第165話「書類仕事のせいで距離が近い」
フィーネの耳が赤い。
顧問就任の書類にサインをしている最中、なぜか彼女の長いエルフ耳が先端まで紅潮していた。耳だけじゃない。首筋までほんのり赤い。
「……暑いのか?」
「暑くありません」
嘘だろ、どう見ても暑そうだ。
作業場の机に書類を広げて、フィーネと向かい合っている。正式な顧問就任の手続きだ。ベルトが整えた書式に、フィーネの名前と役職を書き込んで、双方のサインを入れる。ただそれだけの事務仕事だ。
なのに、フィーネの手が止まっている。
「ここに名前を書いて、その下にサインだ。それで終わりだろ」
「わかっております。わかっておりますが——」
フィーネがペンを握り直した。羊皮紙のかさつく感触。インクの匂いが、二人の間に漂っている。
「……ユウト」
「なんだ」
「この書式の最後に、署名欄が二つありますわ。一つはわたくし、もう一つは——」
「俺だろ。代表の署名がいるって、ベルトが言ってた」
「はい。それで、その——エルフの慣習では」
フィーネが言い淀んだ。声がかすかに上ずっている。ペンを持つ指先に、力が入りすぎていた。
「エルフの慣習では、公的文書の署名の際に——署名者同士が手を重ねるのが正式な作法です」
「手を重ねる?」
「署名する手の上に、もう一方の署名者が手を添えるのです。信頼の証として」
手を——重ねる。署名のたびに。
「……別にいいけど」
「いえっ、人族式で結構です! 人族式で! 握手でいいですわ! いえ、握手もなくてよろしいです!」
フィーネが慌てて両手を振った。長い耳が揺れている。揺れすぎだ。動揺が耳に全部出ている。エルフの耳は感情に正直すぎる。
「じゃあ、普通にサインするか」
「はい。普通に。普通にいたしましょう」
普通に、とフィーネは言った。だが普通ではなかった。ペンを持つ手が微かに震えている。
書類を挟んで向かい合っていると、確認のために同じ箇所を見なければならない場面がある。自然と顔が近づく。フィーネの髪から、花のような香りがした。甘い。植物を扱うエルフの匂いだ。
「ここ、日付が抜けてる。書き足してくれ」
「あ——はい」
俺が指差した箇所に、フィーネが身を乗り出した。距離が近い。顔が——近い。フィーネの長い睫毛が、ほんの一尺先にある。
フィーネの手がペンを滑らせた。日付を書こうとして手元が狂い、インクが余計な場所に落ちる。
「あっ——」
「大丈夫だ、乾く前に拭けば——」
同時に手を伸ばした。指先が触れた。フィーネの指は細くて、ひんやりしていた。
フィーネが弾かれたように手を引いた。呼吸が止まったのがわかった。一拍おいて、浅く速い息を吐いている。
「し、失礼いたしました……!」
「いや、別に——」
何を謝られているのかよくわからなかった。指が触れただけだ。
スキルの声がしなかった。頭の奥にいつもある微かな振動がない。こういう場面は、守備範囲外らしい。
***
「フィーネお姉さん、顔赤い!」
ルナが作業場に入ってきた。
銀色の耳がぴこぴこと忙しなく動いている。尻尾がぱたぱた揺れていた。好奇心の耳。楽しい時の尻尾。
「あと、心臓めっちゃ速いよ? ばくばくしてる」
「る、ルナさん……!」
フィーネが椅子から立ち上がった。書類を胸に抱いて、後ずさりしている。長い耳が左右に揺れた。隠しようがない。エルフの耳は、全身で感情を叫んでいた。
「匂いもすごいよ。甘い匂い。すっごく甘い。お花みたいな——」
「ル、ルナさん、それ以上は……!」
「ん? なんで?」
ルナが首を傾げた。無邪気だ。純粋に不思議がっている。フィーネの匂いが甘いことの何が問題なのか、本当にわかっていない。
