あのフィーネが認めた者たちならば――試す価値はある』と」
百年か。
俺の前世、二回分だ。いや、前世は三十年ちょっとだったから三回分か。どちらにせよ、途方もない。人族の感覚では「歴史」と呼ぶ単位の話が、エルフにとっては一人の者の判断で動く。四千年を生きた長老の「試す価値はある」の一言は、人族にとっての国家間条約に等しい。
……めんどくさい話だな。でも、重い話でもある。
***
場所を移した。外交窓口の横にある、静かなところだ。
セレンが認証状を革の筒から取り出す。古いエルフの書体が並んでいる。俺には読めない。曲線と直線が絡み合った、独特の文字。
フィーネが受け取った。指先が、微かに震えている。
認証状を広げて目を落とした。長い耳が――震える。目元が赤くなった。でも、泣かなかった。唇を噛んで、息を吸って、吐いて。
「……ありがとう、セレン」
「礼を言われることではない。長老の判断だ」
セレンの声は堅い。だが、言葉の端に――何かが滲んでいる。
俺は黙って見ていた。この二人、昔は仲が良かったのだろう。いや、エルフの「昔」がどのくらい前なのかはわからないが。数百年、だろうか。フィーネが「はみ出し者」になる前。人族と関わる前の話だ。
「……お前は変わった、フィーネ」
セレンが言った。
その声に、批判はなかった。
「以前のお前は、森の中でしか生きられなかった。今のお前は――ここで、多くの者を動かしている」
フィーネの唇が、もう一度震えた。堪えている。エルフの三百年分の感情を、全力で堪えている。
「セレン。あなたも――」
「わたしの話はいい」
セレンが遮った。生真面目な顔に戻っている。でも、声だけが少し柔らかいままだった。
「務めは果たした。帰る」
「もう?」
「長居する理由がない」
セレンは背を向けた。町の入り口に向かって歩き出す。
振り返らないつもりだろう。こういう奴だ、たぶん。不器用で、真っ直ぐで、感情を見せるのが下手な――
振り返った。
「フィーネ」
「はい」
「……次は、もう少し長く来る。森との窓口の話がしたい」
それだけ言って、今度こそ背を向けた。
フィーネの長い耳が震えている。目元が赤いまま、微笑んだ。泣かなかった。でも――あと一言あったら、危なかっただろう。
***
セレンが帰った後、俺は作業場に戻った。
フィーネもついてきた。認証状を大切そうに抱えたまま。
「さて。感動に浸るのは結構だが、仕事がある」
「はい。――承知しておりますわ」
長老がフィーネを認めた。それはいい。だが、認めたということは協力範囲が生まれる。協力範囲が生まれるということは、既存の協定との整合が必要になる。
要するに、めんどい書類仕事が増えた。
「スキル、頼む」
頭の奥に振動。Lv4の補助的な起動。昨日の全力起動に比べれば、微弱な振動だ。
エルフの協力範囲と、今ある外交窓口の受け入れ条件。二つの書面を並べて見比べる。スキルの目が赤い糸を紡いだ。
『エルフ協力範囲と窓口受入条件――三箇所に齟齬あり。森林資源の共有条件が重複。また、情報開示の範囲が協力範囲では「限定的」、窓口条件では「全面的」と記載されており矛盾している』
「……やっぱりか」
矛盾が三箇所。放っておくと後で揉める。後で揉めるほうが、圧倒的にめんどい。
「フィーネ、ここの三箇所、被ってるか矛盾してる。見てくれ」
フィーネが書面を覗き込んだ。翡翠色の瞳が素早く動いて、指で箇所を辿る。
「ええ。こちらの情報開示の範囲は『限定的』に揃えますわ。森林資源の重複は――統合して一つの条項にまとめましょう」
さすがに早い。三百年の知識は伊達じゃない。俺が見つけて、フィーネが直す。いい分担だ。楽でいい。
「やればできるじゃないですか」
「二度目だぞ、それ」
「ふふ。事実ですもの」
認証状がフィーネの机の上に置かれている。古い革の匂いが、作業場に漂っていた。三百年の孤独が報われた証が、そこにある。
俺は――まあ、書類の矛盾を見つけただけだ。楽をするために。いつも通り。
フィーネが作業しながら、ふと呟いた。
「セレンが認めてくれるなら、旧大陸の商人ギルドの方々にも――伝わるかもしれませんね」
「商人ギルド?」
「ええ。実は、交易の打診が来ているのです。旧大陸から、直接」
……また、めんどい話が増えた。
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