7 / 魔人
鹿を見つけた翌日の朝、クリルはオウロウの大樹から少し離れた草地に座り、膝の上へ三枚の黒布を並べていた。
一枚目には消えた集落と赤い鳥について、二枚目には自分に《旅人》が降りた日のこと、三枚目には消えた猟道から魔穴、そして魔獣になった鹿について書いてある。
最初は誰かと話すために使っていた布だったので、文章の長さも書き方もばらばらだった。後から読み返すことなど考えていなかったころの文字は大きく、余白も好き勝手に使っている。ところがアンティルに「残しておけ」と言われてからは、いつの出来事なのか分かるよう日付を書くようになり、場所についても自分なりに説明を加えるようになっていた。
それでも、読み返してみると足りないことが多い。
魔穴については大きさを書いていなかった。
鹿については、水場へ着いた時間がない。
消えた猟道に至っては、どこからどこまでがなくなっていたのか、自分なら分かるつもりで書いているため、里を知らない者が読んだところで場所を特定できないだろう。
クリルは白筆の先を布へ置いたまま、何から直せばいいのか考えていた。
「全部書き直す必要はない」
頭の上から声が降ってきた。
顔を上げると、アンティルが立っている。
片手には昨日まで使っていた帳面があり、もう片方には、クリルがすっかり見慣れてしまった灰色の石があった。
それを見た途端、記録について考えていた気持ちの半分ほどが魔法へ移った。
「先にこっちを見る」
アンティルはクリルの視線だけで意図を察したらしく、石を自分の服の上へ置いた。
「逃げない」
クリルは少し不満だったが、黒布へ〈何が足りない?〉と書いた。
「足りないものを考える前に、混ざってるものを分けた方がいい」
意味が分からず首を傾けると、アンティルは一枚目の布を指した。
「昨日の魔穴と消えた道は関係があると思うか」
クリルは少し考えてから、白筆を動かした。
〈近くにあったから、あるかもしれない〉
「それは見たことか?」
違う。
実際に見たのは、道がなくなっていたことと、その近くに魔穴ができていたことだけだった。
クリルがその二つを分けて書き直すと、アンティルは次に鹿についての記録へ視線を移した。
「魔穴の瘴気で魔獣になった、と書いてある」
〈違う?〉
「可能性は高い。昨日あの周辺に新しい魔穴があったし、鹿の身体にも瘴気の影響が出ていた。だが、変化した瞬間を俺たちは見ていない」
クリルは昨日の森を思い返した。
確かに、魔穴から瘴気が漏れていた。
その翌朝には鹿が魔獣になっていた。
それでも、鹿がどこで瘴気を浴びたのかまでは分からない。
〈じゃあ、どう書く?〉
「お前が見たことはそのまま書けばいい。その上で、自分がそう考えた部分には、そう書いておく」
アンティルは自分の帳面を開き、昨日の魔穴について記した頁を見せた。
細かな文字が並んでいる。
途中には簡単な図もあり、裂け目の形や周囲の木々まで描かれていた。
その中に何度も同じ記号が使われている。
クリルが指差すと、アンティルは答えた。
「俺が直接確認したものと、人から聞いたものを分けてる」
別の記号も示す。
「こっちは推測。さらに確かめる必要があるものは横に印をつける」
クリルは自分の黒布を見る。
そこには、見たものも聞いたものも考えたことも、すべて同じ白い文字で並んでいた。
「記録っていうのは、たくさん書けばいいわけじゃない。あとから読んだ人間が、どこまで信用していいのか分かる方が大事だ」
クリルはその言葉を聞きながら、一枚目の布を引き寄せた。
ロビから聞いた集落については、実際に自分が見たわけではない。
けれど火鳥は、自分の目で見た。
消えた猟道もそうだった。魔穴も。鹿も。
同じ布に書かれていても、それぞれ違う。
白筆を動かし、文章の横へ小さな印をつけていく。
