9 / 名のないもの
魔法というものは、もっと派手なところから始まるものだとクリルは思っていた。
炎を出すのが難しいなら、小さな火花でもいい。風なら髪が揺れる程度でも構わないし、昨日アンティルがやったように地面をほんの少し盛り上げるだけでも、魔法を使ったという実感は十分に得られるはずだった。
ところが、アンティルが朝からクリルにやらせているのは、相変わらず灰色の石を握ることだった。
オウロウの大樹の根元から少し離れた場所で、クリルは両手に収まる石を見つめながら、これで何度目かになるため息を鼻から吐いた。
「温まったぞ」
向かいに座っているアンティルが言った。
それ自体は嬉しい。
昨日までは体温と区別がつくかどうかという程度だったのに、今日は石の中心からじんわりと熱が広がっているのを自分でも感じられる。魔力を通す感覚も、最初ほど曖昧ではなくなっていた。
だからこそ、次へ進みたかった。
クリルは黒布を開き、白筆を走らせた。
〈次は火〉
「まだ早い」
予想していた答えだったので、すぐ下へ書き足す。
〈風でもいい〉
「もっと早い」
〈土〉
「昨日見たからって、いきなりそこへ行こうとするな」
クリルは顔をしかめ、最後の抵抗として石を指差した。
〈ずっとこれ?〉
「ずっとではない。まず、自分の魔力を自分で動かしている感覚を覚えろ。そこが曖昧なまま形だけ作ろうとすると、失敗したときに何が悪かったのか分からなくなる」
正しいことを言われているのだろうが、面白くはない。
そんなクリルの不満を知っているのかいないのか、アンティルは彼女の手から石を受け取り、地面へ置いた。
「じゃあ少し変えるか」
クリルの耳が立つ。
「石を動かしてみろ」
期待していたものとは違ったが、少なくとも新しい。
クリルはすぐ石へ手を伸ばしかけたものの、途中で止めた。
触らずに、という意味だ。
「押すんじゃない。お前がさっき石へ流していた魔力を、今度は外側へ出す。それで石が向こうへ動くところを思い浮かべろ」
クリルは目の前に置かれた石を見る。
丸みのある、ありふれた小石だった。
それが地面を転がる。
想像するだけなら簡単だ。
両手を石へ向け、身体の奥にある流れを探す。
以前より早く見つかる。
胸のあたりにあった感覚を腕へ送り、掌へ近づけるところまではできた。
そこから先が難しい。
今までは触れている石へ流し込めばよかった。けれど今日は、何もない空間へ出さなければならない。
力を込めると感覚が薄れた。
焦ってさらに押し出そうとすると、今度は完全に消える。
「身体で押すな」
アンティルが言う。
クリルは肩を落とした。
「魔力を使おうとすると、お前はすぐ腕に力を入れる。獣人は身体を使い方に長けているから、そうなりやすい」
少し離れた場所では、商隊の者たちが出発へ向けた荷の整理をしていた。
昨日の雨で湿った綱を、一人の術者が馬車の横へ並べている。その男が細い杖を掲げ、短い言葉を唱えると、綱の周囲へ淡い橙色の光が広がり、水気が白い蒸気となって浮かんだ。
クリルは思わずそちらを見る。
詠唱は短かった。
それでも、声がある。
杖もある。
子供のころから見てきた魔法は、だいたいああいうものだった。
術者が言葉を唱え、杖や指先から火や風が生まれる。
声を失ってから、クリルは魔法を使うことをほとんど諦めていた。里に魔術師はいなかったし、外から来る術者に尋ねても、まず呪文を覚えろと言われる。それができない以上、自分とは縁のないものなのだと思っていた。
アンティルだけが違った。
クリルは黒布へ書く。
〈どうして呪文いらない?〉
「いらないわけじゃない」
意外な答えだった。
クリルが首を傾けると、アンティルは先ほど綱を乾かした術者を目で示した。
「あれは、乾かす状態を呪文と杖で作ってる。どのくらいの熱にするか、どこまで広げるか、どういう形で魔力を流すかを、覚えた言葉と動作で固定してるんだ」
〈魔法は呪文じゃない?〉
「違う。少なくとも俺はそう考えてる」
アンティルは自分の掌を上へ向けた。
何も唱えないまま、掌の少し上に小さな黒い光が生まれる。
それは炎になるほど大きくならず、種火ほどの大きさで静かに揺れた。
「魔法は、自分の魔力を望んだ形にすることだ。詠唱も杖も、それを安定させるための補助にすぎない」
クリルは黒い光へ見入った。
何度見ても不思議だった。
声を必要としない魔法。
自分には閉ざされていると思っていた場所に、実は別の入口があったような気がする。
〈じゃあみんな無詠唱できる?〉
「理屈の上では可能だ」
期待したのも束の間、アンティルは続けた。
「実際にできるかは別の話だがな。言葉に任せていた部分まで全部、自分の頭の中で組み上げなきゃならない。少しでもイメージが崩れれば魔法も崩れる」
クリルは黒い光と灰色の石を見比べた。
アンティルにはあれができる。
自分は小石一つ動かせない。
先が遠い。
「それと、お前は元々魔力が多い方じゃない」
さらに追い打ちが来た。
クリルの耳が下がる。
「獣人には珍しくない。魔力が少ない代わりに身体が強い。お前の場合、特にそっちへ偏ってる」
〈向いてない?〉
少しだけ迷ってから書いた。
アンティルは布を読み、すぐには答えなかった。
「大きな魔法を何度も使うのには向いてないだろうな」
やっぱり。
そう思ったところで、続きが来る。
「だから使えない、とは言ってない」
クリルは顔を上げる。
「自分にないものを無理に増やす必要はない。少ないなら、少ないなりに使えばいい。お前の場合は、身体の動きを邪魔しない程度の補助から覚えた方がいいだろう」
それがどんな魔法なのかはまだ分からない。
けれど、できないとは言われなかった。
クリルは地面の石へ向き直った。
