第160話「沈黙は、俺たちの勝ちだ」
ヴェルナーが広場に立っていた。
全住民が息を呑んで見つめる中、ヴェルナーは法文書を手に持ったまま、長い沈黙を続けた。
その沈黙が、答えだった。
朝の光が広場を照らしている。昨夜降った露が石畳を濡らしていて、光が反射してきらきらと輝いていた。風が吹いて、ヴェルナーの外套の裾が揺れた。カイが一歩前に出て、ヴェルナーと正面から向き合っている。背筋が真っ直ぐだ。フィーネが書類の写しを胸に抱いて、静かに佇んでいる。
ヴェルナーが法文書を片手に持ち上げた。羊皮紙が朝の光を受けて白く光った。
「新大陸開拓令第四十七条第三項に基づく自治権の申請」
声が広場に響いた。冷静な声だ。感情が削ぎ落とされている。役人の声だ。判決を読み上げる声に似ている。
もう一度、沈黙。
住民たちが固唾を呑んだ。空気が張り詰めて、誰かが咳払いしたら割れそうだった。隣にいるルナの耳が、ぴたりと止まっている。動かない。息を止めているのかもしれない。
「……法的には、問題ない」
ヴェルナーの声が落ちた。淡々と。しかし確かに。
一瞬、誰も動かなかった。
住民たちが顔を見合わせた。今の言葉の意味を、頭が理解するのに時間がかかったのだろう。俺も一瞬、聞き間違いかと思った。「問題ない」——つまり、認められた、ということか。
カイが一歩踏み出した。靴底が濡れた石畳を踏む音がした。
「認めていただけるのですか」
「私が認める、認めないの問題ではない」
ヴェルナーの声は平坦だった。感情を消している。意図的に。
「法がそう定めている。この書類は全ての条件を満たしており、形式に不備もない。法的に拒否する根拠がない。それだけのことです」
法が定めている。私がではなく、法が。——その言い方に、ヴェルナーの矜持が見えた。自分の判断ではない。法の判断だ。そう言い切ることで、敗北を認めずに済む。
フィーネが静かに微笑んだ。耳の先がほんのり赤くなっている。喜びを隠しきれていない。三百年の知識が、この一瞬のために蓄えられてきたのだ。
……一拍の間があった。広場全体が、ゆっくりと息を吸った。
そして——広場が、沸いた。
***
「自治権だ! 俺たちの町が認められた!」
「やったぞ!」
住民たちが叫んでいる。抱き合って喜んでいる者もいる。涙を流している者もいた。声が重なって、広場が揺れるような騒がしさだ。
「怠惰の賢者さまが法を見つけた……!」
「賢者さまのおかげだ!」
「見つけたのは俺じゃない。フィーネだ」
「謙虚……!」
「だから違う」
面倒だ。崇拝は面倒だ。事実を言っているだけなのに、なぜ尊敬に変換されるのか。俺は指差しただけだ。法を読んだのも、条文を見つけたのも、書類を作ったのも——全部、フィーネとベルトだ。
「賢者さまがまた謙虚なことをおっしゃっている……!」
「おい。聞けよ」
無駄だった。住民の崇拝は、俺の訂正を燃料にして膨らむ仕組みになっているらしい。仕組みを作ったのは俺じゃない。誰が作ったんだ。
「怠惰の賢者さまが国を作った……!」
「作ってない。自治権が認められただけだ。国は作ってない。断じて作ってない」
「謙虚の極み……!」
もう何を言っても無駄だ。溜息をついた。深い溜息だ。
ルナの耳がぴこぴこと忙しなく動いている。尻尾が——俺の腕にするりと巻きついた。ふわりとした毛並みの感触。温かい。
「やったね、ユウトさん!」
「……ああ。まあ、うん」
ルナの尻尾が、いつもよりふわふわだった。温かくて、柔らかい。
カイが振り返った。疲れた顔だ。だが目の奥だけは、まだ光っていた。弱いまま前に立つ——カイはその言葉を実行した。震えていた手は、もう震えていない。
フィーネが目元を押さえていた。泣いてはいない。泣きそうなのを、必死に堪えている。長い耳がわずかに揺れている。
ガロンは腕を組んで、黙って頷いた。口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。それで十分だった。
***
歓声が少し落ち着いた頃、ベルトが近づいてきた。
「ユウト殿、お喜びのところ恐縮ですが」
手にした羊皮紙を広げた。インクが乾ききっていない。今朝書いたばかりだ。
「自治権が認められましたら、次は体制を整えねばなりません。まずは骨格だけでも」
「……もう次の仕事か」
「体制が整わねば、自治権は絵に描いた餅ですからな。認められたからといって、動かす仕組みがなければ何も変わりません」
有能だ。有能すぎて面倒だ。一つ終わったらすぐ次が来る。前世と同じだ。
ベルトの自治体制案に目を通した。Lv4を起動する。頭の奥がじわりと痛んだが、短時間なら大丈夫だ。赤い光が——一箇所、浮かんだ。
『この負荷配分——特定の立場に業務が集中する構造。かつて、おまえが経験した構造と類似』
……ああ、嫌な記憶が蘇る。全部一人に押し付けるやつだ。前世の上司の顔が一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。消えろ。異世界にまで来るな。
「ベルト、ここ。カイに仕事が集中しすぎてる。行政も外交も内政もカイ一人に振ってる。このままだと回らない。分散させないと」
「おお、さすがです。確かに、この配分ではカイ殿に過度な負担がかかりますな。行政をカイ殿、外交をフィーネ殿、内政の実務を私が担う、という三分割ではいかがでしょう」
「それでいい。一人に集中させない。それが鉄則だ」
ベルトがすぐに書き直し始めた。有能だ。指摘すれば直る。直る仕組みがあるのは、いいことだ。
仕組みを作ってサボる。最高の展開だ。
ふと、広場の向こうに目をやった。
ヴェルナーが静かに宿舎に戻っていく。その背中を見た。歓声の中を一人で歩いている。兵士たちが後ろに続いていたが、距離を置いていた。
敗北者の背中ではなかった。俯いてもいない。歩幅も乱れていない。
「法的に拒否する根拠がない」——あれは敗北を認めたのではない。法的に反論できないという事実を述べただけだ。感情は、一つも見せなかった。
あの背中に、「終わり」の気配はない。
腹の底がざわついた。だが今は——今だけは、この空気に浸ってもいいだろう。
フィーネとベルトの連携で、エルフとの共同管理協定も法的に存続が確定した。自治権の枠組みの中に、きちんと位置づけられている。フィーネが最初から組み込んでいたのだ。三百年の知恵は、こういう先読みにも使われる。さすがと言うしかない。
三日後、トビアスが息を切らして戻ってきた。
「大変です。あの自治権の話、もう旧大陸中に広まってます」
「……は?」
「あの多種族の町に加わりたいって連中が、何組も動き出してるらしいですよ」
トビアスがいつもの軽快な口調で言ったが、目は笑っていなかった。これが意味することの重さを、この行商人はわかっている。自治権という前例が作られた。それは希望であると同時に、嵐の種だ。
「面倒事が、終わるわけがなかった」
空を見上げた。新大陸の空は、相変わらず青くて広い。広すぎて、逃げ場がないくらいに。
自治権を勝ち取った。法的に認められた。仕組みも作り始めた。あとはサボるだけのはずだった。
だが世の中は、怠惰な人間に優しくない。
……まあ、いい。来るなら来い。仕組みは作った。仲間もいる。俺は見ているだけでいい。
見ているだけの仕事。それだけは、守る。
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