第一話 庇う者は、いるか
「この女を庇う者は、いるか」
王太子フィリップ殿下の声が、大広間の高い天井に響いた。
殿下の二十歳の誕生日を祝う夜会だった。シャンデリアの下に、国じゅうの貴族が並んでいる。その真ん中に、私は一人で立たされていた。
(誰もいないでしょうね)
私は目を伏せた。悲しくはなかった。ただ、そういうものだと思った。
私はエステル・ヴァランシエンヌ。公爵家の娘で、ついさっきまで王太子殿下の婚約者だった。
十二の春に婚約が決まってから六年、王妃教育のために王宮の西棟で暮らしてきた。朝は語学、昼は歴史と礼法、夜は外交の書状の読み方。その読み方を最初の三年、手ずから教えてくださったのは、王妃セレスティーヌ様だった。けれど王妃様が病で伏せられて、もう三年になる。お見舞いは三度お願いして、三度とも断られた。時間割はお茶会に出る隙を一刻も残してくれなかったから、貴族の令嬢の友人は一人もできなかった。人前で笑わない私を、社交界は「氷の公爵令嬢」と呼んでいる。
父は北の国境の守りについていて、今夜はいない。殿下は、それも分かっていて今夜を選んだのだろう。
殿下の腕には、男爵令嬢のミア様がすがりついていた。大きな瞳に涙をためて、小さく震えている。
「春、お前はミアの茶に毒を入れた。夏、ミアのドレスを引き裂いた。秋の初め、夕方の鐘の頃、ミアを西棟の階段から突き落とした。先月、ミアの馬の鞍の腹帯を切った。そして先週、ミアの母の形見のブローチを盗んだ」
殿下は一枚の紙を掲げた。
「これは、お前が侍女に宛てた命令書だ。ミアを痛めつけろと、お前の字で書いてある。言い逃れはできんぞ」
私の字ではなかった。けれど、弁明の機会は与えられなかった。殿下はそのまま広間を見回し、冒頭の言葉を口にしたのだ。
貴族たちは、一人残らず目を逸らした。
殿下は満足そうに笑った。誰も手を挙げないことを、殿下はよく分かっていた。私がどれだけ一人なのかを、皆の前で見せつけるための問いだった。
壁ぎわには、近衛騎士団長のオスカー様が立っていた。十二の春から、王命で私の護衛を務めてきた方だ。護衛の日誌を、六年、一日も欠かさずつけているとも聞いていた。
その方も、動かなかった。
(護衛は、主を庇う者ではありませんものね)
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
王宮に来た最初の夜のことを、なぜか思い出した。
十二歳の私は、広すぎる西棟の部屋で、声を殺して泣いていた。そのとき、湯たんぽを持ってきてくれた年配の侍女がいた。彼女は何も聞かずに、私が眠るまで寝台の端に座っていてくれた。翌朝、名前を聞いた。マーサ、と彼女は言った。
その日から、私は王宮で働く人の名前を、一人ずつ覚えることにした。
名前を知っていれば、この広い王宮で、ひとりではない気がしたから。
殿下は、六年かけても、マーサの名前を覚えなかった。
そのとき、視界の端で、銀の盆が揺れた。
壁ぎわに控えていた給仕の少年が、盆を片手に持ったまま、もう片方の手をまっすぐに挙げていた。
広間が、ざわめいた。
「……給仕風情が、何のつもりだ」
「お、王太子殿下が、庇う者はいるかとお聞きになりましたので」
少年の手は、震えていた。それでも下がらなかった。
(下ろしなさい、レオ)
声に出せたら、そう言っていた。王太子に逆らった給仕が、明日どうなるか。あの子は分かっていないはずがなかった。
レオ。十六歳。二年前の春、西棟の廊下で、厨房から渡された献立表を握りしめて泣いていた子だ。字が読めないことを、誰にも言えずにいた。私はその晩から毎晩、寝る前に十五分だけ、彼に字を教えた。
「僕に字を教えてくださったのは、お嬢様です。今夜の献立表を全部読めるのは、お嬢様のおかげです」
「字を教えたから何だ。それで罪が消えるとでも言うのか」
「僕には、罪のことは分かりません」
レオは、盆をそっと床に置いた。
「でも、分かる人を知っています」
そう言うなり、レオは広間の奥の、使用人の通路へ続く扉に走っていった。
「可哀想に。きっと脅されているのね」
ミア様が、殿下の胸に顔をうずめた。
白髪の侍従長ベルトランが、静かに一歩前に出た。
「殿下。王宮の作法では、殿下ご自身が公の場でお尋ねになったことにお答えするのは、罪にはなりません」
