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コルコニアの旅人たち  作者: 南河鯨
1章 / 旅立ち

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8 / 光る道

 《旅人》が何をするためのファルナなのか、結局のところ誰にも分からないままだった。


 クリル自身に分かることも、胸へあの淡い光が降りた瞬間、自分の中に《旅人》という名前が生まれたということだけで、それ以降は何か特別な感覚が増えたわけでもない。足が速くなった様子もなければ、知らない土地の地図が頭へ浮かぶわけでもなく、朝になればアンティルから借りた灰色の石一つを温めることにも苦労している。


 里では《旅人》について調べる話が続いていたが、手がかりは増えていなかった。


 むしろ、ここ数日に起きた異変があまりにも多く、それどころではなかった。


 消えた集落についての記憶の食い違いがあり、西の猟道が途中だけ失われ、その近くでは新しい魔穴が見つかった。翌日には瘴気を浴びた鹿が魔獣になり、さらにアンティルが魔人だと知られたことで、里の中には別の緊張まで生まれている。


 ひとつひとつを別の出来事として考えなければならない。


 それは分かる。


 けれど、これだけ続けば、何か想像もつかないような大きな異変が起きていると思いたくなる気持ちもクリルには理解できた。


 その日の午前、クリルは家の裏手に座り、掌の上に灰色の石を載せていた。


 昨日よりは魔力というものを見つけやすくなっている。


 胸の奥から腕へ続く、血とは別の流れを思い浮かべると、ほんの少しだけ石へ移せるようになった。ただし気を抜けばすぐに感覚を失い、力を込めれば込めるほど、かえって何も分からなくなる。


