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コルコニアの旅人たち  作者: 南河鯨
1章 / 旅立ち

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10/27

10 / 行きたい場所

 翌朝、クリルは狩りへ出た。


 魔穴が見つかってから、里の西側では狩りを控えるようになっている。そのため普段より東寄りの森へ入り、慣れた斜面を抜けながら獲物の痕跡を探した。


 ここ数日は誰かと一緒に森へ入ることが多かったので、一人で歩くのは久しぶりだった。


 足元には夜露が残っている。


 細い草を踏めば、冷たい雫が靴へ染み込む。頭上では小鳥が短く鳴き交わし、少し離れた場所では木の実を落とした小動物が、こちらへ気づいた途端に幹を駆け上がっていった。


 いつもの森だった。


 数日前に魔穴を見て、魔獣になった鹿を仕留め、知っている草の名前まで思い出せなくなったことが嘘だったように、東側の森には何も変わったところがない。


 クリルは歩きながら、ときどき地面へ視線を落とした。


 小さな蹄跡がある。


 昨日の夕方についたものらしい。


 その先では低木の葉が食われ、まだ切り口が乾いていない。近くに糞も残っていることから、獲物はそう遠くへ行っていないだろう。


 クリルは腰を落とし、風向きを確かめた。


 狩りをしている間は、余計なことを考えなくて済む。


 足跡を追い、風を読み、相手より先にこちらの存在を悟られないよう進む。何年も繰り返してきたことなので、身体の動きには迷いがなかった。


 やがて木々の向こうに小さな鹿の姿が見えた。


 若い雌だった。


 こちらには気づいていない。


 クリルは弓を持ち上げようとして、途中で止めた。


 首筋を見る。


 何もない。


 黒い筋も、異様な膨らみもない。


 鹿は普通に葉を食べている。


 それだけのことに、少し安心した。


 その気持ちに気づいた瞬間、狩りへの集中が切れた。


 鹿の耳が動く。


 クリルは無理に矢を放たず、そのまま見送った。


 白い尾が木々の間へ消えていく。


 いつもなら惜しいと思うところだったが、今日はそうでもなかった。


 代わりに、森の中を見回す。


 この場所を知っている。


 あの木の向こうには小さな沢があり、さらに進めば冬でも水の涸れない泉がある。南へ下れば里へ戻り、西へ行けば先日魔穴が見つかった辺りへ近づく。


 幼いころから何度も歩いてきた森だ。


 知らない場所など、ほとんどない。


 それを今まで窮屈だと思ったことはなかった。


 むしろ、自分の足でどこへでも行ける場所だった。


 木の高さも、沢の深さも、雨が降ったあとに滑りやすくなる斜面も知っている。声が出なくても困らないし、人と話さなくても森なら多くのことを教えてくれる。


 ここで暮らし続けることはできる。


 狩りを覚え、家族を手伝い、成人すれば今より自由に森へ入れるようになる。ファルナのことが分からなくても、時間が経てば里の者たちの不安も薄れるかもしれない。


 その未来を思い浮かべてみる。


 嫌ではなかった。


 むしろ、とてもよく知っている、現実的な未来だった。


 朝になれば森へ入り、昼には獲物を持って戻り、夕方にはミーリャの料理を食べる。ジグに何かを注意され、たまにロビが来れば遠い土地の話を聞き、そのたびに少し羨ましいと思いながらも、彼が去ったあとはいつもの生活へ戻る。