「黙れ。手を挙げた者は全員、明日から王宮に置かぬ」
「承りました。では、そのお言葉を陛下にもお伝えしてまいります」
侍従長は深く一礼して、広間を出ていった。国王陛下は今夜、別室で隣国からの書状を読んでおられる。王妃様は、今夜もご病気で姿を見せておられない。
出ていく前に、侍従長が一瞬だけ壁ぎわに目をやったのを、私は見た。オスカー様が、ほとんど分からないほど小さくうなずいたのも。
何の合図なのかは、そのときの私には分からなかった。
ほどなくして、使用人の扉が開いた。
入ってきたのは、エプロンをつけたままの大男だった。腕まで粉で白い。料理長のゴードンだ。
「坊主が、手を挙げろと言って厨房に飛びこんできた。だから来た」
ゴードンは、粉だらけの手を高々と挙げた。白い粉が、きらきらとシャンデリアの光に舞った。
その隣に、息を切らしたレオが戻ってきて、もう一度、手を挙げた。
「春の、毒の茶の日。お嬢様は厨房に一度もいらしていない。厨房の出入りの控えは、毎日、残している。あの日の茶を淹れたのは私で、運んでいったのは、ミア様の侍女だ」
「料理長なんて、いくらでもお金で――」
ミア様の声を、ゴードンの低い声がさえぎった。
「去年の冬、うちの娘が高い熱を出した。夜中の鐘が鳴るころ、裏口に薬の瓶と毛布が置いてあった。王立薬師院の、平民にはとても買えない薬だった。……あとで分かった。お嬢様が、ご自分のお手当てで買ってくださったものだと。誰にも言うなと、言われていた」
大男の目に、涙がにじんだ。
「お嬢様が私にくださったのは、金じゃない。薬ひと瓶と、毛布一枚だ。今夜それを言わなかったら、私は一生、娘の顔をまともに見られない」
手は、二本になった。
殿下が、鼻で笑った。
「料理番と給仕か。それがどうした。この女の護衛ですら、手を挙げぬではないか」
オスカー様は、壁ぎわで、まっすぐ前を見たままだった。
私は、もうそちらを見ないことにした。
扉が、また開いた。
夜会の夜には、ドレスの裾を踏んだ客のために、洗濯場のお針子が控えの間に詰めている。その一人、アンナが、針山を手首につけたまま入ってきた。
「夏の、破られたドレスの件で、申し上げます」
アンナは、迷いのない手つきで挙手した。
手は、三本になった。
「あのドレスは、破られたと訴えが出る前の日に、一度洗濯場へ参りました。裾に小さなほつれがあるだけでした。ミア様の侍女が持ってきて、ここをもっと大きく裂いてから繕えるかと、聞かれました。お断りしました。繕い物の札は、日付と侍女の名前を書いて、まだ洗濯場に残っております」
ミア様の肩が、びくりと揺れた。
アンナは、あかぎれだらけの指を胸の前で握った。
「冬になると、繕い物の籠の底に、いつも軟膏の小さな壺が入っていました。名前は書いてありませんでした。でも、籠を洗濯場まで自分で戻しに来る方は、王宮で、お嬢様だけでしたので」
(……気づかれていたのね)
私は、また目を伏せた。今度は、少し違う理由で。
そのとき、開いたままの扉の向こうから、泥のついた長靴の音がした。
庭師のエルマーだった。今夜は庭の灯籠に火を入れる係で、まだ手に火縄を持っていた。磨きあげられた床に、点々と泥の跡がついた。
「秋の初めの、階段の日。あの日は昼に嵐があった」
エルマーは、ゆっくりと手を挙げた。手は、四本になった。
「夕方の鐘の時刻、お嬢様は薔薇園で、嵐で倒れた株を、わしと一緒に植え直してくださった。爪の間まで泥だらけになって。薔薇園から西棟の階段までは、走っても十分はかかる。お嬢様は、鐘が鳴っているあいだ、ずっとわしの隣で土を掘っていた」
エルマーは、殿下の背後を指さした。大きな花瓶に、深紅の薔薇が溢れるほど生けてある。
「あのとき植え直した株の花だ。今夜の広間のために、いちばんいいのを切った」
殿下が、思わず後ろを振り返った。
自分の誕生日を飾る花が、誰の手で生き延びたものなのか、殿下は知らなかった。
次の足音は、駆けてきた。
馬丁のジャックが、息を切らして広間に飛びこんできた。夜会の客の馬車で、厩はいちばん忙しい時刻のはずだった。
ジャックは片手を挙げ、もう片方の手で、古びた革の帯を高く掲げた。手は、五本になった。
