5 / 魔穴
西の猟道がおかしい。
森から駆け戻ってきた猟師がそう告げたとき、大樹の近くにいた者たちは、最初こそ言葉の意味を掴みかねていた。
道が崩れたのか。倒木でもあったのか。昨日から吹いていた風で地面が荒れた程度なら、森で暮らす者にとって珍しいことではない。それでも男の顔に浮かんでいるものが、そんな日常的な問題への苛立ちではないことだけは、誰の目にも明らかだった。
「朝は通ったんだ」
呼吸を整えながら、男は同じ言葉を繰り返した。
「いつもの猟道だ。沢へ抜ける方じゃない、古い見張り岩の脇を通る道だよ。朝は何もなかった。帰りに同じ場所まで戻ったら、道そのものがなくなってた」
里長が人垣を抜けてくるころには、知らせを聞いた者たちが次々に集まり始めていた。
「迷ったわけではないんじゃな?」
「俺があの道で迷うと思いますか」
「思わん。じゃから聞いた」
猟師は答えに詰まり、荒い息を吐きながら西の森を振り返った。
「見張り岩もあった。曲がった樫もある。場所は間違ってない。でも、その間にあるはずの道だけがないんだ。藪に埋もれたとかじゃない。最初から道なんかなかったみたいになってた」
その言葉を聞いた瞬間、クリルの頭に昨夜から残してある黒布が浮かんだ。
ロビたちが確かに訪れたという集落。
家も、井戸も、畑もあったはずなのに、帰ってみれば道ごと見つけられなくなっていた場所。
あれと同じなのだろうか。
大樹の根元に置いていた灰色の石を握ったまま、クリルはアンティルを見る。彼も猟師の話を聞いていたらしく、普段あまり変化のない目がわずかに細くなっていた。
「どのくらい消えてる?」
アンティルが尋ねると、猟師は手を広げて森の中を思い返した。
「百歩……いや、もう少しあるかもしれない。向こう側へ回れば続きは見えた。ただ、その間だけがおかしい」
「地面は?」
「普通だ」
「木は生えていたか?」
「ああ。若いのも古いのもあった」
アンティルの視線が止まった。
「切り株は」
「なかった」
「獣道は?」
「それも見つからなかった」
質問が続くにつれて、周囲にいた者たちは少しずつ黙っていった。
クリルには、アンティルが何を気にしているのか分かった。
あの猟道は昨日できたものではない。
何十年も里の者たちが使い、鹿や猪も通り、人と獣の足が土を踏み固めてきた。仮に誰も通らなくなったとしても、数日や数月で跡形もなく消えるものではない。
「見に行く」
里長がそう言うと、ジグがすぐに口を挟んだ。
「俺も行く」
「わしもじゃ。森の様子なら若い者より覚えとるところもある」
里長は年老いていたが、その言葉を止めようとする者はいなかった。狩りへ出る機会こそ昔より減っているものの、若いころから歩き続けた森について、この里で彼以上に知っている者はほとんどいない。
クリルも当然のように腰の短剣を確かめた。
それを見たジグが眉を寄せる。
「お前は残れ」
クリルはすぐに黒布を広げた。
〈場所わかる〉
「俺も分かる」
〈足跡見る〉
「猟師がいる」
〈私も猟師〉
「まだ見習いだろ」
クリルが露骨に嫌そうな顔をすると、少し離れたところからロビの笑い声が聞こえた。
「その言い方じゃ引かねえぞ、ジグ」
「お前は黙ってろ」
「はいはい、わかったって」
普段ならここでさらに二言三言続くところだったが、今日は里長がクリルへ目を向け、短い間を置いてから口を開いた。
「連れていく」
「長」
「おかしいのは道じゃ。なら、目のいい者は多い方がいい。危険があれば近づかせん」
ジグは納得していなかったものの、里長にまで反対されると、それ以上は言わなかった。
「俺も行く」
今度はアンティルだった。
里長が黒衣の男へ視線を向ける。
「理由を聞いてもよいかの」
「道が一晩で消えたなら俺も見たい。それと」
アンティルは西の森へ顔を向けた。
「猟師たちが帰ってきた方向から、微かに瘴気の匂いがする」
空気が変わった。
クリルには何も感じられなかったが、その言葉を聞いた数人が同時に森を振り返った。
「魔穴か?」
誰かが呟く。
アンティルは断定しなかった。
「可能性はある」