 今までは、それで十分だった。


 クリルは腰の袋へ手を入れた。


 灰色の石が指先に触れる。


 アンティルから借りたものだった。


 その奥には何枚もの黒布がある。


 消えた集落について書いたもの。


 初めて見た魔穴について。


 魔獣になった鹿について。


 《旅人》の光について。


 そして昨日、名前を思い出せなくなったカギリ草について。


 数日前まで、どれ一つ知らなかった。


 知らなくても生きていけた。


 けれど今は、知ってしまった。


 世界には、自分が理解できないことがある。


 森の外には、それを調べるための記録があるかもしれない。


 クリルはその場に立ったまま、しばらく考えていた。


 大図書院。


 世界中の本が集まる場所。


 珍しいファルナの記録も、古い伝承も、誰かが見た奇妙な出来事も残されているかもしれない場所。


 そして、その途中には自分がまだ見たことのない町がある。


 イトゥアン。


 ロビが何度も話してくれた、大きな港町。


 そこには海がある。


 海というものを、クリルは本で描かれた絵と、旅人たちの話でしか知らない。


 森のどんな泉よりも大きく、向こう岸が見えないほど水が続いているという。


 そんなものが本当にあるのか、子供のころは少し疑っていた。


 今は見てみたい。


 その思いを意識した途端、胸の奥が静かに騒いだ。


 《旅人》の光は現れなかった。


 けれど、それでよかった。


 光がないからこそ、今考えていることがファルナに教えられたものではないと感じられた。


 クリルは来た道を振り返った。


 木々の向こうに里がある。


 帰ろうと思った。


 今日は、話さなければならないことがある。


     ◇


 家へ戻ると、ミーリャは昼食の準備をしていた。


 鍋から湯気が上がり、その横では切った根菜が木皿へ積まれている。ジグは戸口近くで狩猟刀の柄を直していて、クリルが手ぶらで帰ってきたことにすぐ気づいた。


「珍しいな。逃したのか?」


 クリルは少し考えてから、黒布へ書いた。


 〈逃がした〉


「逃げられた、じゃなく?」


 そこを拾われるとは思わなかった。


〈今日はいい〉


「まあ、そんな日もあるか」


 ジグはそれ以上追及せず、作業へ戻った。


 ミーリャが鍋をかき混ぜながら振り向く。


「手を洗って。もう少しでできるから」


 いつもの昼だった。


 だから余計に言い出しにくかった。


 クリルは水桶で手を洗い、席へ座った。


 しばらくして三人分の料理が並ぶ。


 ミーリャが焼いた薄いパンを置き、ジグが何も言わずに大きい方をクリルへ寄せた。


 それに気づいたミーリャが、少し呆れたように言う。


「甘やかさないで」


「大きさなんかほとんど一緒だろ」


「そういう問題じゃないの」


 いつもなら、そのやり取りを見ながら先に食べ始める。


 今日は黒布を膝の上に置いたまま、クリルは二人の顔を見ていた。


 ミーリャが気づいた。


「どうしたの?」


 クリルは白筆を持つ。


 一度書き始めようとして、止めた。


 何から書けばいいのか分からない。


 大図書院へ行きたい。


 それだけなら簡単だった。


 けれど、その言葉を書いた瞬間、今まで考えていたことが本当に決まってしまうような気がした。


「クリル?」


 ミーリャの声が少し心配そうになる。


 クリルは息を吐き、白筆を動かした。


 〈大図書院に行きたい〉


 書いた。


 昨日も同じ言葉を書いた。


 けれど、自分だけが読むために書いたときとは重さが違った。


 二人の視線が布へ落ちる。


 ジグの手が止まった。


「……キルガスまでか?」


 クリルは肯定した。


 ミーリャはすぐには何も言わなかった。


 鍋の中で煮汁が小さく音を立てている。


「《旅人》のことを調べるため?」


 クリルは白筆を動かした。


〈それも〉


 少し考え、その下へ続ける。


〈消えた集落も〉


〈魔穴も〉


 書いたところでクリルは一度布を拭き、文章をまとめ直した。


〈《旅人》のことだけじゃなくて、消えた集落や魔穴や、森で起きた変なことも調べたい〉


 さらに少し迷い、


〈魔法も勉強したい〉


 と足した。


 ジグが小さく息を吐いた。


「最後のが一番本音じゃないだろうな」


 クリルは否定しなかった。


