第157話「最後の晩餐は、いつも通り」
マーレンの食堂から、いつもより濃い匂いが漂ってきた。
焼き肉と、煮込み野菜と、香草パンの匂い。鼻腔を埋め尽くすような、暴力的な食欲の誘い。腹が鳴った。恥ずかしいが、本能には逆らえない。
「明日が最後かもしれないからね。今日は全部出すよ」
マーレンが厨房から顔を出して、にやりと笑った。その表情に不安の色はない。いや、隠しているのかもしれない。この姉御は、不安を料理に変える才能がある。不安が大きいほど、料理の気合いが入る。今日の匂いの濃さが、その証拠だ。
食堂のテーブルに、次々と料理が並んだ。木のテーブルが軋むほどの量だ。
木の実のサラダに塩漬け肉の厚切り、獣人の香草焼きに人族の煮込み。全種族の味が一つのテーブルに乗っている。皿が並ぶたびに、マーレンの足音がテーブルと厨房を往復する。
塩漬け肉は表面がカリッと焼けていて、切ると中から肉汁が溢れた。ガロンが「まあまあだな」と言いながら二枚目に手を伸ばしている。まあまあではないだろう。三枚目にも手を伸ばしかけて、ニーナに「師匠、食べ過ぎ」と止められていた。
ルナが香草焼きに齧りつく。耳がぴこぴこしている。頬に肉汁がついているのに気づいていない。
「全種族の味を全部混ぜたんだよ。いつもは別々に出すけど、今日は一緒。どうせ一緒に食うんだから」
マーレンがテーブルの端に腰を下ろした。全員が黙って食べている。言葉より先に、箸が動く。
フィーネが木の実サラダを小さなフォークで丁寧に口に運ぶ。三百年の礼儀作法が、こういう時にも崩れない。カイが煮込みの椀を両手で持って、ゆっくりと啜る。目を閉じて、味を噛みしめている。ガロンが肉を噛み切りながら酒を煽る。ドワーフの酒は匂いが強い。石窯で蒸留した穀物酒だ。
俺は煮込みを食っていた。腹が温まる。単純に、美味い。明日のことなんて考えたくない。今はただ、この煮込みの美味さだけを感じていたい。
「明日、どうなるんだい」
マーレンが聞いた。声のトーンは軽いが、目は真剣だった。手にした布巾を、無意識に握りしめている。
「知らん。でも飯は食えるだろ」
「……あんたの口癖、たまに救われるよ」
マーレンが小さく笑った。それから席を立って、追加の香草パンを持ってきた。焼きたてだ。湯気が立っている。割ると中から薬草の匂いがふわりと広がった。
「食え食え。明日のことは明日考えな。今日は食う日だ」
全員が頷いた。言葉は要らなかった。テーブルの上の料理が減っていく。皿が空になると、マーレンがすかさず追加を持ってくる。この姉御の食卓に、遠慮は存在しない。
***
食後、自然と会話が始まった。
腹が満たされると、口が緩む。
「明日は、俺が前に立つ」
カイが静かに言った。目の下の隈は濃いが、目の奥は光っている。椀を置いて、テーブルの上で両手を組んだ。
「法文書は完璧ですわ。あなたのおかげです、ユウト殿」
フィーネが微笑んだ。耳の先がほんのり赤い。酒のせいか、感情のせいか。
「俺のおかげじゃない。見ただけだ」
「見ただけで矛盾を全て発見なさったでしょう。それが、どれほどの助けになったか」
「……面倒な褒め方するな」
フィーネが小さく笑った。三百年を生きたエルフの笑い方は、どこか穏やかだ。時間の重みを知っている者の余裕がある。
ガロンが酒の杯を傾けながら、ぽつりと言った。
「石板も、出来は悪くない。……師匠に見せたかったな」
一瞬、食堂が静かになった。蝋燭の炎が揺れている。
ガロンの師匠は、一人で石を刻み続けた伝説のドワーフだ。弟子を取らず、仲間を持たず、ただ自分の技だけを磨き続けた。その技法を、ガロンは今——仲間のために使った。一人で刻むのではなく、ニーナやカルルと一緒に。師匠とは違うやり方で。
「見せてやれよ。終わったら」
カイが言った。
「……墓は遠いぞ」
「遠くても行けるだろ。自治権が認められたら、自由に旅もできる」
ガロンが杯を見つめた。琥珀色の酒が揺れている。それから、少しだけ笑った。
「……そうだな」
全員が少し笑った。重い笑いではない。温かい笑いだった。蝋燭の灯りが全員の顔を照らしている。
俺は最後の煮込みをすくって口に入れた。芋がとろりと崩れた。舌の上で鶏の出汁が広がる。最後の一口は、いつも一番美味い。
この食卓が、なくなるかもしれない。この匂い、この温かさ、この騒がしさが消えるのは——面倒だ。
手の中の椀が空になっている。最後の一口を、もう少し味わっておけばよかった。
***
食堂を出ると、夜の空気が頬に触れた。冷たい。食堂の中の温かさとの差が、肌に染みた。星が出ている。新大陸の星は、旧大陸より近く見えるらしい。俺には比較のしようがないが。
「ユウトさん」
ルナが隣にいた。いつの間にか、ついてきていたらしい。足音が聞こえなかった。獣人の歩き方は静かだ。草の上を歩く狼のように、音がない。
「ん?」
「明日、大丈夫だよ」
「根拠は?」
ルナが小さく首を傾げた。銀色の髪が肩から滑り落ちる。夜風がそれを揺らした。
「ユウトさんの匂いが、大丈夫って言ってるの」
耳がぴこりと動いた。
「……匂いで何がわかるんだ」
「わかるよ。怖い時は酸っぱい匂いがするの。でも今のユウトさんは、いつもの匂い。お日さまと、ちょっと眠い匂い」
「眠い匂いってなんだ」
「ふわふわしてるの。お布団みたいな匂い」
「意味がわからない」
「えへへ」
ルナが笑った。尻尾がゆらりと揺れている。不安ではない。穏やかな揺れだ。星の光がルナの銀色の髪を照らしていて、少しだけ光って見えた。
「……そうかよ」
「うん」
星空の下、二人の影が並んでいた。
明日がどうなるかは知らない。でもルナの鼻が「大丈夫」と言うなら、まあ——信じてやってもいいか。獣人の嗅覚を疑う理由もない。少なくとも、俺の勘よりはあてになる。
朝が来た。
カイが法文書の入った革袋を肩に担いだ。
「行こう。ヴェルナーに、この町の答えを見せに」
お読みいただきありがとうございました!
本人はやる気ゼロですが、周りの環境がどんどん激変していきます。
【毎日 朝7時・夕方17時】の2回更新で投稿していきます!
もし『この怠惰な主人公、面白いな』と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになります!




