↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/4

第四話 黒い匙

洗い場の隅に、ランプをひとつだけ置いた。


流しの縁に白い布を広げて、その上に匙を三本並べる。光を近づけても、何も返ってこない。艶がないんじゃなくて、艶のある場所が、どこにもなかった。銀の匙が、こんなふうに黒くなるなんて。


「触るなよ」


ゴードンが言って、自分で一本つまみ上げた。太い指に挟まれると、匙がやけに細く見える。


「リサ。洗ったか」


「洗ってません。包みを開けたら、もう、こうで」


リサは濡れた手を前掛けにこすりつけて、こすりつけて、まだ足りないみたいにこすっていた。


「わたしが黒くしたんじゃないです。ほんとに。前に玉ねぎの汁のついたのを曇らせて、お嬢様に」


「叱っていません。拭き方を、一緒に見ただけです」


「でもあのときと、色が全然ちがって」


「分かってる。落ち着け」


ゴードンは棚から白い粉の缶と、磨き布を持ってきた。


「銀ってのは曇るもんだ。卵でも玉ねぎでも曇る。けどあれは表面だけの話で、擦りゃ戻る。見てろ」


粉をつけた布で、匙の柄をぐいぐい擦る。布は灰色になった。匙は、ほとんど変わらなかった。


「……戻らねえ」


ゴードンはもう一度、今度は指が白くなるまで擦って、手を止めた。


「染みてる。曇りじゃねえ。銀の奥のほうまで、持っていかれてる」


いつのまにか、レオが後ろに立っていた。献立表を抱えたまま、口が半分あいている。


「それ、薬湯に使った匙、ですよね」


「ああ」


「銀の匙が黒くなるのって」


「毒に当たったときだ」


ゴードンは、言ってから、自分の声に驚いたみたいに黙った。


昔から言われていることだった。王族の口に入るものを銀で扱うのは、そのためだと。私も知っていた。知っていたけれど、本当に黒くなった匙を見るのは、これが初めてだった。


勝手口の外で、桶の鳴る音がした。レオが首を伸ばして「猫かな」と言い、誰も確かめなかった。


「お嬢様。王妃様の薬湯に、毒が」


「待って」


自分でも驚くくらい、低い声が出た。


「声を、落としてください。……お願いします」


三人が、私を見た。


「ゴードン。この三年、居室の匙が厨房に戻ってきたことは」


「ねえ。匙は居室で洗う決まりだ。うちに来るのは盆と皿だけで」


「では、これまで一度も、黒い匙を見たことは」


「ねえよ。ねえから、今日、驚いてんだろうが」


「居室の匙は、三年間、毎日、薬湯に使われてきました」


言いながら、頭の中で何かが、かちりと音を立てた。


「もしこの薬湯に、三年毒が入っていたなら、居室の匙も、三年、黒くなっていたはずです。なのに、黒い匙の話は、一度も聞いたことがありません。昨日、うちの銀を貸したら、たった一日で真っ黒になった」