 ミーリャが少しだけ笑ったが、その笑顔はすぐに消えた。


「いつ?」


〈ロビたちと〉


「商隊はもうすぐ発つわよ」


 分かっている。


 だから今日言わなければならないと思った。


 ジグが修理途中の柄を机へ置いた。


「待て。話が早すぎる」


 予想していた反応だった。


「大図書院へ行きたいのは分かった。でもキルガスは遠い。イトゥアンまでだって、この辺りの森を歩くのとは違うんだぞ」


 クリルは頷こうとして、代わりに布へ書く。


〈知ってる〉


「知らない」


 即座に返ってきた。


 クリルが顔を上げる。


「悪い意味じゃない。知らないのが普通なんだ。里の外へ出たことがないんだから」


 それは否定できない。


「森ならお前は強い。俺より気づくこともある。でも街道じゃ、それだけじゃ足りない。泊まる場所も考えなきゃならないし、知らない土地じゃ何が危険なのかすら分からない」


 クリルは黒布へ、


〈だからロビと行く〉


 と書いた。


「そこは少し安心してる」


 意外な答えだった。


「ロビがいるなら、知らない奴だけと行くよりはずっといい。商隊なら護衛もいるし、アンティルもいる」


 数日前なら、最後の名前は出なかっただろう。


 クリルはそのことに気づいたが、何も書かなかった。


「それでも心配なのは変わらない」


 ジグはそう言い、視線を机へ落とした。


「サリフのことがあったから、って言えば嫌がるだろうけどな」


 クリルの指先が止まった。


 嫌ではなかった。


 ただ、父が死んだことを理由に自分がどこへも行けなくなるのは違うと思った。


 その考えをどう書けばいいのか迷っているうちに、ミーリャが口を開いた。


「ねえ、クリル」


 母の声は、ジグのように強くなかった。


「一つだけ聞いてもいい?」


 クリルは顔を向けた。


「《旅人》じゃなかったとしても、行きたい?」


 白筆が止まった。


 ミーリャは続けなかった。


 ジグも何も言わない。


「役割に従わないと災いが起きるなんて話がなくても、里のみんなが何も言わなくても、誰もあなたに出ていってほしいと思っていなくても」


 そこで言葉を切り、ミーリャはクリルを見た。


「それでも、外へ行きたい?」


 今朝、森の中で考えていたことと同じだった。


 ここに残る未来。


 嫌ではない。


 今まで通り暮らすこともできる。


 むしろ、その方が楽だろう。


 怖いことは少ない。


 知らない人と話す必要もない。


 声が出ないことで困る場面も、里よりずっと多いはずだ。


 旅をすれば魔物にも遭う。


 魔獣にも。


 もしかすると、魔穴より危険なものもある。


 それでも。


 海を見たい。


 大図書院を見たい。


 アンティルが知っている魔法の続きを知りたい。


 《旅人》が何なのか知りたいし、消えた道や集落について、世界のどこかに同じ記録がないか確かめたい。


 ロビが何度も話してくれた町を、自分の目で見てみたい。


 知らない動物がいるなら見てみたい。


 知らない食べ物があるなら食べてみたい。


 知らない人がどんな暮らしをしているのかも知りたい。


 胸の中にあったものは、一つではなかった。


 きっかけは《旅人》だったのかもしれない。


 けれど今ここにある気持ちまで、全部ファルナのものだとは思えなかった。


 クリルは黒布へ白筆を置いた。


 今度は迷わなかった。


〈行きたい〉


 短い文字だった。


 それだけでは足りない気がして、続ける。


〈《旅人》じゃなくても行きたい〉


 ミーリャは長いあいだ、その文章を見ていた。


 やがて椅子へ深く座り直す。


「そう」


 声は静かだった。


 怒ってはいない。


 喜んでもいない。


 その両方が少しずつ混ざっているように見えた。


「それなら、私は止めない」


 ジグが顔を上げた。


「ミーリャ」


「だって、これを止めたら、この子はきっと何年経っても外を気にするでしょう」


「だからって」


「怖いわよ」


 ミーリャはジグを見る。


「私だって怖い。里の外どころか、イトゥアンまでだって一人で行かせたくない。でも、怖いからって、この子が行きたいって思ったことまでなかったことにはできないでしょ」


 ジグは黙った。


 ミーリャが今度はクリルを見る。


「ただし、一つ約束して」


 クリルは黒布を構えた。