 アンティルは「考えすぎるな」と言う。


 それが一番難しかった。


 クリルは石を両手で包み、息を整えながら目を閉じた。


 身体の中にあるものを探す。


 見つけたと思っても掴もうとしない。


 ただ、そこにあると思う。


 指先に伝わる石の感触が、ほんの少し変わった。


 目を開ける。


 確かめようと頬へ当てると、朝の空気よりは僅かに温かい。


 クリルの耳が上がった。


 そのままアンティルを探しに行こうと立ち上がったところで、里の中央から誰かを呼ぶ声が聞こえた。


 いつもの呼び声ではなかった。


 名を呼んでいる。


 何度も。


 クリルは石を袋へ入れ、家の脇を抜けて大樹の方へ向かった。


 そこで、走ってくる男と鉢合わせる。


 数日前、《旅人》なら里を出た方がいいのではないかと言った、家畜を飼っている男だった。


 顔色が悪い。


「クリル、あの……うちの子、見てないか」


 クリルはすぐに首を横へ振った。


 男の子なら知っている。


 旅に出るなら大きな貝殻を持って帰ってくれと頼んできた、あの子だ。


「昼前からいないんだ。山羊の子が一頭柵から抜けて、それを追いかけていったらしくて……近くにいると思ったんだが」


 クリルの顔から、さっきまでの嬉しさが消えた。


〈どっち?〉


「西だと思う。山羊の跡が向こうへ行ってる」


 西。それだけで、嫌なものが胸に落ちた。


 男も同じことを思っているらしい。


「魔穴の方じゃない。たぶん……たぶん、もっと手前だ」


 最後の言葉に自信はなかった。


 クリルは黒布を畳む前に、もう一つ書いた。


〈いつ?〉


「気づいたのが少し前だ。最後に見たのは、たぶん一刻くらい前になる」


 すでに里の何人かが探し始めているらしい。


 クリルもそのまま西へ向かおうとしたところで、男が腕を伸ばした。


「いや、お前まで行かなくていい。長たちが……」


 クリルは腕を抜いた。


〈足跡を探す〉


「でも」


 男は言葉を止めた。


 数日前までなら、もっと歯切れよく頼めただろう。


 役割、災い、里を出た方がいい、など。男は自分がこの少女に投げつけた言葉を思い出していた。


「……頼む」


 ようやく出てきた声は小さかった。


「見つけてくれ」


 クリルは返事の代わりに黒布をしまった。


     ◇


 大樹の近くでは、すでに捜索に出る者たちが分かれ始めていた。


 里長が地面へ簡単な線を描き、最後に子供を見た場所と山羊の足跡が確認された方向をもとに、探す範囲を割り振っている。


「西へ行く者は魔穴跡へ近づきすぎるな。昨日の見張りから異常なしとは聞いとるが、子供を探すために二人目の行方不明を出しては話にならん」


 クリルが近づくと、里長は一度こちらを見たものの、戻れとは言わなかった。


「足跡を見てくれるかの」


 クリルは肯定して、その場にしゃがみ込む。


 逃げた山羊は小さい。


 成獣より蹄も軽く、乾いた場所では跡が残りにくい。それでも朝まで降りていた露のおかげで、里の外れには踏まれた草が続いている。


 その脇に、小さな足跡があった。


 子供の靴だ。その間隔から走っていたのだろうと推測する。


 クリルは跡を追って数歩進み、草の折れ方を確かめた。


「どうだ?」


 ジグが後ろから尋ねる。


 クリルは手で西を示す。


 山羊も子供も同じ方へ向かっている。


 アンティルも来ていた。


 昨日の件があっても里長が同行を止める様子はなく、本人も何も言わずに周囲を観察している。


「人を探すなら、森へ入る前に分けた方がいい」


 アンティルが言った。


「山羊を追ったなら一直線には進まない。途中で見失ってる可能性もある」


「じゃな。南側はわしが見る。ジグ、お前はクリルと足跡を追え。あなたもも付いてやってくれるか」


「分かった」


 何人かに分かれ、捜索が始まった。


 森へ入るまでは足跡が残っていた。


 子供はかなり急いでいたらしく、ところどころ土を蹴り上げている。途中で一度転んだのか、片手をついた跡まで見つかった。


 その先で、山羊の蹄跡が二方向へ分かれた。


 クリルは足を止める。


「二頭いたのか?」


 ジグがしゃがみ込んだ。


 クリルは首を横へ振る。


 片方が古い。


 昨日以前の跡だった。


 新しい方だけを追う。


 しかし、さらに森へ入ると地面が乾いてきた。


 落ち葉が厚くなり、足跡が見えなくなる。


 クリルは木々の間へ目を走らせた。


 折れた枝。


 擦れた樹皮。


 山羊なら低い位置を通る。


 子供ならもう少し高い。


 探していけば何か残っているはずだった。


 少し離れた場所で、アンティルがしゃがみ込む。


「こっちに布がある」


 枝に小さな糸が引っかかっていた。


 色に覚えがある。


 男の子が着ていた上着と同じだ。


 クリルはそちらへ向かった。


 しばらくは痕跡を拾えたものの、やがて森の中に岩が増え、地面を追うことが難しくなった。


 さらに悪いことに、その辺りはクリルもあまり歩かない場所だった。


 以前なら南へ回る猟道があった。ただ、ここ数日のことを考えると、道そのものを当てにしていいのか分からない。


「クリル」


 ジグが呼んだ。


 前方に細い沢がある。普段なら飛び越えられる程度だが、上流で土が崩れたらしく、水が濁って幅も広くなっていた。