さっきより肩の力を抜く。
石を遠くへ飛ばす必要はない。
ほんの少し動けばいい。
自分の魔力が掌の先へ抜け、その流れに押されて石が転がるところを思い浮かべる。
身体の奥から腕へ、腕から掌へ。
その先へ。
何も起こらない時間が続いたあと、小石の横に積もっていた土がわずかに震えた。
クリルは息を止めそうになったが、そこで集中を切らさない。
もう少し。
石の片側に、ごく弱い力を置く。
灰色の石が傾き、地面の窪みから半分だけ転がった。
そこで魔力の感覚が消えた。
けれど石は、最初にあった場所から指一本分ほど離れている。
クリルはそれを見つめ、それからアンティルを見た。
「動いたな」
黒布を取るのも忘れ、何度も石を指差す。
「見てた」
クリルは石を拾い上げた。
自分が動かした。
触らずに。
昨日見た黒い炎とは到底比べられない。
それでも、その小さな石はクリルにとって、アンティルの炎と同じくらい鮮やかに見えた。
「今日はそこまでだ」
すぐに終わらされた。
クリルが抗議の顔を向けると、アンティルは立ち上がりながら、森の方へ視線を向けた。
「午後から魔穴の跡を見に行く。来るなら魔力を残しておけ」
その言葉で、抗議は止まった。
◇
森へ入ったのは、陽が真上を少し過ぎたころだった。
今回の目的は魔穴が再び開いていないか確認することと、周辺に瘴気が残っていないか調べることだった。
里長は別の仕事があり、代わりにジグが同行した。
数日前ならアンティルと森へ入ることそのものに難色を示しただろうが、今日は出発前に「勝手に先へ行くな」とクリルへ言っただけで、アンティルについては何も言わなかった。
完全に警戒を解いたわけではない。
それでも、少し変わった。
クリルにはそれで十分だった。
消えた猟道の近くまで来ると、三人は一度足を止めた。
道は戻っていない。
以前なら人と獣が通っていたはずの場所には、太い木々と下草が根を張り、何年も前からそうだったように森が続いている。
クリルは黒布を出し、以前記録した内容と見比べた。
樫の根元の苔。
途中だけ失われた道。
向こう側に残った猟道の続き。
前回と変わったところは見つからない。
「ここは後で測り直す」
アンティルが言った。
今回はそこを通り過ぎ、魔穴を閉じた窪地へ向かう。
近づくにつれて、クリルは空気の匂いを確かめた。
以前のように吸い込んだだけで胸が冷えるほどではない。それでも、湿った土の匂いに混ざって、わずかな違和感が残っている。
魔穴のあった場所は、まだ大きく窪んでいた。
崩れた土の一部には黒っぽい変色が残り、その周囲だけ草が伏せている。
アンティルは窪地から少し離れたところで荷を下ろし、細長い棒と小さな瓶を取り出した。
クリルはその一つ一つを見ていた。
「触るなよ」
先に言われた。
クリルは不満そうに目を細める。
「何か分かってからなら渡す」
仕方なく少し離れ、周囲を観察することにした。
魔穴そのものばかり見ても仕方がない。
アンティルなら、見えるものを全部見ろと言うはずだ。
クリルは窪地の周囲をゆっくり歩いた。
前回の戦いで折れた枝がある。
ジグが魔物を斬った場所には黒い染みが薄く残っている。
雨を一度挟んだため、地面の足跡はかなり消えていた。
その少し先に、小さな草の群れが生えている。
クリルは何気なく視線を向け、通り過ぎようとした。
そこで足が止まった。
知っている草だった。
森のどこにでもある。
膝にも届かないほどの高さで、細長い葉の縁には浅い切れ込みがあり、茎を折れば青臭い汁が出る。狩りの最中に小さな傷を作ったときは、葉を揉んで布の下へ当てることもある。
クリル自身、何度も使った。
なのに、名前が出てこない。
ただ忘れただけだと思った。
よく知っている言葉ほど、たまに急に出てこなくなることはある。
クリルはしゃがみ込み、葉を一枚眺めた。
形は分かる。
用途も分かる。
春から秋まで生えることも、日陰の湿った土を好むことも知っている。
母に教わった。
ジグと森へ入ったときにも採った。
名前だけがない。
クリルは黒布を出した。
白筆を置く。
いつもなら、考えるより先に手が動くはずだった。
けれど一文字も書けなかった。
「どうした?」
近くにいたジグが気づいた。
クリルは草を指差し、布へ書いた。
〈これ何だっけ〉
ジグは草を見る。
「それは……」
言葉が止まった。
クリルは顔を上げた。
ジグが眉を寄せる。
「待て。知ってるぞ。傷につけるやつだろ」
クリルは強く肯定した。
「あれだよ。ほら……」
出てこない。
ジグまで。
その様子を見ていたアンティルが作業を止め、こちらへ歩いてきた。
「何があった」
ジグが草を指差す。
「これの名前が出てこない」
「知らないだけじゃなく?」
「そんなわけあるか。里の子供でも知ってる草だぞ」
クリルも黒布を見せる。
アンティルは草へ視線を落としたあと、クリルの布を読む。
「見たことは?」
〈いっぱいある〉
「用途は?」
クリルは書く。
〈傷。葉を揉んで使う〉
「どこに生える」
〈湿った日陰〉
「季節は」
〈春から秋〉
質問にはすぐ答えられる。
何も忘れていない。
草そのものについては、ほとんど全部覚えている。
名前だけが、どこにもない。
アンティルの表情が変わった。
「ここから離れる」
ジグが訝しそうに見る。
「草から?」
「魔穴跡からだ」
三人は来た道を戻った。
百歩ほど進んでも、クリルはまだ名前を思い出せなかった。
さらに森を抜け、消えた猟道のところまで戻る。
そこで、頭の中へ突然言葉が戻ってきた。
あまりにも自然だったため、一瞬は何が起こったのか分からなかった。
クリルは立ち止まり、黒布を開く。
さっき書けなかった場所へ白筆を走らせた。
