第153話「法の穴を見つけたのは、俺じゃない」
「新大陸開拓令、第四十七条、第三項」
フィーネの指が震えていた。
「ここに、自治を認める条項がある」
羊皮紙に書かれた古い文字を、フィーネが読み上げる。声は静かだったが、長い耳の先がわずかに揺れていた。興奮を抑えている。三百年を生きたエルフでも、こういう瞬間には隠しきれないらしい。作業部屋の空気が、一段階引き締まった気がした。
「開拓地が独自の行政機能、税収基盤、および住民合意を備えた場合——本国総督の認可をもって、自治を認める」
「……つまり?」
「この町は、条件を満たしています」
フィーネが顔を上げた。いつもの冷静な瞳に、確かな光が宿っている。窓から差し込む朝の光が、フィーネの金色の髪を輝かせていた。
「行政機能はカイが担っています。住民台帳の管理、集会での方針決定——立派な行政です。税収基盤は交易で確立済み。ベルトが帳簿を整えています。住民合意は——ありますわね。あの広場での光景を見れば」
昨日の光景が脳裏に浮かんだ。ルナが「出て行く」と言った広場。ノルが泣いた広場。俺が「なんとかする」と口走った、あの広場。あの瞬間、住民たちは誰一人としてルナを追い出せとは言わなかった。それが合意だ。
「なら勝てるのか?」
「証拠が要ります」
フィーネの声が引き締まった。興奮が引いて、実務の顔に戻っている。
「この町がその条件を満たしていることを、書類で証明しなければ。行政の記録、交易の実績、住民の合意書——全てを揃えて、法の形式に則って提出する必要があります」
証拠集め。
書類作り。
……一番めんどいやつが来た。前世の記憶が蘇る。報告書を作って、裏付け資料を揃えて、上司の印鑑をもらいに行って——あの地獄が異世界でも再現されるのか。羊皮紙の束を見るだけで、深いため息が出た。
***
フィーネが条件充足の書類を整理し始めた。三百年分の知識が、今この瞬間のために動いている。羊皮紙の束の中から必要な条文を抜き出し、参照先を整理し、論理の骨格を組み上げていく。筆の走る音が作業部屋に規則正しく響いた。
俺はその横で、相変わらず「おかしいところ」を指差す係だ。
条文の写しと、フィーネが書き起こした書類を見比べる。赤い光が、また浮かんだ。昨日より見え方が鮮明になっている。慣れてきたのかもしれない。
「ここ、数字が合ってない。交易量の記載と、こっちの税収の計算が食い違ってる」
「……本当ですわ。転記の際に古い数字を使ってしまいました」
フィーネが眉を寄せた。自分のミスが悔しいのだろう。だが、すぐに筆を取って修正に入る。
「あと、この条文の引用——さっきの自治条項と別の箇所を参照してる。どっちが正しいんだ」
「こちらが正です。修正します」
フィーネの筆が走る。修正箇所を訂正し、数字を合わせ、条文の参照先を統一していく。速い。法律の中身がわかっている人間が修正するから、一度指摘すれば一発で直る。インクの匂いが作業部屋に漂った。黒インクと、修正用の赤インク。交互に筆を持ち替えるフィーネの手つきは、迷いがない。
「あなたの目は反則ですわ」
「二回目だぞ、その台詞」
「何度でも言います。三百年法典を読み続けてきましたが、これほど効率的に矛盾を発見できたことは一度もありません」
「……反則なのはお前だろ。三百年分の法を頭に入れてて、俺が指差したら三秒で直すんだから」
「それは——」
「法の穴を見つけたのは俺じゃない。俺はおかしいところを指しただけだ。正解を出したのはお前だ、フィーネ」
フィーネの筆が止まった。長い耳の先が、ほんの少し赤くなった気がする。窓から入る光が耳の先を透かしていて、赤みがよく見えた。
「……ありがとう」
「礼はいい。早く終わらせろ。寝不足で死にそうだ」
フィーネが小さく笑った。それから筆を取り直して、さらに速く書き始めた。
書類の骨格が、形を成していく。法典の条文に裏打ちされた、この町の正当性の証明書。自治条項の条件——行政機能、税収基盤、住民合意——その全てを、一つ一つ潰していく作業。
面倒だ。だが、フィーネの筆が走る音を聞いていると、不思議と苦にならなかった。こいつの筆は迷わない。三百年分の知識に裏打ちされた、確信の音だ。
***
集会所にカイを呼んだ。
陽が傾き始めた時刻だった。集会所の窓から西日が差し込んで、テーブルの上に並んだ羊皮紙を橙色に染めている。
フィーネが自治条項の内容を説明すると、カイの目が見開かれた。
「法で戦える——法で、戦えるのか」
カイの声が震えていた。希望の震えだ。ヴェルナーとの交渉で何度も弾き返されてきた男の、初めて手にした武器への驚き。
「ただし、条件がある」
俺は欠伸を噛み殺しながら言った。眠い。本当に眠い。でも、ここで寝たら話が進まない。
「証拠が要る。建築記録、交易実績、住民の合意書。全部揃えて、法の形式に則って提出しなきゃならない」
「それは——時間がかかるのか?」
「フィーネの見立てでは、書類を整えるのに三日。ヴェルナーへの提出に一日。返答を待つ期間は……わからん」
「三日……」
カイが考え込んだ。ヴェルナーの本国への報告書が届いて、命令が返ってくるまでの時間。それとの競争だ。
カイが拳を握った。迷いが消えた目をしている。
「やろう。全員で」
「全員でやれ。ガロンに建築記録の下書きを頼め。ベルトには法的書式の確認を。フィーネが全体を仕上げる」
「お前は?」
「俺は全部の書類に矛盾がないか見る。それが終わったら寝る」
カイが笑った。疲れた顔だったが、目の奥には光がある。
「お前は本当にブレないな」
「ブレる気力もない」
カイが立ち上がった。椅子が石畳の上で軋む。
「全員に伝えてくる。ガロン、フィーネ、マーレン、ベルト。それぞれの役割がある」
法という名の武器を手に入れた。あとは、これを磨き上げるだけだ。
ヴェルナーの返答期限まで、あと何日もない。本国の命令が届く前に、こちらの書類を揃えなければ——全てが終わる。
……眠い。でも、寝てる場合じゃないのは、さすがにわかってる。
腰に鉛が入ったような感覚で立ち上がった。この面倒を片づけないと、もっと面倒なことになる。
椅子を引いて、羊皮紙の前に戻る。
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