第147話「三百年の知恵と、めんどい法典」
フィーネが持ち帰った羊皮紙の束は、俺の身長くらいの高さがあった。
食堂の入り口で鉢合わせたとき、最初は何かの建材かと思った。
「どこから持ってきたんだ、それ」
「エルフの書庫には、旧大陸の法典の写しがあるのです。三百年前の」
三百年前。気が遠くなる数字だ。俺の前世が二十五年と少し。その十二倍以上前の記録を、こいつは「手持ちの資料」として持ち出してきた。
「森の奥にある書庫から、使いの者に運ばせました。エルフにとって、記録は根と同じ。切り捨てるものではありません」
根と同じ、か。エルフらしい言い回しだ。人間なら「古い書類」で片付けるものを、エルフは三百年前のものでも大切に保存している。文化が違いすぎる。
だがその文化の違いが、今は武器になる。
***
フィーネの作業部屋——といっても、集会所の一角を間仕切りで区切っただけの空間だ。壁際に羊皮紙が山と積まれ、机の上には広げられた写しが何枚も並んでいる。
めんどい。見ているだけでめんどい。俺ならこの量を前にした瞬間に寝る。
「三百年前の法律が今使えるのか?」
「旧大陸の法体系は積み重ねです」
フィーネが羊皮紙を丁寧にめくりながら答えた。長い指が古い文字の上を滑っていく。
「新しい法が古い法を上書きすることはありますが、明確に廃止されていない法は今も有効です。旧大陸の法は、木の年輪のように古い層の上に新しい層が重なっている」
「つまり、古い法の中に使えるものがあれば——」
「ヴェルナーの排除命令よりも上位の法的根拠になり得ます」
なるほど。法で戦う、というのはこういうことか。
力では百二名の兵士に勝てない。交渉ではヴェルナーの壁を崩せない。だが法ならば——相手の土俵で、相手のやり方で、ひっくり返せる可能性がある。
「めんどいが……それが唯一の武器か」
「ええ。ですが、私には読めます」
フィーネの声に迷いはなかった。
***
俺は作業部屋の隅に座り込んで、フィーネの作業を眺めていた。
別に手伝う気はない。法典なんか読めないし、読む気もない。ただ——カイの時間稼ぎの段取りを考えるより、ここで隅に座っている方が楽に思えた。
フィーネは羊皮紙を次々と読み分けていく。その速さが尋常じゃない。一枚あたり数秒で目を通し、必要な部分だけを別の紙に書き写す。三百年分の蓄積が、この選別の速さを可能にしているのだろう。
「これは最近のものですね。百年前の」
「百年前が最近……」
「エルフの時間感覚では、百年は一世代です。人間で言えば、親の世代の話」
百年が一世代。俺の前世の感覚では、百年前は歴史の教科書の中だ。異文化ギャップにもほどがある。
フィーネが一枚の羊皮紙の前で手を止めた。
長い指が古い文字の一行を丁寧になぞる。目が細められ、唇がかすかに動いた——声に出さず、条文を読み直しているのだ。
「この条文は興味深い。開拓地の統治に関する規定がありますが……」
フィーネが羊皮紙を俺の方に向けた。古い大陸共通語で書かれた文字の羅列。正直、半分も読めない。
「ここに書かれているのは、『新大陸開拓令』第十七条。『開拓地において三年以上の定住と生産活動の実績を有する者は、当該土地の利用に関する優先的権利を保持する。統治府はこの権利を、正当な法的手続きなくして侵害してはならない』」
フィーネの声が、条文を読み上げる瞬間だけ変わった。柔らかいエルフの口調が消え、法の言葉をそのまま写し取るような、硬く正確な響き。三百年間、記録を読み続けてきた者の声だった。
「……で、これが使えるのか?」
「使えます——が、まだ足りません。この規定は開拓地に一定の権利を認めていますが、自治を明確に認める条項ではない。あくまで統治府の管理下での権利です」
フィーネが羊皮紙の余白に細い文字で注釈を書き込んだ。読めないが、書き込みの量が尋常ではない。一つの条文から、これだけの枝葉が伸びるものなのか。
「第十七条は根の一つです。ここから伸びる枝を辿れば、もっと強い条項に行き着く」
「根と枝か。法律を木に例えるのは、エルフだけだろうな」
「木を知らなければ、根は辿れませんもの」
少しだけ得意そうに微笑んだ。三百年の蓄積を誇るというより、好きなことを語るときの顔だった。
「何が足りない?」
「自治を独立した権利として認める条項です。それがあれば、ヴェルナーの排除命令を法的に覆せます。開拓地の住民構成に統治府が干渉する権限がない、という根拠になる」
「そんなものが、三百年前の法典にあるのか」
フィーネが微笑んだ。静かな、だが確信のある笑みだった。
「あります。必ず」
「根拠は?」
「三百年前、エルフと人族が初めて条約を結んだとき——互いの統治に干渉しない、という原則が定められました。その原則から派生した条項が、必ずどこかにある。法は木の根と同じです。一つの原則から、無数の枝が伸びている」
また根の比喩か。だがフィーネの言葉には説得力があった。三百年分の法を読んできた者の確信だ。
「私は三百年生きてきました」
フィーネが手を止め、こちらを見た。緑の瞳に、灯りの光が映っている。
「森を守ること。それだけが私の武器だと思っていました」
「違ったのか」
「知識もまた、武器になるのですね。法を知り、法で戦う。それが今の私にできること」
三百年の蓄積。森を歩き、根を守り、記録を読み、世界を見てきた時間の全てが、今この瞬間に武器になろうとしている。
「頼んだ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
フィーネも驚いたようだった。耳の先端がわずかに動いた——エルフにも、感情が耳に出るときがあるらしい。
「……え? あなたが頼むなんて」
「頼んだって言ったら頼んだんだよ。俺は寝る」
立ち上がって、作業部屋を出ようとした。
「ユウト」
振り返ると、フィーネが微笑んでいた。穏やかで、静かで、だが芯のある笑み。
「任されました」
作業部屋の灯りは、俺が寝床に着いてからもずっと点いていた。
***
寝転がりながら、天井を見つめていた。
さっきまでフィーネの作業を横目で見ていた。条文を比較し、書き写し、並べ替え。あの手順が、なんとなく引っかかる。
何が引っかかるのか、自分でもわからない。法典の内容が読めるわけじゃない。だが、フィーネが同じ種類の作業を繰り返しているのが——どこか、非効率に見えた。
「……まあ、気のせいだろ」
このときは、そう思っていた。
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