〈カギリ草〉
「そうだ」
ほとんど同時に、ジグも言った。
「カギリ草だ。何で出てこなかったんだ」
クリルは自分で書いた文字を見る。
カギリ草。
何度も知っていた名前だった。
忘れていた感覚すら、今は薄い。
アンティルだけが二人のように安堵せず、すぐ帳面を開いた。
「戻った場所を覚えてるか」
クリルは周囲を見る。
消えた猟道の手前。
曲がった樫より東。
だいたいの場所は分かる。
アンティルはそこへ小さな石を置いて印にした。
「もう一度行く」
「もう一度?」
ジグが顔をしかめる。
「確かめないと、ただの物忘れかもしれない」
「二人同時にか?」
「だから確かめる」
アンティルはクリルを見る。
「嫌ならここで待ってろ」
クリルは黒布へ大きく書いた。
〈行く〉
答えは決まっていた。
◇
二度目は、最初から準備した。
アンティルはクリルにカギリ草の葉を一枚持たせ、黒布にも名前をはっきり書かせた。
〈カギリ草〉
その文字を見てから森を進む。
消えた猟道を越えたところでは、まだ名前が分かる。
さらに魔穴跡へ近づく。
クリルは何度か手元の葉を見た。
カギリ草。
知っている。
まだ大丈夫だ。
そこから十数歩進んだところで、違和感が来た。
葉を見ても、名前が浮かばない。
さっきまで確かに分かっていた。
クリルは立ち止まり、黒布を開いた。
そこには、自分が書いた文字が残っていた。
〈カギリ草〉
読める。
カギリ草、と書いてあることも分かる。
けれど、その言葉と手に持っている葉が、頭の中でうまく結びつかない。
知らない文字になったわけではない。
単語の意味が消えたわけでもない。
ただ、自分の記憶の中にあるはずの「この草の名前だ」という感覚だけが抜け落ちている。
クリルは背中が冷たくなるのを感じた。
魔穴を初めて見たときとは違う怖さだった。
魔物なら姿がある。
魔獣なら、近づいてくれば逃げることも戦うこともできる。
これは何を避ければいいのか分からない。
自分の頭の中で起きている。
クリルは布をアンティルへ見せ、草を指差したあと、首を横へ振った。
「またか」
アンティルは位置を確かめ、地面へ印をつける。
ジグもカギリ草を見ていた。
「俺も駄目だ。文字を見ればそう書いてあるのは分かる。でも、この草がその名前だったっていう感じがしない」
「他に忘れているものは?」
アンティルが尋ねる。
ジグが周囲を見た。
「この木は樫。あっちはシダ。お前はアンティルで、こっちはクリル。俺が誰かも分かる」
「里の名前は?」
「レナルド」
「昨日のことは」
「鹿を見つけた。魔獣になってた」
そこまで答えてから、ジグの顔が強張った。
「本当に、これだけなのか?」
「分からない」
アンティルは即答した。
「分からないから、長居しない」
クリルは手の中の葉を見る。
名前だけがない。
それ以外は何も変わっていないように思える。
けれど、もし別の何かも忘れていて、そのこと自体に気づいていないのだとしたら。
その考えが浮かんだ瞬間、クリルは昨日までよりずっと強く、自分の腰の袋を意識した。
中には黒布がある。
消えた集落について書いたもの。
魔穴について書いたもの。
魔獣になった鹿について書いたもの。
《旅人》の光について書いたもの。
自分の頭から何かが抜けても、文字は残っている。
少なくとも今は、カギリ草という文字が消えていない。
クリルは黒布をしっかり畳んだ。
「戻るぞ」
アンティルの言葉に従い、三人は再び東へ向かった。
先ほど印を置いた場所まで来たころ、名前は戻った。
今度は突然だった。
手にしていた葉を見た瞬間、クリルの中で文字と記憶が噛み合った。
カギリ草。
知っている。
母と採ったことも、ジグが傷口へ貼ってくれたことも、そのとき青臭い匂いが嫌で顔をしかめたことまで思い出せる。
記憶が新しく生まれたわけではない。
ずっとそこにあったものが、再び触れられるようになった感覚だった。
アンティルは二人の反応を確認しながら、帳面へ何かを書き込んでいた。
「魔穴の瘴気か?」
ジグが尋ねる。
「俺が知ってる瘴気に、こんな作用はない」
「じゃあ何だ」
「分からない」
またその言葉だった。
以前のクリルなら、そこで話が終わるように思ったかもしれない。
今は違う。
アンティルは分からないと言いながら、位置を測り、時刻を記し、クリルが書いた布と照らし合わせている。
分からないから止まるのではない。
分からない場所をはっきりさせている。
「消えた道と関係があると思うか?」
ジグが続けた。
アンティルは少し考えた。
「あるかもしれない。ただ、今の時点では同じ現象とは言えない。道は物理的に変わってる。こっちは記憶への影響だ」
「消えた集落は?」
「それも分からない」
ロビたちが立ち寄ったはずの場所。
周囲の者はその存在を覚えていなかった。
クリルは黒布を開き、
〈似てる?〉
と書く。
「少しな」
アンティルは文字を見ながら答えた。
「物が消えたから忘れたのか、忘れたから見つけられなくなったのか、それさえまだ分からない」
クリルの胸の奥に、小さな不安が沈んだ。
目の前にある草の名前ですら、一時的に取り出せなくなった。
なら、もっと大きなものでも同じことが起こるのだろうか。
道。
集落。
人。
そこまで考え、クリルは白筆を止めた。
書きたくないと思った。
けれど、それではアンティルに教わったことと反対になる。
クリルは布の端へ、小さく記した。
〈人も忘れる?〉
アンティルは長い間、それを見ていた。
「分からない」
やがて返ってきたのは、やはり同じ言葉だった。
「でも、可能性がないとは言えない」
クリルは布から目を離せなかった。
「だから残す」
アンティルが続けた。
