第167話「兄からの手紙は、嗅いだだけでわかった」
ルナの耳がぴこんと立った。
それだけで、俺は何かが来たとわかった。あの耳は嬉しいときと緊張したときで角度が違う。嬉しいときはぴこぴこと小刻みに揺れるが、緊張したときはぴんと一本に伸びて動かなくなる。
今のは——両方だ。立ったまま、先端だけがかすかに震えている。
***
町の入り口に、獣人が一人立っていた。
革鎧を纏っている。乾いた草原の匂い。風に混じって、遠い場所の土と草の気配が漂っていた。南からの使者——ルナの部族の者だと、カイが言っていた。
使者は若い男だった。ルナと同じ銀色の毛並みの耳と尻尾を持っている。狼族だ。表情は硬いが、敵意はなさそうだった。どちらかと言えば緊張している。
ルナが俺の半歩前に出た。
鼻をひくつかせた。すんすん、と。短く、慎重に。使者の匂いを嗅いでいる。
「……兄さんの匂いがする」
ルナが呟いた。声がかすかに揺れていた。
「こいつの匂いはどうなんだ」
「嘘はない。でも、緊張してる。すごく」
使者がルナに向かって頭を下げた。深く。
「ルナ様。ルガ様より、書状をお預かりしております」
使者が革袋を差し出した。使い込まれた革の表面に、何かの模様が焼き込まれている。部族の紋様だろうか。ルナの目がそれに吸い寄せられた。
「……預かる」
ルナの手が伸びた。革袋を受け取る指が、わずかに震えていた。
使者は任務を終えた顔で一歩下がる。目配せ一つでカイが動いた。使者を宿舎に案内していく。こういうときのカイは頼りになる。余計なことを言わないし、段取りがいい。
ルナが革袋を両手で抱いたまま、動かなかった。
「……中、見ないのか」
「見る。見るよ。でも——ちょっと待って」
ルナの足が、その場に縫い止められたように動かない。不安で固まっているのが、背中を見ているだけでわかった。
俺には何も言えなかった。気の利いた言葉が出てこない。「大丈夫だ」とも「心配するな」とも言えなかった。大丈夫かどうか、俺にはわからない。ルナと部族の間に何があったのか、俺は断片しか知らない。
「……部屋で読む。ユウトさん、一緒に来て」
「ああ」
それだけ言って、ルナの後をついていった。
***
ルナの部屋は、小さかった。
作業場の隣に割り当てられた、四畳半ほどの空間。窓が一つ。夕暮れの橙色の光が差し込んでいる。毛布と枕が丁寧に畳まれた寝台。壁に、乾かした花が束ねて吊るしてあった。
ルナが寝台の端に座った。革袋の紐をほどいて、中から折り畳まれた革の書状を取り出した。
匂いを嗅いだ。
目を閉じて、革の表面にそっと鼻を近づけた。長い時間——いや、たぶん数秒だ。でも、長く感じた。
「兄さんの匂い」
ルナが目を開けた。睫毛の先に、光るものが溜まっていた。
「草原の匂い。懐かしい匂い。あと——」
声が詰まった。
「——心配してる匂い」
獣人の書状は、文字だけじゃない。匂いも情報なんだ。ルガが意図的に自分の匂いを残している。それは——兄としての配慮なのか。
ルナが書状を広げた。俺はルナの隣ではなく、少し離れた椅子に座った。覗き込むべきじゃない。これはルナの手紙だ。
ルナが読み始めた。唇が微かに動いている。声には出さず、目で追っている。
書状を持つ指先に、少しずつ力が入っていく。革がかすかに撓んだ。そして——
「兄さん、ちゃんと考えてくれたんだ」
壊れそうな声だった。喉の奥が震えて、言葉の形を保てなくなりかけている。
「何て書いてある」
「……部族として、正式な話し合いをしたい、って」
正式な話し合い。それは「追い出す」でも「連れ戻す」でもない。対話の申し出だ。
「兄さんが、長老たちを説得したみたい。あたしが暮らしている町のことを、ちゃんと聞きたいって。部族の総意として」
「よかったな」
「うん。……うん」
ルナが書状を胸に抱きしめた。目を閉じて、深く息を吸った。兄の匂いを、もう一度吸い込んでいるのだろう。
俺は——何も言えなかった。
こういうとき、何を言えば正解なのか、さっぱりわからない。効率化の対象外だ。スキルを使えば、書状の内容に対する最適な返答を算出できるかもしれない。文面の構成とか、言い回しの効率とか。
でも——今は、見なくていい。
これはルナの問題だ。ルナの兄で、ルナの部族で、ルナの人生だ。俺が効率化すべきものじゃない。
窓から差し込む夕暮れの光が、ルナの銀色の髪を染めていた。
「でも……」
ルナの声が小さくなった。
「ちゃんと話せるかな。長老たちに、あたしの気持ち。この町のこと。ユウトさんのこと。みんなのこと。ちゃんと、伝えられるかな」
「伝えられるだろ」
「根拠は?」
「ない」
ルナが笑った。少しだけ。目元にまだ涙の跡があったが、笑っていた。
「ユウトさん、それ、全然励ましになってない」
「励まし下手なんだ。めんどいし」
「あはは」
めんどい、は本心だ。だが——こいつが笑ったから、まあいい。
「返事、書かなきゃ」
ルナが書状をそっと膝の上に置いた。
「手伝おうか」
口から出た。考える前に。効率化とは関係なく、ただ——隣にいるやつが困っているなら、それくらいはするだろう。めんどいけど。
ルナの耳がぴこっと跳ねた。
「いいの?」
「暇だし。どうせ寝るだけだったし」
「ありがとう、ユウトさん」
ルナの尻尾が、ふわりと俺の腕に触れた。柔らかくて、温かい。もふもふの感触が腕の産毛を撫でていった。理性が——ぐらっと来た。
駄目だ。ここで崩れたら話が進まない。
「……明日から、返事を書こう。今日はもう遅い」
「うん。……一緒に?」
「しゃーない。付き合うよ」
夕暮れの光が消えていく。遠くで、フィーネが交渉している声がかすかに聞こえた。町は動いている。それぞれの場所で、それぞれの仕事をしている。
ルナが書状をもう一度読み返して、呟いた。
「兄さんが、あたしを待ってる」
そして俺を見た。まっすぐな、金色の瞳で。
「ユウトさん。あたし、行ってもいい?」
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