 向こう岸に、足跡らしきものは見えない。


「どうする」


 クリルは周囲を見渡した。


 戻って別の痕跡を探す。沢沿いへ進む。あるいは渡る。選択肢はいくつもある。


 けれど、どれが正しいか分からない。


 早く見つけなければならない。


 陽はまだ高いが、子供が怪我をしていれば時間が経つほど危険になる。


 もし魔穴の近くへ向かっていたら。もし、昨日の鹿のようなものがまだ森にいたら。


 胸がざわついた。


 男の子の顔が浮かぶ。


 大きな貝殻を取ってきて、と笑っていた。


 クリルは目を閉じた。どこにいる。そう考えた。


 考えたというより、強く願った。


 あの子のところへ行きたい。


 その瞬間だった。


 胸の奥が、微かに温かくなった。


 魔力を石へ流したときとは違う。


 もっと深いところにあるものが、突然こちらを向いたような感覚だった。


 クリルは目を開けた。


 森の景色は変わっていない。


 木が立ち、沢が流れ、曇った日差しが葉の間から落ちている。


 けれど、その中に一本だけ、今までなかったものがあった。


 薄い光が地面を走っている。


 白に近い、淡い光だった。


 足元から伸び、沢の向こうへ続いている。


 クリルは息を止めた。


 瞬きをする。


 消えない。


 目を擦っても残っている。


「どうした?」


 ジグが近づく。


 クリルは光を指差した。


 ジグはその先を見る。


「何かあるのか?」


 その反応で、クリルはもう一度光を見る。


 ジグには見えていないらしい。


 アンティルもクリルの指す方向へ視線を動かしたあと、今度はクリルの顔を見た。


「何が見える」


 クリルは急いで黒布を出した。


〈光〉


「どこに」


〈道みたいに続いてる〉


 二人の表情が変わった。


「《旅人》か?」


 ジグの言葉を聞いた瞬間、クリルの胸の中にあの名前が浮かんだ。


 《旅人》。


 ファルナが降りたときと同じ感覚だった。


 今度は名前だけではない。


 この光が何を示しているのか、説明されたわけでもないのに分かる。


 行きたい場所へ続いている。


 クリルはそう感じた。


 黒布へ、


〈あの子のところだと思う〉


 と書く。


「思う?」


 アンティルがそこを拾った。


 クリルは迷った。


 確信があるわけではない。


 ただ、光を見た瞬間にそう思った。


〈たぶん〉


 アンティルは否定しなかった。


「なら記録は後だ。まず使ってみる」


 ジグが沢を見る。


「でも、向こうだぞ」


 光は真っ直ぐ沢を越えていた。


 クリルは川幅を測る。


 いつもなら跳べる。


 けれど今日は水量が多く、向こう岸の土も濡れている。飛べたとしても、着地した場所が崩れれば流される。


 光はそんな事情など知らないように、一直線に続いていた。


 クリルが少し上流へ移動しても、道は足元から伸び直し、結局は沢の向こうへ向かう。


「橋でも出してくれるのか?」


 ジグが半ば冗談のように言った。


 何も起こらない。


 光る道はただそこにあるだけだった。


 アンティルが沢の縁へ近づき、杖代わりの枝で地面を突いた。


 土が崩れ、濁った水へ落ちる。


「ここから渡るのはやめた方がいい」


 クリルは光を見る。


 確かに向こうへ続いている。


 でも、渡れとは言われていない。


 言われたという感覚自体がなかった。


 ただ目的地がそちらにあると示しているだけだ。


 クリルは沢沿いへ視線を移した。


 下流側は深くなる。


 上流なら木が密集しており、根が水際まで伸びている場所がある。


 少し遠回りになる。


 それでも、こちらの方が安全だ。


 クリルは上流を指し、簡単な手話で迂回を示した。


「光はそっちじゃないんだろ?」


 ジグに聞かれ、クリルは頷きかけて、黒布へ書いた。


〈でも沢は渡れない〉


 さらに、


〈上から回る〉


 と加える。


 アンティルはそれを読むと、少しだけ目を細めた。


「道が命令してるわけじゃない、か」


 クリルにも分からない。


 けれど少なくとも、光に従って危ない場所へ飛び込む気にはならなかった。


     ◇


 上流へ進むと、沢幅が狭くなる場所が見つかった。


 倒れた木が両岸へ渡っている。


 完全な橋ではなく、幹の半分は水に濡れていたが、さっきの場所を跳ぶよりはいい。


 ジグが先に渡り、アンティルが土魔法で根元を固定する。


 クリルは最後に渡った。


 向こう岸へ着いた瞬間、光の道が再びはっきりした。


 迂回している間は視界の端へ消えかけていたものが、今度は足元から森の奥へ伸びている。


 クリルは少し嬉しくなった。


 本当に続いている。


 けれど、喜んでいる場合ではない。


 光を追う。


 森の中では足跡よりずっと分かりやすかった。


 地面が岩でも、落ち葉に覆われていても途切れない。木の間を抜け、ときには人が通ったことのないような斜面へ続いていく。


 ただ、やはり歩きやすい道を選んではくれなかった。


 急な斜面では、光そのものが真っ直ぐ下へ降りている。


 クリルは立ち止まり、傾きを見る。


 乾いていれば下りられる。


 けれど朝露が残っている。


 下には岩も多い。


 足を滑らせれば怪我では済まない。


「またか」