「……居室の匙は、黒くならねえ匙だったってことか」


ゴードンの顔が、変わった。


「替えたやつが、いる」


「断言は、まだ、できません」


「できねえのか」


「できません。……でも、私も、そう思います」


そこで、ゴードンが近くの木箱にどさりと腰を落とした。


大きな体だった。その肩が、急に小さく見えた。


「三年だぞ」


ゴードンは、自分の手を見ていた。粉と煤で黒ずんだ、分厚い手。


「俺はな、三年、鍋のせいだと思ってた。味が悪いんだ、王妃様の口に合わねえんだと。バターを変えて、蕪を変えて、あれもこれも。……違ったのか。鍋じゃなかったのか」


「ゴードンのせいでは、ありません」


「そうは言っても」


「ありません」


何度でも言うつもりだった。ゴードンは顔を上げなかった。リサが、そっと自分の前掛けの端を、彼の肩に押しつけた。拭けとも、泣けとも言わずに。


しばらく、誰も、何も言わなかった。


*


「お嬢様」


最初に口を開いたのは、ゴードンだった。顔はまだ上げない。


「三年前に、王妃様が陛下に何か訴えたって話は、厨房にも回ってきてた。侍医長が、お心の病ですって言って、それきりだ」


「私も、聞いています」


聞いていた。そして、信じるかどうかを、考えないようにしていた。そのことを、今、はっきり思い出した。


「だから、これを持って陛下のところへ行っても、同じことになります」


「同じ?」


「匙が三本。黒い。それだけです。侍医長が『薬湯に何か入ったのでは、調べます』と言えば、匙は取り上げられて、二度と出てこない。薬湯も、その夜のうちに全部、捨てられる」


ゴードンが、顔を上げた。


「証拠が、消えます。それに、薬湯を急に止めたら、王妃様のお体がどうなるのかも、私たちには分かりません」


「……なら、どうする」


「誰が、何を、居室に運んでいるのか。それを、現場で押さえます。それまで、この匙のことは、ここにいる四人だけで」


「ジュリアさんは」


レオが言った。


「あの人、匙を返しに来たとき、何か言いかけてました」


「ええ」


私も、見ていた。唇が開いて、閉じたところを。


「黒くなると、知っていたのかもしれません。でも、責めたら、居室の中に伝わります。あの人は、言わないんじゃなくて、言えないんだと思います。今は、そっとしておきます。……それと、手入れに持ち出されたきり戻らない、居室の匙も」


