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第三話 鍵のない総監

夜会から四日目の朝、私は、女官長室の扉の前に立っていた。


一昨日の午後と、昨日の日中。二度、同じ扉の前で、同じ一言に追い返された。「ただいま取りこみ中でございます」。


今朝で、三度目だった。


三、という数には、覚えがある。王妃様のお見舞いを願い出て、三度、断られた。三度目の返事を受けとったとき、私は、四度目を頼むのをやめた。


(今日は、やめない)


そう決めて、扉の前から動かないことにした。廊下を通る女官たちが、私を見て、見なかったふりをして、通りすぎていく。


半刻ほどして、扉が内側から開いた。


「……総監は、存外、しつこくていらっしゃる」


上級女官長のブランシュ子爵夫人だった。五十二歳。灰色の髪をひと筋も乱さずに結い、腰には十数本の鍵が下がった重い鍵束。三十年、内廷の鍵と帳簿を預かってきた人だ。


通された部屋は、飾り気がなかった。机と、書棚と、壁一面の小さな引き出し。


「ご用件は伺いましょう。ただし、鍵と帳簿はお渡ししません」


先に、言われた。


「鍵は、女官長から女官長へ渡るもの。帳簿は、侍従長との連署がなければ開けられません。総監の職は陛下がお決めになったものですが、内廷の鍵は、陛下のお言葉ひとつで動かせる品ではございません」


「承知しております」


「では、お帰りを」


「鍵は、結構です」


夫人が、眉を上げた。


「お預けしたままで構いません。ただ、一つだけ。王妃様の居室の鍵を、誰が、いつ持つのか。内廷の点検に必要ですので、当番表を拝見できますか」


夫人は、しばらく私の顔を見ていた。それから、机の引き出しから一枚の紙を出して、無言で差し出した。


名前が、週ごとに一年分並んでいた。いま回しているのは、四つの名前だった。


ブランシュ。オディール。アガット。ミレーヌ。


「上級女官の四人で、週替わりに回しております。居室の鍵は、当番の者が肌身離さず。夜は、その者の部屋に」


「今週は」


「ミレーヌです。……正確には、毎月の半ばは、いつも同じ者が受け持ちます。以前はシビルでしたが、半年前に故郷へ嫁ぎましたので、今はミレーヌ。半ばの週になると、自分から代わると申し出る。感心な子で、私は助かっております」


紙の上を、指でなぞった。一年分の表の、どの月も、真ん中の週だけ名前が動かない。半年前に、シビルの名前がミレーヌに替わっただけで。


(偶然かしら)


そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「ブランシュ様。お茶をお持ちしました」


入ってきたのは、二十四、五歳くらいの女官だった。亜麻色の髪に柔らかな笑顔なのに、目の縁が赤くて、笑っているほうが疲れて見えた。


「ミレーヌです。総監には、ご挨拶が遅れまして」


深く頭を下げる。盆を持つ指先が、白かった。


「お仕事のお邪魔をしてしまいました」


「いいえ。お茶を、ありがとうございます」


ミレーヌは、もう一度頭を下げて、すぐに出ていった。扉が閉まる前に、こちらを振り返った気がした。


「あの子には、朝から晩まで助けられています」


夫人は、そう言って茶碗を引き寄せた。


私は、当番表を畳んで、もう一つだけ尋ねようとした。


王妃様のお見舞いを、もう一度、願い出たい。そのために、侍医長殿へのお取り次ぎを。


言うだけのことが、喉の奥で固まった。


夫人は、私の沈黙を、しばらく眺めていた。


「三度、お断りされたそうですね」


「……はい」


「四度目は」


「まだ、整っておりません」


「整う、ですか」


夫人は、茶碗に目を落とした。


「息子が、夜会で黙っておりました。そのことで貴女に借りができたとは、思っておりません」


「息子様のことは、私は何も覚えておりません」


「……そうですか」


夫人の唇が動いた。笑ったのか、別のものなのか、分からない。


「当番表は、お持ちください。写しですから」


廊下に出ると、半歩後ろの気配が、そこにあった。


「いつから、そこに」


「巡回です」


「半刻、ずっと、ですか」


「……巡回路です」


オスカー様は、前を向いたまま答えた。


「女官長室の前に、岩が一つ立っていると、団員が騒ぎまして。確認に参りました」


「岩」


「失礼。総監のことです」


「最上級の褒め言葉と、受け取っておきます」


笑ってから、私は、手の中の紙を見た。


「鍵は、いただけませんでした。当番表だけです」


「一歩、です」


「一歩ですか」


「六年、半歩ずつしかついて歩けなかった者には、一歩は大きいのです」


肩の力が、抜けた。


「三度で、やめてしまったんです。王妃様のお見舞いを」


気がつくと、そう口にしていた。


「今日は、やめませんでした」


「存じています。扉の前の、岩を見ましたから」


オスカー様の声は、いつもと同じ、低くて静かな声だった。それなのに、半歩の距離が、今朝はやけに近かった。


*


昼の厨房は、鍋の音でいっぱいだった。


「総監。お疲れさまです」


ゴードンは、粉だらけの手を前掛けで拭いた。


「居室との行き来を、一度、通して見せていただきたいのです。何が上がって、何が戻るのか」


「戻り、ですか」


ゴードンの手が、止まった。


「……見られたくは、ないんだが」


そう言って、棚の奥から、手垢で黒ずんだ小さな帳面を出してきた。厨房の出入りの控えとは、別の一冊だった。


「こっちは、帳簿じゃない。うちの勝手でつけてる」


開くと、日付が並び、右の端に、小さな印があった。○、△、×。


「王妃様の盆の戻りです。○は、きれいに空。△は、半分。×は、ほとんど手つかず」


頁をめくる。めくっても、めくっても、△と×が続いた。○は、ほとんどなかった。


「三年分、ですか」


「ああ。毎日、朝、昼、夕」


その余白に、小さな字が並んでいた。


『お返事は今日も半分でした』

『蕪を変えてみた。半分』

『バターを上等に。半分』


私は、その字から目を離せなくなった。


「最初の年は、病で食が細いんだと思った。だから、毎日、献立を変えた。蕪のポタージュ、鶏の澄まし、焼きりんご。バターは、厨房の予算がこの三年削られっぱなしでな、俺の給金で上等なのを買った。……王妃様は、蕪が好きだった」


ゴードンは、帳面の間から、色褪せた小さな紙を抜いた。


『蕪のポタージュ、とてもおいしかったわ。ありがとう、ゴードン。 セレスティーヌ』


三年前の春の日付だった。


「祭りのたびに、こうして礼状が下りてきた。これが、最後の一枚だ。それから、返事が来ない」


ゴードンは、鼻の頭をこすった。


「だから、盆の戻りを返事だと思うことにした。毎晩、戻ってきた盆に、『今日は、いかがでしたか』と聞く。返ってくるのは、残った量だけだ。それで、書く。『お返事は今日も半分でした』と」


鼻の奥が、つんとした。


「お嬢様が、お見舞いを三度断られたことは、厨房にも聞こえてた。行けなかったんだ」


ゴードンは、私を見ずに続けた。


「頼めない立場だった。だから、うちの鍋が行く。そう決めたんだ。お嬢様の分も、作ってるつもりだった」


私は、頭を下げた。


「やめてくれ。総監に頭を下げられたら、鍋が焦げる」


「……私は、三度で、やめてしまいました」


「お嬢様は、やめてない。今朝、女官長の扉の前に半刻立ってたって、もう厨房まで回ってきてる」


涙の出る前に、笑いが出た。


戸口から、咳払いが聞こえた。


「団長。そこに突っ立ってられると、邪魔だ。入るか、出るか、どっちかにしてくれ」


戸口に立っていたオスカー様が、無言で、半歩だけ中に入った。


私は、涙を拭いながら、もう一度笑ってしまった。


「巡回です」


「分かっています」


笑いが収まってから、私は、帳面に目を戻した。


そして、気がついた。


×が、続く日がある。


頁を繰り直した。三年、三十六か月分。×の固まりは、毎月、同じ頃に来ていた。十八日から、二十日前後。


さっきの当番表の、真ん中の週と、重なる気がした。


「ゴードン。毎月、ひどく食べない日が続くのは、いつですか」


「ああ。月に一度、ぶり返す日が続く。病ってのは、気まぐれなもんだと思ってた」


「気まぐれ、でしょうか。三年、一度も外れていません」


ゴードンの顔から、笑いが消えた。


「病は、そんなに几帳面ではありません」


しばらく、鍋の煮える音だけがしていた。


「この帳面の写しを、取らせてください。……誰にも、言わないで」


「……分かった」


ゴードンは、短く、うなずいた。


*


夕食の片づけの厨房に、その人は、今夜も俯いて現れた。


「お借りしていた匙です。ありがとうございました」


王妃様付きの侍女、ジュリアだった。昨日と同じ籠。昨日と同じ、目の下の影。籠の中に、白い布の包みが一つ入っていた。


ゴードンが受けとって、柔らかい布のまま、洗い場へ回した。


ジュリアの手は、包みから離れるのに、ひと呼吸かかった。


「あの」


ジュリアは、私を見た。唇が開いて、何か言いかけた。


「ジュリアさん、貸し出しの控えに、印をお願いします」


奥から、レオの声がした。


ジュリアは、はっとして、唇を閉じた。差し出された控えに名前を書く手が震えて、字がよれた。


「いえ。……何でも、ございません」


深く頭を下げ、逃げるように、厨房を出ていった。籠を持つ指先から、苦い草の匂いがした。


「あの人、昨日からずっとあんなふうで」


レオが小声で言った。


「なんか言いたそうなんです。なのに、言えないみたいで。僕、気になっちゃって、さっきも」


私が答えようとしたとき、洗い場のほうから、走ってくる足音がした。


皿洗いのリサだった。濡れた手を前掛けで拭くのも忘れて、顔が真っ白だった。


「お嬢様」


リサの声は、震えていた。


「お嬢様……さっきの、匙が」


手に、白い布の包みを持っていた。開かれた布の上に、三本の銀の匙が並んでいた。


匙は、三本とも、墨に浸したみたいに真っ黒だった。

第三話までお読みいただき、ありがとうございます。


洗い場に戻ってきた、三本の匙。

次話で、その黒の正体に近づきます。


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