〈ロビから聞いた〉
〈自分で見た〉
〈分からない〉
少しずつ整理しているうちに、昨日までより布が読みやすくなってきた。
アンティルは特に褒めなかった。
けれど、何度か内容を確かめたあとで一度だけ「それなら後から使える」と言った。
クリルには、それで十分だった。
最後に鹿について書いた部分へ、
〈魔穴の瘴気が原因と思われる。変化したところは見ていない〉
と加える。
昨日書いた、
〈元の鹿は、まだいた〉
という文章だけは、そのまま残した。
これは事実なのか、自分の考えなのか、うまく分けられない。
それでも消したくなかった。
布を畳み終えると、クリルはすぐにアンティルの服の上へ置かれている灰色の石へ手を伸ばした。
「やっとか」
待たせていたのはアンティルの方だと思う。
そんな顔をすると、石を渡された。
「今日は一つだけ変える。温めようとするな」
クリルは眉を寄せた。
昨日まで、それをするために練習していたはずだった。
「お前は結果を先に作ろうとしすぎる。石を温める、火を出す、地面を動かす。そこばかり考えると、身体にも余計な力が入る」
昨日、鹿を追って走ったときのことを思い出す。
足場を選ぶとき、右脚をどう動かすかなど一つずつ考えたりはしない。地面を見れば身体が勝手に動く。
「まず魔力を探せ」
〈どこ?〉
「それを自分で見つける」
あまり親切ではない。
クリルがじっと見つめても、アンティルは助けてくれなかった。
仕方なく石を両手で包み、目を閉じる。
朝の空気はまだ少し冷たい。
掌に触れる石の硬さや、草の匂い、大樹の葉が風を受ける音が、目を閉じたことでいつもよりはっきり感じられた。
呼吸をする。
昨日のように腕へ何かを押し出そうとせず、ただ身体の中を探してみる。
何も分からない。
しばらくすると足が痺れてきた。
目を開けようかと思ったころ、胸の奥から腕へ向かうところに、ごく微かな違和感があった。
血が流れる感覚とは違う。
もっと曖昧で、気にしなければすぐ消えてしまいそうなものだった。
そこへ意識を向ける。
逃げた。
もう一度探す。
「追いかけるな」
アンティルの声が聞こえた。
「あると分かったなら十分だ」
クリルは少しだけ肩の力を抜いた。
すると、さっきより近くに感じる。
今度は無理に動かそうとせず、その感覚が腕の中にあることだけを確かめた。
手の中で何かが変わった。
ほんの少し。
気のせいかもしれない。
それでもクリルは目を開け、すぐに石をアンティルへ差し出した。
彼は受け取ると、指先で表面を確かめた。
「少し温まってる」
クリルの耳が勢いよく立った。
「体温だけじゃない」
さらに立った。
「ただし、まだ魔法と呼べるほどじゃない」
そこは聞かなかったことにした。
石を返してもらい、もう一度握る。
「今日はそれ以上やるな。感覚が分からなくなる」
やめたくなかったが、昨日より一歩進んだことは確かだった。
クリルは灰色の石を大切そうに腰の袋へ入れた。
その様子を少し離れたところから見ていたロビが、荷馬車の脇から声を飛ばしてきた。
「ずいぶん懐いたな、子狐」
クリルはすぐに嫌そうな顔を向けた。
「昨日まで俺の荷箱を開けようとしてた奴とは思えない」
〈開けてない〉
「まだ言うのか」
ロビは笑いながら近づいてきた。
今日は商隊の荷を確かめていたらしく、袖を肘までまくり、腰には帳簿用の小さな板を下げている。
「で、魔法は出たのか?」
クリルは誇らしげに石を取り出し、ロビの手へ置いた。
ロビがしばらく握る。
「……普通の石じゃないか?」
〈温めた〉
「どのくらい?」
クリルは指先で、ほんの少しという幅を示した。
「それはまた壮大な一歩だな」
からかわれている。
布へ抗議を書こうとしたところで、近くを通りかかった若い猟師が足を止めた。
昨日魔穴へ同行していた男だった。
