第四話 黒い匙
洗い場の隅に、ランプをひとつだけ置いた。
流しの縁に白い布を広げて、その上に匙を三本並べる。光を近づけても、何も返ってこない。艶がないんじゃなくて、艶のある場所が、どこにもなかった。銀の匙が、こんなふうに黒くなるなんて。
「触るなよ」
ゴードンが言って、自分で一本つまみ上げた。太い指に挟まれると、匙がやけに細く見える。
「リサ。洗ったか」
「洗ってません。包みを開けたら、もう、こうで」
リサは濡れた手を前掛けにこすりつけて、こすりつけて、まだ足りないみたいにこすっていた。
「わたしが黒くしたんじゃないです。ほんとに。前に玉ねぎの汁のついたのを曇らせて、お嬢様に」
「叱っていません。拭き方を、一緒に見ただけです」
「でもあのときと、色が全然ちがって」
「分かってる。落ち着け」
ゴードンは棚から白い粉の缶と、磨き布を持ってきた。
「銀ってのは曇るもんだ。卵でも玉ねぎでも曇る。けどあれは表面だけの話で、擦りゃ戻る。見てろ」
粉をつけた布で、匙の柄をぐいぐい擦る。布は灰色になった。匙は、ほとんど変わらなかった。
「……戻らねえ」
ゴードンはもう一度、今度は指が白くなるまで擦って、手を止めた。
「染みてる。曇りじゃねえ。銀の奥のほうまで、持っていかれてる」
いつのまにか、レオが後ろに立っていた。献立表を抱えたまま、口が半分あいている。
「それ、薬湯に使った匙、ですよね」
「ああ」
「銀の匙が黒くなるのって」
「毒に当たったときだ」
ゴードンは、言ってから、自分の声に驚いたみたいに黙った。
昔から言われていることだった。王族の口に入るものを銀で扱うのは、そのためだと。私も知っていた。知っていたけれど、本当に黒くなった匙を見るのは、これが初めてだった。
勝手口の外で、桶の鳴る音がした。レオが首を伸ばして「猫かな」と言い、誰も確かめなかった。
「お嬢様。王妃様の薬湯に、毒が」
「待って」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
「声を、落としてください。……お願いします」
三人が、私を見た。
「ゴードン。この三年、居室の匙が厨房に戻ってきたことは」
「ねえ。匙は居室で洗う決まりだ。うちに来るのは盆と皿だけで」
「では、これまで一度も、黒い匙を見たことは」
「ねえよ。ねえから、今日、驚いてんだろうが」
「居室の匙は、三年間、毎日、薬湯に使われてきました」
言いながら、頭の中で何かが、かちりと音を立てた。
「もしこの薬湯に、三年毒が入っていたなら、居室の匙も、三年、黒くなっていたはずです。なのに、黒い匙の話は、一度も聞いたことがありません。昨日、うちの銀を貸したら、たった一日で真っ黒になった」
「……居室の匙は、黒くならねえ匙だったってことか」
ゴードンの顔が、変わった。
「替えたやつが、いる」
「断言は、まだ、できません」
「できねえのか」
「できません。……でも、私も、そう思います」
そこで、ゴードンが近くの木箱にどさりと腰を落とした。
大きな体だった。その肩が、急に小さく見えた。
「三年だぞ」
ゴードンは、自分の手を見ていた。粉と煤で黒ずんだ、分厚い手。
「俺はな、三年、鍋のせいだと思ってた。味が悪いんだ、王妃様の口に合わねえんだと。バターを変えて、蕪を変えて、あれもこれも。……違ったのか。鍋じゃなかったのか」
「ゴードンのせいでは、ありません」
「そうは言っても」
「ありません」
何度でも言うつもりだった。ゴードンは顔を上げなかった。リサが、そっと自分の前掛けの端を、彼の肩に押しつけた。拭けとも、泣けとも言わずに。
しばらく、誰も、何も言わなかった。
*
「お嬢様」
最初に口を開いたのは、ゴードンだった。顔はまだ上げない。
