第139話「束の間の平穏は、尻尾の温度をしている」
ヴェルナーが黙った。
ここ数日、要求も通達も書類もない。ただ黙って、町を見ている。
静かすぎて、逆に怖い。
「検討してるのか?」
カイが聞いてきた。
「わからん。黙ってるのが一番怖い」
「怖いって、お前が言うと説得力があるな」
「怖いんじゃない。いつ何を言ってくるかわからないのが、一番めんどいんだ」
だが町は平穏だった。
交易路を商人が行き来し、市場では朝から声が飛び交っている。石窯から焼きたてのパンの匂いが漂い、ガロンの鍛冶場からは金属を叩く音が響いている。
住民が笑っている。子供が走り回っている。普通の、日常だ。
まあ、今のうちに休んどくか。
嵐の前に昼寝をしておくのは、効率的な判断だ。怠けてるわけじゃない。
***
丘に向かった。
町を見下ろせる、お気に入りの場所だ。草が生えていて、寝転がるとちょうどいい。風が気持ちいい。完璧な昼寝の場所だ。
「ユウトさん、あたしも行く!」
……なぜバレた。
こっそり出たつもりだったのに、ルナが走ってきた。銀色の尻尾が大きく揺れている。
「匂いでわかったの。ユウトさん、のんびりしたいときの匂いがするから」
「のんびりしたいときの匂いって何だ」
「んー、ふわーってなる匂い。いつもよりゆるい感じ。体の力が抜けてる匂いっていうか……甘くなるの」
「甘くなるな。勝手に」
「なるもん」
獣人の鼻は便利なのか迷惑なのか、判断がつかない。匂いで心情を読まれると、嘘がつけない。
丘の上に並んで座った。
眼下に町が広がっている。交易路が三方に伸びて、市場の屋根が光っている。融合建築の壁が日差しを受けて、石と木の模様が遠くからでも見えた。
「きれいだね」
ルナが呟いた。
「みんなの匂いがする。ガロンさんの鉄の匂い、フィーネさんの木の匂い、マーレンさんのごはんの匂い。いろんな匂いが混ざって、あったかい」
「……そうか」
俺は横になった。草の上に寝転がると、空が広い。雲が流れている。いい天気だ。最高の昼寝日和だ。
「あ、膝枕する!」
「いらん」
「する!」
断る間もなく、ルナが俺の頭の下に膝を滑り込ませた。
……柔らかい。困る。
膝の上の布地越しに、体温が伝わってくる。獣人の体温は人族より高い。頭の後ろがじんわりと温かくなって、首の筋肉が勝手にほぐれていく。
視界にルナの顔がある。上から覗き込んでいる。銀色の髪が垂れてきて、頬に触れた。髪の先から、草と陽だまりの匂いがした。
そして、耳だ。銀色のふわふわした耳が、ぴこぴこと動いている。俺の顔のすぐ上で。手を伸ばせば届く距離で。
毛先が日光を透かして、薄い金色に光っている。耳の内側はほんのり桃色で、細い血管が透けて見える。
尻尾が俺の横で地面を叩いている。草を叩くたびに、青い匂いが立ち上る。
「ユウトさん、気持ちいい?」
「……寝る」
目を閉じた。
だが眠れない。
ルナの匂いが近い。森と陽だまりを混ぜたような匂い。ふわふわの毛並みが、風に揺れるたびに肌をくすぐる。
膝の上にいると、ルナの心臓の音が聞こえる。とくとくと、規則正しい拍動。
腕に尻尾が巻きついてきた。もふもふの毛並みが腕を温めている。振りほどく気力がない。温かすぎて。
無理だ。眠れるわけがない。別の意味で意識が冴えてしまう。
「ユウトさん」
「……なんだ」
「この町、好き?」
唐突な質問だった。
「……別に。楽だから住んでるだけだ」
「嘘」
ルナが笑った。見えなくても、声でわかった。
「あたし、わかるよ。匂いでわかるの」
「……」
「ユウトさん、この町の話するとき、匂いが変わるんだよ。あったかくなるの。好きなときの匂い」
黙った。
反論できなかった。匂いで嘘がわかるのは、ずるい。
ルナが小さく笑った。俺が黙ったことが、肯定だと知っているのだ。
***
この時間が続けば——
そう思いかけて、視線を空に戻した。
ヴェルナーは黙っているだけで、消えたわけじゃない。旧大陸だって、いつ何を言ってくるかわからない。
だが、ルナの耳の温度は心地よかった。
膝の上の柔らかさと、草を叩く小さな音と、森の匂い。
ルナが眠り始めた。
呼吸がゆっくりになって、耳の動きが止まった。ときどき、尻尾が草をぱた、と叩く。夢を見ているのかもしれない。
眠ると、体温がさらに上がるらしい。膝の温度が、じわりと増した。銀色の髪が風になびいて、俺の首筋に触れた。くすぐったい。
寝息が小さく聞こえる。穏やかな呼吸だ。警戒心がない。完全に、安心しきっている。
……無防備に眠れるのは、信頼しているからだ。信頼されると、裏切れなくなる。楽に生きたいだけなのに、逃げ道がどんどん減っていく。
空を見上げた。
雲が流れている。風が吹いている。町から、笑い声が聞こえる。
目を閉じた。今度は、少しだけ眠れそうだった。
——目が覚めたのは、カイの声だった。
「ユウト!」
丘を駆け上がってくる足音。ルナも跳ね起きた。声のした方に体が向く。
「どうした」
「ヴェルナーが何か書いてる。本国への報告書らしい」
カイの顔が険しかった。
「報告書の中身は見れなかった。だが、ベルトが一言だけ教えてくれた」
「……何て?」
「『書かない方がいいことが、書かれている』」
束の間の平穏が、終わる音がした。
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