「先月の、鞍の腹帯です。これが、その腹帯です」
広間じゅうの目が、革に集まった。
「切り口を見てください。刃物で切ったなら、こんなふうに毛羽立ちません。古い革が、すり切れて裂けたんです。お嬢様は去年から三度、馬具を新しくするよう、願い出てくださっていました。この腹帯も、願い出の証として取っておけと言われて、厩にしまってありました」
ジャックは、殿下をまっすぐ見た。
「馬具の予算を止めて、夜会の費用に回せとおっしゃったのは、殿下です」
貴族たちのあいだに、低いざわめきが走った。何人かが、殿下から半歩離れた。
もう、扉は閉まらなかった。
侍女が来た。従僕が来た。皿洗いの少女が、濡れた手のまま来た。燭台係が、門番が、厩の少年が来た。使用人の通路を、噂が火のように走っていくのが分かった。広間の後ろの壁ぎわが、エプロンと前掛けと揃いの上着で埋まっていく。入りきれない者が、扉の外の廊下に並んだ。廊下の向こうにも、まだ続いていた。
その一人ひとりが、黙って手を挙げた。
私は、その顔を一つずつ見た。全員の名前を、私は知っていた。
皿洗いのリサ。去年、割れた皿で指を切ったとき、私が包帯を巻いた。燭台係のトマ。高い梯子が怖くて、毎晩、震える足で燭台に火を入れている。門番のハンス。冬の夜番に、私が厨房から運ばせた温かいスープを、いつも半分だけ残して、詰所の猫にやっていた。
誰にも見せたつもりのなかったことが、一つずつ、手の形になって挙がっていた。
いちばん後ろに、白髪のマーサが立っていた。皺だらけの手を、精いっぱい高く挙げて。
喉の奥が、熱くなった。
「黙れ! 全員、出ていけ!」
殿下が叫んだ。
誰も、動かなかった。
「ブ、ブローチはどうだ」
殿下の声が、裏返った。
「ミアの母の形見だ。この女の部屋から出てきたと、ミアの侍女が証言している。そうだな、ノエル」
ミア様の後ろに控えていた、栗色の髪の侍女が、びくりと顔を上げた。
ノエル。ミア様付きの侍女。先週、私の部屋でブローチを見つけたと訴えた人だ。そして――毒の茶を運んだのも、ドレスを洗濯場に持っていったのも、ミア様の侍女だった。ミア様の侍女は、ノエル一人しかいない。
ノエルの手が、胸の前で、半分だけ持ち上がった。
そして、下がった。
ミア様が、振り返りもせずに言った。
「ノエル。あなた、分かっているわよね」
広間が、しんと静まりかえった。三百人近い手が挙がったまま、誰も息をしていないようだった。
ノエルの顔は、紙のように白かった。
私は、彼女と目を合わせて、小さく首を横に振った。
言わなくていい。あなたが手を挙げれば、あなた自身の罪も明るみに出る。ここにはもう、十分すぎるほどの手がある。
ノエルは、私を見た。
それから、唇を噛んで、まっすぐに手を挙げた。
「……私が、嘘を申しました」
声は、震えていた。
「お茶も、ドレスも、ミア様に言われて、私が運びました。ブローチは、ミア様の衣装箱の底にありました。エステル様のお部屋で見つけたことにしろと。言わなければ、紹介状なしで暇を出すと」
「その子はエステルに買収されたのよ!」
ミア様が叫んだ。
ノエルは、首を横に振った。
「私は、何もいただいておりません。エステル様は、私の母の葬儀に、名前を伏せて白い花を送ってくださいました。私は、エステル様とお話ししたことも、ほとんどなかったのに。……あとで花屋に聞いて、分かったんです」
ノエルの目から、涙がこぼれた。
「エステル様が人を買う方なら、あのとき名前を書いて、恩を売ったはずです。……今、首を振ってくださったのも。私を庇おうとしてくださったのも」
そのとき、正面の大扉が開いた。
侍従長ベルトランに先導されて、国王陛下が入ってこられた。
陛下は、足を止めた。
広間を埋めつくす手を、端から端まで、ゆっくりと見渡した。開け放たれた扉の向こう、廊下の果てまで続く手を。
「庇う者はいるか、と聞いたそうだな。フィリップ」
殿下は、答えられなかった。
「……で、これが、その答えか」
侍従長が、静かに答えた。
「内廷に仕える使用人、三百十二名。夜番の者、病で休んでいる者の名代まで、全員でございます」
陛下のお姿を見て、貴族たちのあいだで、ぱらぱらと手が挙がりはじめた。さっきまで目を逸らしていた伯爵が、子爵夫人が、慌てたように腕を伸ばしている。
