11 / 始祖の記録
旅に出ると決めたからといって、翌朝には何もかも整っているわけではなかった。
持っていく衣類を選び、傷んだ革袋を直し、保存食を分けてもらい、旅慣れた者から必要な物を聞く。ミーリャは何度も同じ荷物を出したり入れたりし、ジグは頼まれてもいないのに短剣の手入れ道具を持ってきた。里の中ではクリルが本当に出ていくのだという事実が少しずつ現実味を帯び始め、道ですれ違うたびに声を掛ける者もいれば、何を言えばいいか分からない顔で目を逸らす者もいた。
つい数日前まで、《旅人》として里を出るべきかどうかを巡って意見が割れていたことを思えば、不思議な変化だった。
けれどクリル自身は、もう迷っていなかった。
誰かに出ていけと言われたからではない。
《旅人》という役割が現れたからでもない。
もしあの会議がなくても、誰も不安を口にしなくても、自分は外へ行きたいのか。
そう問われた時、答えは思っていたより早く出た。
見たい。
海も、大きな街も、地図にしか載っていない場所も、自分の知らない生き物も。アンティルが使う魔法も、ロビが話していた遠い土地も、里へ来る商人たちが何気なく口にする地名の向こう側も。
だから行く。
それが決まると、胸の奥に引っ掛かっていたものは驚くほど静かになった。
もっとも、その日の夕方、旅支度の途中でアンティルの姿が見えないことに気づくまでは。
*
ロビの商隊が使っている空き家にもいなかった。
荷馬車のそばにもいない。
里の外れにある魔穴の跡を見に行った様子もなく、クリルは何となく気になって、最後に共同舎の裏手へ回った。
そこには、里の古い記録を納めた小さな保管庫がある。
大きな町の記録院とは比べものにならない。石造りの低い建物で、普段は戸口に鍵が掛けられ、家系の記録や土地の取り決め、狩場の変遷、古い祭事など、日常的にはほとんど使われない書物が収められている。
扉が開いていた。
中を覗くと、予想通りアンティルがいた。
狭い机の上に何冊もの古書を広げ、その横には木札と紙片が山になっている。窓から入る夕暮れの光だけでは文字を読むには暗いらしく、彼の指先の少し上には小さな光球が浮かんでいた。
詠唱は聞こえなかった。
杖も使っていない。
クリルは戸口に立ったまま、その光を少しだけ見つめる。
何度見ても不思議だった。
里へ来た普通の術者なら、灯り程度の魔法でも短い詠唱を挟む。それをアンティルは呼吸をするほど自然に作り、必要がなくなれば手を払うだけで消してしまう。
「入るなら入れ」
こちらを見もしないでアンティルが言った。
クリルの耳がぴくりと立つ。
気づかれていた。
中へ入ると、古い紙と木の匂いが濃くなった。クリルは机まで近づき、アンティルが読んでいる書物を横から覗き込む。
見覚えのある名があった。
オウロウ。
クリルは顔を上げた。
アンティルは頁をめくったまま言う。
「この里に来るなら、ちゃんと調べてみたかった」
クリルは黒い書き布を取り出した。
〈オウロウ様を?〉
「ああ」
〈どうして?〉
「考古学者だから、で納得してくれるなら話は早い」
クリルは無言で見つめた。
「しない顔だな」
当然だった。
アンティルが昔のものを調べること自体は珍しくない。魔穴を見つければ周囲の地層を調べ、古い石碑があれば文字を写し、商人から昔話を聞けば出所まで尋ねる。
けれど、今机に並んでいるものは量が違った。
里の年代記。
家系記録。
祭事の由来。
大樹についての記述。
さらにはレナルドのものではなさそうな複写資料まで混じっている。
アンティルは一冊を閉じると、別の紙をクリルの前へ滑らせた。
「オウロウは、レナルドでは始祖として伝わってる」
クリルは頷く。
子供でも知っている話だ。
遠い昔、この地へやってきた狐獣人オウロウ。その血を引く者たちが集まり、やがてレナルドの氏族になった。
里の中央に立つ大樹も、オウロウに関わるものとして昔から大切にされている。
「オウロウに関する文献は多い」
アンティルが別の紙を指した。
そこにはレナルドから遠く離れた土地の名が記されていた。