里長はわずかに目を細め、それから集まっていた者たちへ指示を出した。
森へ入るのは最低限の人数だけにする。残る者は里の外周を確認し、子供たちは森へ近づけない。商隊にも念のため馬と荷をまとめてもらう。
つい先ほどまで、《旅人》をどうするかで意見をぶつけ合っていた人々が、今度は同じ方向を向いて動き始めた。
クリルはその様子を眺めながら、黒布を袋へ戻した。
ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった。
昨日までと同じ里が、まだちゃんとそこにあった。
◇
森へ入ってしばらくは、何もおかしなところはなかった。
頭上では小鳥が枝を渡り、湿った土には夜のうちに通った鹿の蹄跡が残っている。木の幹を登る小さな獣の爪痕も新しく、低木の葉には虫に食われた穴が並んでいた。
クリルは先頭から少し下がった位置を歩きながら、そうした痕跡を無意識に拾っていった。東から西へ抜けた鹿は二頭で、そのうち一頭はまだ若い。少し離れたところには昨日の猪が地面を掘り返した跡もあるが、土の湿り具合から見て今朝のものではなかった。
森はいつも通りだった。
だからこそ、見張り岩が見えてきたところで、違和感ははっきりした。
「ここだ」
案内役の猟師が足を止める。
クリルはその横から前を見た。
場所は知っている。
人の背丈より少し高い黒い岩があり、その横に幹の途中から大きく曲がった樫が立っている。二つの間を抜ければ細い猟道が西へ伸び、その先で沢沿いの道と合流するはずだった。
ところが、そこには森しかなかった。
樫の向こうに何本もの木が立ち、下草が地面を覆っている。
昨日まで道だった場所には見えない。
クリルは少し近づき、地面へしゃがみ込んだ。
「気をつけろ」
後ろからジグの声が飛んできたので、それ以上は進まず、手の届く範囲だけを確かめる。
踏み固められた土はない。
折れた枝もない。
誰かが道を塞いだのなら残るはずの切り株も、引きずった跡もなかった。
代わりに、樫の根元には厚い苔が広がっている。
昨日今日できたものではない。
クリルは指先で苔に触れたあと、黒布を取り出した。
〈古い〉
アンティルが横へ来る。
「何が」
〈苔。ずっと前からある〉
アンティルは自分でも確かめ、続いて近くの木へ視線を移した。
幹の太さはクリルの腕では抱えきれないほどある。
「この木もだな」
猟師の顔色が変わった。
「そんなはずない。昨日までそこは道だった」
「疑ってない」
アンティルは木の皮へ触れながら答えた。
「少なくとも、今ここにある木は昨日生えたものじゃない」
「だったら何なんだ」
「それを調べてる」
周囲を見ていた里長が、短い弓の先で地面を示した。
「向こう側はどうじゃ」
一人の猟師が少し遠回りし、消えた区間の先へ向かった。
ほどなく声が返ってくる。
「続きはある! こっちはそのままだ!」
つまり、本当に途中だけがない。
クリルは森を見る。
目の前にある木々が偽物には見えない。
葉も揺れるし、虫もいる。土には何年分もの落ち葉が積もり、それを分解した黒い土までできている。それなのに、自分の記憶の中では、確かにそこを何度も歩いていた。
胸の奥に、昨日ロビから聞いた集落の話が蘇る。
存在していたはずの場所がなくなり、そこへ続いていた道まで見つからないという、あの奇妙な話だった。
そこまで考えたところで、アンティルが顔を上げた。
「風向きが変わった」
クリルも耳を動かした。
先ほどまで森の奥から流れてきていた風が、横から吹いている。
その中に、知らない匂いが混じっていた。
土でも獣でもなく、焦げた木とも違う。湿っているはずなのに、吸い込むと喉の奥だけが乾いていくような、身体が本能的に拒む臭気だった。
「瘴気じゃな」
里長が低く言った。
さっきまでは感じられなかったクリルにも、今度は分かる。
匂いそのものより、吸い込んだときの感覚がおかしい。胸の奥へ冷たいものが入り込み、身体がそれを外へ出そうとしているような不快さがある。
アンティルが辺りを見回す。
「道の件は後だ。瘴気の方を先に見る」