「でも、変な魔法だよな」
視線はアンティルへ向いている。
「昨日も何も唱えてなかったし、杖も持ってない。凄腕の魔術師ってみんなあんな感じなのか?」
「んなわけないだろ」
ロビが即座に答えた。
「こいつが変なんだよ」
「変で済ませるな」
アンティルが帳面から顔も上げずに返す。
猟師は笑い、それから少し考えるようにアンティルを見た。
「どこの人なんだ? 人族の国?」
その質問に、アンティルより先にロビが答えた。
「違うぞ。アンティルは魔人だ」
大樹の葉が風に擦れた。
それまで何でもなかった朝の音が、一瞬だけ妙にはっきり聞こえた。
猟師の顔から笑いが消えた。
「……魔人?」
「ああ」
ロビはようやく周囲の空気が変わったことに気づき、アンティルを見る。
「言ってなかったっけ?」
「聞かれてない」
「お前なあ」
クリルは二人を見比べた。
魔人。
その言葉なら知っている。
ロビの土産話にも何度か出てきたし、旅人の中にいると聞いたこともある。ただ、レナルドへ魔人が来たことは、クリルの記憶にある限り一度もなかった。
そして、その言葉には別の記憶もついてくる。
幼いころ、大人たちが自分に聞こえないと思って話していた声。
魔族。悪魔。魔人。
似た言葉が混ざり合い、誰かが訂正し、また別の誰かが「同じようなものだ」と言っていた。
そのころのクリルには違いが分からなかった。
けれど、あるものだけは知っている。
父を殺したものは、アンティルのような人の姿をしていなかった。
小さかった。
獣のような身体をしていた。
そして、執拗に人の声を欲しがった。
クリルは無意識に喉へ手を触れた。
その動きを、アンティルが見た。
何も言わなかった。
先ほどの猟師は、少し距離を取っている。
「ロビ。それ、長には話してあるのか?」
「商隊が来た日に身元は伝えてる」
「じゃあ知ってたのか」
「魔人だからって何だよ。こいつは商隊の護衛だぞ。昨日だって見ただろ」
「見たから言ってるんだ。あんな魔法を使う奴だぞ」
「だから護衛として金払ってるんだろ」
ロビの声から笑いが消え始めた。
言い争いになりかけたところで、別の足音が近づいてくる。
「何の話だ?」
ジグだった。
手には修理途中らしい弓があり、状況が分からないままロビたちを見ている。
猟師が答える。
「アンティルがさ、魔人だったんだよ」
ジグの足が止まった。
クリルには、その変化がはっきり分かった。
驚いたのではない。
もっと先に身体が反応していた。
肩が硬くなり、弓を持つ手に力が入り、視線がアンティルから動かなくなる。
「……本当か」
「そうだ」
答えたのはアンティル本人だった。
ジグは何も言わなかった。
ただ、クリルが知っている普段の顔ではなくなっていた。
「ジグ」
ロビが呼ぶ。
「こいつは魔人だが、魔族じゃない。まして悪魔でもない」
「分かってる」
返事は早かった。
けれど声は硬い。
「分かってるなら、その顔やめろよ」
「頭では分かってる」
ジグはアンティルを見たままだった。
「でも、そんな簡単な話じゃない」
クリルの指が喉から離れた。
古い記憶が、形を持って戻ってくる。
森の中ではなかった。
もっと暗い場所だった。
父の背中が目の前にあった。
何かがその向こうで動いていて、自分は泣いていたはずなのに、その途中から自分の声だけが聞こえなくなった。
父が振り向いた。
口が何かを叫んでいた。
そのあとの記憶は、途切れ途切れしか残っていない。
血の匂い。
地面に落ちた短剣。
そして、自分の喉から何も出なくなったこと。
クリルは黒布を握った。
それを見たジグの表情がわずかに揺れる。
「クリル、家に戻ってろ」
いつもなら反発する言葉だった。
けれど今は、その言い方が嫌だった。
自分のことなのに、自分を外へ出そうとしている。
クリルは白筆を取った。
