6 / 魔獣
魔穴を閉じた翌朝、クリルはいつもより早く目を覚ました。
眠りが浅かったわけではない。昨夜は森から戻ったあとも里の大人たちが遅くまで話し合っていたし、クリル自身も身体のあちこちに戦いの疲れが残っていたので、寝台へ入ってからはほとんど記憶がないほど深く眠っていた。
それでも、窓の外が白み始めるころには自然と目が開いた。
枕元には、昨日書き足した黒布が置かれている。
消えた集落のことから始まり、自分に《旅人》というファルナが降りたこと、西の猟道が途中だけなくなっていたこと、そして森の中で初めて見た魔穴のことまで、白い文字が少しずつ増えていた。
最後には、
〈魔穴と道が消えたことの関係は分からない〉
とある。
クリルは寝台の上でそれをしばらく眺めたあと、布を畳んで腰の袋へ入れた。
その横には、昨日アンティルから借りた灰色の石がある。
手に取る。
冷たい。
両手で包み、昨日教えられた通りに身体の内側へ意識を向けてみたが、しばらく経っても何も起こらなかった。力を込めすぎるなと言われたことを思い出し、肩を下げてもう一度試してみても結果は同じだった。
石は相変わらず、朝の空気と同じ温度を保っている。
クリルは少しだけ頬を膨らませた。
昨日のアンティルは、手を向けただけで地面を動かした。
あれほど大きな魔穴さえ、黒い炎で閉じた。
自分は小石一つ温められない。
その差を考えると悔しかったが、不思議と諦めようとは思わなかった。
石を袋へ戻そうとしたところで、家の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
続いて、戸を強く叩く音がする。
「ジグ! 起きてるか!」
クリルは寝台から降りた。
隣の部屋でもジグが動く音がし、少しして戸が開く。
「どうした、こんな時間に」
「西の水場に変なのがいる」
聞こえてきた言葉に、クリルの耳が立った。
西。
たったそれだけで嫌な予感がした。
服を整えるより先に部屋を出ると、戸口には昨日魔穴の調査にも同行した猟師が立っていた。
「鹿なんだが、様子がおかしい。見張りに出てた奴が見つけた」
「怪我でもしてるのか?」
「分からん。普通じゃないんだ」
クリルはすぐに黒布を取り出した。
〈どこ?〉
猟師は少し驚いた顔でクリルを見た。
「昨日の魔穴よりこっちだ。西の水場の近く」
その場所ならよく知っている。
森へ入る獣の多くが使う小さな泉で、狩りのときにはクリルも周囲の足跡を確認する。
「お前は家にいろ」
ジグがそう言った瞬間、クリルは黒布を裏返した。
〈鹿ならわたしも見る〉
「昨日も危なかっただろ」
〈鹿ならわかる〉
「普通の鹿ならな」
その返しには何も反論できなかった。
昨日の夕方、西の森から鳥が一斉に飛び立った。
そして、そのころ森の中では一頭の鹿が水場へ向かっていた。
クリルはそのことを知らない。
けれど、自分の知っている森のすぐ近くで、何かがまだ続いている。その感覚だけは、胸の奥にはっきり残っていた。
「ねえ、連れていきましょうよ」
背後から聞こえた声に、ジグが振り返る。
ミーリャだった。
「ミーリャ」
「危ないところまで行かせる必要はないでしょう。でも、鹿のことならクリルが気づけることもあるんじゃない?」
「だからって……」
「昨日も長が同じことを言ってたじゃない」
ジグは言い返そうとして、やめた。
クリルはその隙に短剣を腰へ差した。
「勝手に準備するな」
怒られたものの、外すようには言われなかった。
◇
大樹のそばへ行くと、すでに数人が集まっていた。
里長もいる。
年齢を重ねた身体には若いころほどの厚みはないものの、昨日魔物を射たときと同じ弓を肩へ掛け、足元には矢筒が置かれている。森へ入るつもりなのは、その姿を見れば聞くまでもなかった。
その隣にはアンティルがいた。
昨日の戦いで黒い服の裾にはまだ土が残っている。休んだのかどうか分からない顔をしていたが、手にはいつもの帳面があった。
「来たか」
クリルを見つけると、アンティルはそう言った。
ジグが眉をひそめる。
「来たか、じゃない。連れていく前提だったのか」
「鹿のことに限っては、俺より役に立つだろう」
「お前まで長と同じこと言うのか」