「同じものじゃないのか?」
ジグが尋ねる。
「分からない」
「魔穴ができたせいで道が消えたとか」
「俺の知ってる魔穴に、古い道を木ごと置き換えるような性質はない」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
同じ異変ではないのかもしれない。
それは安心できる話ではなかった。
◇
瘴気は、森の北西へ進むほど濃くなった。
鳥の声が少なくなり、途中からは虫の羽音さえ聞こえなくなる。地面には小さな獣の足跡が残っていたものの、そのほとんどが来た方向へ引き返していた。
クリルがそれに気づいて黒布へ書こうとしたとき、アンティルが先に言った。
「動物が避けてる」
クリルは少し悔しくなった。
自分が見つけたかった。
けれど、アンティルが足跡の向きを見て判断したのだと分かると、その悔しさはすぐに別の興味へ変わった。
考古学者なのに。
そう思いながら横顔を見ていると、アンティルが気づいた。
「何だ」
クリルは黒布へ、
〈猟師みたい〉
と書いた。
「違う」
〈そんなにわかるのに?〉
「見たままのことを言葉にしているだけだ」
それだけ言うと、アンティルはまた先へ進んだ。
クリルはその言葉を少しだけ考えてから、黒布を畳んだ。
見たままのことを言葉にする。
簡単そうに聞こえる。
けれど、昨日の消えた集落について話を聞いたときも、今朝の猟道を調べたときも、アンティルは家の数や井戸の位置、道端に残る石柱、地面の苔や切り株の有無まで、一見すればどうでもよさそうなことを一つずつ確かめていた。
何でもないものを集めることで、何がおかしいのかを探している。
クリルは自分の目で、もう一度森を見た。
そこで前を歩いていた里長の手が上がった。
全員が歩みを止める。
倒木の向こうにある小さな窪地で、地面が黒く裂けていた。
木々に囲まれた中央に、土そのものを切り開いたような亀裂があり、その幅は大人一人が両腕を広げたほど、長さはその数倍に及んでいる。縁からは黒紫色の靄がゆっくりと流れ出し、陽の光が差し込んでいるはずなのに、裂け目の中だけはすべての光を飲み込んでいるように底が見えなかった。
クリルは足を止めたまま、それを見つめた。
魔穴という名前なら、幼いころから知っていた。
魔物が現れる場所であり、不用意に近づいてはいけないことも知識として教えられている。ロビが旅先で見た魔穴の話をしたこともあれば、大人たちが遠い土地の被害について話しているのを耳にしたこともあった。
けれど、実物を見るのは初めてだった。
話の中では、いつも「穴」という言葉で片づけられていた。
目の前にあるものは、クリルが思い描いていた穴とは違う。単に地面が崩れて空洞ができているのではなく、そこだけが森の中から切り離され、何か別の場所へ口を開いているように見えた。
近づきたいとは思わなかった。
むしろ獣としての感覚のどこかが、これ以上進むなと訴えている。
アンティルの表情から僅かな緩さが消えた。
「新しいな」
「分かるのか?」
「縁が崩れてない。周囲にも古い魔物の痕跡がほとんどない」
里長は魔穴から距離を取りながら、周辺の木々へ目を向けた。
「こんな場所にできるものなのかの」
「できないとは言えない。ただ、この辺りは魔穴が少ない地域だと聞いている」
「少ないどころか、わしが若いころから知っとるものは一つもない。もっと西へ行かねば見ん」
その会話の最中、クリルの耳に小さな音が入った。
硬いものが擦れる。
石の上を爪で掻くような音。
クリルは魔穴を見る。
黒い靄の奥で、何かが動いた。
声を出せない。
代わりに、ジグの腕を強く掴んだ。
「どうした」
魔穴を指差す。
ジグがそちらへ顔を向けた瞬間、アンティルの声が飛んだ。
「下がれ!」
裂け目の中から黒いものが跳び出した。
地面へ落ちたそれは、犬ほどの大きさがあった。六本の脚を持ち、丸みのある胴体は石のような甲殻に覆われ、前方の二本だけが鎌のように太く曲がっている。
見たことのない魔物だった。
それが身体を低くした瞬間、里長の弓が鳴った。
