第168話「深夜の文書作業は危険がいっぱい」
あの夜、俺は致命的な判断ミスをした。
ルナの返事を手伝うのはいい。深夜まで付き合うのも、まあ仕方ない。だが、こいつを隣に座らせたまま夜更かしするのは——間違いだった。
***
作業場の机に蝋燭を一本立てて、紙と墨を広げた。
獣人の書状は革に書くのが本式らしいが、ルナは「紙でいい」と言った。匂いさえ残せば、兄にはちゃんと届く。獣人にとって匂いは文字以上の情報だ。
「で、何て書くんだ」
「んー……」
ルナが頬杖をついて考えている。蝋燭の炎が揺れて、銀色の髪に橙色の影を落としていた。
「まず、元気ですって書きたい」
「それはいい。次は」
「えっと……こっちの町は楽しいよって」
「それもいい」
「あと——兄さんに会いたいって」
ルナの声が小さくなった。耳がほんの少しだけ伏せた。
「……それも書け」
「うん」
ルナがペンを取った。墨をつけて、紙の上に文字を綴り始めた。
獣人の文字は丸っこい。人族の言語とは違う字体で、一文字が大きい。ルナの字は——お世辞にも上手とは言えなかった。一文字ごとに大きさがバラバラで、行が右に傾いている。
「こういうとき、何て書けばいいのかな。『話し合い』って言われても、あたし、正式な場で話すの苦手で——」
「堅い言い回しがいるなら、スキルで見てやろうか」
スキルを起動した。頭の奥にかすかな振動。ルナが書いた文面が視界に浮かんだ。
『文書表現の整理——主旨は明確。ただし、正式な場に対する敬意の表現が不足している。獣人の慣習に即した定型句の挿入を推奨。なお、感情表現の効率化として、「兄さん大好き」と一言添えるのが最も伝達効率が高い』
「……うるさい。最後の余計だ」
「え? 何か言った?」
「いや。スキルが余計なことを言った。気にするな」
ルナが首を傾げたが、深くは聞かなかった。
「お前の言葉で書けばいい。ただ、冒頭に『部族の長老の皆さまへ、改めてご挨拶申し上げます』みたいな一文を入れておけ。正式な場への敬意が伝わる」
「そういうのは得意じゃないんだけどなぁ」
「だから俺がいるんだろ。めんどいけど」
嬉しそうだ。こいつの感情は全部反応に出る。隠す気がないのか、隠せないのか。
虫の声が聞こえていた。深夜の静けさの中、蝋燭の炎が小さく揺れている。紙と墨の匂い。ルナの隣から漂う、甘い花のような香り——いや、これはルナの匂いだ。獣人には固有の匂いがある。ルナの匂いは花に似ている。甘い。
集中しろ。文書だ。文書に集中しろ。
***
一刻ほどかけて、返事の下書きが完成した。
冒頭の定型句。近況報告。町の説明。そして——「話し合いに応じます」という一文。
「これでいいか」
「うん。……でも、最後にもう一つだけ」
ルナがペンを取って、最後の一行を書き足した。
——兄さんに会いたいです。
丸っこい、大きな文字。行が右に傾いている。でも、一番気持ちが伝わる一行だった。
「よし。あとは清書だな。明日でいいだろ」
「うん……」
ルナが頷いた。目を擦っている。眠そうだ。蝋燭の残りが短くなっていた。窓の外は真っ暗で、虫の声だけが響いている。
「もう寝ろ。清書は明日——」
ことん。
ルナの頭が、俺の肩に落ちた。
「……おい」
返事がない。
寝た。こいつ、今この瞬間に寝やがった。
銀色の髪が肩にかかっている。耳がぴこりと動いた。寝ていても動くのか、あの耳は。ルナの寝息が首筋にかかった。温かい。規則正しい吐息。安心しきった呼吸だ。
起こすべきだ。部屋に帰せ。俺は寝たい。ここで寝落ちされたら、俺が動けなくなる。非効率の極みだ。
だが——ルナの耳の先が、俺の首筋に触れていた。ふわふわの、柔らかい耳。体温がある。
スキルが何か言いかけた。
『密着時の体温効率——対象者の安眠を維持するには——』
黙れ。
即座にスキルを叩き落とした。体温効率とか、そういう話じゃない。断じて違う。
ルナの耳がぴこっと動いた。
首筋を撫でるように。
……けしからん。
起こせない。起こしたら——いや、起こしても泣きはしないだろうが、今日は兄からの手紙を受け取って、返事を書いて、色々と疲れているはずだ。ここで起こすのは効率が悪い。寝かせておくほうが、明日の清書の質が上がる。
蝋燭の火が、ちりちりと音を立てて短くなっていく。
ルナの銀色の髪が、蝋燭の残り火に透けている。睫毛が長い。寝顔は——穏やかだった。さっきまで兄の手紙に揺れていた顔が、今は安心しきって眠っている。
俺の肩で。
……動けない。
首が痛くなりそうな予感がした。間違いなく、明日は首が回らない。それでも——起こす気にならなかった。
***
朝日が差し込んだ。
窓から白い光が射して、作業場を照らした。蝋燭はとっくに消えていた。机の上には完成した下書き。墨壺。ペン。そして——俺の肩で寝ているルナ。
一晩中、この体勢だった。首が——痛い。尋常じゃなく痛い。
「んぅ……」
ルナが目を開けた。金色の瞳が寝ぼけてぼんやりしている。
「……あ」
状況を理解するのに三秒かかった。俺の肩。自分の頭。密着した距離。
「あたし、寝ちゃった?」
「ああ。一晩中」
「ご、ごめんなさい!」
ルナが飛び上がるように離れた。耳がぺたんと伏せて、尻尾がぶんぶん揺れている。照れと謝罪が混ざった動き。顔が真っ赤だ。
「ユウトさん、首大丈夫?」
「回らない」
「ごめん、ごめんなさい……! あたしが寝ちゃったせいで——」
「まあ、文書は完成した」
首をぐるぐる回した。ごきごきと嫌な音がした。痛い。だが、まあ、仕方ない。
ルナが申し訳なさそうに俺の首を心配している。耳がしょんぼり伏せたままだ。尻尾も元気がない。
「……お前、自分の匂い、書状に付けるんだろ。獣人の慣習で」
「あ、うん。兄さんにはこれでわかるから」
ルナが下書きの紙を手に取って、両手で包み込んだ。目を閉じて、深く息を吐く。匂いを移しているのだろう。獣人の文通は、文字と匂いの両方で伝える。
「これで兄さん、あたしが元気なのわかるよ」
「便利だな」
「便利って言わないで。気持ちだもん」
ルナが頬を膨らませた。だが、すぐに笑った。
清書を終えて、返事を革袋に入れた。
町の入り口で、使者が待っていた。ルナが革袋を手渡した。
「届けてください。兄さんに」
使者が頷いて、南の草原へ走り去った。ルナの尻尾が、ゆっくりと揺れている。
「あとは待つだけだ」
「うん。……ユウトさん、ありがとう」
その声が妙に温かくて、俺は目を逸らした。
朝日が眩しい。昨夜からろくに寝ていない。首は痛い。でも——まあ、悪くない夜だった。悪くないだけで、それ以上のものは何もない。ないと思いたい。
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