「嫌ならちゃんと守ってやれ」
ジグが言葉に詰まった。
ロビなら笑うところだったかもしれないが、アンティルは本気で言っているらしい。
里長が二人の間へ割って入り、今日の役割を簡単に決めた。昨日閉じた魔穴には別の者を見張りとして残し、自分たちは水場だけを確認する。もし本当に異常があっても、無理に近づかず、まず何が起きているのかを見る。
「昨日と同じじゃ。よく分からんものを相手に、最初から答えを決めてかかるな」
クリルはその言葉を聞きながら、腰の袋に入れた記録用の黒布を指先で確かめた。
森へ入る人数は昨日より少なかった。
里長とジグ、猟師が二人。それにアンティルとクリル。
朝の森は湿っている。
草の先には露が残り、歩くたびに靴や裾が濡れた。昨日の戦いの痕跡がある場所までは行かず、その手前から南寄りの細い獣道へ入っていく。
水場へ近づくにつれて、クリルは地面を見る時間が増えた。
鹿の足跡はすぐに見つかった。
一頭ではない。
昨日の朝にも見た痕跡が残っていて、古いものと新しいものが重なっている。
その中に、不自然な跡が混じっていた。
クリルが手を上げた。
全員が止まる。
「どうした」
ジグに聞かれ、クリルは地面を指した。
蹄の跡が一つ、深く沈んでいる。
その少し先では浅くなり、さらに進むと再び深い。
歩調が一定ではない。
黒布へ、
〈右前がおかしい〉
と書く。
「怪我か?」
猟師がしゃがみ込んだ。
クリルは少し先まで痕跡を追った。
怪我をしている鹿なら、痛む脚を庇って同じ側の跡が浅くなる。
これは違う。
右前脚だけではなく、何歩かごとに左後脚まで引きずっている。
身体の動かし方そのものが乱れている。
それでも進む方向は迷っていなかった。
足跡はまっすぐ水場へ続いている。
クリルはそこまで書き、少し考えたあと、
〈道は知ってる〉
と付け加えた。
アンティルが黒布を読む。
「道は覚えてる、か」
その言い方が少し気になった。
問い返そうとしたところで、里長が静かに手を上げた。
水の音がする。
泉はもう近い。
一行はそれ以上まとまって進まず、木々の間へ広がりながら慎重に距離を詰めた。
◇
鹿は、水場にいた。
小さな泉の縁に立ち、頭を低くしている。
クリルは木の陰からその姿を見た瞬間、見覚えがあると思った。
若い雄だった。
角はまだ大きくなく、右側の先端だけが少し外へ曲がっている。去年からこの辺りで何度か見かけていて、狩りの対象として追ったことはないものの、足跡なら何度も見ている。
昨日の朝、森へ入ったときに見つけた二頭分の蹄跡。
若い方は、たぶんこの鹿だ。
雄鹿は水面へ口を近づけていた。
飲んでいる。
少なくとも、そう見えた。
けれど、水を舐めてはすぐに頭を上げ、首を左右へ振っている。その動きが何度も繰り返されるうちに、何かが明らかにおかしいことが分かってきた。
首筋の毛が、一部だけ黒く濡れたように固まっている。
そこから細い筋が肩へ伸びていた。
血管のようにも見える。
けれど色が違う。
黒紫色だった。
昨日、魔穴から流れ出していた瘴気とよく似ている。
鹿が急に首を上げた。
耳が動く。
クリルも同じ方向へ意識を向けた。
遠くで鹿が鳴いた。
群れの声だった。
若い雄の耳がそちらへ向く。
身体も半歩だけ動いた。
帰ろうとしている。
クリルにはそう見えた。
ところが次の瞬間、雄鹿の脚が激しく震えた。
首筋の黒い筋が膨らむ。
鹿は突然、すぐ横にあった木へ角を叩きつけた。
鈍い音が響く。
一度では終わらない。
角が樹皮へ食い込んでも構わず、何度も頭を振り、木を削るようにぶつかり続ける。
やがて角の根元から血が流れ始めた。
それでも止めない。
狂っている、そう思った。
だが、群れの鳴き声がもう一度聞こえると、一瞬だけ動きが止まった。
鹿は森の奥を見る。
その姿は、何度も見てきた普通の鹿と変わらないように見えた。
クリルは息を詰めた。
戻るかもしれない。
そう思った。
けれど、鹿は再び身体を震わせると、今度は泉の縁に生えていた低木へ噛みついた。
葉を食べるためではない。
枝を食い千切り、根元まで引きちぎろうとするように暴れている。
里長が小さく息を吐いた。
「これは……」
「魔獣だ」
アンティルの声は低かった。
クリルは横を見た。