「黒くならねえほうの匙か」


ゴードンが、低く言った。


「どこにあるのか、探します」


リサが、手を挙げかけて、途中でやめた。


「あの、カスパーさんには」


「カスパーさん?」


「今日、カスパーさんが、遅くまで皿を手伝ってくれてたんです。さっきまで洗い場にいて。でも匙は包んだままだったから、見てないと思います」


「そう」


私は、うなずいた。


「ありがとう、リサ。……でも、誰にも、です」


「はい」


「カスパーさん、優しいですよね」


レオが、ぽつんと言った。誰も、答えなかった。


私は、黒い匙を、白い布にていねいに包みなおした。三本とも。それから、レオを見た。


「レオ。門番のハンスさんを、呼んでもらえますか。人目につかないように、勝手口から」


「ハンスさん?」


「あの門の出入りを、いちばん知っているのは、ハンスさんです」


*


レオは、勝手口から出て、すぐに戻ってきた。


「外、誰もいませんでした。桶がひとつ、転がってただけで」


ハンスが来たのは、それから五分もしないうちだった。門は交代の者に預けてきたらしい。


大きな体を、わざわざ小さくするようにして、勝手口から入ってくる。帽子を両手で持って、脇には出入り帳。ズボンの裾に、白い猫の毛がついていた。


「総監、お呼びで」


声が、いつも通り、のんびりしていた。


「猫は、元気ですか」


唐突に聞いてしまった。ハンスは一拍おいて、笑った。


「おかげさんで。太りました。冬のスープの、おかげで」


「それは、よかった」


「それで、ご用は」


「夜に、居室へ届く荷物は、どの門から入りますか」


ハンスは、ゆっくり、首をかしげた。考えるときの癖らしかった。


「北の通用門、ですな。毎月、十七日の夜に。多少の前後はありますが、ほとんど、その日で」


その場の空気が、止まった。


「十七日」


「へえ。夜の遅い時刻に、茶色の外套の男が来ます。小さな包みを一つ、持ってきて。受け取るのは、上級女官様で」


「毎月?」


「三年、ずっと。帳面には『郵便』としか書かんので、中身までは、わしには」


ハンスは、出入り帳を開いて、太い指で頁をなぞった。


「ただ、受け取る方は、ずっと同じではなかったです。この半年は、同じ方で。その前は、別の方で。顔は、暗くて、はっきりとは」


懐に入れた当番表の写しが、急に重くなった。真ん中の週。半年前に替わった名前。けれど、まだ、口には出さなかった。


「どなたか、名前までは」


「そこまでは、見えませんで」


申し訳なさそうに頭を下げるハンスに、私は首を振った。


「いえ。十分です」


十七日。


私は、ゴードンを見た。ゴードンも、私を見ていた。


「×の固まりは、十八日からです」


「……包みが届いた、次の日だ」


ゴードンの声が、喉の奥でこすれた。


「毎月、一日あとに、必ず、王妃様が食べなくなる」


「包みの中身が、何かは、まだ分かりません」


私は、言った。言いながら、自分の声が震えていないことに、少し安心した。


「でも、見れば分かります。次の十七日は、あと、七日」


リサが、息を呑む音がした。


「七日も、か」


ゴードンが言った。


「その間も、居室には、毎日あの盆が上がるのか」


「はい。ここで動けば、気づかれます」


言いながら、自分で自分の言葉が、喉に刺さった。


ゴードンは、しばらく黙っていた。それから、粉だらけの手で膝を打った。


「なら、盆の中身は、うちで勝手にやる。何がなんでも、食わせてやる。七日でも、七十日でもだ」


私は、何も言えずに、頭だけ下げた。それから、ハンスに向きなおった。


「ハンスさん。その日の北の門に、私も、立ち会わせてください」


「構いませんが」


ハンスは、帽子を握りなおした。


「総監。わしは、あんまり気の利いたことは言えませんがね。お嬢様に温かいスープをいただいてから、夜番が、ちっともつらくなくなったんでさ。……お手伝い、しますよ」


*


厨房の表の戸口を出ると、廊下の闇の中に、黒い上着の背中が見えた。


オスカー様だった。


壁に寄りかかるでもなく、座るでもなく、ただ立っていた。いつからだろう。厨房に入ってきてもよかったのに、入ってこなかった。


「巡回、ですか」


「はい」


「ずっと、ですか」


「はい」


私は、手の中の包みを見た。白い布の下で、三本の匙が、重かった。


「オスカー様」


「はい」


言わなきゃ、と思った。この人は王宮の警護を預かる人で、近衛の団長で、毒の話をするなら、誰よりも先に話すべき相手のはずだった。


口が、開かなかった。


三度目で、やめてしまったのと、同じだった。頼むのが、怖い。頼んで断られるのが、じゃない。頼んだ相手を、巻きこむのが。


「……いえ。明日、また」


「承知しました」


オスカー様は、それ以上、何も聞かなかった。


いつもの半歩後ろについて、西棟まで歩いた。扉の前で別れるとき、背中に声がした。


「待つのは、得意ですので」


振り返ると、もう、廊下の角を曲がっていた。


部屋に入って、扉に鍵をかけた。


匙を置く場所を、しばらく考えた。総監の机の引き出しには、鍵がない。この四日、鍵のない自分に気づかされてばかりだ。


結局、寝台の下から小さな木箱を引っぱり出した。十二のときに王宮へ持ってきた、書状の練習帳をしまってある箱だ。蓋を開けると、いちばん上の一冊に、見覚えのある細い字が見えた。


『よく読めました。次は、書いた人の気持ちを読みましょう。 セレスティーヌ』


その上に、白い布の包みを載せた。蓋を閉めて、鍵をかける。小さな鍵は、首から下げた細い鎖に通してある。六年、外したことがない。


「お借りします、先生」


誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


*


【警護日誌・今日の余白】


曇り。お笑いにならなかった。厨房から出てこられたとき、手に白い包みを持っておいでだった。何かを話そうとして、やめられた。


待つのは得意だ。得意だからといって、それが正しいとは限らない。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

黒くなった匙は、これから三年分の真実を連れてきます。

次話は、十七日まで七日。北の通用門に立つ前に、確かめることがあります。

ブックマーク・評価・感想、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。