矢は甲殻の隙間へ正確に入り、魔物の身体が横へ弾ける。それでも止まりきらず、地面を掻きながら数歩進んだところへ、ジグが長い狩猟刀を振り下ろした。
「まだ来るぞ!」
魔穴の奥から同じ音が重なった。
一匹目に続いて二匹目が這い出し、そのさらに奥でも複数の影が蠢いている。
猟師たちは一斉に弓へ矢をつがえた。
「散らせ! 穴から離して仕留めろ!」
里長の声に、年齢を感じさせるものはなかった。
二本目の矢を放ちながら、自分は一歩も魔穴へ近づかない。飛び出してくる魔物を狙うのではなく、動きが止まる一瞬を待って甲殻の隙間を射抜いていた。
クリルも短剣を抜いた。
「クリル、後ろへ!」
ジグの声が聞こえたが、その直後、右側の藪が大きく揺れた。
一匹が魔穴から直接こちらへ来ず、倒木の陰を回り込んでいる。
クリルは地面を見る。
湿った落ち葉の中には露出した根が走り、右へ踏めば足を取られる。反対側には低い岩があり、そちらなら一歩目を高く取れる。
考えるより早く身体が動いた。
魔物が鎌状の前脚を振り上げるより先に岩へ片足を掛け、その高さを使って横へ跳ぶ。正面から受けずに胴体の外側へ回り込み、着地と同時に甲殻の継ぎ目へ短剣を滑り込ませた。
刃が浅い。
すぐに抜く。
魔物が身体ごと振り向く気配を感じ、低く沈んで前脚の下を抜けた。
背後で鎌が木の幹へ食い込み、乾いた音が響く。
距離を取り、もう一度傷つけた場所へ入ろうとした瞬間、足元の土が盛り上がった。
クリルは反射的に踏み込みを止める。
土は壁にならず、細い隆起となって魔物の脚の間を正確に走った。六本のうち三本が同時に持ち上げられ、体勢を崩したところへ猟師の矢が飛び込む。
魔物が地面へ倒れた。
クリルはアンティルを見た。
彼は少し離れたところに立ち、片手を地面へ向けていた。
何も唱えていない。
杖もない。
それなのに、別の魔物の足元でも土が持ち上がり、動きを塞いでいる。
昨日の水桶とは違う。
戦いの最中に、何が起きているのか理解できないほど速く、必要な場所だけ地面が変わっていく。
土そのものが、アンティルの視線を読んでいるようだった。
クリルは一瞬だけ、それに見入った。
「前!」
ジグの声で意識を戻す。
別の一匹が向かってきていた。
クリルは横へ踏み込み、鎌をかわす。今度は相手から目を離さず、低い重心のまま魔物の外側へ回って、猟師が矢を射やすい位置へ誘導した。
自分で倒す必要はない。
動かし、隙を作り、次の誰かへ渡せばいい。
狙い澄ました矢が甲殻の隙間へ入る。
その後ろでは、里長が魔穴へ視線を据えたまま叫んだ。
「穴を見ろ! まだ出てくる!」
黒い裂け目の奥が蠢いている。
数が多い。
アンティルが魔穴へ視線を向けた。
「これ以上出させない」
「できるのか?」
「閉じる」
あまりにも簡単に言ったため、里長でさえ一瞬返事を忘れた。
「皆、穴から離れろ。今出ているものだけを抑えてくれ」
ジグたちが前へ出る。
クリルも残ろうとしたところで、アンティルがこちらを見た。
「お前も下がれ」
嫌だ、と顔に出たらしい。
「見たければ離れて見ろ。巻き込まれたら知らんぞ」
魔法を教えてもらう約束を思い出し、クリルは渋々距離を取った。
アンティルは魔穴の前へ進む。
瘴気が服の裾を揺らし、黒い靄が身体の周囲を流れていく。
普通なら、大きな魔法ほど長い詠唱を必要とする。
クリルもそう教わってきた。
里へ来た術者が木を倒したときには、短い火を出すだけの魔法とは比べものにならないほど長い言葉を唱えていた。魔力を大きく扱うほど術式は複雑になり、それを崩さないために声が必要になる。
だからクリルは待った。
アンティルが何かを唱えるのを。
けれど、彼の口は開かなかった。
右手を魔穴へ向けた、その直後だった。
黒い火が灯った。
水桶を直したときの細い光とはまるで違う。
炎はアンティルの掌から放たれたのではなく、魔穴の縁そのものから生まれたように広がった。黒い火が土を焼くことなく裂け目を取り囲み、流れ出していた瘴気まで巻き込みながら、ゆっくりと中央へ向かって縮んでいく。