その言葉自体は知っている。
ロビの土産話にも出てきたことがある。
けれど、魔物との違いを考えたことはなかった。
どちらも人を襲う、危険な存在。
その程度の認識だった。
鹿がまた群れの声へ耳を向けた。
そして、森へ向かって歩き始める。
右前脚が上手く動かず、何度も躓いている。それでも進む方角だけは迷わない。
群れのいる方角だ。
クリルはアンティルの服を軽く引き、黒布へ急いで書いた。
〈あれ普通の鹿だった〉
「ああ」
〈知ってる鹿〉
アンティルは鹿から目を離さなかった。
「魔獣は魔物とは違う」
声を抑えたまま答える。
「昨日、穴から出てきたのは魔物だ。魔穴から生まれるものもいるし、最初からああいう生き物として存在している」
鹿が足を止める。
また首筋が脈打っている。
「魔獣は違う。普通の動物が、濃い瘴気に長く晒されて変質したものだ」
クリルは鹿を見る。
普通の動物。
その言葉が、目の前の姿とすぐには結びつかなかった。
「身体だけが変わるんじゃない。行動にも強い影響が出る。攻撃性が上がって、周りのものを壊すようになる」
〈頭は?〉
「完全になくなるわけじゃない」
アンティルが水場を指した。
「だからここへ来たんだろ」
クリルはもう一度、鹿を見る。
水を飲む場所を覚えている。
群れの声にも反応している。
いつも使う道も忘れていない。
昨日までの鹿が、まだそこにいる。
それなのに、自分で自分を止められない。
胸の奥に、魔物を見たときとは違う冷たさが広がった。
そのとき、森の向こうでもう一度鹿が鳴いた。
若い雄が大きく頭を上げる。
群れの方へ歩こうとする。
クリルは無意識に一歩出そうとした。
アンティルの腕が前へ出て、それを止めた。
「近づくな」
鹿の首筋が大きく膨れた。
身体が跳ねるように痙攣したあと、それまで群れへ向けていた顔が、急にこちらを向いた。
目が合った。
クリルの知っている鹿の目だった。
少なくとも、形は。
けれど瞳の周囲には細い黒い線が走り、呼吸に合わせて鼻から黒紫色の靄が漏れている。
鹿は動かなかった。
こちらを見ている。
警戒しているのか。
逃げようとしているのか。
クリルにはまだ、その姿勢が読めた。
前脚の位置。
耳の向き。
身体の重心。
本来なら、こちらへ突っ込む姿勢ではない。
怖がっている。
逃げたい。
そう見えた。
次の瞬間、鹿の身体が不自然に沈んだ。
「来るぞ!」
ジグの声と同時に、雄鹿が地面を蹴った。
逃げるのとは反対側へ。
真っ直ぐ、人のいる方へ。
◇
最初に狙われたのは、最も前にいたアンティルだった。
雄鹿が角を低く構え、藪を蹴散らしながら突進してくる。昨日の魔物とは違い、脚の速さそのものはクリルが知っている鹿と変わらないどころか、身体の痛みを無視しているぶん動きが荒く速かった。
アンティルが横へ手を向ける。
地面が盛り上がった。
しかし鹿は止まらない。
前脚が土へ取られ、身体が大きく傾いても、その勢いのまま壁を乗り越える。
「駄目だ、痛みを気にしてない!」
アンティルが身を引く。
ジグと猟師たちが左右へ散る。
里長はすでに弓を構えていたが、すぐには射なかった。
「クリル、下がれ!」
ジグが叫ぶ。
クリルも距離を取った。
ただ、目は鹿から離さない。
雄鹿は突進を外すと、すぐにはこちらを向かなかった。
森の奥から聞こえる群れの鳴き声へ、また耳を動かしている。
戻りたいのだ。
その仕草だけは変わっていない。
ところが首筋の黒い部分が脈打つたび、身体が別の命令を受けたように震え、再び人の方へ向いてしまう。
クリルの手が短剣の柄へ触れた。
いつもの狩りなら、迷わない。
獲物を追い、仕留める。
食べるために命を取ることを、クリルは特別な悲劇だとは思っていなかった。それが森で暮らすということだし、自分もそうやって育ってきた。
けれど、今は違う。
目の前にいる鹿は、自分の身体を自分で動かせなくなっている。
それが嫌だった。
「こうなったら戻せないのか?」
ジグがアンティルへ叫んだ。
「今は無理だ!」
「今は?」
「少なくとも、俺は方法を知らない!」
雄鹿が再び走り出す。
今度は猟師の一人へ向かった。
里長の矢が飛ぶ。
肩へ刺さった。
それでも鹿は止まらない。
