第158話「法を知れば、殴らなくていい」
ヴェルナーの仮設宿舎の前に立った時、カイの背筋は真っ直ぐだった。
革袋から法文書を取り出す。その手は、もう震えていない。
「総督殿。お時間をいただきたい」
カイの声が、朝の空気に響いた。堂々としている。あの指が震えていた夜が嘘のようだ。朝露に濡れた石畳を踏む靴音が、やけにはっきりと聞こえた。
俺はその後ろに立っていた。フィーネも隣にいる。出番は——多分、ない。今日はカイとフィーネの舞台だ。俺は見ているだけでいい。効率的だ。立っているだけの仕事。最高だ。
宿舎の周囲には、ヴェルナーの兵士たちが二人、警護に立っていた。こちらを見ているが、止めはしなかった。武器を持っていない相手を止める理由がないのだろう。俺たちの武器は、カイの手の中にある羊皮紙だ。
宿舎の扉が開いた。ヴェルナーが姿を見せる。いつもの端正な顔に、表情はない。朝の光を背にしていて、逆光でその目の色が読めなかった。
「……何用ですか」
「新大陸開拓令第四十七条第三項に基づき、この地の自治権確立を申請します」
カイが真っ直ぐにヴェルナーの目を見た。声は落ち着いている。練習通りだ。結論を最初に。
ヴェルナーの眉がわずかに動いた。微かだが、動いた。「新大陸開拓令」という言葉に反応したのだ。知っているのだろう。だが、第四十七条第三項までは——知らなかったかもしれない。
***
宿舎の中。簡素なテーブルを挟んで、カイとフィーネが座った。ヴェルナーが対面に座る。テーブルの上には何もない。水の一杯も出なかった。もてなしの意思がないということだ。
俺は壁際に立った。木の壁に背を預ける。立っているだけでいい仕事。最高だ。だが——目だけは動かしていた。ヴェルナーの一挙一動を、見逃すまいと。
部屋の中は薄暗かった。窓が小さく、光が少ない。蝋燭が一本だけ灯されていて、ヴェルナーの顔の半分が影に沈んでいた。
「こちらが申請に関する書類一式です」
フィーネが書類を並べた。一つ一つ、丁寧に。羊皮紙がテーブルに置かれるたびに、乾いた音がした。
「法文書。新大陸開拓令第四十七条第三項の条件充足を証明する全項目をまとめたものです。建築記録。この地に築かれた構造物の設計と施工の記録を石板に刻んだもの。交易実績。近隣の集落との取引実績の帳簿。そして、住民の合意書」
フィーネの声は静かだが、揺るぎがなかった。一語一語に、三百年の重みがある。
「全て、旧大陸の公文書形式に完全に準拠しております」
ヴェルナーが書類を手に取った。
最初の一枚に目を落とした瞬間、指先が止まった。一瞬だった。すぐに読み始めたが——俺はその一瞬を見逃さなかった。壁際に立っている俺の角度からだと、ヴェルナーの手元がよく見える。
法文書の引用の正確さに気づいたのだろう。形式の不備を探そうとして、見つからなかったのだ。これはベルトの功績だ。あの元書記官が、一つの隙も残さなかった。
ヴェルナーがページをめくる。二枚目。三枚目。表情は変わらない。だが、めくる速度がわずかに遅くなった。読み飛ばせない内容だということだ。四枚目で、一度ページを戻した。確認している。条文の引用を照合している。
スキルが起動する気配はなかった。それでよかった。
「……これは、誰が作成した」
ヴェルナーの声は平坦だった。だが、聞いたという事実が重い。本当にどうでもいいなら、聞かない。
「私が起草し、元書記官のベルト殿が書式を整え、この町の職人たちが物証を作りました」
フィーネが答えた。堂々としている。三百年の知識を持つエルフの、静かな自信だ。
ヴェルナーが石板を手に取った。ガロンが刻んだ建築記録だ。重い。両手で持ち直す仕草が見えた。石の表面に指を滑らせている。刻まれた文字の精緻さを、指先で確かめているのだ。
石板の表面に目を落とす。精緻な文字彫り。ドワーフの技法で刻まれた、改竄の余地のない記録。石に刻まれた文字は消せない。これが物証としての重みだ。
ヴェルナーの目が、揺れた。
一瞬だが、確かに。
そして——懐に手が伸びた。上着の内ポケット。あの金属板があるところだ。ベルトが言っていた、ヴェルナーの父の形見。
手が触れて、すぐに離れた。それだけの動作だった。だが、何かを思い出しているように見えた。目の奥に、計算とは違う色が一瞬だけよぎった。
ヴェルナーが書類をテーブルに置いた。丁寧に。乱暴には扱わなかった。
「……確認に、時間をいただく」
それだけだった。反論はない。形式不備の指摘も、法的な異議申し立ても。
「お待ちしております」
カイが頭を下げた。声に感情は入れなかった。冷静だ。よくやっている。
ヴェルナーが立ち上がり、書類を持ったまま奥の部屋に消えた。扉が閉まる音が、静かに響いた。
***
宿舎の外に出た。朝の光が眩しい。宿舎の中の薄暗さとの落差で、一瞬目が眩んだ。
「……どうだった」
カイが聞いた。自分の手応えを確認したいのだろう。当然だ。外の空気を吸って、カイの肩の力がようやく抜けた。
「あいつの顔が動いた。一言も反論しなかった」
「反論しなかった、か」
「法的に突く場所がないんだろ。そうなるように作ったんだしな」
フィーネが静かに頷いた。長い耳がほんの少し揺れる。
「ええ。形式の不備もございません。反論の余地がないのです」
「やりすぎたか」
「やりすぎてちょうどいい」
カイが珍しく強い声で言った。それから、少しだけ笑った。疲れた顔のまま、息を長く吐いている。肩がようやく下がった。
「お前がそう言うなら、まあいいか」
俺は壁に背を預けた。立ちっぱなしで足が疲れた。見ているだけでも疲れるものだ。緊張で肩が凝っている。
「あとは、あいつが何を出すか。待つしかないな」
「待てるのか」
「待つのは得意だ。寝てればいいし」
カイが呆れたように笑った。フィーネも口元を押さえて笑っていた。笑ってくれるなら、まあいい。緊張が解けたということだ。
だが——一つだけ気になることがある。
あいつの目は、死んでなかった。
追い詰められた人間の目ではなかった。「確認に時間をいただく」は、反論できないからではなく——何かを考えるための時間かもしれない。
夜、ヴェルナーの宿舎の灯りがずっと消えなかった。
何を読んでいるのか。何を考えているのか。
俺たちの法文書が完璧であればあるほど、あいつが「法以外の手」を使う可能性が増す。
考えたくない。寝たい。だが——頭の隅が、ちくりと痛んだ。
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