フィルネ。
クリルには聞き覚えのない地名だった。
「北西の平原地帯に残った古い記録の写しだ。氏族同士の争いが長く続いていたらしい。水場と放牧地を巡って何度も人が死んでる」
指が文章を辿る。
記録には双方が武装し、次の衝突が避けられない状況だったことが書かれている。
その数行後。
『調停者オウロウ、両陣営の間に入る』
さらに次。
『争いは終結した』
クリルはもう一度読み返した。
それだけだった。
途中がない。
話し合ったのか。
誰かが条件を譲ったのか。
土地を分けたのか。
オウロウが何を言ったのか。
何も書かれていない。
アンティルが次の複写を出す。
「こっちはカルド峡谷。通行権を巡って二つの集団が衝突してる」
似たような記録だった。
争いの始まりについては細かい。
誰が最初に道を塞いだのか。
何人が負傷したのか。
どちらが何を要求したのか。
ところがオウロウの名が出た途端、記述が短くなる。
『オウロウが到着』
その次の記録では、もう争いが終わっている。
協定の条件すら残されていなかった。
〈オウロウ様が話し合いをしたんじゃない?〉
「普通ならそう考える」
アンティルは否定しなかった。
「実際、《調停者》なんて呼ばれてるくらいだ。交渉がうまかった。人望があった。双方から信用されていた。そういう説明で済ませることもできる」
そこで一度言葉を切り、机の上に散らばった資料を見る。
「でも、それにしては記録が綺麗すぎる」
クリルは首を傾げた。
「争いには理由がある。片方が譲れば、譲った側には不満が残る。土地を分ければ境界が残る。金で解決すれば支払いの記録が残る。誰かが謝れば、誰が悪かったかで後から揉める。何百人も関わった争いなら、一つの物語が書ける程だ」
アンティルの指が、フィルネの記録を軽く叩いた。
「なのに、オウロウが出てくる記録には、それがほとんどない。争っていた。オウロウが来た。終わった。妙なくらい、それだけだ」
クリルはもう一度文章を見る。
さっきまでは単に省略されているだけに見えたものが、急に気味の悪い空白へ変わった。
英雄譚なら不思議ではない。
偉大な人物が現れ、争う者たちを諭し、皆が心を入れ替える。
昔話ではよくある。
けれどこれは昔話ではなく、当時の出来事を書き残した記録だった。
〈昔だから、途中がなくなった?〉
「それもあり得る」
アンティルは頷いた。
「だから、これだけなら気にしなかった」
別の書物を開く。
「気になるのは、同じ欠け方をしてる記録が離れた土地にいくつもあることだ」
クリルの目が頁を追う。
地名も時代も違う。
争っていた者たちも違う。
けれど、オウロウが現れたところだけ、出来事の流れが急に滑らかになる。
人の感情が消えたわけではない。
記録者が怠けていたとも思えない。
むしろ直前まで丁寧に書かれているからこそ、その後の空白が目立った。
クリルは白筆を動かした。
〈オウロウは何をしたの?〉
「それが分からないから調べてる」
アンティルはあっさり答えた。
そして、少し考えてからもう一冊をクリルの前へ置いた。
「もう一つある」
それはレナルドに残る、かなり古い家系記録だった。
オウロウの名がある。
その後に子や孫と思われる名が続き、そこからいくつもの家系へ枝分かれしていた。
クリル自身の家も、ずっと辿ればそのどこかへつながる。
「レナルドでは、オウロウは始祖だ」
クリルが頷く。
「でも外の記録に出てくるオウロウは、この里の始祖としてより前から、ずっと《調停者》として記録されてる」
クリルは瞬きをした。
「普通のファルナなら、記録を辿ればどこかに発現した時期がある。少なくとも、有名な人物なら若い頃の役割や、後に上位の役割へ変わった記録が見つかることが多い」
アンティルがオウロウの名の横を指す。
「こいつには、それがない」
最も古い記録から《調停者》。
次の記録でも《調停者》。
遠く離れた土地の記録でも、同じ。
若い頃に何をしていたのか。
いつ《調停者》になったのか。
何から変わったのか。