音はほとんどなく、熱もクリルのいる場所までは届かなかった。それなのに、目を離すことができない。
火なのに暗く、暗いのに、その周囲の輪郭だけは不思議なほどはっきりと浮かび上がっていた。
恐ろしいもののはずだった。
それなのに。
綺麗だと思った。
黒い炎は魔穴を覆い尽くし、最後にはその奥へ吸い込まれるように消えていった。
直後、地面が低く震える。
裂けていた土の両側が少しずつ寄り、崩れた縁が内側へ落ちていく。完全に元通りとはいかないまでも、先ほどまで底の見えない穴だった場所は、深く抉れた窪地にまで閉じていた。
瘴気も薄れている。
残っていた魔物を仕留め終えた猟師たちの間から、誰かが息を吐いた。
「……何だ、今の」
アンティルは答えなかった。
魔穴の跡を確認し、まだ黒い煙のようなものが残る場所へ手をかざしている。
クリルは彼のもとへ行きたかった。
何をしたのか、どうして唱えなかったのか、そしてあの黒い火は何なのか。聞きたいことが、一度にいくつも浮かんでいる。
けれど、先に里長が魔穴の跡へ近づいた。
「閉じたのかの」
「ひとまずは」
「ひとまず?」
「魔穴は一度閉じれば必ず終わり、というものじゃない。復活することもある。数日は見張った方がいい」
里長は地面を見下ろし、長い間黙っていた。
周囲には倒れた魔物が何体もある。
昨日まで何もなかった森だった。
その森に新しい魔穴が開き、そこからこれだけの魔物が出てきた。
「最近、他でも増えておるのか」
アンティルが顔を上げる。
「魔穴が?」
「そうじゃ」
「増えているという話は聞く。俺がここへ来るまでに通った土地でも、以前より魔物が多いという話は何度か聞いた」
「どの辺りじゃ」
「東方街道沿いでも二か所。どちらも昔からある穴だが、活動が強くなったらしい。新しい穴については、ここへ来る途中では聞いてない」
里長の表情が曇った。
ジグが猟刀についた黒い体液を草で拭いながら、老人を見る。
「何か心当たりがあるのか?」
「心当たりというほどのものではない」
里長はすぐには続けなかった。
森の奥を見ながら、遠い昔のことを探るように目を細めている。
「わしが子供のころ、先代から何度も聞かされた話がある。魔穴が増え、魔物が人里へ近づく時代には、西の魔境で大きな動きが起きる、と」
猟師の一人が小さく息を呑んだ。
その意味を知らない者はいなかった。
クリルも知っている。
もっと古い物語なら、誰でも聞いたことがある。
魔王が力を取り戻すと魔穴が増え、魔物たちが活発になって人の暮らす土地へ押し寄せる。その危機に女神が勇者を選び、勇者は仲間を集めながら西の魔境を目指す。
子供のころに何度も聞いた英雄譚だった。
昨夜までなら、魔王も勇者も魔境も、自分の暮らす森とは何の関係もない遠い物語の中にあった。
けれど、その物語に出てくる魔穴を、クリルは今日初めて自分の目で見た。
「魔王が復活するってことか?」
誰かが尋ねた。
里長はすぐには答えなかった。
「そう決まったわけではない」
やがて口を開いた老人の声は、いつものように落ち着いていた。
「魔穴が一つ現れた。それだけで魔王復活と決めるのは早いじゃろう。道が消えたことも、これと関係があるのか分からん」
そこで一度言葉を切り、閉じた魔穴へ視線を戻す。
「じゃが、昔から魔王が動く前にはこうした異変が増えたと伝わっておる。それまで笑い飛ばしてよいとは思わん」
誰も反論しなかった。
アンティルだけが、魔穴ではなく消えた猟道の方向を見ていた。
その横顔が、クリルには少し気になった。
◇
里へ戻るころには、陽がかなり傾いていた。
森へ入った者たちの姿が見えると、大樹の周囲で待っていた者たちが一斉に集まってくる。
怪我人はいない。
それを伝えただけで、張り詰めていた空気は少し緩んだ。
けれど、魔穴が見つかったこと、そこから複数の魔物が出てきたこと、アンティルがひとまず封じたことを里長が説明していくにつれて、安心とは別のざわめきが広がっていった。
「やっぱり、何か起きてるんじゃないのか」
「道が消えたのも魔穴のせい?」
「分からんと言っておる」