「今さら挙げた手は、数えぬ」
陛下の一言で、その手は、ばつが悪そうに下りていった。
「陛下、ここまでのことを――」
申し上げかけた侍従長を、陛下は手で制した。
「よい。料理長の話のあたりから、扉の外で聞いていた。入れば、皆が口をつぐむと思うてな」
「料理長の厨房の控えは、陛下をお呼びに上がる道すがら、厨房で拝見いたしました。日付に相違はございません」
侍従長は、そう付け加えた。
「へ、陛下。これは命令書です。この女の字で――」
殿下が差し出した紙を、侍従長が受けとった。一目見て、侍従長は言った。
「これは、殿下の書記、ヴァルターの字でございます」
殿下の後ろで、若い書記の顔から血の気が引いた。
「エステル様の字は、よく存じております。毎年、使用人一人ひとりの誕生日に、エステル様が手書きのカードをくださいますので」
侍従長は、少しだけ声を落とした。
「三百十二枚。一枚も、同じ文面はございませんでした」
「陛下」
低い声がした。
壁ぎわから、オスカー様が進み出て、陛下の前に膝をついた。
「近衛騎士団長、オスカー・グレイ。手を挙げるお許しを」
「……今まで、なぜ黙っていた」
「近衛の警護日誌は、陛下の御前でなければ、証として開くことを許されておりません。近衛の名で殿下に異を唱えれば、王太子に剣を向けたことになります。侍従長が陛下をお呼びに出た以上、私の務めは、陛下のお戻りを待つことでした」
オスカー様は、まっすぐに手を挙げた。それから、革表紙の分厚い日誌を六冊、陛下の前に差し出した。
「六年分の、警護日誌です。罪状の日付のすべてに、エステル様のお居場所が書いてございます。毎日、侍従長の印をいただいております」
(あのうなずきは、これだったのね)
陛下に命じられて、侍従長が六冊目の日誌を開いた。
「春、毒の茶の日。……終日、図書室にて外交文書の講義。余白に、『晴れ。お笑いにならなかった』」
侍従長は、別の頁をめくった。
「秋の初め、階段の日。……夕刻、薔薇園。庭師エルマーと株の植え直し。余白に、『嵐のあと。お笑いになった』」
侍従長は、一冊目の最初の頁を開いた。
「六年前、春。初日。……夜、お泣きになる。侍女マーサが付き添う。余白に、『雨。明日は、お笑いになるとよい』」
侍従長が、小さく咳ばらいをした。
「……余白は、毎日ございますな。六年分」
広間のあちこちで、誰かが息をのむ音がした。
私は、オスカー様を見られなかった。顔が熱かった。氷の公爵令嬢が、聞いてあきれる。
六年。この人は、私が一度でも笑ったかどうかを、毎日、書きとめていたのだ。
陛下は、日誌を閉じた。
そして、殿下に向き直った。
「フィリップ。今夜、お前の杯に最初に葡萄酒を注いだ者の名を言え」
殿下は、口を開いた。何も出てこなかった。
自分の目の前に盆を差し出した少年の顔を、殿下は一度も見ていなかったのだ。
「……エステル。分かるか」
「レオです、陛下」
私は答えた。
「十六歳。二年前の春まで、字が読めませんでした。今は、献立表をすべて読めます。いつか、ゴードンのように厨房を任されたいそうです」
広間の後ろで、レオがしゃくりあげる声がした。ゴードンが、その頭を粉だらけの手でかき回した。
陛下は、長いあいだ黙っておられた。
「数えていなかったのは、お前だけだったようだな。フィリップ」
陛下は、広間を見渡して、問われた。
「では、私も聞こう。――王太子を庇う者は、いるか」
誰の手も、挙がらなかった。
殿下の腕にすがっていたミア様の手さえ、するりと離れた。
「エ、エステル」
殿下が、私に向き直った。さっきまでの勢いは、どこにもなかった。
「お前なら分かるだろう。俺は、ミアに騙されていたんだ。頼む。お前だけでも、庇ってくれ。お前が手を挙げてくれれば――」
私は、殿下の目を見て答えた。
「殿下。庇うかどうかは、一人ひとりが自分で決めることですわ。今夜、ここにいる皆が、そうしたように」
殿下の顔が、くしゃりと歪んだ。
「フィリップを廃太子とする。立太子の儀は、第二王子のもとで改めて行う」
陛下の声が、広間に落ちた。
「ミア・ハートレイは偽証の罪により、北の修道院へ。ハートレイ男爵家は、爵位を取り上げる。書記ヴァルターは、文書偽造の罪で裁きにかける。侍女ノエルは、自ら罪を明かしたことを汲み、罰は軽くする」
