第148話「何かが引っかかる、気のせいじゃなかった」
気のせいじゃなかった。
フィーネの作業を眺めているうちに、どうしても目が行く部分がある。
同じ条文を二度写している。いや、三度目か。
朝食を済ませた後、なんとなく作業部屋に足が向いた。別にフィーネの手伝いをする気はない。法典なんか読めないし、読みたくもない。ただ——昨日感じた引っかかりが、消えなかった。
フィーネは昨夜から作業を続けているらしい。羊皮紙の山が少し低くなり、書き写した紙の束が新たに積まれている。エルフの体力は人間とは桁が違うが、それでも目の下にうっすらと影がある。
「また来たのですか?」
「暇だからな」
嘘だ。暇じゃない。カイの時間稼ぎ交渉の段取りを考えなきゃいけないし、レオンが報告してきた商人ギルドの件も気になる。やることは山ほどある。やりたくないだけだ。
作業部屋の隅に座り、フィーネの手元を眺めた。
***
それは、唐突に来た。
フィーネが左の山から羊皮紙を取り、文字を追い、必要な部分を書き写し、右の山に置く。その繰り返し。単純な作業に見える。だが——
頭の中に、何かが浮かんだ。
『重複を検知——同一の条文が三度、異なる文脈で書き写されている』
「は?」
思わず声が出た。
今のは何だ。スキルの声だ。だが、俺は法典を読んでいない。フィーネの作業を見ていただけだ。
「どうしました?」
フィーネが手を止めて、こちらを見た。
「いや……お前、同じの三回写してないか?」
「同じ条文を? そんなはずは——」
フィーネが書き写した紙の束をめくった。一枚、二枚と確認し——三枚目で、手が止まった。
「……確かに。この条文、三度写しています。なぜ気づいたのですか?」
「知らん。勝手に見えた」
嘘じゃない。見えたのだ。法典の内容はさっぱりわからない。文字だって旧大陸の古語で、俺には模様にしか見えない。だが、フィーネの手の動き——取って、読んで、写して、置く——その手順の中に、同じパターンが繰り返されているのが、なぜか見えた。
気持ちが悪い。頼んでもいないのに、勝手に見えるこの感覚。
***
離れようとした。
作業部屋を出て、廊下を歩き、外の空気を吸った。昼過ぎの日差しが石畳を温めている。風にマナの匂いが混じっている——いや、匂いがわかるのはルナだ。俺にわかるのは、ただの風だ。
だが足が勝手に戻った。
フィーネの作業が気になって仕方がない。体が動いてしまう。めんどい。最高にめんどい。なんで他人の作業が気になるんだ。
作業部屋に戻ると、フィーネが新しい羊皮紙を広げていた。二枚の条文を並べて比較している。
また来た。
頭の中に、淡い光が走る。いつものスキルの反応だが——今度は少し違う。自分の作業ではなく、フィーネの作業に反応している。
『この二つの条文——記述の対象範囲に矛盾がある。一方は開拓地全域を対象とし、他方は沿岸部に限定している。適用条件が整合しない』
「矛盾って何だよ。俺は法律なんか知らないぞ」
小声で呟いた。スキルに文句を言っても仕方がないが、言わずにいられない。俺は法律の専門家じゃない。前世でもブラック企業の平社員だ。法典なんか就業規則しか読んだことがない。
だが見えてしまう。フィーネが並べた二枚の羊皮紙の、どこが食い違っているのか。内容はわからない。ただ、構造が合っていないことだけが、はっきりと見える。
「フィーネ」
「はい?」
「その二枚、なんか食い違ってないか。対象が違うっていうか……片方は全体の話で、もう片方は一部の話に見える」
フィーネが目を見開いた。二枚の羊皮紙を改めて読み、しばらく黙った。
「……確かに、この二つは整合性が取れていません。条文Aは開拓地全域の統治権を規定していますが、条文Bは沿岸開拓地に限定した特例です。これは——」
「これは?」
フィーネの指が止まった。何かに気づいたような表情だったが、すぐに首を振った。
「いえ、後で確認します。ですが……あなたに法典のことがわかるのですか?」
「わからん。全然わからん。ただ、なんか引っかかるんだよ」
わかるのは「何かがおかしい」ということだけだ。何がおかしくて、どう直せばいいかは、俺にはさっぱりだ。まるで——他人の仕事机の書類の並びがぐちゃぐちゃなのを見て、気持ち悪くなるような感覚。
前世でもこんなことがあった。同僚の仕事のやり方を見ていて、「それ二度手間じゃないか」と思うことが。だが前世では、それはただの勘だった。今は——スキルが、それを拾い上げている。
***
寝床に戻った。
いい加減にしてくれ。他人の作業が気になって寝られないなんて、最悪だ。俺がめんどくさがりなのは生来の性質であり、前世からの一貫した信念であり、今更変えるつもりはない。
フィーネの作業のどこがおかしいのか、見えてしまう。だが、何でおかしいかは説明できない。この中途半端な感覚が一番めんどい。
フィーネに任せておけばいい。三百年分の知識を持つエルフに、法典の読み方を俺が指図する必要はない。適材適所だ。俺が法律に詳しくなる必要はない。
毛布を引き上げた時、足元にもふっとした感触があった。
「ルナ、いたのか」
「うん。ユウトさん、むずむずする匂いがするの」
ルナが足元から顔を出した。耳がぴこぴこ動いている。
「むずむず?」
「何かやりたいけどやりたくない匂い。すっごくもやもやしてるの。鼻の奥がくすぐったくなる匂い」
「……気のせいだ」
「嘘。ユウトさんの嘘は全部わかるの」
鼻がひくひく。尻尾がゆらり。こいつの嗅覚だけはごまかせない。
「寝る」
「うん。おやすみなさい、ユウトさん」
ルナの尻尾が毛布の上でぱたぱたと揺れた。温かい。もふもふだ。だが今はそれどころじゃない。
眠る直前、頭の中にスキルの声が浮かんだ。
『他者の作業を観察する中で蓄積された何かが、満ちつつある』
「……何の話だ」
返事はなかった。
スキルの声が消えた後も、頭の奥に淡い光の残像が揺れていた。
何かが変わろうとしている。だが今の俺には、それが何なのかわからなかった。
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