「でも昨日まで何もなかったんだろ」
声の中に、クリルが聞きたくなかったものが混ざった。
「《旅人》が出た次の日に……」
誰が言ったのかは分からなかった。
大きな声でもない。
けれど、狐獣人の耳には十分だった。
話し声が途切れる。
クリルの耳も、無意識に伏せかけた。
朝の話し合いで聞いた言葉が蘇る。
役割に逆らえば、災いが起こる。
クリルはまだどこにも行くと決めていない。
そして翌日、里の近くに魔穴が現れた。
繋げようと思えば、いくらでも繋げられる。
ジグが何か言いかけたところで、里長が先に口を開いた。
「違う」
静かな声だった。
それでも、周囲の者たちは黙った。
「今日見つかった魔穴が、昨日クリルに《旅人》が降りたことと関係しておる証拠は何もない。順番が続いただけで原因にしてはならん」
里長は誰を責めるでもなく、人々を見渡した。
「怖いときほど、分かっていることと分からんことを混ぜるな。それを始めれば、何でも災いの理由にできてしまう」
朝と同じ言葉だった。
けれど、今度はクリルの胸へもっと深く入った。
アンティルが、記録するなら見えるものを全部見ると言った。
里長は、分からないものを分からないままにしておけと言った。
二人の言葉は少し違うのに、どこか似ていた。
クリルは腰の袋から、昨日から記録用にしている黒布を取り出した。
そこには消えた集落のことも、赤い鳥のことも、自分に《旅人》が降りたことも残してある。
その下に、新しいことを書き足す。
〈西の猟道が途中だけ消えた〉
少し考えて、続ける。
〈近くに新しい魔穴。魔物が出た〉
さらに白筆を動かす。
〈魔穴と道が消えたことの関係は分からない〉
最後の一文を書いてから、クリルは少しだけ手を止めた。
分からない。
以前なら、あまり好きな言葉ではなかった。
答えがないようで、そこで話が終わってしまうように感じたからだ。
けれど今は、少し違って見える。
分からないことを、分かったことにしない。
それなら、あとから本当の答えを見つけられる。
布を畳みかけたところで、横から影が落ちた。
アンティルだった。
彼はクリルの手元にある記録を見たあと、最後の一行を指差した。
「それは残しておけ」
クリルは顔を上げる。
「あとで重要になるかもしれない」
〈大図書院?〉
「ああ」
それなら、いつか誰かがこの布を読むのだろうか。
世界中の本があるという場所で。
知らないファルナや消えた集落、なくなった道、新しく生まれた魔穴について、自分が見たものが誰かの手がかりになるのかもしれない。
クリルは畳んだ黒布を、いつもより丁寧に袋へしまった。
そこで思い出す。
まだ聞いていないことがあった。
別の黒布を開き、白筆を走らせる。
〈黒い火〉
アンティルが見る。
その下へ続けた。
〈呪文なかった〉
「なかったな」
〈大きい魔法もできる?〉
「できる」
クリルの耳が立つ。
〈私も?〉
「そこに戻るのか」
もちろんだった。
あれほどのことが起きた一日でも、黒い炎を見たときの感覚だけはまだ鮮明に残っている。
アンティルは少し考えたあと、クリルの腰の袋を指した。
「まず石を温めろ」
クリルは朝から持ったままだった灰色の石を思い出し、袋から取り出した。
まだ冷たい。
その事実に少しだけ顔をしかめたクリルを見て、アンティルの口元がわずかに緩んだ。
「明日もやる」
クリルは石を両手で握った。
朝とは違って、今度は諦める気がまったくしなかった。
そのとき、森の方から鳥が一斉に飛び立った。
何十羽もの羽音が夕空へ広がり、大樹の周囲にいた者たちも思わず顔を上げる。
西の森だった。
クリルは飛び去っていく鳥たちを見つめた。
理由は分からない。
今日閉じた魔穴の名残なのかもしれないし、ただ大きな獣が歩いただけかもしれない。
けれど、その少しあと。
森の中では、一頭の鹿が水場へ向かって歩いていた。
歩き方は、どこかぎこちなかった。
いつもの場所を知っているように同じ道を選びながら、木の幹へ何度も身体をぶつけ、それでも足を止めようとはしない。
首筋の毛の奥で、小さな黒いものが脈打っていた。




