第135話「おかえり、は効率化の範囲外だ」
南の道の向こうから、銀色の光が走ってきた。
あの速さ、あの尻尾の揺れ方。間違いない。
「ユウトさーーーーん!!」
声が先に届いた。全力の声だ。
続いて銀色の影が、交易路を一直線に駆けてくる。獣人の脚力は、馬より速い。砂利道を蹴る音が、だんだん大きくなる。
ルナだ。
帰ってきた。
俺は南の道の入り口に立っていた。たまたまだ。散歩の途中に、たまたまこっちの道を歩いていただけだ。
……毎朝この道を確認していたことは、誰にも言わない。
朝の空気が冷たかった。草の上に朝露が光っている。圧縮砂利の交易路が、南に向かって真っ直ぐ伸びていた。
「ただいま! ただいまっ! ユウトさん、会いたかったっ!」
ルナが飛びついてきた。
全力で。全体重で。容赦なく。
衝撃が来た。銀色の塊がぶつかってきて、俺のバランスが一瞬で崩れた。
「おっ——」
倒れた。背中から、地面に。
ルナが俺の上に乗っている。銀色の髪が顔にかかった。
耳が小刻みに震えている。目の前で。銀色のふわふわした耳が、俺の顎に触れた。
——柔らかい。温かい。ふわふわだ。
耳の内側の毛が、うぶ毛みたいに細くて、肌に当たるとくすぐったい。体温がじかに伝わってくる。獣人の体温は人族より少し高い。じんわりと、心地よい温度だ。
尻尾が左右に大きく振れている。勢いが強すぎて、風が起きている。
その尻尾が、ぐるりと俺の腕に巻きついた。もふもふの、温かい重さ。銀色の毛並みが腕を包んで、ぎゅっと締まる。
尻尾の毛先が手の甲をくすぐった。反射的に指が動く。毛並みの奥に、脈拍が感じられた。速い。嬉しいときは心拍が上がるらしい。
「ユウトさんの匂いだ。変わってない。よかったぁ……」
ルナが俺の首元に顔を埋めて、くんくんと匂いを嗅いでいる。
近い。いろいろと近い。
ルナの体温が伝わってくる。薄い布越しに、体の柔らかさが——
頭の中に、声が響いた。
『抱擁の最適角度──三十七度。密着面積──最大化中。心拍数の上昇を検知。対象の体温──やや高い。推奨──このまま維持することで好感度の——』
「やめろ! 今そういうのいらん!」
叫んだ。
ルナがきょとんとした顔で俺を見た。耳がぴこっと傾く。
「ユウトさん、誰と話してるの?」
「誰とも話してない。いいから離れろ。重い」
「えー、やだ。まだ匂い嗅ぐ」
「嗅ぐな」
「くんくん」
離れない。尻尾も離さない。腕に巻きついたまま、ぎゅっと。
……まあ、いいか。少しだけ。少しだけなら。
***
ようやくルナを引き剥がして——引き剥がすのに十分くらいかかった——新居の前のベンチに座った。
服に銀色の毛がついている。払おうとしたが、細い毛が布に絡んで取れない。ルナの匂いが染みついている。森と草と、ほんの少し甘い匂い。
カイがいつの間にか来ていた。にやにやしている。全部見ていたらしい。殴りたい。
「で、部族のほうは、どうだったんだ」
カイが聞いた。俺の代わりに聞いてくれて助かった。自分からは聞きづらかった。面倒だからだ。面倒だからに決まっている。
ルナの声のトーンが少しだけ変わった。さっきまでの弾み方が落ち着いて、真剣な響きが混じる。
「お兄ちゃんに話した。あたしはここにいたいって」
「兄さん、なんて言ったんだ?」
「怒った。すごく怒った。お前は部族を捨てるのかって」
ルナの尻尾が、一瞬だけ垂れた。
「でも、あたし、ちゃんと言ったの。捨てるんじゃない。どっちも大事だから、どっちも捨てないって」
ルナの視線が上を向いた。まっすぐに。
「お兄ちゃん、最後に言ってくれた。『半年に一度は帰ってこい。それが条件だ』って」
「追放にはならなかったのか」
「ならなかった。でも、まだ認められたわけじゃない。お兄ちゃんは許してくれたけど、長老たちは渋い顔してたから」
カイが頷いた。
「上出来だ」
「……お前、よくやったな」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
珍しく素直に出てきてしまった。
ルナの声が一段高くなった。体ごとこっちを向いて、ベンチの上で膝を立てている。
「ユウトさんに褒められたっ!」
「褒めてない。事実を言っただけだ」
「褒めた! 今、褒めた! 聞いた、カイさん!」
「聞いた聞いた」
カイが笑っている。こいつ、絶対楽しんでいる。
***
夜になった。
ルナが隣の部屋に戻っていった。荷物を置いて、片づけをしている音が壁越しに聞こえる。がさがさ、ぱたぱた。尻尾が床を叩く音。
数日間、この音がなかった。
静かすぎて、眠れなかった夜が何日かあった。そんなことは認めないが。
壁の向こうから荷物を棚に置く音。革靴を脱ぐ音。寝台にどさっと座る音。全部、聞き慣れた音だ。こんなに安心するものが、世の中にあるとは思わなかった。面倒な感想だ。
「ユウトさん」
壁越しに、ルナの声が聞こえた。
「なんだ」
「おやすみ」
「……おやすみ」
壁の向こうで、かすかに音がした。
「えへへ」
「何がえへへだ。寝ろ」
「ユウトさんの声、久しぶり。嬉しいの」
「……寝ろ」
静かすぎた夜が、終わった。
壁一枚向こうに、体温がある。呼吸がある。生き物の気配がある。
気配のある夜は——まあ、悪くない。楽に眠れる。それだけのことだ。
翌朝、カイが設計図を持ってきた。
「ユウト。ルナが戻ったことだし、そろそろヴェルナーと本気で話をしないか」
「本気で?」
「ああ。俺が、交渉する」
カイの目は、今まで見たことのない光を帯びていた。
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