手が少し震えている。
それでも書く。
〈父さんを殺したのは悪魔〉
ジグの目が布へ落ちる。
その下へ続ける。
〈アンティルじゃない〉
「それは分かってる」
〈違う〉
「クリル」
〈見た〉
ジグが黙った。
クリルはもう一度、今度はゆっくり書いた。
〈私は見た〉
あの日のことを思い出したくはない。
それでも、覚えている。
父を襲ったものがどんな姿だったか。
自分の声を奪ったものが何だったのか。
そして昨日、自分たちを魔物から助け、魔穴を閉じたのが誰だったのかも。
どちらも、自分で見た。
クリルはその二つを同じものにはしたくなかった。
ジグは黒布を長く見ていた。
「……分かってるんだ」
さっきと同じ言葉だった。
今度は少し違って聞こえた。
「本当に、頭じゃ分かってる。魔人と悪魔が違うことくらい、俺だって知ってる」
弓を握っていた手から、少し力が抜ける。
「でも、お前が声を失ったときに、あの辺りで何て呼ばれてたか知ってるか。魔のものだ、魔族だ、魔人の仕業かもしれないって、誰も正しく分かってなかった。それでサリフが死んだ」
最後の言葉だけが重く残った。
クリルは何も書けなかった。
ジグが怖がる理由も分かる。
それでも、アンティルまで同じものとして見ていいとは思えなかった。
少し離れたところで黙っていたアンティルが、帳面を閉じた。
「警戒するなら、それでいい」
ジグが顔を上げる。
「俺はここへ信用されに来たわけじゃない。商隊の護衛として仕事をしてる。それと、この近くで起きていることを調べたいだけだ」
弁解するような口調ではなかった。
「ただ、魔人だから昨日の魔穴を作ったとか、鹿を魔獣にしたとか言われるなら、それは否定する。証拠がない」
その言葉に、クリルは昨日の記録を思い出した。
見たもの。
聞いたもの。
考えたもの。
それらを分ける。
ジグも同じことに気づいたのか、少し苦い顔をした。
「そこまでは言ってない」
「ならいい」
「良くはないだろ」
今まで黙っていたロビが口を挟んだ。
「昨日こいつがいなかったら、あの穴どうしてたと思うんだよ」
「分かってる」
「さっきからそればっかりだな」
「分かってても納得できないものはあるだろ!」
声が大きくなった。
周囲にいた者たちがこちらを見る。
ジグもそれに気づき、続く言葉を飲み込んだ。
その沈黙の中へ、落ち着いた声が入った。
「そうじゃな」
里長だった。
いつから聞いていたのか、大樹の反対側からゆっくり歩いてくる。
「分かっておっても怖いことはある。昨日、クリルの《旅人》について皆で揉めたのも同じじゃ」
ジグが何か言おうとしたが、里長は手を軽く上げて止めた。
「怖がるなと言うつもりはない。わしも知らん相手なら警戒はする。ただし、怖いということと、その相手が悪いということは別じゃ」
老人の視線がアンティルへ移る。
「お前さんが魔人であることは、商隊が来た日に聞いておる。ここへ入れると決めたのはわしじゃ」
「長……」
「昨日、あの魔穴を閉じたのも見た。今日まで里で問題を起こしておらんことも見ておる。それが全てじゃ」
里長はそこで一度言葉を切った。
「じゃから今は、それ以上には決めん」
クリルはその言葉を聞きながら、少しだけ息を吐いた。
何でもすぐに決めない。
分からないものを分からないままにしておく。
昨日から何度も聞いた考え方だったが、それが人に向けられると、また違って見えた。
◇
話が終わったあとも、すべてが元通りになったわけではなかった。
アンティルのそばを通るとき、昨日までより距離を取る者がいた。逆に、魔穴を閉じてもらったのだからと普段通り声をかける者もいたし、何が問題なのか分からない子供たちは相変わらず商隊の荷車の周りを走り回っていた。
里は一つの考えにはならなかった。
ジグも同じだった。