「三年前に、王妃様が陛下に何か訴えたって話は、厨房にも回ってきてた。侍医長が、お心の病ですって言って、それきりだ」
「私も、聞いています」
聞いていた。そして、信じるかどうかを、考えないようにしていた。そのことを、今、はっきり思い出した。
「だから、これを持って陛下のところへ行っても、同じことになります」
「同じ?」
「匙が三本。黒い。それだけです。侍医長が『薬湯に何か入ったのでは、調べます』と言えば、匙は取り上げられて、二度と出てこない。薬湯も、その夜のうちに全部、捨てられる」
ゴードンが、顔を上げた。
「証拠が、消えます。それに、薬湯を急に止めたら、王妃様のお体がどうなるのかも、私たちには分かりません」
「……なら、どうする」
「誰が、何を、居室に運んでいるのか。それを、現場で押さえます。それまで、この匙のことは、ここにいる四人だけで」
「ジュリアさんは」
レオが言った。
「あの人、匙を返しに来たとき、何か言いかけてました」
「ええ」
私も、見ていた。唇が開いて、閉じたところを。
「黒くなると、知っていたのかもしれません。でも、責めたら、居室の中に伝わります。あの人は、言わないんじゃなくて、言えないんだと思います。今は、そっとしておきます。……それと、手入れに持ち出されたきり戻らない、居室の匙も」
「黒くならねえほうの匙か」
ゴードンが、低く言った。
「どこにあるのか、探します」
リサが、手を挙げかけて、途中でやめた。
「あの、カスパーさんには」
「カスパーさん?」
「今日、カスパーさんが、遅くまで皿を手伝ってくれてたんです。さっきまで洗い場にいて。でも匙は包んだままだったから、見てないと思います」
「そう」
私は、うなずいた。
「ありがとう、リサ。……でも、誰にも、です」
「はい」
「カスパーさん、優しいですよね」
レオが、ぽつんと言った。誰も、答えなかった。
私は、黒い匙を、白い布にていねいに包みなおした。三本とも。それから、レオを見た。
「レオ。門番のハンスさんを、呼んでもらえますか。人目につかないように、勝手口から」
「ハンスさん?」
「あの門の出入りを、いちばん知っているのは、ハンスさんです」
*
レオは、勝手口から出て、すぐに戻ってきた。
「外、誰もいませんでした。桶がひとつ、転がってただけで」
ハンスが来たのは、それから五分もしないうちだった。門は交代の者に預けてきたらしい。
大きな体を、わざわざ小さくするようにして、勝手口から入ってくる。帽子を両手で持って、脇には出入り帳。ズボンの裾に、白い猫の毛がついていた。
「総監、お呼びで」
声が、いつも通り、のんびりしていた。
「猫は、元気ですか」
唐突に聞いてしまった。ハンスは一拍おいて、笑った。
「おかげさんで。太りました。冬のスープの、おかげで」
「それは、よかった」
「それで、ご用は」
「夜に、居室へ届く荷物は、どの門から入りますか」
ハンスは、ゆっくり、首をかしげた。考えるときの癖らしかった。
「北の通用門、ですな。毎月、十七日の夜に。多少の前後はありますが、ほとんど、その日で」
その場の空気が、止まった。
「十七日」
「へえ。夜の遅い時刻に、茶色の外套の男が来ます。小さな包みを一つ、持ってきて。受け取るのは、上級女官様で」
「毎月?」
「三年、ずっと。帳面には『郵便』としか書かんので、中身までは、わしには」
ハンスは、出入り帳を開いて、太い指で頁をなぞった。
「ただ、受け取る方は、ずっと同じではなかったです。この半年は、同じ方で。その前は、別の方で。顔は、暗くて、はっきりとは」
懐に入れた当番表の写しが、急に重くなった。真ん中の週。半年前に替わった名前。けれど、まだ、口には出さなかった。
「どなたか、名前までは」
「そこまでは、見えませんで」
申し訳なさそうに頭を下げるハンスに、私は首を振った。