クリルが顔を上げる。
「記憶は間違える。忘れることもある。人から聞いた話だって変わる。でも、記録しておけば、少なくともその時点で自分が何を見て、何を覚えていたかは残る」
アンティルはクリルの黒布を指した。
「今日、お前が名前を忘れている間も、そこに書いた文字は消えなかった」
クリルは自分で書いた〈カギリ草〉を見る。
ほんの少し前まで、その文字だけが自分から切り離されたもののように感じられた。
それでも残っていた。
思い出した今なら、意味も分かる。
もし書いていなかったら、この異変を「少し名前を忘れただけ」と片づけていたかもしれない。
記録したから、二度目を確かめられた。
どこから名前が失われ、どこで戻ったのかも残せる。
クリルは黒布の余白へ、新しい一文を書いた。
〈忘れても、文字は残った〉
アンティルがそれを読み、何も直さなかった。
◇
里へ戻ったあと、魔穴跡の周囲へはしばらく近づかないことになった。
里長にはアンティルから報告し、狩りの範囲も一部変更する。魔穴が再び開いたわけではないため大掛かりな避難までは必要ないものの、原因が分からない以上、子供や一人で行動する者を近づける理由もない。
クリルは家の食卓で、その話を聞いていた。
「名前だけ、ねえ」
ミーリャは夕食用の野菜を切りながら、机の上に置かれたカギリ草の葉を見た。
森から持ち帰ったものだった。
「今は分かるの?」
クリルは黒布へ、
〈分かる〉
と書く。
「じゃあ、これは?」
ミーリャが別の野菜を持ち上げた。
クリルはすぐ名前を書いた。
「これは?」
今度は木の匙を持ち上げる。
それも分かる。
「ミーリャ、遊ぶな」
ジグが呆れた声を出した。
「確認してるの」
「匙の名前を忘れてたら飯食ってる途中で気づくだろ」
「念のためよ」
ミーリャは真顔で返したあと、今度は自分を指差した。
「じゃあ私は?」
クリルはしばらく母を見つめた。
わざと考えるふりをする。
ミーリャの表情が少しずつ不安になったところで、黒布へ大きく、
〈里一番の美人〉
と書いた。
「もう!」
肩を軽く叩かれた。
クリルは声を出せない代わりに、目を細めて笑った。
ジグも堪えきれずに笑っている。
ほんの少しだけ、いつもの食卓へ戻った。
けれどクリルは、机の端に置いたカギリ草を何度か見た。
名前は分かる。
今は。
◇
夕食を終えると、クリルは大樹の下へ向かった。
昼の暑さが抜け始め、白い葉の間から夕暮れの光が細く落ちている。
商隊の出発準備はかなり進んでいた。
馬車の荷は積み直され、馬たちには長旅に備えて新しい蹄具が取り付けられている。数日中には里を離れるらしい。
その事実を思うと、以前とは違う感覚があった。
ロビが帰っていく。
アンティルも行く。
その先にはイトゥアンがあり、さらに道を進めばキルガスがある。
世界中の記録が集まる大図書院も、その道のずっと先にある。
クリルは大樹の根元に腰を下ろした。
黒布を広げる。
今日の出来事を、最初から書き直した。
魔穴の跡そのものには大きな変化がなかったこと、一定の範囲へ入るとカギリ草の名前を思い出せなくなったこと、草の用途や姿についての記憶は残っていたこと、範囲から出ると名前が戻ったことを書き、それが二度繰り返されたことまで記す。
そして、最後には推測として印をつけた。
〈消えた集落や消えた道と関係があるかもしれない。でも、まだ分からない〉
ここ数日で、布に書く文字はずいぶん増えた。
最初は声の代わりだった。
誰かへ何かを伝えるために書き、相手が読めば消していた。
けれど今は、消したくないものが増えている。
自分が見たことを、明日まで残したい。
明日の自分が覚えていなくても読めるように。
遠くの誰かが見ても分かるように。
クリルは昼間に書いた一文を、もう一度最後へ写した。
〈忘れても、文字は残った〉
「また書いてるのか」
アンティルの声がしても、今度は布を隠さなかった。
彼は少し離れたところへ座り、クリルの手元を覗き込む。
「今日のは大図書院へ持っていく価値がある」
白筆が止まった。
〈本当に?〉
「ああ。珍しいからじゃない。似た記録がどこかにあるかもしれない」
クリルはその文字を見つめたまま考えた。
大図書院。
最初は《旅人》について知るための場所だった。
次に、知らない魔法の本がある場所になった。
今では、消えた集落や魔穴、今日のような奇妙な出来事について、世界のどこかに残された記録と照らし合わせられる場所になっている。
行けば何か分かるかもしれない。
そう思った瞬間、胸の中で何かが僅かに動いた。
《旅人》の光ではなかった。
道も現れない。
それでも、以前よりはっきりしているものがあった。
自分は、知りたい。
アンティルが立ち去ったあとも、クリルはしばらく大樹の下に残った。
里の家々には明かりが灯り始め、遠くではミーリャが誰かを呼ぶ声が聞こえている。幼いころから変わらず見てきた景色だった。
ここにいたいと思う気持ちは、まだある。
だからこそ、自分が外へ行きたいと思い始めていることを、ファルナのせいにはできない気がした。
《旅人》が命じたからではない。
里の者に出ていってほしいと言われたからでもない。
今日、名前を失った草を見て怖かった。
その理由を知りたいと思った。
消えた道についても、集落についても、《旅人》についても知りたい。
そしてアンティルが小石一つから教えてくれた魔法の先を、自分でも見てみたい。
クリルは黒布の最後に、これまでとは少し違う一文を書いた。
〈大図書院を見てみたい〉
書いたあともしばらく消さずに眺めていた。
それはまだ、旅立つという決意ではなかった。
