第二話 総監の朝
執務室は、西棟の北の端の、使われていなかった小部屋だった。
窓際に机が一つ。扉の脇には、墨の乾ききらない真新しい札がかかっている。『内廷総監』。陛下が任命の昼に、侍従長に急いで書かせたものらしい。
夜会から三日目の朝、その扉を最初に叩いたのは、オスカー様だった。
「失礼いたします」
近衛騎士団長の正装だった。ここ六年、私の隣で見慣れた黒い護衛の上着ではない。
「本日付で、エステル様専属の護衛の任が、解かれました」
オスカー様は、前を向いたまま言った。
「婚約の解消に伴うものでございます。以後、近衛騎士団長として、王宮全体の警護に戻ります」
そうだ、と私は思った。婚約者でなくなれば、護衛がつく理由もなくなる。当たり前のことだった。頭では、分かっていたはずだった。
「そうですか」
私は、机の上の書類から目を上げずに答えた。
「六年間、ご苦労さまでした。ありがとうございました」
「……もったいないお言葉です」
オスカー様は、深く一礼した。顔を上げたとき、何か言いかけたように見えた。けれど、結局、何も言わなかった。
「日誌は、団長の務めとして、これからも続けます」
「そうですか」
もう一度、同じ返事をしてしまった。
扉が閉まる音がした。
私は、書類の同じ行を、三回読み直した。
(慣れていないだけ)
半歩後ろに誰かがいる気配が、六年、あたりまえにあった。今朝からそれがないのは、ただ、慣れていないだけだ。
そう言い聞かせたところへ、扉がもう一度叩かれた。
「総監。お客様がお見えです」
侍従長ベルトランだった。
「三組。いずれも、夜会の夜に、黙っておられた方々で。詫びの品をお持ちのようです」
白い眉が、ほんの少しだけ動いた。笑いをこらえているときの癖だと、六年で知っていた。
*
入ってきたのは、三人の貴族だった。
先頭は、ウォルシュ伯爵。でっぷりとした体を、きつそうな上着に押し込んでいる。夜会の夜、国王陛下のお姿を見て、慌てて腕を伸ばしかけ、「今さら挙げた手は、数えぬ」と言われた方だ。その後ろに、痩せて神経質そうなラモン子爵。いちばん後ろに、まだ若いベルナール男爵。
三人とも、顔の色が悪かった。
「先日の夜会では、その、体調がすぐれず」
ウォルシュ伯爵が、ハンカチで額を拭いた。
「目を逸らしたのは、決して悪意からでは。我々はあの夜の殿下の手前、立場というものが」
「お察しいたします」
「ついては、ほんの心ばかりの品を」
伯爵の従者が、緑がかった水晶の小箱を、机にそっと置いた。子爵の従者は、白い絹の反物を。男爵の従者は、葡萄酒の籠を。
私は、三つの贈り物を、順番に見た。
「お気持ちは、いただきました」
三人が、ほっと息をついた。
「お品は、お持ち帰りください。総監は貴族の方から贈り物を受け取らないと、たった今、決めましたので」
三人の息が、止まった。
「その代わり、一つずつ、お願いがございます」
私は、伯爵に向き直った。
「伯爵様の馬車の御者は、トビアスさんとおっしゃいます」
「……御者?」
「二十二年、伯爵家の馬車の手綱をお取りの方です。膝を悪くしておいでなのに、夜会の夜、門の外で六時間、冷える夜気の中でお待ちでした。馬が冷えないように、自分の上着を馬に掛けて、ご自分は震えておられたそうです」
伯爵は、口を開けた。
「あの男は、確か、名は……」
「トビアスさんです」
「……そう、だったか」
「毛布を一枚、お届けください。それだけです」
次に、子爵を見た。
「子爵様の従僕のピエールさんは、先月、お嬢さんがお生まれになりました。一日だけ、お休みをあげてください。お顔を見に帰れますように」
子爵の喉が、小さく鳴った。
「男爵様の厨房のルーシーさんは、鴨の煮込みの鍋で、この春から三度、手を火傷なさっています。治るまで、鍋の係を替えてあげてください。軟膏は、洗濯場のアンナに言えば分けてもらえます」
若い男爵は、真っ赤になって、うつむいた。
誰も、何も言えなかった。
私は、手を揃えて、深く頭を下げた。
「お願いは、以上です。お運びいただいて、ありがとうございました」
三人は、贈り物を従者に持たせて、逃げるように出ていった。
しばらくして、侍従長が、扉の隙間から顔を出した。
「総監。廊下で、お三方が、お互いに聞き合っておられましたぞ。『お前のところの御者は何という名だ』『お前の従僕は』と」
「答えは、出ましたか」
「どなたも、ご存じありませんでした」
侍従長は、白い眉をぴくぴくさせながら、真顔で言った。
「それから、陛下のお言葉をお預かりしております」
侍従長は、少しだけ声の調子を改めた。
「第二王子殿下の立太子の儀は、王妃様のご回復を待って行う、と」
「……王妃様の」
胸の奥が、きゅっとなった。
三年前から病で伏せられている、私の夜の先生。お見舞いは三度願い出て、三度とも断られた。四度目は、まだ、口にできていない。
「総監の務めには、内廷全域の点検が含まれます」
侍従長は、私の顔を見ずに言った。
「王妃様の居室の廊下も、その道筋にございます。もっとも、居室の扉は、侍医長殿のお許しがなければ開きませんが」
「承知しました」
私は、それだけ答えた。
*
その日は、日が暮れるまで、内廷を歩いた。