傷ついた側を庇うことすらせず、身体ごと猟師へぶつかろうとする。
猟師が避ける。
鹿はそのまま木へ衝突し、角の一本が折れた。
普通なら、それだけで動けなくなるほどの衝撃だった。
それでも立ち上がろうとする。
クリルは歯を噛んだ。
見ていられない、このまま生き続けるのは、あまりに惨い。
雄鹿の動きを追う。
右前脚が遅れる。
方向転換するときには必ず左へ身体を流す。
昨日までなら、その癖はなかったはずだ。
それでも、水場へ戻ろうとするときだけは、同じ場所を選ぶ。
泉の東側。
大きな根が地面から出ているところを避け、平らな土へ足を置く。
昔から使っている道だからだ。
クリルは黒布を出す余裕がない。
代わりに、ジグへ簡単な手話を送った。
右へ。
ジグがクリルを見る。
もう一度示す。
右へ回す。
クリルが何をしようとしているのか理解したのか、ジグは一瞬だけ迷い、それから猟刀を構えて位置を変えた。
「無茶するなよ」
返事の代わりに、クリルは鹿を見る。
里長も二人の動きを見ていた。
矢をつがえている。
ただし、まだ放たない。
クリルが走った。
鹿の真正面ではなく、少し左へ。
雄鹿が反応する。
頭がクリルへ向く。
それでいい。
クリルは速度を落とさず、水場の縁へ沿って走った。
鹿が追ってくる。
重い蹄音が背後から近づく。
振り返らなくても距離は分かる。
泉の東側へ。
鹿が何度も使ってきた道へ。
地面から張り出した大きな根が見える。
クリルはその手前で急に方向を変えた。
低く沈み、横へ抜ける。
雄鹿も追って曲がろうとした。
けれど、昔からの習性が残っている身体は、無意識に根を避けた。
ほんの少しだけ軌道が外れる。
その先にはジグがいる。
猟刀が振られた。
脚を狙ったわけではない。
鹿をさらに水場側へ追い込むための一撃だった。
雄鹿が反転する。
そして、いつも水を飲む場所へ踏み込んだ。
クリルはその動きを知っていた。
次にどこへ足を置くのかも。
だから先に入れた。
低い姿勢のまま鹿の側面へ潜り込み、折れていない角の外側を抜ける。
目の前に首がある。
黒い筋が脈打っていた。
クリルは短剣を握り直した。
一瞬だけ、鹿と目が合った。
それが何を意味したのかは分からない。
助けを求めているように見えた、などとは思わなかった。
ただ、怖がっている鹿の目だった。
森で何度も見てきたものと同じだった。
クリルは刃を入れた。
狙った場所を外さない。
深く、一度で。
雄鹿の身体から力が抜けた。
クリルは巻き込まれないよう素早く離れ、鹿が地面へ倒れるのを見届けた。
脚が二度ほど動いた。
やがて静かになった。
泉の水面に広がった小さな波紋が、ゆっくり消えていく。
誰も、すぐには喋らなかった。
◇
クリルは倒れた鹿のそばにしゃがんでいた。
血を見ることには慣れている。
鹿を仕留めるのも初めてではない。
それなのに今日だけは、いつもの狩りのあととは違うものが胸の中に残っていた。
角の曲がり方を知っている。
この水場を使うことも知っている。
昨日まで、森の中を普通に歩いていた。
それがほんの一日で、理性を失った獣に変わってしまった。
けれど完全に狂いきったわけではなかった。
水場を覚えていた。
群れの声も覚えていた。
通り慣れた根を避ける癖まで残っていた。
その全部を抱えたまま、自分では止められない何かに身体を動かされていた。
アンティルが隣へしゃがみ込み、首筋の黒い部分を調べる。
素手では触れず、細い金属棒で毛を分けた。
「変異してから、それほど時間は経ってないな」
クリルが黒布を取り出した。
〈なんでわかる?〉
「身体の変化がまだ少ない。時間が経つと、もっと元の姿から離れていく」
アンティルは首から胸の方へ視線を移した。
「魔石も、まだほとんどできてないと思う」
クリルは首を傾げ、話の続きを促した。
「魔獣の体内には、時間が経つと魔石が形成される。魔物にも持つものは多いが、でき方が違う」
少し離れたところで聞いていたジグが尋ねる。
「魔石ができたら戻れないのか?」
アンティルはすぐには答えなかった。
「魔石があるかどうかに関係なく、一度魔獣化した動物を元へ戻す方法は、一般にはないとされている」
クリルの白筆が止まった。
〈ないの?〉