けれど初めて、誰かに示されたのではない行き先が、クリル自身の中に生まれていた。 魔法というものは、もっと派手なところから始まるものだとクリルは思っていた。
炎を出すのが難しいなら、小さな火花でもいい。風なら髪が揺れる程度でも構わないし、昨日アンティルがやったように地面をほんの少し盛り上げるだけでも、魔法を使ったという実感は十分に得られるはずだった。
ところが、アンティルが朝からクリルにやらせているのは、相変わらず灰色の石を握ることだった。
オウロウの大樹の根元から少し離れた場所で、クリルは両手に収まる石を見つめながら、これで何度目かになるため息を鼻から吐いた。
「温まったぞ」
向かいに座っているアンティルが言った。
それ自体は嬉しい。
昨日までは体温と区別がつくかどうかという程度だったのに、今日は石の中心からじんわりと熱が広がっているのを自分でも感じられる。魔力を通す感覚も、最初ほど曖昧ではなくなっていた。
だからこそ、次へ進みたかった。
クリルは黒布を開き、白筆を走らせた。
〈次は火〉
「まだ早い」
予想していた答えだったので、すぐ下へ書き足す。
〈風でもいい〉
「もっと早い」
〈土〉
「昨日見たからって、いきなりそこへ行こうとするな」
クリルは顔をしかめ、最後の抵抗として石を指差した。
〈ずっとこれ?〉
「ずっとではない。まず、自分の魔力を自分で動かしている感覚を覚えろ。そこが曖昧なまま形だけ作ろうとすると、失敗したときに何が悪かったのか分からなくなる」
正しいことを言われているのだろうが、面白くはない。
そんなクリルの不満を知っているのかいないのか、アンティルは彼女の手から石を受け取り、地面へ置いた。
「じゃあ少し変えるか」
クリルの耳が立つ。
「石を動かしてみろ」
期待していたものとは違ったが、少なくとも新しい。
クリルはすぐ石へ手を伸ばしかけたものの、途中で止めた。
触らずに、という意味だ。
「押すんじゃない。お前がさっき石へ流していた魔力を、今度は外側へ出す。それで石が向こうへ動くところを思い浮かべろ」
クリルは目の前に置かれた石を見る。
丸みのある、ありふれた小石だった。
それが地面を転がる。
想像するだけなら簡単だ。
両手を石へ向け、身体の奥にある流れを探す。
以前より早く見つかる。
胸のあたりにあった感覚を腕へ送り、掌へ近づけるところまではできた。
そこから先が難しい。
今までは触れている石へ流し込めばよかった。けれど今日は、何もない空間へ出さなければならない。
力を込めると感覚が薄れた。
焦ってさらに押し出そうとすると、今度は完全に消える。
「身体で押すな」
アンティルが言う。
クリルは肩を落とした。
「魔力を使おうとすると、お前はすぐ腕に力を入れる。獣人は身体を使い方に長けているから、そうなりやすい」
少し離れた場所では、商隊の者たちが出発へ向けた荷の整理をしていた。
昨日の雨で湿った綱を、一人の術者が馬車の横へ並べている。その男が細い杖を掲げ、短い言葉を唱えると、綱の周囲へ淡い橙色の光が広がり、水気が白い蒸気となって浮かんだ。
クリルは思わずそちらを見る。
詠唱は短かった。
それでも、声がある。
杖もある。
子供のころから見てきた魔法は、だいたいああいうものだった。
術者が言葉を唱え、杖や指先から火や風が生まれる。
声を失ってから、クリルは魔法を使うことをほとんど諦めていた。里に魔術師はいなかったし、外から来る術者に尋ねても、まず呪文を覚えろと言われる。それができない以上、自分とは縁のないものなのだと思っていた。
アンティルだけが違った。
クリルは黒布へ書く。
〈どうして呪文いらない?〉
「いらないわけじゃない」
意外な答えだった。
クリルが首を傾けると、アンティルは先ほど綱を乾かした術者を目で示した。
「あれは、乾かす状態を呪文と杖で作ってる。どのくらいの熱にするか、どこまで広げるか、どういう形で魔力を流すかを、覚えた言葉と動作で固定してるんだ」
〈魔法は呪文じゃない?〉
「違う。少なくとも俺はそう考えてる」
アンティルは自分の掌を上へ向けた。
何も唱えないまま、掌の少し上に小さな黒い光が生まれる。
それは炎になるほど大きくならず、種火ほどの大きさで静かに揺れた。
「魔法は、自分の魔力を望んだ形にすることだ。詠唱も杖も、それを安定させるための補助にすぎない」
クリルは黒い光へ見入った。
何度見ても不思議だった。
声を必要としない魔法。
自分には閉ざされていると思っていた場所に、実は別の入口があったような気がする。
〈じゃあみんな無詠唱できる?〉
「理屈の上では可能だ」
期待したのも束の間、アンティルは続けた。
「実際にできるかは別の話だがな。言葉に任せていた部分まで全部、自分の頭の中で組み上げなきゃならない。少しでもイメージが崩れれば魔法も崩れる」
クリルは黒い光と灰色の石を見比べた。
アンティルにはあれができる。
自分は小石一つ動かせない。
先が遠い。
「それと、お前は元々魔力が多い方じゃない」
さらに追い打ちが来た。
クリルの耳が下がる。
「獣人には珍しくない。魔力が少ない代わりに身体が強い。お前の場合、特にそっちへ偏ってる」
〈向いてない?〉
少しだけ迷ってから書いた。
アンティルは布を読み、すぐには答えなかった。
「大きな魔法を何度も使うのには向いてないだろうな」
やっぱり。
そう思ったところで、続きが来る。
「だから使えない、とは言ってない」
クリルは顔を上げる。
「自分にないものを無理に増やす必要はない。少ないなら、少ないなりに使えばいい。お前の場合は、身体の動きを邪魔しない程度の補助から覚えた方がいいだろう」
それがどんな魔法なのかはまだ分からない。
けれど、できないとは言われなかった。
クリルは地面の石へ向き直った。
