第154話「完璧じゃなくても、立っていたい」
カイの手が震えていた。
「俺は、完璧な交渉人じゃない」
「知ってる」
「でも、それでいい。今度は、それでいいんだ」
集会所の灯りが揺れる。窓の外は暗い。蝋燭の炎がカイの顔に不安定な影を落としていた。夜通しの作業で、俺もカイも目の下に隈ができている。テーブルの上には食べかけのパンの欠片と、冷めた茶の椀が置きっぱなしになっていた。フィーネは法文書の最終調整のために作業場に戻っている。
今、ここにいるのは俺とカイだけだ。夜の虫の音が、壁越しに聞こえてくる。
「作戦を確認するぞ」
俺は欠伸を噛み殺しながら、羊皮紙を広げた。フィーネが書き上げた法文書の要約だ。筆跡がいつもより乱れている。あのフィーネでさえ疲れているということだ。
「自治条項がある。条件も満たしてる。あとは証拠を揃えてヴェルナーに突きつけるだけだ」
「交渉は俺がやる」
「そうだ。法文書はフィーネが作る。証拠の建築記録はガロン。法的書式の確認はベルト。分担だ」
「お前は?」
「全部の書類に矛盾がないか見る。それが終わったら寝る。何回でも言うぞ」
カイが苦笑した。蝋燭の灯りに照らされた苦笑は、どこか温かい。それから表情を引き締めて、法文書の要約に目を落とした。
「……ユウト。正直に言っていいか」
「駄目だと言っても言うだろ」
「怖いんだ」
カイの声は静かだった。虚勢も気負いもない、剥き出しの声だった。蝋燭の炎が一瞬揺れて、カイの顔に影が差す。
「前とは違う。今度は失敗が許されない。あの時は俺が失敗しても、他に道があった。でも今度は——これが最後の手だ」
「だから怖いのか」
「ああ」
カイが自分の手を見つめた。震えている手を。それを隠そうとしなかった。
***
集会所の外に出た。夜風が冷たかった。昼間の埃っぽい空気が洗い流されて、草と土の匂いだけが残っている。
カイが空を見上げている。新大陸の夜空は深い。マナが多いせいか、暗いところほど暗く、光るところは強く光る。旧大陸の平坦な夜空とは違う、奥行きのある暗さだ。見上げていると首が痛くなるくらいに。
「俺は前に、守れなかった」
カイが言った。声は夜の空気に溶けるように静かだった。
「弟分たちを。あの時、一人で全部背負おうとして、結局——守れなかった」
知っている。あの頃のカイは、全部自分でやろうとしていた。完璧な判断を、完璧なタイミングで、完璧にこなそうとして——壊れかけた。相談もせず、一人で判断して一人で失敗した。
あの時の俺は、カイがそうなっていることにも気づいていなかった。めんどくさくて、人のことなんか見ていなかったから。
「今は?」
「今は——みんながいる」
カイが振り向いた。暗がりの中でも、目の光だけははっきりと見えた。星の明かりを受けて、透き通るような目をしている。
「俺は完璧じゃない。でも、完璧じゃなくても人は集まってくれるんだな」
「……当たり前だろ。誰が完璧な奴についていくんだよ。めんどくさい」
本心だった。完璧な上司なんて、前世でもこの世でも見たことがない。完璧な奴のそばにいると、自分が駄目な人間に思えてくる。そんなのは、ひたすらに面倒だ。
カイはブレないところも駄目なところも全部見せる。弱い時は弱いと言う。怖い時は怖いと言う。そういう奴だからこそ、周りに人が集まる。
……面倒だが、嫌いじゃない。そういう奴は。
「ああ」
カイが笑った。今度は苦笑じゃなかった。夜の闇の中で、星明かりに照らされた穏やかな笑みだ。
「だから俺は、弱いまま前に立つ。それが俺の戦い方だ」
俺は溜息をついた。息が白く曇った。新大陸の夜は冷える。こいつが前に立つなら、俺の仕事は後ろで座ってるだけでいい。効率がいい。最高だ。
***
「お前の交渉の手順、整理するぞ」
作業場に戻って、俺は【効率化】を走らせた。蝋燭を二本追加して灯した。橙色の光がテーブルの上の羊皮紙を照らす。
カイの交渉準備——ヴェルナーに会うまでの段取り、提出する書類の順序、想定される質問への回答。それらを頭の中で並べ替えていく。赤い光が浮かんだ。矛盾ではない。非効率だ。
『交渉準備の手順——提出物の優先順位に非効率あり。補足資料が先、根拠条文が後になっている。順序を逆にすれば相手の理解速度が上がる』
「カイ。法文書の要点を、まず三行にまとめろ」
「三行? こんなに分厚い書類を?」
「ヴェルナーは忙しい男だ。最初の三行で勝負が決まる。そこで興味を引けなければ、残りは読まれない」
カイが唸った。テーブルに肘をついて、法文書の山を見つめている。
「三行か……」
「一行目に結論。『この開拓地は自治条項の条件を満たしている』。二行目に根拠。『新大陸開拓令第四十七条第三項に基づく』。三行目に要求。『排除命令の撤回と自治権の認可を求める』」
「……お前、法律わからないって言ってなかったか」
「わからん。でも、相手に伝えるための順番は見える。面倒な書類を読ませる時は、結論を先に出すのが鉄則だ」
前世の記憶が、こういう場面でだけ役に立つ。上司への報告書。結論を最後に書いたら怒鳴られた。「先に言え」と。それ以来、結論は冒頭に置くようにした。
活かしたくもなかった。あの地獄で身についたものが、ここで使える日が来るとは。
「次に、ヴェルナーからの想定質問だ。『この開拓地に独自の行政機能があるという根拠は?』——これに対して、カイの答えは?」
「俺が村長代行として住民台帳を管理している。集会で住民投票を行い、町の方針を決定している。これが行政機能の証拠だ」
「いい。簡潔だ。次、『税収基盤の証拠は?』」
「交易記録がある。ベルトが書式を整えている。マーレンの食堂を含む商業活動の実績も添付する」
カイの声に力が戻ってきていた。手の震えは止まっている。自分の言葉で答えを口にするたびに、声が安定していく。言葉にすることで、自分の中に形ができるのだろう。
「あと——質問じゃなくて圧力が来た場合の対応だ。ヴェルナーが法より力で押してきたら」
「黙って書類を突き出す。言い返さない。法の前では、こちらが正しい。正しい側は、黙っているほうが強い」
「……効率って、こういう使い方もあるのか」
「ただの段取りだ。誰でもできる」
誰でもできる、は嘘だ。前世の俺だってできなかった。ただ、今は——「何がダメか」が見える目がある。それだけだ。
蝋燭が一本消えた。芯が燃え尽きたらしい。残りの一本の炎が揺れて、カイの顔に深い影を落とす。
翌朝、ガロンが鍛冶場から声を上げた。
「おい人間! 建築記録とやらを作るのに、少し手を貸せ!」
いよいよ、全員の出番だ。
めんどいが。
お読みいただきありがとうございました!
本人はやる気ゼロですが、周りの環境がどんどん激変していきます。
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