そもそも、変わったことがあるのか。
何も残っていない。
クリルは自分の胸元へ視線を落とした。
《旅人》
里の誰も知らなかったファルナ。
アンティルも知らなかった。
ロビも。
里長が残る記録を調べても、同じ名は見つからなかった。
クリルの手が自然に白筆を動かす。
〈わたしと同じ?〉
「そこまでは言ってない」
返事はすぐだった。
クリルが少しだけ口を尖らせる。
「似てるところがある、と言ってる」
アンティルは机へ肘をついた。
「《旅人》は、少なくとも今のところ前例が見つからない。《調停者》も、オウロウ以前の系譜が見つからない。しかも、そのオウロウはレナルドの始祖だ」
〈だから調べてる?〉
「その一つだ」
〈他にもある?〉
「ある」
アンティルは光球を少し高い位置へ動かした。無詠唱の光が古い頁の上を滑り、褪せた文字の凹凸まで浮かび上がらせる。
「今、世界のあちこちで変なことが起き始めてる」
消えた集落。
名前が抜け落ちる記憶。
増えた魔穴。
本来ならそこにいるはずのない魔獣。
数日前まで、別々の奇妙な出来事に見えていたものだった。
「全部が同じ原因だとは思ってない。魔穴が増えたなら、里長が言ったみたいに魔王の活動を疑う理由もある。消えた集落は全く別のことかもしれない」
クリルは静かに聞く。
「でも、これまで通りの知識だけで説明できないことが増えてるのは確かだ」
アンティルの視線が古い記録へ戻る。
「そういう時は、今の常識から外れてるものを調べた方がいい」
〈オウロウ様みたいな?〉
「ああ」
少し間を置き、
「お前の《旅人》も含めてな」
クリルは白筆を止めた。
自分の役割を、アンティルが世界の異変と同じ机の上へ置いたのは初めてだった。
怖いとは思わなかった。
けれど、胸の中に小さなざわつきが生まれる。
〈《旅人》が世界をおかしくしてる?〉
「話を飛ばすな」
アンティルの声に責める響きはなかった。
「それを示す証拠は何もない」
クリルは少しだけ安心して耳を上げる。
「逆も同じだ。世界がおかしくなったからお前のファルナが現れたとも言えない。オウロウと血筋でつながってるから出たのかもしれないし、まったく関係ないかもしれない」
〈分からないことだらけ〉
「そういうものを調べる仕事だ」
クリルはアンティルを見る。
〈楽しい?〉
「今それを聞くのか」
ほんの少し呆れた顔になった。
クリルは頷く。
アンティルは数秒考え、
「分からなかったことが一つ分かれば、その後ろに三つくらい分からないことが増える」
そこで頁をめくった。
「だから終わらない」
答えになっていない。
けれどクリルには、たぶんそれが答えなのだと思えた。
アンティルが最後に取り出したのは、レナルドの古い記録だった。
「一番気になってるのは、これだ」
オウロウがレナルドの始祖であること。
その事実そのものは、他の資料と変わらない。
だが記録を追っていくと、あるところでオウロウの足跡が途切れていた。
死んだとは書かれていない。
どこかへ旅立ったともない。
病に倒れた記録もなければ、墓を作った記録もない。
ある時期から、ただ本人についての記述がなくなる。
〈お墓は?〉
「見つからない」
〈大樹の下とか〉
「そういう伝承もないだろ」
クリルは頷いた。
大樹はオウロウに由来する。
けれど墓だと教えられたことは一度もない。
「これだけ有名な人物なら、死について何か残っててもいい。ましてここは血筋が続いた場所だ」
アンティルが頁を閉じる。
「なのに最後だけ、妙に何もない」
クリルは机の上に並んだ記録を見渡した。
争いを終わらせた方法がない。
《調停者》になる前がない。
最後がない。
オウロウについて知っているつもりだった。
里の始祖。
争いを嫌い、多くの者をまとめた偉大な狐獣人。
大樹を残した人。
子供の頃から何度も聞いてきた。
それなのに記録を開けば開くほど、知っていた人物の輪郭が薄くなっていく。
〈どうしてこんな土地に来たの?〉
アンティルの手が止まった。
しばらく返事がない。
