第133話「どっちも選ぶ。あいつは、そういうやつだ」
三日目の朝、ルナが俺の前に立った。
耳はまっすぐ立っている。尻尾も、しっかりと。
「ユウトさん。あたし、決めたよ」
朝の光が、ルナの銀色の髪を柔らかく照らしていた。
昨日まで伏せていた耳が、今朝はぴんと立っている。目が真っ直ぐだ。泣いた跡はない。
「あたし、部族に帰る」
一瞬、息を吸い込む空気が冷たくなった。
わかっていた。覚悟はしていた。だが、実際に聞くと、肺の奥に妙な重さが残る。
「でも、ここも捨てない」
「……両方は無理だろ」
「無理かもしれない。でも、どっちも、すてられないの」
ルナの言葉は拙い。飾りがない。
だけど、耳はまっすぐだった。迷いのない角度で、朝の空に向かって立っている。
「お兄ちゃんに、話してくる。あたしはここにいたいって。でも、部族のこともちゃんとするって」
「……話して、どうにかなるのか」
「わかんない。でも、やってみなきゃわかんないもん」
ルナが笑った。
不安を押し殺した笑顔ではなかった。覚悟を決めた、まっすぐな笑顔だった。
目が乾いていた。泣きながら夜を過ごして、それでも今朝は目が真っ直ぐだ。
……こいつは、いつもこうだ。
難しいことを、単純な言葉でまっすぐ突破してくる。頭で考えすぎる俺には、絶対にできないやり方だ。
俺なら百通りの結果を想定して、一番楽な道を選ぶ。ルナは、一本しかない道をまっすぐ走る。どっちが正しいかなんて知らないが、こいつの走り方は眩しい。
「行ってこい。道は作ってある」
それだけ言った。
「待ってる」は、言えなかった。言いたかったけど、喉の奥で引っかかって出てこなかった。
言ったら、認めることになる。こいつがいないと困る、と。……面倒だ。
「ユウトさん、あたし、帰ってくるからね」
「ああ」
ルナの声が一瞬揺れた。
でも、目の奥にある不安も、俺には見えていた。
***
南の道に、ルナが立っていた。
小さな荷物を一つだけ背負って、圧縮砂利の交易路の上に。
フィーネが、森の方から歩いてきた。
「……気をつけなさい。あなたがいない間、森は私が見ます」
フィーネの声は硬かったが、目は違った。心配しているのが見えた。
「フィーネさん、ありがとう。森のことよろしくね」
「よろしく、ではありません。当然のことです」
フィーネが横を向いた。照れているのか、不機嫌なのか。たぶん両方だ。
ガロンが腕を組んで鼻を鳴らした。
「さっさと行ってさっさと帰ってこい。お前がいないと、飯がまずくなる」
「ガロンさん、あたし料理してないよ?」
「味の話じゃない」
ガロンが目を逸らした。こいつも、言いたいことを素直に言えないタイプだ。
カイが、ルナの前に立った。
「待ってるからな」
真っ直ぐだった。カイは、言いたいことをそのまま言える。俺にはそれができない。
ルナが振り返った。
全員の顔を見て、笑った。
「みんな、ありがとう。すぐ帰るから!」
ルナが走り出した。
銀色の尻尾が、朝の光の中を跳ねるように遠ざかっていく。
速い。獣人の脚は速い。あっという間に小さくなって、道の向こうに消えた。
最後に見えたのは、尻尾の銀色だった。朝日に透けて、白く光っていた。
「……静かだな」
呟いた。誰にでもなく。
ルナがいなくなった広場は、噴水の音と風の音だけが残っていた。
いつもなら、あいつの声が混ざっている。今は、何もない。
***
作業場に戻った。
やることがある。ルナがいない間の偵察体制を組み直さなければならない。面倒だが、放っておくわけにもいかない。
【効率化】を起動した。
ルナが担っていた偵察任務の代替を組み立てる。
『嗅覚偵察──代替不可。視覚偵察──レオンの配置で補填可。聴覚偵察──夜間見張りで対応。総合判定──嗅覚偵察の代替は存在しない』
『代替不可』の文字が、頭の中に残った。
窓の外から、子供たちの笑い声が聞こえた。いつもの日常だ。だが、何かが足りない。あいつの声が混ざっていない。
……いちいち気にしている自分が、一番厄介だ。
カイが作業場に入ってきた。
「偵察の組み直しか?」
「ああ。レオンに哨戒を増やしてもらって、夜は見張りを追加すれば視覚と聴覚は補える。だが、鼻だけはどうにもならん」
「ルナの代わりはいない、ってことか」
「……わかってるよ」
わかっている。わかっているから、厄介なんだ。
いないと困る存在がいるというのは、つまりそういうことだ。楽に暮らしたいだけなのに、人が増えるたびに、いなくなると困るやつが増えていく。
カイが出ていった後、俺はしばらく作業場の椅子に座っていた。
やることはまだある。ヴェルナーの件もある。交易路の管理もある。全部面倒だ。全部後回しにしたい。
夕方、新居に帰った。
隣の部屋の扉が、閉まったままだ。
いつもなら、俺が帰ってくると「おかえり!」の声が飛んでくる。尻尾が床を叩く音がして、「今日ね、こんなことがあったの!」と早口で喋り始める。
今日は、何もない。
扉の向こうに、気配がない。
廊下に立ち止まって、耳を澄ませた。風の音。遠くで犬が吠えている。それだけだ。
扉の取っ手に手をかけた。自分の部屋のではなく、隣の——ルナの部屋の。
開けたところで、誰もいない。わかっている。
手を離した。馬鹿馬鹿しい。何をやっている。
自分の部屋に入って、寝台に横になった。
天井を見上げる。壁一枚向こうに、誰もいない。いつもなら、寝返りを打つ音や、尻尾が毛布をはたく音が聞こえるのに。
壁越しの「おやすみ」がない夜は、静かすぎた。
眠れなかった。静かすぎると、逆に頭が冴えて仕方がない。楽に眠りたいだけなのに。
翌朝、カイが険しい顔でやってきた。
「ユウト。ヴェルナーが動き出した。ルナがいない今のうちに、方針を固めるつもりだ」
……あいつ、このタイミングを狙ったのか。
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