第150話「見てない。断じて見てない」
ガロンが作った入浴設備の調子を確認してくれ、と頼まれた。
なぜ俺なのか。ガロンに聞いたら「ワシは今忙しい」と言われた。忙しいのはわかるが、作ったのはお前だろう。
まあいい。排水の詰まりを見るくらいなら、そこまでめんどくはない。
入浴設備は町の東側にある。ガロンがドワーフの技術で組み上げた石造りの浴場で、地下水脈から水を引き、マナ石で加熱する仕組みだ。旧大陸にはない新大陸ならではの設備で、マナ石の熱効率がいいから薪を使わずに済む。燃料の節約になる。効率的だ。
浴場の入り口には布の仕切りが掛かっている。男女で時間帯を分けて使っているらしい。今は——確認する。
入り口の札は「空」になっている。よし、誰もいない。
中に入った。石造りの床に水の跡がある。排水口は浴槽の底と、洗い場の隅の二箇所。ガロンの仕事は丁寧で、石の接合部に隙間はない。排水口の蓋を外して中を覗く。……少し髪の毛が詰まっている。長い髪だ。掃除すれば直る。
排水を確認しながら、浴場の奥に進んだ。
仕切りの向こう側にも洗い場がある。ガロンが増設した部分で、まだ使い始めたばかりだ。こっちの排水も確認しておくか。
仕切りの裏に回ったとき、水音がした。
水音?
「あれ? ユウトさん?」
湯気の向こうに、銀色の影があった。
濡れた銀髪。水滴が肩を伝っている。狼の耳が湯気の中からぴょこんと覗いている。
脳が状況を理解するまで、約二秒。
ルナだ。入浴中の。ルナ。
「見てない! 断じて見てない!」
反射的に後ろを向いた。目を瞑った。手で顔を覆った。三重の防御だ。
頭の中で、スキルが反応した。
『視線の効率的な——』
「黙れ」
スキルを全力で却下した。何を提案しようとしたのか知らないが、絶対に聞きたくない。余計なお世話にもほどがある。
「ユウトさん、なんでいるの?」
ルナの声は——驚いてはいるが、怒ってはいなかった。
「排水の確認を……札が空になってたから……」
「あ、札、裏返すの忘れてたの。ごめんなさい」
札のせいだ。俺は悪くない。まったく悪くない。
「ユウトさん、顔が赤いの」
「見えてないだろ、後ろ向いてるんだから」
「匂いでわかるよ。今のユウトさん、すっごく赤い匂いがするの」
「匂いに色はないだろ!」
「あるよ? 今のユウトさんは、すっごく赤い匂い。熱くて、甘くて、ぱちぱちしてる匂い」
ぱちぱちしてる匂いってなんだ。意味がわからない。だが顔が熱いのは事実だ。耳まで熱い。
「出る。俺が出る。お前はそのまま——いや、早く着ろ」
「うん。でも、ユウトさん?」
「なんだ」
「ちょっとだけ見てたでしょ?」
「見てない。見てないからな」
逃げるように浴場を出た。
石壁に背をつけて、深呼吸した。空気が冷たい。顔が冷えるまで、しばらくかかった。
***
浴場の外の壁にもたれて、夜空を見上げていた。
月が出ている。星が多い。新大陸の夜空は、マナの影響で星が一つ一つ大きく見える。
中で水音がしている。ルナが体を拭いているのだろう。待っているわけではない。排水の報告をしなければならないから、ここにいるだけだ。そういうことにしておく。
しばらくして、ルナが出てきた。
髪を布で拭きながら、月明かりの中に立っている。濡れた銀色の髪が月光を反射して、淡く光っていた。風に毛先が揺れるたびに、ほんのりと湯上がりの温かい匂いが——
……けしからん。
けしからんが、目が離せない。いや、離す。離した。離したことにする。
「ユウトさん、最近寝てないでしょ?」
唐突に言われた。
「寝てる」
「嘘。くたびれた匂いがする。体の奥の方から、ぎゅうって搾り出すみたいな匂い」
搾り出す匂い。ルナの嗅覚表現は独特すぎて、時々何を言っているのかわからない。だが意味はわかる。疲れているのを見抜かれている。
「……まあ、ちょっとな」
「見張りも、カイさんのことも、フィーネさんのことも、食材のことも……全部考えてるもんね」
全部と言われると大げさだが、否定もできない。包囲されてから、やることが増えすぎた。怠惰に生きたいのに、怠惰でいられない。人生最大の矛盾だ。
「無理しないでね」
ルナの耳がぺたんと伏せた。心配の耳だ。
月明かりの中で、ルナの顔がこちらを見上げている。濡れた髪が頬に張りつき、大きな瞳に月が映っている。心配そうな表情。伏せた耳。
「お前こそ。……ありがとう」
小さな声で言った。聞こえたかどうかわからないくらいの声で。
だが聞こえていた。ルナの耳はごまかせない。
耳がぴこっと立った。尻尾がふわりと揺れた。口元がほころんだ。
「えへへ」
その笑顔は反則だ。月明かりの中の濡れ髪で、その笑顔は反則だ。
「……帰るぞ」
「うん」
***
寝際、ルナが呟いた。
毛布に包まって、耳だけ出して、小さな声で。
「ユウトさんが大変なの、あたしのせいかな」
「違う。絶対に違う」
即答した。考える余地もなかった。
「ヴェルナーが来たのは、お前のせいじゃない。排除命令は旧大陸の決定だ。お前は何も悪くない」
「でも……獣人がいなければ、排除なんて——」
「違う」
もう一度言った。
ルナは黙った。
耳がぺたんと伏せたまま、毛布の中に顔を半分埋めている。尻尾も丸まっている。
「……うん」
その声は、納得しているようには聞こえなかった。
ルナの耳は、朝までずっとぺたんとしたままだった。
俺は——何も、気の利いたことが言えなかった。「違う」としか言えなかった。
それが正しいのかどうかも、わからなかった。ただ、この耳を元に戻す方法を、早く見つけなければいけないと思った。
めんどいとか、効率がいいとか、そういう話じゃない。
ただ——あの耳を、立たせたかった。
お読みいただきありがとうございました!
本人はやる気ゼロですが、周りの環境がどんどん激変していきます。
【毎日 朝7時・夕方17時】の2回更新で投稿していきます!
もし『この怠惰な主人公、面白いな』と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになります!




