第170話「やればできるのは知ってた。やりたくなかっただけだ」
フィーネの顔を見た瞬間、碌な話の気配がした。
あの、翡翠色の目が微笑んでいる。エルフが微笑むときは大抵、面倒ごとが待っている。
「ユウト殿。少しお力をお借りしたいのですが」
「断る」
「まだ内容を言っていません」
「言わなくてもわかる。面倒ごとだ」
フィーネが困ったように微笑んだ。困っている顔をしているが、目は笑っている。こいつ、俺が断れないことを知っている。三百年分の知恵は伊達じゃない。
***
外交窓口の裏手。書類の山が積まれていた。
山と言うのは比喩ではない。机の上に紙が積み重なって、本当に山になっている。来訪者が増えたせいで、交渉案件が爆発的に膨れ上がったのだ。
「交渉案件が複雑に絡み合っていまして、整理が追いつきません」
フィーネの目の下に、薄い隈があった。数日間、ほとんど休んでいないのだろう。エルフは人族より体力がある。それでも、この量は堪えているらしい。
「お前がやれ」
「わたくしが三日かかる作業を、ユウト殿なら半刻でできるのではありませんか」
図星だった。
スキルを使えば、案件の全体像を一気に把握できる。それはわかっている。わかっているが、やりたくない。
「半刻で終わるなら、やるか」
「ありがとうございます。では——」
フィーネが書類の山を俺の前に置いた。重い。物理的に重い。
「……こんなにあるのか」
「二十件です」
半刻で終わるはずが——二十件。半刻は嘘だ。絶対に嘘だ。
「フィーネ、お前騙したな」
「騙してはおりません。ユウト殿の能力を信頼しているだけです」
信頼という名の押し付けだ。
***
作業場に籠もった。書類の山を机に広げて、全体を見渡す。
来訪者の交渉案件。加盟希望。交易提案。土地の割り当て。資源の共有条件。紛争の仲裁依頼。技術者の交換。二十件が複雑に絡み合っている。一つの案件が解決すると、別の案件の条件が変わる。それがまた連鎖して——
「……めんどい。断じてめんどい」
スキルを起動した。
頭の奥に振動が走った。強い。Lv4の全力起動。視界が変わった。
書類の山が——一瞬で、赤い糸と青い糸に分かれた。赤は案件同士の競合。青は協調。糸が絡み合い、交差し、解きほぐされていく。
『外交案件の全体像——二十件。依存関係あり十二件。独立案件八件。競合する案件が四組。最優先は加盟希望三件で、これが他の案件の前提条件になっている。なお、ユウト殿が直接交渉にあたれば、全案件の成功確率が平均で——』
「やらん」
余計な提案を即座に叩き落とした。俺が直接交渉なんかするわけない。死んでも嫌だ。
だが、整理はする。整理だけだ。
紙を一枚取って、案件の全体像を書き始めた。スキルが浮かび上がらせた関係図を、手書きで落とし込んでいく。
加盟希望三件を最上段に置く。これが終わらないと、他の案件が動かない。次に交易提案。これは加盟の条件と連動している。土地の割り当てはその次。資源の共有はさらにその次——。
集中すると、周囲が消えた。蝋燭の揺れる光も、窓の外の喧騒も、全部消えた。スキルの視界だけが残る。案件と案件の間の糸を辿り、優先度を付け、所要時間を見積もっていく。
半刻——いや、一刻かかった。
だが、完成した。
机の上に一枚の紙。二十件の案件が、優先度順に並んでいる。依存関係。所要時間。担当者の振り分け。全体を一望できる地図——いや、優先度の図だ。
「……できた」
頭が少し重い。Lv4の名残だ。だが、倒れるほどではない。軽い疲労感。昼寝すれば治る程度。
立ち上がって、窓口に向かった。フィーネが来訪者と話している最中だったが、俺の姿を見て中断した。
「できた。これを見ろ」
紙を差し出した。フィーネが受け取って、目を落とした。
翡翠色の瞳が——見開かれた。
「これは——」
エルフの長い耳が、小さく震えた。
「全案件の関連図。上から順にやれば、全体が最も早く回る。フィーネが三日かかる仕事が——まあ、半日で済むと思う」
「半日……?」
フィーネが図を食い入るように見ている。指先で案件の繋がりを辿り、頷いた。もう一度頷いた。
「すごい」
フィーネの声が、素に戻っていた。「ですわ」も「ございます」もない、ただの驚きの声。
「これがあれば——ええ、これなら半日で。いえ、もしかしたらもっと早く——」
そこにカイが現れた。
「おう、ユウト。何やってんだ——おお、これ、なんだ?」
「外交案件の全体図だ。フィーネに頼まれた」
カイが図を覗き込んだ。しばらく眺めて、ぽん、と俺の肩を叩いた。
「お前のおかげで楽になったな」
大きな手だった。カイの手。荷物を運び、来訪者を案内し、酒を飲みすぎて酔い潰れる手。でも、温かい。
「別に。楽したかっただけだ」
口から出た。いつもの言い訳。いつもの否認。楽をしたかった。自分が楽をするために、仕組みを作った。それだけだ。
——スキルが何か言いかけた。
頭の奥で、分析が起動しかけた。何を分析しようとしたのかはわからない。案件のことではなかった。もっと——言語化できない何か。
起動しかけて、止まった。
スキルの声が途切れた。途中で、止まった。
……何だ、今の。
引っかかった。自分でも気づいていない何かが、一瞬だけ胸の奥を掠めて、消えた。
「ユウト殿」
フィーネが穏やかに微笑んだ。疲れた目の下の隈が、少し和らいだように見えた。
「やればおできになるじゃありませんか」
「やりたくなかっただけだ」
「ふふ。知っておりましたわ」
窓口の夕暮れの光が、フィーネの優先度図を照らしていた。明日から、この図に沿って外交が動く。フィーネが交渉し、カイが現場を回し、ベルトが書類を整える。俺の作った仕組みの上で、みんなが動く。
……まあ、これで俺も寝られる。半刻で終わるなんて嘘をついたフィーネには文句を言いたいが、一刻で終わったのだから良しとする。
作業場に戻ろうとしたとき、フィーネが声をかけた。
「ユウト殿」
「なんだ」
「エルフの長老から通達が届きました」
「長老? お前のところの?」
「ええ。わたくしを外交顧問として——正式に認める、と」
フィーネの声が、少し震えていた。
翡翠色の瞳が潤んでいた。三百年の知識が、ようやく故郷にも認められた。そういうことだ。
「よかったな」
「はい。——ユウト殿のおかげです」
「俺は関係ない。お前がやったことだ」
「いいえ。ユウト殿が窓口を作って、わたくしに任せてくださったから」
フィーネの耳が、ほんのり赤くなっていた。視線がわずかに落ちて、返事がひと呼吸ぶん遅れた。
「……寝る」
「お疲れさまです」
俺は作業場に戻った。
楽したかっただけだ。仕組みを作って、寝たかっただけだ。それ以上の感情は——ないはずだ。
さっきスキルが言いかけて止まった、あの一瞬の引っかかりのことは、考えないことにした。
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