「フィーネ、大丈夫か」
「大丈夫です。大丈夫ですわ。何も問題ありません。少し、外の空気を——」
フィーネが書類を俺に押し付けて、作業場から逃げるように出ていった。長い髪がふわりと揺れて、花の香りだけが残った。
……何が起きたんだ。
ルナがきょとんとした顔で俺を見上げた。
「フィーネお姉さん、どうしたの?」
「知らん」
「でも、すごく嬉しそうな匂いだったよ? 恥ずかしいのと嬉しいのが混ざってた」
「……けしからん」
何がけしからんのかは自分でもわからなかった。口から出ただけだ。
***
フィーネが去った作業場で、ルナと二人になった。
縁側に出た。夕暮れの風が吹いている。橙色の光が町を染めて、遠くで誰かが笑う声が聞こえた。穏やかな時間だ。来訪者たちの喧騒が嘘みたいに静かだった。
ルナが隣に座った。距離が近い。肩と肩が触れそうで触れない距離。銀色の尻尾が、ふわりと俺の膝に触れた。温かい。
「ユウトさん」
「なんだ」
「ユウトさんも心臓速くない?」
「速くない」
嘘だった。少しだけ速い。理由はわからない。さっきのフィーネのこととは関係ない。たぶん。関係ないと思う。思いたい。
「嘘。ちょっとだけ速い」
「……お前の鼻は便利すぎて困る」
「えへへ」
ルナが笑った。嬉しそうに。何が嬉しいのかは聞かないことにした。聞くと面倒なことになりそうだ。
夕暮れの風が、ルナの銀色の髪を揺らした。小さくて、丸くて、ふわふわの耳。内側の毛がほんのり桃色で、夕日に透けている。
——触りたい。
手が伸びそうになった。もふもふの耳に。柔らかそうで、温かそうで、触ったら絶対に気持ちいい。
駄目だ。耐えろ。俺はもふらない。もふらないと誓ったはずだ。いつ誓ったかは覚えてないが。
ルナの視線がこちらを向いた。じっと、見上げている。
……。
手が——伸びた。
ふにっ。
「わっ」
触ってしまった。ルナの耳の先端を、指先で。柔らかい。思った以上に柔らかい。体温がある。生き物の温かさだ。
「ユウトさん、耳触ってる」
「……すまん。つい」
「いいよ。気持ちいいから」
ルナがにへっと笑った。尻尾が嬉しそうにぶんぶん揺れている。恥ずかしさとかはないらしい。獣人にとって耳を触らせるのは、信頼の証だとどこかで聞いた気がする。
もう一度、そっと触れた。耳の根元から先端まで、指先をすべらせた。ルナが目を細めた。猫みたいだ。犬か。狼か。どっちでもいい。
「明日からフィーネが外交を回す。窓口も動く。俺は……寝る」
「ほんとに寝るの?」
「寝る。寝て、起きて、飯食って、寝る。それが俺の仕事だ」
「仕事じゃないよ、それ」
正論だった。だが反論する気力はなかった。夕暮れのぬくもりと、ルナの耳の柔らかさが、全てのやる気を溶かしている。
ルナの尻尾が、ゆるく揺れた。
「ユウトさん、明日から忙しくなるって、カイさんが言ってた」
「……知ってる。だから今のうちに寝る」
でも隣のぬくもりが心地よくて、立ち上がる気にならなかった。
夕日が沈んでいく。町の灯りがぽつぽつと点り始めた。来訪者も、住民も、それぞれの場所に帰っていく。
明日から忙しくなる。わかっている。外交窓口は動き始めたが、面倒事はまだ山のように残っている。商人ギルドの正体不明の男。反発勢力。交易路の治安。全部、明日の問題だ。
今は——今だけは、このまま。
ルナの耳の温もりを感じながら、俺はぼんやりと夕暮れを眺めていた。
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