家へ戻る途中、何度かクリルへ何か言おうとしていたが、結局は黙ったまま歩いている。
クリルも先ほどのことを責めるつもりはなかった。
ジグが父のことを忘れていないのは知っている。
自分が喉へ手を当てるだけで心配そうな顔をすることも、幼いころから何度もあった。
だから怖いのだろう。
それでも、今朝アンティルを見たときの顔は嫌だった。
家の前まで来たところで、クリルはジグの袖を引いた。
「何だ?」
黒布を開く。
少し迷ってから書いた。
〈怒ってない〉
ジグは予想していなかったような顔をした。
その下へ、もう一行続ける。
〈でも、アンティルは違う〉
ジグは布を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「……ああ」
今度の返事には、少なくとも先ほどの硬さはなかった。
「俺も、ちゃんと分けるようにする」
クリルはそれを聞き、布を畳もうとした。
「ただし」
嫌な予感がする。
「お前があいつと二人で森の奥まで行くのはまだ駄目だ」
クリルは顔をしかめた。
「そこは別だ」
すぐに黒布を開き直す。
〈関係ない〉
「ある」
〈ない〉と首を横に振る。
「ある」
しばらく同じやり取りを繰り返した末、家の中からミーリャに「外でいつまでやってるの」と呼ばれ、決着はつかなかった。
◇
午後、クリルはまた大樹のそばへ来ていた。
アンティルは朝と同じ場所に座り、帳面へ何かを書いている。
近づいても、顔を上げない。
クリルは少し離れたところへ座った。
そのまま待つ。
しばらくしてアンティルが筆を止めた。
「何だ」
クリルは腰の袋から灰色の石を取り出した。
「まだやるのか」
当然だった。
朝、ほんの少し温められた。
なら、次はもう少しできるかもしれない。
アンティルは石とクリルを見比べた。
「さっきのことは気にしないのか」
クリルは質問の意味を考えた。
魔人だから。
そういうことだろう。
黒布へ白筆を走らせる。
〈魔法教えてくれる〉
「教えてるな」
〈昨日助けてくれた〉
「ああ」
〈鹿のこと教えてくれた〉
「教えたな」
クリルは少し考え、最後に書いた。
〈いい人〉
アンティルは布を読んだまま、しばらく動かなかった。
「単純だな」
褒められてはいない気がする。
クリルが不満そうに目を細めると、アンティルはわずかに口元を緩めた。
「悪い意味じゃない」
どこかで聞いた言い方だった。
クリルは石を両手で包んだ。
朝と同じように目を閉じる。
風の音を聞きながら、身体の奥にある微かな感覚を探す。
今度は、朝より少し早く見つかった。
腕の中を流れるようなもの。
強く掴もうとすれば消えそうになるため、その存在だけを意識する。
ゆっくりと掌へ近づける。
石に触れた。
そう思った瞬間、指先にわずかな温度が返ってきた。
目を開ける。
石をアンティルへ渡す。
彼が確かめる。
「朝より温かい」
クリルの表情が明るくなる。
「まだ火も出せないけどな」
余計な一言だった。
それでも、石を受け取ったクリルはしばらく掌の上で眺めていた。
昨日まで冷たいだけだった石が、自分の魔力でわずかに温まっている。
それは、魔穴を閉じた黒い炎とは比べるべくもない、小さな変化だった。
けれどクリルにとっては、十分だった。
声がなくても魔法は使えるかもしれない。
知らないものは、調べればいい。
怖いものでも、自分で見れば違いが分かることもある。
ここ数日の出来事は、そういうことを少しずつ教えてくれている。
クリルは灰色の石を握り直し、次はどうすればいいのか尋ねるために黒布を広げた。
その布の端には、朝つけたばかりの印がいくつも残っていた。
自分で見たことと、人から聞いたこと。
分かっていることと、まだ分からないこと。
その違いを忘れないように、クリルは白筆を握った。