 ジグが光の向きを聞き、顔をしかめた。


 クリルは斜面の左右を確認した。


 少し東へ回れば、獣が使っている細い道がある。


 鹿の蹄跡が残っていた。


 そちらへ迂回する。


「それでいい」


 後ろからアンティルが言った。


 クリルは振り返った。


「その力が何なのか、まだ分からない。だからこそ、全部任せるな」


〈でも道は合ってる〉


「今のところはな」


 言い方が少し意地悪だった。


 クリルは前を向き直り、獣道へ入った。


 光を見失う瞬間もあった。


 迂回しすぎると薄くなり、木々の隙間へ消える。


 けれど、また目的地へ向かう方向へ戻れば現れる。


 少しずつ分かってきた。


 これは足跡ではない。


 この場所を必ず歩けという線でもない。


 向こうに何かがある。


 そのことだけを教えてくれている。


 あとは自分で行かなければならない。


 その感覚は、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、全部を決められるよりいい。


 やがて光が斜面の下へ向かって強くなった。


 クリルは足を止める。


 耳を澄ます。


 水の音、葉が擦れる音。


 その間に、何か別の音が混じっている。


 小さな鳴き声。


 山羊だ。


 クリルが手を上げる。


 三人とも黙る。


 今度は、はっきり聞こえた。


「メェ……」


 近い。


 クリルは光より先に音を頼り、斜面を回り込んだ。


 少し下に岩場がある。


 その間に白いものが動いた。


 逃げた山羊だった。


 角を低い木の枝へ引っかけ、身動きが取れなくなっている。


 そして、そのすぐそばに小さな身体があった。


 男の子だ。


 岩へ背を預けて座り込み、片足を抱えている。


 クリルを見つけた瞬間、泣くのを我慢していた顔が崩れた。


「クリル……!」


 クリルはすぐに斜面を下りかけた。


 そこで足を止める。


 男の子と自分の間に、細い崩落跡があった。


 土が削れ、下の岩まで露出している。


 光の道はそこを真っ直ぐ横切っていた。


 あと数歩。


 それでも、その数歩が危ない。


 地面を見る。


 崩れたばかりではない。


 雨で少しずつ削れた場所が、昨日か今日に大きく崩れたのだろう。端には亀裂があり、体重を掛ければさらに落ちる。


「動くな!」


 ジグが子供へ声をかける。


「そこにいろ!」


「足、痛い……」


 泣き声が返ってくる。


 山羊も暴れ始めた。


 枝へ絡んだ縄が軋む。


 クリルは周囲を見る。


 左は岩壁。


 右から回れば下へ降りられるが、かなり遠い。


 アンティルが崩落跡を覗き込んだ。


「地面を固める」


 手を向ける。


 土が僅かに動いた。


 しかし、すぐに表情を変えた。


「下が空いてる」


「無理か?」


「ここだけ固めても重さを掛けたら落ちる。下から支えが必要だ」


 クリルは斜面の右を見る。


 遠回りすれば行ける。


 時間はかかる。


 けれど男の子は動けないだけで、今すぐ命が危ないわけではない。


 光は真っ直ぐ。


 近道は危ない。


 なら、選ぶ必要はなかった。


 クリルは右を指した。


 ジグもすぐに理解する。


「回るぞ」


 三人で斜面を上がり、崩落跡を大きく迂回する。


 途中、光は何度もクリルの視界の外へ消えた。


 それでも不安にはならなかった。


 目的地はもう見えている。


 道が見えなくても、行く場所は分かっている。


 岩場の下へ回り込み、ようやく男の子のいる場所へ着いた。


 クリルが近づくと、子供は泣きながら彼女の服を掴んだ。


「山羊が逃げたから……捕まえようと思って……」


 クリルは膝をつき、足を見る。


 足首が腫れている。


 靴を脱がせると痛がったが、形は崩れていない。転んだときに捻ったのだろう。


 ジグが状態を確かめる。


「骨はたぶん大丈夫だ。歩かせない方がいいな」


 アンティルは山羊の縄を切り、枝から外してやった。


 自由になった山羊は逃げるかと思ったが、子供のそばへ寄り、その服の匂いを嗅いでいる。


 クリルは男の子へ黒布を見せた。


〈見つけた〉


「うん」


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、子供は答えた。


 少し迷ってから、クリルはその下へ書き足す。


〈貝殻まだだから帰る〉


 男の子は一瞬ぽかんとしたあと、泣きながら笑った。


「絶対だぞ」


 覚えていたらしい。


 クリルも笑った。


     ◇


 帰りは時間がかかった。


 子供をジグが背負い、アンティルが山羊を引く。


 クリルは先頭を歩いた。


 光の道は、まだ見えていた。


 けれど、今度は少し様子が違った。


 男の子を見つけた場所から里へ戻ろうと思った瞬間、それまで森の奥へ続いていた光が薄くなり、やがて消えた。


 クリルは立ち止まった。


「どうした?」


 ジグに聞かれ、黒布を出す。


〈消えた〉


「道が?」


 頷く代わりに、布へもう一行足した。


〈見つけたから?〉


 アンティルが周囲を見る。


「目的を果たしたから消えた、という可能性はある」


〈帰る道は?〉


「お前、帰り道分からないのか?」


 分かる。


