第130話「獣人の挨拶に、総督が壊れかけた」
昼食の時間に、ルナがヴェルナーに食事を持っていった。
誰に頼まれたわけでもなく、自分からだ。
……あいつは本当に、人見知りという概念がない。
俺は広場のベンチから、その光景を眺めていた。
昼飯を食い終えて、そろそろ昼寝に入ろうかと思っていた矢先のことだ。
ルナが木の盆に湯気の立つ皿を載せて、ヴェルナーの仮設宿舎に向かっていく。煮込み料理の匂いが広場まで漂ってきて、俺の腹がもう一回鳴った。
食い終わったばかりなのに。マーレンの料理はずるい。
ヴェルナーは宿舎の前で書類を読んでいた。
椅子に座り、机の上に書類の束を広げている。昼飯を食べた形跡がない。
「はい、ごはん! あったかいうちに食べてね!」
ルナがヴェルナーの前に立って、盆を差し出した。
マーレン特製の煮込み料理。肉と根菜がたっぷり入った、湯気の匂いだけで腹が鳴るやつだ。
ヴェルナーが顔を上げた。
目の前に、銀色の耳と尻尾を持つ獣人の少女が立っている。満面の笑みで、食事を差し出している。
「……何のつもりだ、獣人」
声が硬い。だが、拒絶というよりは困惑に近かった。
「何のつもりって、ごはんだよ? お昼まだでしょ。ずっと座ってるの見えたから」
「私は頼んでいない」
「頼まれてないよ。あたしが持ってきたの」
ルナが盆を机の上に置こうとして、前かがみになった。
その拍子に、銀色の髪がさらりと揺れた。首筋から鎖骨にかけての白い肌が、軍服の男の目の前に無防備にさらされる。薄い布の襟元がわずかに緩んで、日差しに透けた肌の輪郭が覗いた。ルナは全く気にしていない。こいつはいつもこうだ。
ヴェルナーの視線が一瞬だけ揺れた。すぐに横を向いたが、耳の先が僅かに赤い。
遠目で見ている俺は、額を押さえた。ルナ、お前そういうところだぞ。
盆を机に置いたルナが、今度はヴェルナーの顔にすっと近づいた。
鼻先が、ヴェルナーの肩口に届くくらいの距離。
「くんくん……」
ルナが匂いを嗅いでいる。
ヴェルナーが椅子ごと後退した。がたん、と脚が地面を擦る音がした。顔が強張っている。完全に不意を突かれた顔だ。
「くんくん。……うーん」
ルナは気にしていない。鼻をひくつかせて、首を傾げている。
「やめろ。距離が近い。何をしている」
「匂い嗅ぎだよ? 獣人の挨拶。初めて会った人には必ずやるの。その人がどんな人か、匂いでわかるから」
「挨拶だと? 顔を近づけて匂いを嗅ぐのが挨拶なのか」
「うん。普通だよ?」
普通ではない。少なくとも旧大陸の礼儀では、間違いなく普通ではない。
ヴェルナーの口元が、初めて完全に崩れていた。あの男からいつもの表情が消えている。
遠目で見ている俺も、さすがに手で顔を覆った。ルナ、お前の距離感はいろいろとまずい。
***
だが、ルナの表情が変わった。
笑顔が消えて、真剣な目になっている。耳がぴくりと動いた。
「この人……さみしい匂いがする」
ルナの声が、静かに落ちた。
ヴェルナーの口が動きかけて、止まった。
「ヴェルナーさん、ずっとひとりぼっちだったでしょ。この匂い、ユウトさんに似てる」
「……何を言っている」
「ユウトさんも最初、こんな匂いだったの。誰にも頼らないで、一人で全部やろうとしてる匂い。さみしいのに、さみしくないふりしてる匂い」
ヴェルナーの指が、膝の上で握り締められていた。
「……私は、孤独ではない。部下が百人いる」
「でも、お友達はいないんでしょ?」
沈黙。
あの冷たい声が、止まっている。
百人の兵を連れてきた男が──獣人の少女の一言で、黙った。
ルナが、ふわりと笑った。
「ここの人たちと仲良くなったら、匂い変わると思うよ。ユウトさんも変わったもん。今はもう、さみしい匂いじゃないの」
ヴェルナーは答えなかった。
ただ、ルナの銀色の耳を見つめていた。
ルナが「じゃあ、ごはん冷めないうちに食べてね!」と手を振って去っていった。
足取りが軽い。何事もなかったかのように。
***
ルナが俺のところに戻ってきた。
「ヴェルナーさん、固まっちゃった」
「お前、あの距離感はまずいぞ。あいつ完全に壊れてたろ」
「えー? 匂い嗅ぐのは普通だよ? ユウトさんにもいつもやってるじゃん」
「俺とあいつを同列にするな」
「ユウトさんは特別だよ? 一番いい匂いだもん」
ルナの声が弾んでいる。こっちを見上げる目が、やけにきらきらしていた。
……やめろ。その顔でそういうことを言うな。
「ユウトさん、顔赤い」
「赤くない」
「赤いよー。……えへへ」
深呼吸した。噴水の水音が聞こえる。風が涼しい。ルナの銀色の髪が風に揺れて、陽の光を受けてきらきら光っている。落ち着け。
「……で、お前の鼻はヴェルナーをどう見たんだ」
「うーん。悪い人じゃないと思う。さみしいだけだよ。あと、怖がってる匂いもした」
「怖がってる?」
「うん。何かをすごく怖がってる。失敗するのが怖いのか、誰かを失うのが怖いのか……わかんないけど、ずっとびくびくしてる匂い」
ルナの鼻は、俺の仕掛けより正確だ。
「お前の鼻は、ほんとに使えるな」
「えへへ。ほめられた」
ルナの尻尾がふりふり揺れている。
どうしようもなく温かい。
こいつのそばにいると、サボる気力すらなくなる。いや、サボりたいのはサボりたいが。
その夜、ヴェルナーの部屋の灯りが遅くまで点いていた。
窓から見えたのは、ルナが持ってきた食事の器を──洗っている姿だった。
食べたのか、あの堅物。
お読みいただきありがとうございました!
本人はやる気ゼロですが、周りの環境がどんどん激変していきます。
【毎日 朝7時・夕方17時】の2回更新で投稿していきます!
もし『この怠惰な主人公、面白いな』と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになります!




