第151話「この町の灯りが消えるのは、もっと面倒だ」
「あたしが出て行けば、済む話なら」
ルナがそう言った時、耳がぺたんと伏せていた。
尻尾も動かなかった。ルナの尻尾が止まるのを、俺は初めて見た。
広場に集まった住民たちの間に、沈黙が落ちる。朝の光が石畳を白く照らしていて、鳥の声だけが妙にはっきりと聞こえた。誰も何も言えなかった。言えるわけがない。ルナの声は静かで、けれど揺るがない。
「出て行くよ。あたしがいなくなれば、排除命令はなくなる。みんなが怖がらなくて済むの」
カイが一歩前に出た。靴底が石畳を擦る音が、やけに大きく響く。
「ルナ、それは——」
「だって、匂いでわかるんだもん」
ルナの声が少しだけ震えた。
「みんな怖がってる。あたしのせいで、みんなが困ってるの。それが、匂いでわかっちゃうの」
風が吹いた。広場の隅に積まれた薪の匂いが漂ってくる。干した肉の匂い。石畳に染みついた土の匂い。この町の匂いだ。ルナの鼻には、その全てに住民たちの恐怖が混じって届いているのだろう。
フィーネが口を開きかけた。「そのような解決は——」と言いかけて、止まる。法典を何日も読み続けた知性が、この場では何の武器にもならない。言葉を探す指先が、腰の法典の背に触れたまま動けずにいた。
そして——小さな泣き声が聞こえた。
「やだよぉ……」
ノルだった。リタの後ろに隠れていた小さな身体が、前に出てきた。涙がぼろぼろとこぼれている。小さな手で目を擦りながら、よろよろとルナに向かって歩く。
「ルナおねえちゃん、いなくならないで……」
ルナが膝をついた。小さな身体を抱きしめる。ノルの泣き声が、ルナの肩に埋もれて少しだけ小さくなった。
「大丈夫だよ、ノル。大丈夫」
大丈夫じゃないだろ、と思った。
銀色の髪が朝の光に透けて、その向こうにルナの横顔が見える。唇を噛んでいた。白い歯が下唇に食い込んで、薄い皮膚の下に血の色が透ける。笑おうとして——できなかった顔だ。
***
ルナがノルを抱きしめたまま立ち上がった時、その手がふっとこちらに触れた。
無意識だった。怯えの延長だったのかもしれない。誰かに、何かに、すがりたかったのだろう。指先が俺の腕に触れて、すぐに離れた。温かかった。一瞬だけ。
その瞬間——頭の中で、何かが走った。
『ルナ不在時の損失分析——嗅覚による警戒網の喪失、食材判別能力の低下、住民の士気低下——』
「——黙れ」
声に出していた。自分でも驚くほど低い声だった。
スキルが止まった。頭の中に広がりかけた分析の声が、一瞬で消える。
……損失分析?
違う。そういう話じゃない。
ルナがいなくなったら損失がどうとか、効率がどうとか、そういう話じゃないだろ。あいつの顔が青ざめて、ノルが泣いて——それを「損失」で計算するのか。ふざけるな。
立ち上がった。膝が少し震えた。怒りではない。面倒だ。こういう空気が、こういう展開が、ひたすらに面倒だ。胸の奥でぐるぐる回っている感情が何なのか、考えるのも面倒だ。
ただ——この状況が、限界だった。
「出て行くな」
ルナが振り向いた。銀色の瞳が、まっすぐにこちらを見る。朝の光を受けて、透き通るような色をしていた。
「……え?」
「お前が出て行ったら、もっと面倒になる」
言葉が、勝手に出てくる。頭で考えたんじゃない。腹の底から押し上げられるように、口が動いた。
「この町の灯りが消えるのは、もっと面倒だ」
広場の空気が止まった。風も止まった気がする。住民たちが息を呑む音が聞こえた。小鳥の声さえ消えていた。
「——だから、俺がなんとかする」
ルナの肩から力が抜けた。止まっていた身体がほどけるように揺れて、瞳の縁に光が溜まっていく。
「ユウト、さん……」
「泣くな。面倒だ」
「泣いてないよ……泣いて、ない……」
泣いてた。盛大に泣いてた。ノルと一緒に泣いてた。二人分の泣き声が広場に響いていて——さっきまでの怯えた声とは、色が違う。
***
広場から作業場に向かう途中、住民たちが遠巻きにこちらを見ていた。朝の光の中、道の両側に並んで、こちらを指差している。
「怠惰の賢者さまが……立ち上がった……」
「賢者さまが、本気になった……」
「崇めるな」
背後で、ルナがまだ泣いていた。ノルを抱えたまま、鼻を赤くして、しゃくり上げている。カイがそっとルナの肩に手を置いていた。ガロンは腕を組んだまま黙っていたが、鼻の下を指で擦る仕草が一瞬だけ見えた。見なかったことにする。
石畳の上を歩きながら、自分の手を見た。震えている。まだ震えている。さっきの——あの、腹の底から何かが噴き上がるような感覚の余波が、まだ身体のどこかに残っていた。
何を言ったんだ、俺は。「なんとかする?」 どうやって? 法律のことなんか何もわからないのに。交渉術もない。剣も振れない。スキルだって「ここがおかしい」と指差すだけだ。
溜息が出た。深い、本当に深い溜息だ。朝の冷たい空気が肺に沁みる。
ただ——朝の光が石畳を照らす、その光の色が、さっきと少し違って見えた。広場で見た灯りの色。ルナの銀色の髪を透かした朝の色。ノルの涙に反射した色。この町に住む連中が、毎朝見ている色だ。
こんなもんが消えたら、面倒だろ。また一から、どこかで、誰かが——いや、考えるのも面倒だ。
「……しゃーない。やるか」
フィーネが横に来た。足音もなく、けれど確かな気配で。長い金色の髪が風に揺れている。
「何か、方法があるのですか?」
「お前の法典を、もう一度見せろ」
「……法典?」
「今度は——俺の目で見る」
作業場に戻って、フィーネの法典を広げた。
羊皮紙の束。三百年分の条文の写し。インクの匂いが古い。羊皮紙の繊維に染み込んだ、何百年もの時間の匂いだ。昨日まで、眺めても何も引っかからなかったそれを——今、見ている。
すると——見えた。
昨日まで「引っかかる」だった感覚が、今ははっきりと「ここがおかしい」になっていた。条文の文字列の中に、何かが浮かび上がる気配がある。まだぼんやりとしているが——確かに、見える。
何かが変わりつつある。俺の中で、何かが。
……面倒だ。でも、今だけは——面倒のほうが、負けた。