さっきより肩の力を抜く。
石を遠くへ飛ばす必要はない。
ほんの少し動けばいい。
自分の魔力が掌の先へ抜け、その流れに押されて石が転がるところを思い浮かべる。
身体の奥から腕へ、腕から掌へ。
その先へ。
何も起こらない時間が続いたあと、小石の横に積もっていた土がわずかに震えた。
クリルは息を止めそうになったが、そこで集中を切らさない。
もう少し。
石の片側に、ごく弱い力を置く。
灰色の石が傾き、地面の窪みから半分だけ転がった。
そこで魔力の感覚が消えた。
けれど石は、最初にあった場所から指一本分ほど離れている。
クリルはそれを見つめ、それからアンティルを見た。
「動いたな」
黒布を取るのも忘れ、何度も石を指差す。
「見てた」
クリルは石を拾い上げた。
自分が動かした。
触らずに。
昨日見た黒い炎とは到底比べられない。
それでも、その小さな石はクリルにとって、アンティルの炎と同じくらい鮮やかに見えた。
「今日はそこまでだ」
すぐに終わらされた。
クリルが抗議の顔を向けると、アンティルは立ち上がりながら、森の方へ視線を向けた。
「午後から魔穴の跡を見に行く。来るなら魔力を残しておけ」
その言葉で、抗議は止まった。
◇
森へ入ったのは、陽が真上を少し過ぎたころだった。
今回の目的は魔穴が再び開いていないか確認することと、周辺に瘴気が残っていないか調べることだった。
里長は別の仕事があり、代わりにジグが同行した。
数日前ならアンティルと森へ入ることそのものに難色を示しただろうが、今日は出発前に「勝手に先へ行くな」とクリルへ言っただけで、アンティルについては何も言わなかった。
完全に警戒を解いたわけではない。
それでも、少し変わった。
クリルにはそれで十分だった。
消えた猟道の近くまで来ると、三人は一度足を止めた。
道は戻っていない。
以前なら人と獣が通っていたはずの場所には、太い木々と下草が根を張り、何年も前からそうだったように森が続いている。
クリルは黒布を出し、以前記録した内容と見比べた。
樫の根元の苔。
途中だけ失われた道。
向こう側に残った猟道の続き。
前回と変わったところは見つからない。
「ここは後で測り直す」
アンティルが言った。
今回はそこを通り過ぎ、魔穴を閉じた窪地へ向かう。
近づくにつれて、クリルは空気の匂いを確かめた。
以前のように吸い込んだだけで胸が冷えるほどではない。それでも、湿った土の匂いに混ざって、わずかな違和感が残っている。
魔穴のあった場所は、まだ大きく窪んでいた。
崩れた土の一部には黒っぽい変色が残り、その周囲だけ草が伏せている。
アンティルは窪地から少し離れたところで荷を下ろし、細長い棒と小さな瓶を取り出した。
クリルはその一つ一つを見ていた。
「触るなよ」
先に言われた。
クリルは不満そうに目を細める。
「何か分かってからなら渡す」
仕方なく少し離れ、周囲を観察することにした。
魔穴そのものばかり見ても仕方がない。
アンティルなら、見えるものを全部見ろと言うはずだ。
クリルは窪地の周囲をゆっくり歩いた。
前回の戦いで折れた枝がある。
ジグが魔物を斬った場所には黒い染みが薄く残っている。
雨を一度挟んだため、地面の足跡はかなり消えていた。
その少し先に、小さな草の群れが生えている。
クリルは何気なく視線を向け、通り過ぎようとした。
そこで足が止まった。
知っている草だった。
森のどこにでもある。
膝にも届かないほどの高さで、細長い葉の縁には浅い切れ込みがあり、茎を折れば青臭い汁が出る。狩りの最中に小さな傷を作ったときは、葉を揉んで布の下へ当てることもある。
クリル自身、何度も使った。
なのに、名前が出てこない。
ただ忘れただけだと思った。
よく知っている言葉ほど、たまに急に出てこなくなることはある。
クリルはしゃがみ込み、葉を一枚眺めた。
形は分かる。
用途も分かる。
春から秋まで生えることも、日陰の湿った土を好むことも知っている。
母に教わった。
ジグと森へ入ったときにも採った。
名前だけがない。
クリルは黒布を出した。
白筆を置く。
いつもなら、考えるより先に手が動くはずだった。
けれど一文字も書けなかった。
「どうした?」
近くにいたジグが気づいた。
クリルは草を指差し、布へ書いた。
〈これ何だっけ〉
ジグは草を見る。
「それは……」
言葉が止まった。
クリルは顔を上げた。
ジグが眉を寄せる。
「待て。知ってるぞ。傷につけるやつだろ」
クリルは強く肯定した。
「あれだよ。ほら……」
出てこない。
ジグまで。
その様子を見ていたアンティルが作業を止め、こちらへ歩いてきた。
「何があった」
ジグが草を指差す。
「これの名前が出てこない」
「知らないだけじゃなく?」
「そんなわけあるか。里の子供でも知ってる草だぞ」
クリルも黒布を見せる。
アンティルは草へ視線を落としたあと、クリルの布を読む。
「見たことは?」
〈いっぱいある〉
「用途は?」
クリルは書く。
〈傷。葉を揉んで使う〉
「どこに生える」
〈湿った日陰〉
「季節は」
〈春から秋〉
質問にはすぐ答えられる。
何も忘れていない。
草そのものについては、ほとんど全部覚えている。
名前だけが、どこにもない。
アンティルの表情が変わった。
「ここから離れる」
ジグが訝しそうに見る。
「草から?」
「魔穴跡からだ」
三人は来た道を戻った。
百歩ほど進んでも、クリルはまだ名前を思い出せなかった。
さらに森を抜け、消えた猟道のところまで戻る。
そこで、頭の中へ突然言葉が戻ってきた。
あまりにも自然だったため、一瞬は何が起こったのか分からなかった。
クリルは立ち止まり、黒布を開く。
さっき書けなかった場所へ白筆を走らせた。
〈カギリ草〉
