第159話「手を握られたら、離せなかった」
ヴェルナーからの返答を待つ時間は、戦いより長く感じた。
何もすることがない。これが一番めんどい。
何もしないことが、こんなに疲れるとは知らなかった。前世のブラック企業時代、休日に何もすることがなくて逆に疲れたのを思い出す。あの感覚に似ている。
待つことだけが仕事になった日の朝は、やたら長い。日が昇ってから、もう三時間は経った気がする。多分、一時間くらいだ。空の太陽がほとんど動いていない。
広場のベンチに腰を下ろして、ぼんやりと空を見上げた。雲が一つ、ゆっくりと流れている。あの雲くらいのんびり生きたい。風もなく、日差しだけが石畳を温めている。石の上を歩くと、じんわりとした熱が靴底を通して伝わってきた。
カイが広場の端で腕を組んで座っていた。目を閉じているが、眠っているわけではない。時折、目を開けてヴェルナーの宿舎の方を見る。それを繰り返している。指が膝の上で、規則的に動いていた。数を数えているのかもしれない。
フィーネが法文書の写しを取り出して、何度目かわからない確認をしていた。もう暗記しているだろうに。不安を手で触れられるものに変えているのだ。羊皮紙の端がわずかに擦り切れていた。何度も何度も開いた証だ。
ガロンは黙って石を磨いていた。何の石かは知らない。鍛冶場から持ってきた端材だろう。ただ磨いている。手を動かしていないと落ち着かないのだろう。ドワーフの性分だ。石が磨かれるたびに、しゃりしゃりと乾いた音がする。
「……やることがないのが一番きつい」
呟いた。誰も反応しなかった。全員が同じことを思っていたからだ。広場に鳥の声だけが響いている。
***
昼を過ぎた頃、ルナが来た。
手に木の実を入れた小さな袋を持っている。麻の袋で、中身がごろごろと音を立てていた。
「ユウトさん、おやつ」
「いらない」
「でも、お腹すいてるでしょ? ユウトさん、空腹の匂いがする」
「空腹に匂いがあるのか」
「あるよ。ちょっと酸っぱいの。胃が動いてる匂い」
「……それは嗅ぎたくないな」
「えへへ」
面倒だが、もらった。甘い木の実だった。エルフの森の産物らしい。噛むと、ほんのりと蜜の味がする。殻が薄くて、歯で割ると中身がとろりとした食感だった。
ルナが隣に座った。しばらく無言で、二人で木の実を食べた。ルナの方が食べるのが速い。殻を歯で器用に割る音が、こりこりと聞こえた。獣人の歯は丈夫だ。
広場には昼下がりの風が吹いていた。新大陸の風は、いつも少しだけ青臭い。マナの匂いだとフィーネは言っていた。旧大陸より濃いらしい。日差しが傾いてきて、広場の影が少しずつ伸びている。
不意に、ルナの手が動く。
そっと、俺の手に触れた。
「……おい」
返事はない。ルナの指が、俺の指に絡みつく。細い指だ。小さいが、温かい。そして——ぎゅっと、握られた。
耳がぺたんと伏せて、尻尾だけがブンブンと揺れていた。
「けしからん」
「……何が?」
「全部けしからん。手を握るな。耳を動かすな。尻尾を振るな」
「尻尾は……止められないの」
小さな声だった。恥ずかしそうに、でも手は離さなかった。指に力が入っている。柔らかい手だ。温かい。掌が少しだけ湿っている。緊張しているのだろう。ルナだって、不安なのだ。
頭の奥で、声が聞こえた。
『手の接触による体温の伝達効率が——』
「黙れ」
スキルを即座に封じた。誰もそんな分析を頼んでいない。空気を読め。この場面で効率の話をするな。
ルナが首を傾げた。銀色の髪がさらりと揺れた。
「今の、誰に言ったの?」
「独り言だ」
「ユウトさん、たまに誰かとお話してるよね。あたしには聞こえない誰か」
「気のせいだ」
「ふうん。でも、ユウトさんが『黙れ』って言う時は、だいたいあたしの近くにいる時だよね」
「……偶然だ」
「えへ」
ルナが笑った。手は握ったままだ。声に恥ずかしさと嬉しさが混じっている。
……離すべきだろう。でも、動かす気が起きない。怠惰だ。そういうことにしておく。
ルナの尻尾がブンブンと揺れ続けている。尻尾は嘘をつかない。風がルナの銀色の髪を揺らして、甘い匂いが鼻先をかすめた。草原と陽だまりの匂い。
握り返しては、いない。ただ、握られている。それだけだ。
それだけなのに、手のひらがやたら熱い。
***
どれくらい経っただろう。木の実の袋が空になった頃だった。
日が傾き始めた頃、広場の向こうから足音が聞こえた。規則正しい足音。軍靴の音だ。
兵士が一人、近づいてくる。ヴェルナーの部下だ。
カイが立ち上がった。腕を組んだまま、兵士を見据えている。フィーネが法文書の写しを畳んだ。ガロンが石を磨く手を止めた。しゃりしゃりという音が消えて、広場が静まり返った。
全員の視線が、兵士に集まった。
「総督がお会いになります。明朝、広場にて正式に回答されるとのこと」
それだけ言って、兵士は去った。事務的な伝達だった。表情も読めなかった。回答の中身がどうなのか、この兵士は知っているのか、知らないのか。
カイが深く息を吸った。
「来たな」
フィーネが頷いた。
「来ましたわね」
ガロンが石をしまった。
「……やっとか」
俺は——手を離した。名残惜しいとか、そういうのは——ない。手のひらの温もりが急に冷えて、夕方の風が冷たく感じた。
「……行くか」
ルナが立ち上がった。背筋が真っ直ぐだった。さっきまでの不安な顔ではなかった。前を向いた、覚悟の顔だ。
「ユウトさん」
「ん?」
「……大丈夫だよ」
前にも聞いた言葉だ。でも、あの時とは違う。あの時は「嘘でもいいから」という祈りだった。今のルナの声には、祈りではなく——確信があった。
「根拠は」
「ユウトさんの手が、あったかかったから」
「……それは根拠にならない」
「なるよ」
ルナが笑った。尻尾がゆらりと一度揺れた。
眠れない夜だった。
明日、ヴェルナーが何を言うのか。法を認めるのか、法を無視するのか。
どちらにしても、もう後戻りはできない。
手のひらに、まだ温もりが残っていた。面倒だ。面倒だが——悪くない温もりだった。
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