クリルは首を傾げる。
「……それも分からない」
アンティルは家系記録へ目を落とした。
「各地に記録がある人物が、最後にどうして東の端にあるこの土地へ来たのか。ここで血筋を残したのか。そこも記録が抜けてる」
その答えが、クリルには一番不思議だった。
オウロウはどうしてここを選んだのか。
川があるから。
森が豊かだから。
狐獣人が暮らしやすかったから。
理由はいくらでも考えられる。
けれど、どれも想像でしかない。
〈旅に出たら、分かる?〉
「分からない」
また即答だった。
クリルの耳が少し伏せる。
「でも、レナルドにいるより見つけられるものは増える」
その言葉に、耳が戻った。
「各地の記録院、古い寺院、商会の帳簿、昔の戦場、何百年も同じ土地にいる種族。オウロウのことを調べるなら、ここだけ見てても足りない」
アンティルが資料を一冊ずつ元の束へ戻し始める。
「お前のファルナも同じだ。レナルドに記録がないなら、外で探すしかない」
クリルは少し考え、黒布へ書いた。
〈アンティルも探す?〉
「ああ」
〈オウロウ様も?〉
「ああ」
〈世界がおかしい理由も?〉
アンティルはそこで手を止めた。
「それが一番面倒そうだ」
クリルは口元を緩めた。
*
記録庫を出た頃には、日はほとんど沈んでいた。
夕食の支度をする煙が里のあちこちから上がり、森から戻った者たちの声が狭い道を行き交っている。見慣れた景色だった。
明後日には、この道を歩いていない。
そう思うと、同じ里なのに少し違って見えた。
クリルは自分の家へ向かう道を途中で外れた。
「どこへ行く」
後ろからアンティルがついてくる。
答える代わりに指を向けた。
里の中央。
オウロウの大樹。
夕闇の中でも、その木だけはすぐに分かる。何人もの大人が手を広げても届かないほど太い幹が地面から伸び、枝は周囲の家々より高い場所で大きく広がっている。
幼い頃から見上げてきた木だった。
クリルが声を失った後も。
父がいなくなった後も。
狩りを覚えた日も。
《旅人》という見たことのないファルナを得た日も。
木は何も変わらず、そこに立っているように見えた。
クリルは根元へ近づき、ざらついた樹皮へ手を置いた。
〈オウロウ様は、ここにいたんだよね〉
アンティルは黒布を読んでから、大樹を見上げた。
「少なくとも、レナルドの記録ではそうなってる」
〈何を考えてたのかな〉
「さあな」
そっけない答えだった。
けれど今は、その言葉も少し違う意味に聞こえる。
分からない。
だから、勝手に決めない。
記録を探す。
見に行く。
自分で確かめる。
それなら旅へ出る理由としても、悪くないように思えた。
もちろんオウロウを調べるために旅へ出るわけではない。
《旅人》の正体を知るためでもない。
世界の異変を解決する使命を背負ったわけでもなかった。
クリルが旅立つ理由は、もっと単純だ。
外を見たい。
それは変わらない。
ただ、見たいものが一つ増えた。
クリルは黒布へゆっくり書いた。
〈旅の途中で、オウロウ様のことを見つけたら記録する〉
アンティルが横から読む。
「頼む。古そうな碑文を勝手に持ち帰るのはやめろよ」
クリルが眉を寄せる。
〈しない〉
「本当か?」
じっと見られた。
クリルも見返す。
やがてアンティルの方が視線を外した。
「まあ、記録だけでいい」
夜の風が大樹の枝を揺らす。
まだ緑を残した葉が重なり合い、頭上で静かな音を立てた。
クリルはその音を聞きながら、樹皮から手を離した。
昔から知っているはずの大樹も、始祖のことも、世界の外へ出る前からすでに知らないことだらけだった。それなら、これから見るもののすべてを最初から理解できなくても構わないのかもしれない。
分からなければ、見ればいい。
見たなら、残せばいい。
旅の先で答えが見つかる保証などどこにもない。それでも、問いを持って歩き始めることならできる。
クリルはもう一度だけ大樹を見上げたあと、アンティルと並んで家へ戻った。
翌日、この木の下で起こる小さな変化を、まだ二人とも知らなかった。




