第155話「倒れたら、もふもふが来た」
視界がぐらりと揺れた。
「ユウトさん!」
気づいた時には、ルナの膝の上だった。耳が、ぴこぴこ動いている。……近い。
銀色の髪がさらりと顔にかかった。甘い匂いがする。ルナの匂いだ。ただ温かい。
頭の後ろに、柔らかい感触がある。膝枕だ。ルナの太腿の上に、俺の後頭部が乗っている。この状況を冷静に分析すると非常にまずい。
「……何が、あった」
「倒れたの。急にばたって。びっくりしたの。あたし、走ったの」
ルナの声は心配そうだった。声が少し震えている。安心と心配が混じっているらしい。尻尾も視界の端でぱたぱた揺れているのが見えた。
記憶を辿る。ガロンの建築記録を確認して、ベルトの法的書式を照合して、フィーネの法文書の最終チェックをして——その辺りから記憶が薄れていく。赤い光を追い続けた目が、じんじんと痛んでいた。
Lv4を使い続けた反動だろう。赤い光を追い続けた目が、限界を超えたらしい。二日間、ほぼ休みなく矛盾を探し続けた。身体が止めろと言っていたのに、頭が止まらなかった。結果がこれだ。
「……離れろ。けしからん」
「ダメ。ユウトさん、くたびれすぎ。動いちゃダメ」
ルナの声はいつもより低い。怒っているわけではないが、譲らない声だ。犬が——いや、狼が大事なものを守る時の声だ。
ルナの尻尾が腰のあたりにするりと巻きついた。毛並みの柔らかさが布越しに伝わってくる。ふわふわだ。ブランケット代わりのつもりだろうか。もふもふが物理的に俺を拘束している。
「……もふもふで動けない。物理的にも、精神的にも」
「もふもふ?」
「忘れろ」
天井を見上げた。作業場の木組みの天井だ。窓から差し込む朝の光が、ルナの銀色の髪を逆光に透かしている。
……悪くない光景だ。悪くないが、言わない。絶対に言わない。口にしたら負ける。何に負けるのかはわからないが、とにかく負ける。
***
「はいよ、特製スープ」
マーレンが木の椀を持ってきた。湯気が立っている。薬草の匂いが混じっていた。緑色の薬草が細かく刻まれて、金色のスープの中に浮かんでいる。回復促進の薬草だろう。マーレンは料理に薬草を混ぜるのが上手い。体調に合わせて薬草の配合を変える。この町の医者は、実質この姉御だ。
「倒れるまで働くなんて、あんたらしくないね」
「らしくない。二度とやらない」
「嘘おっしゃい。あんたは『しゃーない』って言いながら結局やるタイプさ。あたしゃ見てきたからね、あんたの『めんどい』がどういう意味か」
見透かされている。面倒な姉御だ。
「スープ、飲みな。身体が温まるよ。薬草を多めに入れたから、ちょっと苦いけど」
起き上がろうとしたが、ルナの尻尾が締まった。動けない。仕方なく半身を起こして、椀を受け取った。スープを一口含む。温かい。鶏の出汁に薬草の苦みが混じっているが、奥にほんのりとした甘みがある。蜂蜜だろうか。マーレンの料理は、いつも最後に甘みを残す。
マーレンがルナに振り向いた。
「ちゃんと見張っててね、ルナちゃん。こいつ、放っとくとまた起き上がって仕事始めるから」
「うん! あたし、ユウトさんの番をする!」
声の調子が変わった。使命感に満ちた顔だ。こういう時のルナは、何を言っても退かない。
「番て。見張りの犬じゃないんだから」
「犬じゃないよ。狼だよ?」
「……それは知ってる」
「狼は群れを守るの。ユウトさんはあたしの群れだから、あたしが守る番」
「……群れに入った覚えはないんだが」
「もう入ってるよ。ずっと前から」
ルナがにこっと笑った。反論する気力がない。いや、反論する理由もない気がしてきた。面倒だ。
マーレンが笑いながら出て行った。「お似合いだよ、あんたたち」と小声で言っていた気がするが、聞こえなかったことにする。
椀を両手で持ったまま、俺はそのまま動かなかった。膝は柔らかく、尻尾は温かく、スープの湯気が顔に当たるのが心地いい。
……三重の癒やしだ。働かなくていい理由まで揃っている。最高じゃないか。
「ユウトさん、寝ていいよ」
「寝ないと怒るのか」
「怒らないけど、ぎゅってする」
「それは脅迫だ」
「えへへ」
面倒だ。面倒だが——今は、この面倒が心地いい。窓の外から小鳥の声が聞こえる。朝の風が木組みの隙間から入ってきて、ルナの髪を揺らした。
***
うとうとしていると、足音が聞こえた。二人分。一つは軽く、一つは重い。軽いほうは革靴の足音、重いほうは鉄入りの靴底。
フィーネとガロンだった。
「あ——起きていらしたんですね。失礼しました。ご報告があります」
フィーネが手にした羊皮紙の束を見せた。昨日より明らかに整理されている。紐で束ねられ、項目ごとに色の違う布が挟んである。几帳面なエルフだ。
「あなたが倒れている間に、条文の整理を進めておきました。矛盾の指摘を元に、法文書の最終稿はほぼ完成しています」
「建築記録もワシが下書きした」
ガロンが太い指で別の羊皮紙を掲げた。ドワーフらしい几帳面な文字が並んでいる。数字と図面が中心だ。建物の寸法、使用した資材の量、施工の日付。全てが正確に記されていた。
「文字は苦手だが——数字と図面なら任せろ。構造の記録は鍛冶師の基本だ」
「……お前ら、俺がいなくても進むのか」
「当然です」
フィーネが微笑んだ。いつもの冷静な顔だが、ほんの少し誇らしげだった。
「あなたは矛盾を見つけるだけでしょう? 残りは私たちの仕事です」
「ワシが下書きした図面と数字は間違いないはずだが——念のため、起きたら確認してくれ、人間」
「……ああ」
俺がいなくても回る仕組みが、動いている。
誰か一人に仕事が集中しない。誰かが倒れても、残りが補う。それぞれの得意分野で、それぞれが動く。
前世で散々やらされた「全部一人でやれ」の真逆だ。あの時は一人休んだら全部止まった。一人倒れたら引き継ぎもなく業務が積み上がった。そういう地獄を知っているから——今の光景が、本当にありがたい。
……最高だ。これが理想だ。俺がいなくても回る仕組み。
「ほら、ユウトさん。寝ていいの」
ルナの声が頭の上から降ってきた。尻尾のブランケットが、少しだけきゅっと締まる。温かい。
「……ありがとう」
小さく、ぼそっと言った。聞こえないくらい小さく。
ルナの耳がぴょこんと跳ねた。聞こえたらしい。狼の聴覚を甘く見ていた。
「えへ」
「聞こえてないことにしろ」
「聞こえちゃった」
「……面倒だ」
目を閉じた。ルナの膝は柔らかく、尻尾は温かく、作業場の外からはガロンが鍛冶場に戻る足音と、フィーネが筆を走らせる音が聞こえていた。遠くでマーレンが誰かに声をかけている。この町の音だ。日常の音だ。
翌朝、目を覚ますと全員が作業場に集まっていた。
フィーネの法文書、ガロンの建築記録、カイの交渉準備。テーブルの上に全てが揃っている。
「さあ」とカイが言った。「仕上げだ」
俺がいなくても回る仕組み。
でも——俺がいたほうが、少しだけ効率がいい。
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