「俺が知っている範囲では」
アンティルは言い切らなかった。
「瘴気を抜けば済むものじゃない。魔獣化した時点で、身体そのものが変わり始める。長く経てば魔石も形成されて、変化はさらに進む」
クリルは死んだ鹿を見る。
〈苦しい?〉
「分からない」
その答えに、クリルは顔を上げた。
「痛みをどう感じているのか、本人に聞けないからな。魔獣は痛みへの反応が鈍くなるが、それが痛くないという意味かどうかも分からない」
アンティルは鹿へ視線を戻した。
「分かったふりはしない方がいい」
昨日、里長が言ったことと似ている。
クリルは黒布へ目を落とした。
何を書けばいいのか、少し迷った。
〈鹿が魔獣になった〉
それでは足りない気がした。
白筆を動かす。
〈水場を覚えていた〉
その下へ続ける。
〈群れの声に反応した〉
さらに、
〈いつもの道も覚えていた〉
と書く。
そこまで記してから手を止めた。
アンティルが横から布を見る。
「それでいい」
クリルは顔を上げた。
「魔獣だった、だけなら誰でも書ける。元が何だったのか、何が残っていたのかまで書いておけば、あとで違いが分かる」
クリルは鹿を見る。
昨日までなら、記録を残そうとは思わなかった。
狩った鹿がどこを歩いていたかなど、その日の食事には関係ない。
けれど、この鹿については残したいと思った。
元から化け物だったわけではないことを。
黒い筋が首に現れるより前には、この森で普通に生きていたことを。
クリルはもう一行だけ付け加えた。
〈元の鹿は、まだいた〉
書いてから、自分でも少し変な文章だと思った。
アンティルは直さなかった。
◇
鹿はその場に残さなかった。
食べることはできないため、里から離れた場所まで運び、瘴気が残らないよう処理することになった。
帰り道、クリルは普段より地面をよく見ていた。
同じ鹿の足跡が、森のあちこちに残っている。
昨日までのもの。
今朝のもの。
形だけなら、どちらもほとんど変わらない。
それでも、知ってから見ると違っていた。
今朝の跡だけは歩幅が乱れ、木へぶつかった場所では土が深く削られている。
魔獣になった瞬間を見ることはできなかった。
けれど、その前後なら森に残っている。
見ようと思えば、追うことができる。
クリルは途中で立ち止まり、黒布へ場所と足跡の違いを書き足した。
「もう記録してるのか」
後ろから来たジグが、少し呆れた声を出す。
クリルは布を見せた。
「……あいつに似てきたな」
それは褒められたのだろうか。
クリルが微妙な顔をすると、ジグは苦笑した。
「別に悪い意味じゃない」
少し先を歩いていたアンティルが振り返る。
「聞こえてるぞ」
「聞かせてるんだよ」
「そうか」
それだけで会話が終わった。
クリルは二人を交互に見たあと、わずかに口元を緩めた。
昨日から怖いことばかり起きている。
消えた道も、魔穴も、今日の鹿も、どれ一つとして理由は分からない。
それでも、分からないなら見ることはできる。
見たものを残すこともできる。
その考えは、なぜか少しだけ心を落ち着かせた。
里が見えてきたころ、クリルは腰の袋から灰色の石を取り出した。
朝からずっと入れていたので、体温で少し温かくなっている。
これでは魔力を通せたかどうか分からない。
アンティルへ見せると、彼も同じことを思ったらしい。
「それはお前の腹で温まっただけだ」
クリルは不満そうに石を見る。
「帰ったら冷やしてからやれ」
〈今日も?〉
「やりたいんだろ」
クリルはすぐに顔を上げた。
アンティルはもう前を向いていた。
その背中を見ながら、クリルは石を握り直した。
魔法も知りたい。
魔獣のことも知りたい。
消えた道のことも、《旅人》のことも、大図書院がどんな場所なのかも。
昨日までは、自分の知らないものが世界の外側にあることを、ただ面白いと思っていた。
けれど今は、知らないままでいることが少し怖くなっている。
同時に、知りたいという気持ちは以前よりずっと強くなっていた。
里へ戻る前に、クリルはもう一度だけ記録用の黒布を開いた。
鹿について書いた最後の一文が目に入る。
〈元の鹿は、まだいた〉
その下へ、少し迷ってから新しい言葉を足した。
〈魔獣は、魔物とは違う〉
今度は消さなかった。