「そうだ」
ほとんど同時に、ジグも言った。
「カギリ草だ。何で出てこなかったんだ」
クリルは自分で書いた文字を見る。
カギリ草。
何度も知っていた名前だった。
忘れていた感覚すら、今は薄い。
アンティルだけが二人のように安堵せず、すぐ帳面を開いた。
「戻った場所を覚えてるか」
クリルは周囲を見る。
消えた猟道の手前。
曲がった樫より東。
だいたいの場所は分かる。
アンティルはそこへ小さな石を置いて印にした。
「もう一度行く」
「もう一度?」
ジグが顔をしかめる。
「確かめないと、ただの物忘れかもしれない」
「二人同時にか?」
「だから確かめる」
アンティルはクリルを見る。
「嫌ならここで待ってろ」
クリルは黒布へ大きく書いた。
〈行く〉
答えは決まっていた。
◇
二度目は、最初から準備した。
アンティルはクリルにカギリ草の葉を一枚持たせ、黒布にも名前をはっきり書かせた。
〈カギリ草〉
その文字を見てから森を進む。
消えた猟道を越えたところでは、まだ名前が分かる。
さらに魔穴跡へ近づく。
クリルは何度か手元の葉を見た。
カギリ草。
知っている。
まだ大丈夫だ。
そこから十数歩進んだところで、違和感が来た。
葉を見ても、名前が浮かばない。
さっきまで確かに分かっていた。
クリルは立ち止まり、黒布を開いた。
そこには、自分が書いた文字が残っていた。
〈カギリ草〉
読める。
カギリ草、と書いてあることも分かる。
けれど、その言葉と手に持っている葉が、頭の中でうまく結びつかない。
知らない文字になったわけではない。
単語の意味が消えたわけでもない。
ただ、自分の記憶の中にあるはずの「この草の名前だ」という感覚だけが抜け落ちている。
クリルは背中が冷たくなるのを感じた。
魔穴を初めて見たときとは違う怖さだった。
魔物なら姿がある。
魔獣なら、近づいてくれば逃げることも戦うこともできる。
これは何を避ければいいのか分からない。
自分の頭の中で起きている。
クリルは布をアンティルへ見せ、草を指差したあと、首を横へ振った。
「またか」
アンティルは位置を確かめ、地面へ印をつける。
ジグもカギリ草を見ていた。
「俺も駄目だ。文字を見ればそう書いてあるのは分かる。でも、この草がその名前だったっていう感じがしない」
「他に忘れているものは?」
アンティルが尋ねる。
ジグが周囲を見た。
「この木は樫。あっちはシダ。お前はアンティルで、こっちはクリル。俺が誰かも分かる」
「里の名前は?」
「レナルド」
「昨日のことは」
「鹿を見つけた。魔獣になってた」
そこまで答えてから、ジグの顔が強張った。
「本当に、これだけなのか?」
「分からない」
アンティルは即答した。
「分からないから、長居しない」
クリルは手の中の葉を見る。
名前だけがない。
それ以外は何も変わっていないように思える。
けれど、もし別の何かも忘れていて、そのこと自体に気づいていないのだとしたら。
その考えが浮かんだ瞬間、クリルは昨日までよりずっと強く、自分の腰の袋を意識した。
中には黒布がある。
消えた集落について書いたもの。
魔穴について書いたもの。
魔獣になった鹿について書いたもの。
《旅人》の光について書いたもの。
自分の頭から何かが抜けても、文字は残っている。
少なくとも今は、カギリ草という文字が消えていない。
クリルは黒布をしっかり畳んだ。
「戻るぞ」
アンティルの言葉に従い、三人は再び東へ向かった。
先ほど印を置いた場所まで来たころ、名前は戻った。
今度は突然だった。
手にしていた葉を見た瞬間、クリルの中で文字と記憶が噛み合った。
カギリ草。
知っている。
母と採ったことも、ジグが傷口へ貼ってくれたことも、そのとき青臭い匂いが嫌で顔をしかめたことまで思い出せる。
記憶が新しく生まれたわけではない。
ずっとそこにあったものが、再び触れられるようになった感覚だった。
アンティルは二人の反応を確認しながら、帳面へ何かを書き込んでいた。
「魔穴の瘴気か?」
ジグが尋ねる。
「俺が知ってる瘴気に、こんな作用はない」
「じゃあ何だ」
「分からない」
またその言葉だった。
以前のクリルなら、そこで話が終わるように思ったかもしれない。
今は違う。
アンティルは分からないと言いながら、位置を測り、時刻を記し、クリルが書いた布と照らし合わせている。
分からないから止まるのではない。
分からない場所をはっきりさせている。
「消えた道と関係があると思うか?」
ジグが続けた。
アンティルは少し考えた。
「あるかもしれない。ただ、今の時点では同じ現象とは言えない。道は物理的に変わってる。こっちは記憶への影響だ」
「消えた集落は?」
「それも分からない」
ロビたちが立ち寄ったはずの場所。
周囲の者はその存在を覚えていなかった。
クリルは黒布を開き、
〈似てる?〉
と書く。
「少しな」
アンティルは文字を見ながら答えた。
「物が消えたから忘れたのか、忘れたから見つけられなくなったのか、それさえまだ分からない」
クリルの胸の奥に、小さな不安が沈んだ。
目の前にある草の名前ですら、一時的に取り出せなくなった。
なら、もっと大きなものでも同じことが起こるのだろうか。
道。
集落。
人。
そこまで考え、クリルは白筆を止めた。
書きたくないと思った。
けれど、それではアンティルに教わったことと反対になる。
クリルは布の端へ、小さく記した。
〈人も忘れる?〉
アンティルは長い間、それを見ていた。
「分からない」
やがて返ってきたのは、やはり同じ言葉だった。
「でも、可能性がないとは言えない」
クリルは布から目を離せなかった。
「だから残す」
アンティルが続けた。
クリルが顔を上げる。