厨房、洗濯場、庭、厩、燭台部屋。昨日の午後、挨拶回りで一度ずつ巡った場所を、今日は、働いている人の手を見ながら、もう一度。上級女官長のブランシュ子爵夫人の部屋だけは、昨日も今日も、扉の前で「ただいま取りこみ中でございます」と断られたままだった。
厩に入ると、隅で、御者のトビアスさんが、帽子を両手で握って立っていた。肩に、真新しい毛布をかけている。
「総監」
トビアスさんは、深く頭を下げた。
「うちの旦那様が、昼過ぎに、ご自分で持ってきなすったんです。『お前、名は何といった』と、聞かれまして」
帽子を握る手が、小さく震えていた。
「旦那様に名前を呼ばれたのは、初めてで」
そこで言葉が切れた。日に焼けた顔の皺に、涙がたまっていく。
私は、何も言わずに、頭を下げた。
「毛布があったかいのも、そりゃあ、ありがてえですがね」
トビアスさんは、鼻をすすって、笑った。
「名前のほうが、ずっと、あったけえです」
夕方の鐘のあと、西棟の廊下を一人で歩いていたとき、足音に気がついた。
私の足音の、少し後ろ。一定の間隔。半歩の距離。
振り返った。
オスカー様が立っていた。
「……巡回です」
「西棟は、巡回路ではなかったはずです」
「今日から、巡回路に加えました。団長の権限で」
オスカー様は、前を向いたまま答えた。
「足音は、お気になりますか」
少し考えてから、私は答えた。
「いいえ。いつもの足音ですから」
オスカー様の肩が、ほんの少しだけ、動いたように見えた。
「このあと、厨房を見に行きます。夕食の片づけの時刻の様子を、一度、見ておきたくて」
「では、巡回の一部ということで」
そう言って、オスカー様は、いつものように、半歩後ろについた。
*
夕食の片づけの厨房は、湯気と皿の音でいっぱいだった。
「総監! お疲れさまでさあ!」
大皿を抱えて走ってきたのは、顔は知っているけれど、まだ話したことのない男の人だった。三十代半ば。日に焼けた顔に、人懐こい笑いが貼りついている。
「配膳係のカスパーです。夜会のケーキの残りがありましてね、三日たってもまだ食える。元王太子殿下の誕生日ケーキは、元王太子殿下の評判より日持ちがしましたぜ」
厨房のあちこちから、吹き出す声が上がった。ゴードンが、鍋の向こうから「こら、カスパー」と叱りながら、肩を震わせている。
「娘のミナが、夜会のケーキの話を聞いて悔しがってましてね。咳き込むほど、食い気だけは一人前で」
「お元気そうで、何よりです」
「元気じゃないんですよ、これが。春から、咳が」
カスパーは笑いながら言って、すぐに皿を持ち直し、洗い場のほうへ走っていった。
その背中を見送っていると、袖を引かれた。
「お嬢様。いえ、総監」
レオだった。献立表の束を、胸に抱えている。
「あの、いま、王妃様のお部屋の侍女さんが、来ているんです」
レオは、声をひそめた。
厨房の入口に、痩せた侍女が、空の籠を抱えて立っていた。三十を少し過ぎたくらいか。目の下に、濃い影がある。籠を持つ指先が、小さく震えていた。
「銀の匙を、三本、貸してほしいと言うんです」
「匙を?」
「はい。三年で、初めてです。居室の銀器は、居室で揃っているはずなのに、厨房に頼みに来たことなんて、一度も」
ゴードンが、鍋から顔を上げた。
「居室の匙を、うちが貸すのか」
侍女が、籠をぎゅっと抱えた。
「申し訳ございません。上級女官様が、手入れに持っていかれたきり、戻らなくて。明日の朝、昼、夕の薬湯の分が、足りないのです」
「何本、お持ちになったのですか」
私が尋ねると、侍女は、床に目を落とした。
「……三本です」
「上級女官様が、三本も」
「はい」
それ以上は、何も言わなかった。言えない、と言うように見えた。
私は、ゴードンを見た。ゴードンは、黙ってうなずくと、棚の奥から、柔らかい布に包まれた匙を三本、取り出した。厨房の、いちばん上等な銀の匙だ。
「ジュリアさん、でしたね」
布の包みを渡されたとき、侍女の肩が小さく跳ねた。私が名前を呼んだからだ。
「王妃様付きの侍女のジュリアさん。三年前、お顔を見たきりでしたけれど」
「……覚えて、いらっしゃるのですか」
「はい」
包みを受け取った侍女の指先から、苦い草の匂いがした。薬湯の匂いだろう、と思った。
ジュリアは、包みを胸に抱いて、深く頭を下げた。唇が、何か言いたそうに開いて、結局、閉じた。
「ありがとうございます。明日の夕に、お返しにまいります」
そう言って、逃げるように、厨房を出ていった。
「三年で、初めて」
私は、小さくつぶやいた。
胸の奥が、かすかにざわついた。理由は分からなかった。ただ、三本、という数と、あの震える指先と、手入れに持っていかれたきり戻らない匙のことが、頭の隅に、小さな石のように引っかかった。
半歩後ろで、オスカー様が、じっと、ジュリアが出ていった廊下を見ていた。
*
【警護日誌・今日の余白】
曇り。お笑いにならなかった。厨房を出るとき、匙のことを考えておいでだった。
第二話までお読みいただき、ありがとうございます。
厨房に来た王妃様付きの侍女ジュリアさん。
借りていったのは、銀の匙が三本でした。
次話は、その匙のお話です。
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