「帰れないと思ったら、進むのをやめること」


 少し意外な言葉だった。


「《旅人》の光が出てもよ。道が見えたからって、必ず歩かなきゃいけないわけじゃないんでしょう?」


 昨日の森を思い出す。


 沢を真っ直ぐ越えていた光。


 崩れた斜面を進んでいた道。


 クリルは肯定した。


「なら、自分で危ないと思ったら止まりなさい。戻ってきてもいいし、誰かに助けてもらってもいい」


 クリルは少し考え、ゆっくりと頷いた。


 ミーリャはそれを確認してから、ようやく小さく笑った。


「じゃあ、オウロウ様に報告しないとね」


 その言葉が出た瞬間、決まったのだと思った。


 レナルドの始祖、オウロウ。大昔に世界中の争いを調停した英雄として知らない者はいない。この里に住む人々にとっては神のような存在ですらある。


 オウロウに報告するということは、神に娘の安全を祈願するようなものだ。


 まだ家を出てもいない。


 荷物もまとめていない。


 ロビにも同行したいと伝えていない。


 それでも、さっきまでとは何かが違う。


 ジグだけはまだ納得していない顔をしていた。


「俺は賛成したとは言ってないからな」


 クリルは彼を見る。


「でも、商隊と行くなら途中までは安全だ。ロビには俺からも話す」


 それはほとんど賛成ではないかと思ったが、書くのはやめておいた。


「それと、絶対に一人で先走るな。知らない道で勝手に森へ入るな。宿では戸締まりを確認しろ。食えるか分からないものを拾って食うな」


 次々に増えていく。


 クリルは途中から黒布へ、


〈多い〉


 と書いた。


「まだある」


〈もういい〉


「よくない」


 ミーリャが笑った。


 さっきまで重かった空気が、少しだけいつもの食卓へ戻った。


 クリルはようやく冷めかけた昼食へ手を伸ばした。


 いつもの味だった。


 それを食べながら、次にこの席へ座るのはいつになるのだろうと考えた。


 その想像だけは、少し寂しかった。


     ◇


 ロビを探すと、商隊の馬車の下にいた。


 正確には、上半身だけを車体の下へ入れ、何かを調べているところだった。


 クリルが近づいて足元へ立っても気づかない。


 靴先で軽く地面を叩くと、ようやく声がした。


「ちょっと待て。今手ぇ離すと落ちる」


 何が落ちるのか分からないので、そのまま待つ。


 しばらくしてロビが這い出してきた。


 髪にも頬にも土がついている。


「何だ、クリル。俺の働きぶりを見学しに来たか?」


 クリルは黒布を出した。


〈一緒に行きたい〉


 ロビの笑顔が止まった。


「どこへ」


〈大図書院〉


「遠いぞ」


 さっきも聞いた。


 クリルは少し面倒そうな顔をした。


「その顔はジグにも同じこと言われたな」


 よく分かっている。


「ミーリャは?」


〈止めないって〉


「ジグは?」


 少し考えて、


〈たぶん止めない〉


 と書いた。


「たぶんかよ」


 ロビは笑い、それから荷馬車へ背中を預けた。


「大図書院までうちの商隊が一直線に行くわけじゃないぞ。まずイトゥアンへ出る。その先も商売しながら進むから、寄り道は多い」


 それはむしろ嬉しかった。


 クリルの表情を見て、ロビも気づいたらしい。


「お前、早く着きたいんじゃなくて旅したいんだな」


 クリルはすぐに否定しなかった。


 大図書院へ行きたい。


 けれど、そこまでの道を飛ばしたいとは思わない。


 途中に何があるのかも見たい。


 黒布へ、


〈途中も見たい〉


 と書く。


 ロビはその文字を読んだあと、なぜか少し嬉しそうに笑った。


「そういうことなら、商隊は向いてるかもな」


 クリルの耳が上がる。


「ただし俺が決めるわけじゃない。商隊長には話す必要がある。それに客として乗せるのか、手伝いとして同行させるのかでも違う」


 クリルは頷く代わりに続きを待った。


「まあ、お前なら荷物一つ増えるくらいだし、狩りもできる。簡単な見張りも任せられるだろう」


 少し子供扱いされている気もする。


「それに」


 ロビは一度言葉を切り、里の方を見る。


「お前が本当に行くって決めたなら、俺は連れてってやりたい」


 クリルは彼を見る。


「昔から外の話をすると、ずっとあの顔してたからな」


〈どの顔〉


「そんな顔だよ」


 自分では分からない。