「いえ。十分です」
十七日。
私は、ゴードンを見た。ゴードンも、私を見ていた。
「×の固まりは、十八日からです」
「……包みが届いた、次の日だ」
ゴードンの声が、喉の奥でこすれた。
「毎月、一日あとに、必ず、王妃様が食べなくなる」
「包みの中身が、何かは、まだ分かりません」
私は、言った。言いながら、自分の声が震えていないことに、少し安心した。
「でも、見れば分かります。次の十七日は、あと、七日」
リサが、息を呑む音がした。
「七日も、か」
ゴードンが言った。
「その間も、居室には、毎日あの盆が上がるのか」
「はい。ここで動けば、気づかれます」
言いながら、自分で自分の言葉が、喉に刺さった。
ゴードンは、しばらく黙っていた。それから、粉だらけの手で膝を打った。
「なら、盆の中身は、うちで勝手にやる。何がなんでも、食わせてやる。七日でも、七十日でもだ」
私は、何も言えずに、頭だけ下げた。それから、ハンスに向きなおった。
「ハンスさん。その日の北の門に、私も、立ち会わせてください」
「構いませんが」
ハンスは、帽子を握りなおした。
「総監。わしは、あんまり気の利いたことは言えませんがね。お嬢様に温かいスープをいただいてから、夜番が、ちっともつらくなくなったんでさ。……お手伝い、しますよ」
*
厨房の表の戸口を出ると、廊下の闇の中に、黒い上着の背中が見えた。
オスカー様だった。
壁に寄りかかるでもなく、座るでもなく、ただ立っていた。いつからだろう。厨房に入ってきてもよかったのに、入ってこなかった。
「巡回、ですか」
「はい」
「ずっと、ですか」
「はい」
私は、手の中の包みを見た。白い布の下で、三本の匙が、重かった。
「オスカー様」
「はい」
言わなきゃ、と思った。この人は王宮の警護を預かる人で、近衛の団長で、毒の話をするなら、誰よりも先に話すべき相手のはずだった。
口が、開かなかった。
三度目で、やめてしまったのと、同じだった。頼むのが、怖い。頼んで断られるのが、じゃない。頼んだ相手を、巻きこむのが。
「……いえ。明日、また」
「承知しました」
オスカー様は、それ以上、何も聞かなかった。
いつもの半歩後ろについて、西棟まで歩いた。扉の前で別れるとき、背中に声がした。
「待つのは、得意ですので」
振り返ると、もう、廊下の角を曲がっていた。
部屋に入って、扉に鍵をかけた。
匙を置く場所を、しばらく考えた。総監の机の引き出しには、鍵がない。この四日、鍵のない自分に気づかされてばかりだ。
結局、寝台の下から小さな木箱を引っぱり出した。十二のときに王宮へ持ってきた、書状の練習帳をしまってある箱だ。蓋を開けると、いちばん上の一冊に、見覚えのある細い字が見えた。
『よく読めました。次は、書いた人の気持ちを読みましょう。 セレスティーヌ』
その上に、白い布の包みを載せた。蓋を閉めて、鍵をかける。小さな鍵は、首から下げた細い鎖に通してある。六年、外したことがない。
「お借りします、先生」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
*
【警護日誌・今日の余白】
曇り。お笑いにならなかった。厨房から出てこられたとき、手に白い包みを持っておいでだった。何かを話そうとして、やめられた。
待つのは得意だ。得意だからといって、それが正しいとは限らない。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
黒くなった匙は、これから三年分の真実を連れてきます。
次話は、十七日まで七日。北の通用門に立つ前に、確かめることがあります。
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