ミア様が床に崩れ落ちた。誰も、手を差しのべなかった。
「それから」
陛下は、目を逸らしていた貴族たちを、一人ずつ見た。
「今夜、黙っていた者の顔も、私は覚えておく」
何人かが、膝から力を抜いたように見えた。
陛下は、最後に私の前に立たれた。
「エステル。婚約は、王家の非として解く。……そなたには、詫びねばならぬ」
「陛下」
私は、深く膝を折った。
「お詫びでしたら、どうか、この者たちに。殿下は先ほど、手を挙げた者は全員、明日から王宮に置かぬと仰いました。皆が明日も、ここで働けますように」
陛下は、しばらく私の顔をご覧になっていた。
「誰ひとり、王宮から出さぬ。王の名にかけて」
広間の後ろで、誰かが泣き出した。それにつられて、あちこちで鼻をすする音がした。挙がっていた手が、ゆっくりと下りていった。
*
広間を出るとき、使用人たちが左右に分かれて、道を作ってくれた。
一人ずつ、頭を下げていく。レオ。ゴードン。アンナ。エルマー。ジャック。ノエル。その後ろにも、ずっと続いていた。皿洗いのリサ。燭台係のトマ。門番のハンス。私は、通りすぎながら、一人ずつ名前を呼んだ。呼ばれるたびに、誰かが顔をくしゃくしゃにした。
回廊の手前で、マーサが待っていた。
「お嬢様」
あの最初の夜と同じ、少しかすれた声だった。
「ちゃんと、ひとりじゃありませんでしたでしょう」
私は、答えられなかった。黙ってマーサの皺だらけの手を握ると、マーサは、あの夜と同じように笑った。
オスカー様が、いつものように半歩後ろについた。
西棟へ続く長い回廊に出て、ようやく、私は口を開いた。
「六年、黙って見ていらしたのですか」
「護衛は、黙って見るものです」
「……日誌の、余白は」
オスカー様は、少しのあいだ黙っていた。
「あれは、護衛の仕事ではありません」
回廊の窓から、夜の薔薇園が見えた。灯籠の火が、エルマーの植え直した株を、ぼんやりと照らしていた。
「今日の日誌には、何とお書きになるのですか」
「晴れ、と」
「それから?」
オスカー様は、前を向いたまま言った。
「お笑いになった、と。……これから、そうなりますので」
私は、こらえきれずに笑ってしまった。
六年ぶりに、声をあげて。
半歩後ろで、オスカー様が、ほんの少しだけ口元をゆるめた気配がした。
*
翌朝、西棟の私の部屋に、朝食と一緒に献立表が届いた。
いつもは厨房の書記が書く献立表が、今朝は少し歪んだ、大きな字で書かれていた。
『きょうの あさごはん やきたての パン かぼちゃの スープ おじょうさまの すきな りんごの コンポート』
いちばん下に、一行。
『おじょうさま あしたも ここに いてください。 レオ』
字の練習をした二年の夜が、一枚の紙になって、私の前にあった。
その日の昼、陛下から新しいお役目を賜った。内廷の総監――王宮の家政を預かる役だ。三百十二人の使用人のかしらとして、私は王宮に残ることになった。レオの献立表の願いは、その日のうちにかなった。
知らせが西棟に届いたとき、廊下の向こうで、誰かが小さく歓声を上げて、誰かに叱られる声がした。叱った声も、笑っていた。
*
夕方、オスカー様が侍従長の部屋で警護日誌に印をもらうあいだ、私は扉の前で待っていた。
戻ってきたオスカー様の手の中で、開いたままの頁が、ちらりと見えた。
『晴れ。お笑いになった。――何度も』
オスカー様は、慌てたように日誌を閉じた。
私はまた、笑ってしまった。
この女を庇う者は、いるか。
――いましたわね。数えきれないほど。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
誰にも見せずに重ねた親切は、なかったことになるのか。
そんな問いから、このお話は生まれました。
答えは、三百十二本の手でした。
ここから連載です。エステルは内廷の総監として、三百十二人の使用人のかしらになります。王宮には、まだ誰も気づいていないことがあるようです。
少しでも「泣いた」「スカッとした」と思っていただけたら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆で応援してもらえると、とても嬉しいです。