「記憶は間違える。忘れることもある。人から聞いた話だって変わる。でも、記録しておけば、少なくともその時点で自分が何を見て、何を覚えていたかは残る」
アンティルはクリルの黒布を指した。
「今日、お前が名前を忘れている間も、そこに書いた文字は消えなかった」
クリルは自分で書いた〈カギリ草〉を見る。
ほんの少し前まで、その文字だけが自分から切り離されたもののように感じられた。
それでも残っていた。
思い出した今なら、意味も分かる。
もし書いていなかったら、この異変を「少し名前を忘れただけ」と片づけていたかもしれない。
記録したから、二度目を確かめられた。
どこから名前が失われ、どこで戻ったのかも残せる。
クリルは黒布の余白へ、新しい一文を書いた。
〈忘れても、文字は残った〉
アンティルがそれを読み、何も直さなかった。
◇
里へ戻ったあと、魔穴跡の周囲へはしばらく近づかないことになった。
里長にはアンティルから報告し、狩りの範囲も一部変更する。魔穴が再び開いたわけではないため大掛かりな避難までは必要ないものの、原因が分からない以上、子供や一人で行動する者を近づける理由もない。
クリルは家の食卓で、その話を聞いていた。
「名前だけ、ねえ」
ミーリャは夕食用の野菜を切りながら、机の上に置かれたカギリ草の葉を見た。
森から持ち帰ったものだった。
「今は分かるの?」
クリルは黒布へ、
〈分かる〉
と書く。
「じゃあ、これは?」
ミーリャが別の野菜を持ち上げた。
クリルはすぐ名前を書いた。
「これは?」
今度は木の匙を持ち上げる。
それも分かる。
「ミーリャ、遊ぶな」
ジグが呆れた声を出した。
「確認してるの」
「匙の名前を忘れてたら飯食ってる途中で気づくだろ」
「念のためよ」
ミーリャは真顔で返したあと、今度は自分を指差した。
「じゃあ私は?」
クリルはしばらく母を見つめた。
わざと考えるふりをする。
ミーリャの表情が少しずつ不安になったところで、黒布へ大きく、
〈里一番の美人〉
と書いた。
「もう!」
肩を軽く叩かれた。
クリルは声を出せない代わりに、目を細めて笑った。
ジグも堪えきれずに笑っている。
ほんの少しだけ、いつもの食卓へ戻った。
けれどクリルは、机の端に置いたカギリ草を何度か見た。
名前は分かる。
今は。
◇
夕食を終えると、クリルは大樹の下へ向かった。
昼の暑さが抜け始め、白い葉の間から夕暮れの光が細く落ちている。
商隊の出発準備はかなり進んでいた。
馬車の荷は積み直され、馬たちには長旅に備えて新しい蹄具が取り付けられている。数日中には里を離れるらしい。
その事実を思うと、以前とは違う感覚があった。
ロビが帰っていく。
アンティルも行く。
その先にはイトゥアンがあり、さらに道を進めばキルガスがある。
世界中の記録が集まる大図書院も、その道のずっと先にある。
クリルは大樹の根元に腰を下ろした。
黒布を広げる。
今日の出来事を、最初から書き直した。
魔穴の跡そのものには大きな変化がなかったこと、一定の範囲へ入るとカギリ草の名前を思い出せなくなったこと、草の用途や姿についての記憶は残っていたこと、範囲から出ると名前が戻ったことを書き、それが二度繰り返されたことまで記す。
そして、最後には推測として印をつけた。
〈消えた集落や消えた道と関係があるかもしれない。でも、まだ分からない〉
ここ数日で、布に書く文字はずいぶん増えた。
最初は声の代わりだった。
誰かへ何かを伝えるために書き、相手が読めば消していた。
けれど今は、消したくないものが増えている。
自分が見たことを、明日まで残したい。
明日の自分が覚えていなくても読めるように。
遠くの誰かが見ても分かるように。
クリルは昼間に書いた一文を、もう一度最後へ写した。
〈忘れても、文字は残った〉
「また書いてるのか」
アンティルの声がしても、今度は布を隠さなかった。
彼は少し離れたところへ座り、クリルの手元を覗き込む。
「今日のは大図書院へ持っていく価値がある」
白筆が止まった。
〈本当に?〉
「ああ。珍しいからじゃない。似た記録がどこかにあるかもしれない」
クリルはその文字を見つめたまま考えた。
大図書院。
最初は《旅人》について知るための場所だった。
次に、知らない魔法の本がある場所になった。
今では、消えた集落や魔穴、今日のような奇妙な出来事について、世界のどこかに残された記録と照らし合わせられる場所になっている。
行けば何か分かるかもしれない。
そう思った瞬間、胸の中で何かが僅かに動いた。
《旅人》の光ではなかった。
道も現れない。
それでも、以前よりはっきりしているものがあった。
自分は、知りたい。
アンティルが立ち去ったあとも、クリルはしばらく大樹の下に残った。
里の家々には明かりが灯り始め、遠くではミーリャが誰かを呼ぶ声が聞こえている。幼いころから変わらず見てきた景色だった。
ここにいたいと思う気持ちは、まだある。
だからこそ、自分が外へ行きたいと思い始めていることを、ファルナのせいにはできない気がした。
《旅人》が命じたからではない。
里の者に出ていってほしいと言われたからでもない。
今日、名前を失った草を見て怖かった。
その理由を知りたいと思った。
消えた道についても、集落についても、《旅人》についても知りたい。
そしてアンティルが小石一つから教えてくれた魔法の先を、自分でも見てみたい。
クリルは黒布の最後に、これまでとは少し違う一文を書いた。
〈大図書院を見てみたい〉
書いたあともしばらく消さずに眺めていた。
それはまだ、旅立つという決意ではなかった。
けれど初めて、誰かに示されたのではない行き先が、クリル自身の中に生まれていた。