「森の小狐がとうとう巣穴から出るわけだ」


 クリルはすぐに黒布へ、


〈もう小狐じゃない〉


 と書いた。


「そこは変わらねえな」


 ロビは声を上げて笑った。


     ◇


 アンティルへ伝えたときの反応は、ロビよりずっと薄かった。


「そうか」


 それだけだった。


 クリルは不満になった。


 黒布へ、


〈それだけ?〉


 と書く。


「何を言えばいい」


〈びっくりしない?〉


「昨日から大図書院の話ばかりしてただろ」


 確かにそうだった。


「それに、あれだけ外へ興味を持っていて、結局行かない方が意外だ」


 クリルは少し考えた。


 自分以外には、そんなに分かりやすかったのだろうか。


 アンティルは帳面を閉じた。


「一つ聞く」


 クリルが顔を上げる。


「《旅人》だから行くのか?」


 今日二度目の質問だった。


 今度は迷わない。


〈違う〉


 その下へ続ける。


〈私が行きたい〉


 アンティルはそれを読んだ。


「ならいい」


 今度は、その短い返事で十分だった。


 クリルは腰の袋から灰色の石を取り出す。


 旅へ出ることが決まっても、魔法の練習をやめる理由にはならない。


 アンティルが少し呆れたような顔をする。


「今日はもうやっただろ」


〈もう一回〉


「明日もある」


 明日。


 その言葉を聞いたとき、今までとは違う意味で胸が動いた。


 明日も練習する。


 明後日も、その先も。


 今までなら、それはレナルドの大樹の下で続いていく時間だった。


 これからは、違う場所でも続くのかもしれない。


 街道の途中で。


 知らない町で。


 海の近くで。


 そして、いつか大図書院で。


 クリルは石を掌へ載せた。


 目を閉じ、身体の奥にある魔力を探す。


 昨日より見つけやすい。


 掌から外へ流し、石の片側を押すところを想像する。


 石が僅かに揺れた。


 それだけだった。


 それでも、クリルは満足した。


     ◇


 夜になると、里は静かだった。


 窓の外から虫の声が聞こえ、遠くでは商隊の馬が時折鼻を鳴らしている。


 クリルは寝台の上に座り、荷物を広げていた。


 まだ何を持っていけばいいのか分からない。


 着替え。


 黒布。


 白筆。


 狩りに使う道具。


 それらを一つずつ眺めていると、旅へ出るという言葉が急に現実味を帯びてくる。


 部屋の壁には、幼いころにつけた傷が残っている。


 窓から見える木も、ずっと同じ場所にある。


 ここで眠れば、朝にはいつもの森が待っている。


 それを置いていく。


 怖くないわけではなかった。


 昼間に家族へ〈行きたい〉と書いたときより、夜の静かな部屋で考える方がずっと怖い。


 本当に戻ってこられるのか。


 知らない土地で、自分の言葉は伝わるのか。


 もし《旅人》の光が危険なところを示したら、自分でちゃんと止まれるのか。


 もし魔穴のようなものが、外ではもっと普通にあるのなら。


 クリルは膝を抱えた。


 やめようと思えば、まだやめられる。


 誰も追い出してはいない。


 ミーリャは残ってもいいと思っている。


 ジグなら、やめると言えばたぶん安心する。


 里長も無理に送り出したりはしない。


 ファルナが何を望んでいるのかも分からない以上、《旅人》に逆らったことになるのかどうかさえ誰にも決められない。


 それでも、自分の胸の中へ問い直す。


 ここに残りたいか。


 答えは、少し前までなら「分からない」だった。


 今は違う。


 レナルドが嫌いになったわけではない。


 ここへ戻りたくないわけでもない。


 むしろ、帰ってきたい。


 だからこそ、その前に見てみたいものができた。


 クリルは黒布を一枚取り出した。


 これは誰かに見せるためではない。


 今日の自分が忘れないためのものだった。


 白筆を持ち、ゆっくり書く。


〈大図書院へ行く。〉


 一度止まり、その下へ続けた。


 〈《旅人》だからじゃない。〉


 さらに一行。


〈私が見たいから。〉


 書き終えると、クリルはしばらく文字を見つめた。


 光の道は現れなかった。


 だから、その夜初めて決めた道は、クリル自身のものだった。

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