第132話「帰ってこいって、言われた」
部族からの使者は、若い獣人の戦士だった。
ルナの前に膝をつき、一枚の革の巻物を差し出す。
ルナが読み始めた瞬間、耳がゆっくりと倒れていった。
革の巻物には、部族の族長印が押されていた。
使者が口を開いた。
「ルナ様。族長の命です。三日以内にお戻りください」
若い獣人の声は、丁寧だが硬かった。命令を伝える立場の緊張が滲んでいる。
使者の首元には、銀灰色の毛皮でできた紐飾りが巻かれていた。ルナと同じ銀狼族の印だ。
ルナの尻尾が、ゆっくりと力を失って垂れていく。
さっきまでゆらゆらと揺れていた銀色の毛並みが、嘘みたいに静かだ。
革の巻物の内容は、ルナの表情を見ればわかった。
帰還命令。帰らなければ、部族の一員としての資格を剥奪する。追放だ。
獣人にとって「追放」は、人族のそれとは意味が違う。群れを失うということは、匂いのつながりを断たれるということだ。家族の体温を、二度と感じられなくなるということだ。
ルナが巻物を握りしめた。指先が白い。
革のなめし剤の匂いと、遠い草原の匂い。部族の匂いが、巻物の中に染みついている。
「……わかった。伝えてくれて、ありがとう」
使者が一礼して去っていった。
ルナはその場に立ち尽くしている。銀色の尻尾が、ぴくりとも動かない。
風が吹いた。ルナの銀色の髪が揺れたが、体のどこにも力がなかった。まるで、内側の何かが止まってしまったみたいに。
カイが俺を見た。
俺は何も言えなかった。言葉を探したが、喉の奥に何もなかった。
***
ルナが新居の前の階段に座っていた。
膝を抱えて、小さくなっている。耳がぺたんと伏せたままだ。
俺は隣に腰を下ろした。何を言えばいいのか、わからない。
こういうとき、俺の仕掛けは何の役にも立たない。人の心を効率よく整理する方法なんて、どこにもない。
「あたし……帰らなきゃいけないのかな」
ルナの声が小さかった。
「帰りたいのか?」
「帰りたくない。でも、部族も大事。お兄ちゃんも、みんなも……」
ルナの声が震えた。
尻尾が膝の横で丸まっている。小さく、きゅっと。寒い日に体温を守るときの形だ。でも今日は暖かい。
ルナが膝に顔を埋めた。銀色の髪が揺れて、耳の先だけが見えている。
耳の先が赤い。感情が昂ると、ルナの耳は先端から血の色が透ける。
「あたし、ここが好きなの。ユウトさんも、カイさんも、フィーネさんも、ガロンさんも、マーレンさんも。みんないるし、あたしの場所なの」
ルナの呼吸が、一度だけ大きく揺れた。
「でも、お兄ちゃんは、あたしのこと心配してくれてるから。帰ってこいって、あたしのことが嫌いで言ってるんじゃないって……わかってる」
ルナの声が、途中で詰まった。
階段の石をかすかに叩く音が聞こえる。とん、とん、と不規則に。尻尾の先が、無意識に拍子を刻んでいた。
俺は——何も言えなかった。
「帰りたいなら帰れ」と言おうとした。喉まで出かかった。でも、その言葉は嘘だ。
こいつがいなくなったら、隣の部屋が空になる。壁越しの「おやすみ」が消える。朝、「おはよう!」と飛び出してくるあの声がなくなる。
——そんなことを考えている自分が、一番厄介だった。
言葉が喉に引っかかって、出てこない。
「……まだ三日ある。急がなくていい」
それだけ絞り出した。情けない。もっと気の利いたことが言えればいいのに、俺にはそういう才能がない。
ルナが顔を上げた。目が赤い。でも、泣いてはいなかった。
「ユウトさん」
「なんだ」
「あたし、どうしたらいい?」
銀色の耳が、答えを求めるように小さく揺れている。
……めんどい。本当にめんどい。人の心は、俺が一番苦手なやつだ。
【効率化】は答えを出してくれない。人の感情を最適化する方法なんて、頭の中のどこにもない。
でも、ルナの目を見ると、逃げられない気がした。
あの目が、こんなに頼りなく見えたのは初めてだった。
***
広場に出ると、カイが待っていた。
察したらしい。こいつは、こういうときだけ妙に鋭い。
「ルナ、どうだった?」
「帰還命令だ。三日以内に帰らなければ追放だと」
「追放か……きついな」
カイが腕を組んだ。噴水の水音が、やけに大きく聞こえる。
「お前は、どうしてほしいんだ?」
「俺は関係ない。あいつの問題だろ」
「……関係なくはないだろ」
カイの声が、静かに刺さった。
俺は黙った。
「あいつに答えを押しつけるなよ。一緒に考えてやれ」
「押しつけてない」
「お前の『好きにしろ』は、押しつけと同じだ。それ、自分で選べないやつに言う言葉じゃないだろ」
……痛いところを突く。
カイの言葉は、ときどき、俺の仕掛けより正確に急所を突いてくる。
噴水の水が跳ねて、石畳に小さな水玉を作った。夕暮れの光で、それが橙色に光っている。
「お前がそばにいるだけでいい。答えは、あいつが出す。でも、一人で出させるなよ」
カイが俺の肩を叩いて、去っていった。
……めんどいな。人の心は。
効率よく解決する方法が、どこにもない。
でも——そういうことなんだろう。人の心は、仕掛けで片づけるもんじゃない。
楽に暮らしたいだけの俺が、一番面倒なことに巻き込まれている。自業自得だ。人を集めるからこうなる。
その夜、壁越しにルナの声が聞こえた。
「ユウトさん」
「……なんだ」
「あたし、明日、考える。ちゃんと考えるから……待ってて」
壁の向こうで、尻尾がぱたん、と一度だけ床を叩いた。
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