第146話「正直者は、もう一度壁にぶつかる」
カイが朝から身支度を整えていた。
いつもの革の上着を羽織り、剣帯を外して椅子に掛ける。交渉に行くつもりだ。
「もう一度、あいつと話してくる」
止めようかと思った。だが、止めたところで聞く男じゃない。
昨日レオンが持ち帰った情報——商人ギルドの紋章。その件も気になるが、カイの頭にはヴェルナーしかいない。まっすぐなのは美点だが、まっすぐすぎるのは欠点だ。
めんどいが、一応確認しておくか。
頭の中で【効率化】を走らせた。
『現在の交渉成功率──相手方の態度、過去の応答パターン、排除命令の法的拘束力を考慮して、五分の一未満。なお、前回の交渉で相手方は「検討する」と回答したが、今回は上位命令に基づく排除であり、次元が異なる。感情論では覆らない』
五分の一未満。ほぼ無理だ。
「カイ」
「ん?」
「成功率、五分の一もない。今のまま行っても壁にぶつかるだけだ」
カイは少し目を見開いた。それから、ゆっくりと笑った。
「それでも行くよ。俺には、話すことしかできないから」
……知ってた。こいつはそういう男だ。
***
仮設の交渉場は、町の境界に設けられた天幕だった。ヴェルナーの陣営と町の間の中間地点。布一枚で仕切られた、どちらの領分でもない場所。
俺は天幕の外で待った。中の声は筒抜けだ。聞きたくなくても聞こえる。
「ヴェルナー殿。この町の住民たちは、種族は違えど互いを尊重して暮らしている。一緒にやっていける。それを見てくれないか」
カイの声は落ち着いていた。第七章での交渉よりも抑えた声色。感情に任せるのではなく、言葉を選んで話している。成長している、とは思う。
だがヴェルナーの返答は、石壁のように硬かった。
「個人的な感情で法は曲がりません。排除は本国の決定です。私の裁量ではない」
「本国が間違っているとしたら?」
一瞬の沈黙。
「それを判断するのは、私ではありません」
カイは何も言い返せなかった。
天幕の中が静まり返った。布越しに、カイが拳を握る音が聞こえた気がした。
旧大陸の法体系は中央集権だ。末端の総督に裁量はない。本国が「排除」と決めれば、それが法になる。新大陸にはまだ自治の概念が確立されていないから、対抗する法的根拠もない。
カイの誠実さは、個人には届くかもしれない。だが法には届かない。
天幕から出てきたカイの顔は、笑っていなかった。
***
広場のベンチに並んで座った。
昼下がりの光が石畳を温めている。遠くでリタの笑い声がする。日常は続いている。包囲されていても、子供は遊ぶ。
カイは黙っていた。長い沈黙だった。
「ダメだったか」
「……ああ」
カイの声は低かった。いつもの張りがない。
「俺は、また守れないのかもしれない」
そこで止まるかと思ったが、カイは続けた。
「前にも、弟分を守れなかった。あのときは、一人で背負って、暴走して……結局、お前に助けられた」
覚えている。第二の壁のときだ。カイが一人で飛び出して、俺が後始末をした。あのときのカイは自分を責めるばかりで、周りが見えていなかった。
今のカイは——同じ顔をしている。だが、目が違う。あのときは暗く沈んでいたが、今は悔しさが滲んでいる。
「でも、俺は逃げない」
カイが拳を握った。だが今度は、暴走の気配はなかった。
「今度は……完璧じゃなくていい。ただ、立っていたい。逃げずに、ここにいたい」
不完全でも立つ、か。
あのときのカイなら「俺が守る」と言っただろう。今は「ここにいたい」と言った。一人で全てを背負うのではなく、ただ立っている。それだけでいい、と。
なんだろう、この感じ。こいつが少し大人になったのか。それとも、仲間がいることを知ったのか。
たぶん、両方だ。
「立っとけ」
「え?」
「法が見つかるまで時間稼ぎしろ。交渉が通じなくても、対話を続けること自体に意味がある。相手が聞いてくれる限り、時間は稼げる。お前の仕事はそれだ」
カイが顔を上げた。
「……それなら、俺にもできる」
「できる。お前は話すのだけは得意だろ」
「だけは、って何だよ」
少しだけ、いつもの声が戻った。
このあと鍛冶場に顔を出したら、ガロンが案の定暴れていた。
「カイがダメなら戦うしかないだろう! ドワーフは退かん!」
金床を叩く音がやたら激しい。怒りの鍛冶だ。
「お前一人で百人倒せるのか」
「……十人くらいなら」
本気で言っている。ドワーフの戦闘力は馬鹿にならないが、それでも十人が限界だ。
「残り九十人はどうすんだよ」
「……」
「負ける戦いは効率が悪い。お前の腕は、もっと別のところで使え」
「どこだ」
「まだわからん。でも、いずれ出番が来る。それまで鍛冶場で腕を磨いとけ。少なくとも、ここの設備を壊すな」
ガロンが金床を睨んだ。さっきの一撃で少し歪んでいる。
「……わかった。だが、いざとなったら殴るぞ」
「十人までな」
「十一人だ」
一人増えた。まあいい。
その夜、フィーネの作業部屋の灯りがまだ点いていた。
覗いてみると、山のように積まれた羊皮紙の写し。古い文字がびっしりと並んでいる。
「見つかりましたか?」
フィーネが静かに首を振った。
「まだ。でも、近い」
その横顔には、疲労よりも確信が見えた。三百年を生きた者の、静かな自信。
頼むぞ、とは言わなかった。言わなくても伝わっている気がした。
寝床に戻る途中、夜風が冷たかった。マナの粒が月光に混じって淡く光っている。
明日もまた、めんどい一日が始まる。だが——カイが立っていて、ガロンが鍛冶場にいて、フィーネが法典を読んでいる。
俺の仕事は、こいつらが動ける場所を守ることだ。
……いや、守るんじゃない。効率よく回す。それだけだ。
お読みいただきありがとうございました!
本人はやる気ゼロですが、周りの環境がどんどん激変していきます。
【毎日 朝7時・夕方17時】の2回更新で投稿していきます!
もし『この怠惰な主人公、面白いな』と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになります!