 クリルは少し考えてから首を横へ振った。


 里の方向なら知っている。


 ここまで来た地形も覚えている。


 光がなくても戻れる。


 それなら問題はないかと、クリルは歩き出した。


 アンティルが少し考えるような顔をしていた。


「《旅人》は、知ってる道まで全部教える力じゃないのかもしれないな」


 クリルはその言葉を覚えておくことにした。


 途中、あの沢へ戻る。


 光はもうない。


 それでも上流へ回れば倒木があることを知っている。


 三人で同じ場所を渡った。


 そこから先は、クリルが先頭になった。


 足跡を拾い、自分たちが折った草を見つけ、木の位置を確かめながら戻っていく。


 行きは光に助けてもらった。


 帰りは自分で歩ける。


 そのことが、少し嬉しかった。


     ◇


 里へ戻ると、家畜飼いの男が真っ先に走ってきた。


 ジグの背中にいる子供を見るなり、顔が歪んだ。


「お前……!」


 怒鳴るのかと思ったが、続きは出なかった。


 子供を受け取ると、その身体を強く抱いた。


「ごめんなさい」


「馬鹿……ほんとに……」


 男はそれ以上言えず、子供の頭を抱えている。


 少し遅れて母親も来た。


 周囲にいた者たちから安堵の声が広がる。


 クリルは少し離れたところで、その様子を見ていた。


 やがて男がこちらを向いた。


 目が赤い。


「クリル」


 呼ばれて、近づく。


「ありがとう」


 数日前、この男は《旅人》なら里を出てファルナに従ってほしいと言った。


 クリルはそれを忘れてはいなかった。


 たぶん男も忘れていない。


 それでも今は、どちらからもその話をする必要はないように思えた。


 クリルは黒布へ、


〈見つかってよかった〉


 と書いた。


 男はそれを読んだあと、何度も頷いた。


 子供は父親の腕の中から顔を出す。


「貝殻、忘れるなよ」


 周囲にいた者たちが笑った。


 クリルも数日ぶりに心から笑った。


     ◇


 夕方、クリルはオウロウの大樹の下で一人、黒布へ今日の出来事を書いていた。


 アンティルから教えられたように、見たことと自分の考えを分ける。


 子供が山羊を追って西へ入った。


 途中から足跡を見失った。


 見つけたいと思ったとき、地面に淡い光が現れた。


 光は子供のいる方向へ続いていた。


 そこまで書き、少し考える。


〈光が目的地への道を示したと思う〉


 これは自分の考えとして書いた。


 さらに、その下へ続ける。


〈光の通りに進むと危ない場所があった〉


 沢や急斜面、最後の崩落跡も。


 どれも、光そのものは避けてくれなかった。


 クリルは白筆を止めた。


 《旅人》という名前を聞いたとき、自分は旅へ出なければならないのだと思った。


 周りの人たちもそう考えた。


 けれど今日初めて使った力は、クリルをどこか遠い場所へ連れていくためのものではなかった。


 探したい人のところへ向かうための道を教えただけだった。


 それも、全部ではない。


 危険な場所では自分で止まり、迂回する場所を探し、最後には光がない道を自分で帰った。


 ファルナが何を望んでいるのかは、まだ分からない。


 《旅人》だから旅に出ろと言われているのかどうかも分からない。


 けれど少なくとも今日、光はクリルの足を勝手に動かさなかった。


 どちらへ行けばいいかを示しただけだった。


 進んだのは、自分だ。


 クリルは布へ最後の一文を書いた。


〈光は道を教える。でも、歩き方は教えてくれない。〉


「悪くない」


 突然後ろから声がして、クリルは耳を跳ねさせた。


 振り返ると、アンティルが立っている。


 いつから読んでいたのか分からない。


 クリルはすぐに布を胸へ引き寄せた。


「見えるところで書いてる方が悪い」


 抗議するように睨む。


 アンティルは気にせず、その隣へ座った。


「今日のことは、ちゃんと残しておけ。大図書院でも《旅人》の記録がないなら、お前の記録が最初になるかもしれない」


 クリルは手元の黒布を見る。


 最初の記録。


 その言葉は少し大げさに聞こえた。


 けれど、誰も知らないファルナなら、本当にそうなるのかもしれない。


〈大図書院なら分かる?〉


「何かはな」


 何か。


 相変わらず断言はしない。


 それでも、以前より大図書院という場所が近く感じられた。


 珍しいファルナの記録がある。


 消えた集落について調べられるかもしれない。


 魔穴が増えている理由についても、何か残っているかもしれない。


 自分の知らない魔法の本もある。


 そして今日のような出来事を、残す場所もある。


 クリルは大樹の向こうへ目を向けた。


 里の東にも西にも道がある。


 生まれてから何度も見てきた道だった。


 その先へどこまで行けるのかを、本気で考えたことはまだない。


 《旅人》の光はもう見えなかった。


 けれど、大図書院という名前だけは、ここ数日で何度も頭に浮かぶようになっていた。


 クリルは黒布を畳み、腰の袋へしまった。


 その中には灰色の石も入っている。


 知らないものが、少しずつ増えていた。


 不思議なことに、それはもう怖いだけではなかった。

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