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コルコニアの旅人たち  作者: 南河鯨
1章 / 旅立ち

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4/27

4 / 役割

 《旅人》というファルナを得ても、朝になれば薪が勝手に割れてくれるということはなかった。

 

 昨日までと同じ時間に目を覚まし、顔を洗い、ミーリャに頼まれて裏手から薪を運ぶ。朝食には昨夜の祝いで残った煮込みが出てきて、ジグは鍋の底に沈んでいた肉を見つけてクリルの器へ入れようとしたミーリャを止めようとしたものの、結局は二人分ほど盛られた。


 窓の外では商隊の馬が鼻を鳴らし、その向こうから木を削る音が聞こえてくる。

 

 何も変わっていない。少なくとも家の中にいる間は、そう思えた。

 

 食事を終えたクリルは腰の袋へ黒布と白筆を入れ、昨日のうちに用意しておいた小さな革袋まで確かめた。中身は空だったが、今日はアンティルに魔法を教えてもらう約束がある。何を持っていけばいいのか分からなかったので、とりあえず使えそうなものを入れるための袋だけ用意した。


「狩りに行く顔じゃないな」

 

 戸口で靴紐を締めていると、背後からジグが声をかけてきた。

 

 クリルは黒布を出し、〈アンティル〉とだけ書いて見せた。


「昨日の黒服か」

 

 クリルが肯定を示すと、ジグは眉間へわずかに皺を寄せたものの、何も言わずに腕を組んだ。昨日からアンティルについて尋ねるたび、だいたいこの顔をする。


「何するんだ?」

 

〈魔法〉


「魔法?」

 

 ジグの眉間の皺が深くなる。

 

 クリルは昨日見た水桶の亀裂と、そこへ吸い込まれた黒い光を思い出しながら、その下へもう一行を書き足した。


〈声がなくてもできる〉


 今度はジグだけでなく、食器を片づけていたミーリャまで手を止めた。


「本当に?」


 クリルが顔を明るくして返事をすると、ミーリャは驚いたように目を見開いたあと、すぐに嬉しそうな表情を浮かべた。


「それなら、教えてもらえるといいわね」


「待て。どういう魔法かも分からないだろ」


「アンティルさんが使っていたんでしょう?」


「だから何者なんだ、あいつは」


 ジグがもっともらしいことを言っている横で、クリルは黒布へ〈考古学者〉と書いた。


「考古学者がなんで魔法を教えるんだよ」


 それについてはクリルも知らないので、布の余白へ小さく疑問符だけを描いてみせた。ミーリャが吹き出す。


「本人に聞いてきたら?」


「そういうことじゃないだろ」


 いつもの朝だった。


 ジグが心配し、ミーリャが笑い、その間でクリルが適当に受け流す。昨日、自分の胸へ光が降りてきたことさえ、少し遠い出来事のように思えてくる。

 

 それでも家を出る直前、ミーリャが何気ない調子で呼び止めた。


「クリル。今日は、たぶん長から話があると思う」


 戸に伸ばした手を止め、クリルは母を見る。


「昨日のことよ」


《旅人》


 言われなくても分かった。


 ミーリャは何か続けようとして、結局は柔らかく笑った。


「心配しなくていいからね」


 その言葉の方が、かえってクリルを少し不安にさせた。


     ◇


 家を出てから大樹まで歩く間に、昨日までとは違うものが三つあった。


 一つ目は、道の向こうから来た猟師の男が、すれ違いざまにいつもより長くクリルの顔を見たこと。二つ目は、水汲みに向かう女たちがクリルの姿を見つけると、一度だけ話を止めたこと。三つ目は、そのうちの一人が、何の悪気もなさそうな顔で尋ねてきたことだった。


「クリル、いつ発つの?」


 何を聞かれたのか理解するまで、少し時間がかかった。


 女もクリルの表情を見て、自分が何を言ったのかようやく気付いたらしい。


「あ、ごめん。まだ決まってないよね」


 クリルは黒布へ手を伸ばしかけたが、書く言葉が思いつかなかった。


「昨日、《旅人》って聞いたから、てっきり……」


 言い訳するように続けた女の隣で、もう一人が肘でその脇腹を軽く突いた。


「だからって次の日に出るわけないだろ。まだ十四なんだから」


「分かってるよ。そういう意味じゃなくて」


 二人は普段から知っている人たちだった。

 

 子供のころ、森で服を破いて帰ってきたクリルを見て笑ったこともあれば、冬には焼いた木の実を分けてもらったこともある。昨日までは、そんな人たちの前を通るときに自分が何者なのかを意識したことなど一度もなかった。

 

 それなのに今は、《旅人》という名前が自分より半歩先を歩いているような気がした。

 

 結局、クリルは黒布へ、

 

〈まだ決めてない〉とだけ書いた。


「そうだよね。ごめんね」

 

 女は本当に申し訳なさそうに笑い、いつもと同じようにクリルの耳の間へ手を伸ばしかけてから、途中でやめた。

 

 その動きが、妙に目についた。

 

 クリルは何も書き足さず、その場を離れた。

 

 大樹が見えてくる。白い葉を広げたオウロウの大樹の下には、いつもより多くの人が集まり始めていた。


 魔法の練習どころではなさそうだった。


     ◇


 昼前、大樹の周囲には里のほとんどの家から一人か二人が集まっていた。


 全員が狐獣人だった。白、茶、赤褐色、灰色と毛色はそれぞれ違っていても、頭の上に立つ耳と、背後で揺れる尾を見れば、ここがレナルドの里であることは一目で分かる。


 商隊の者たちは少し離れていた。


 本来なら里の話し合いに口を挟む立場ではないため、ロビも荷車の脇に腰を下ろしたままこちらの様子を見ている。アンティルはさらに離れた大樹の根元で帳面を開いていたが、昨日までと違い、ほとんど筆を動かしていなかった。


 大樹の前へ出た里長が、集まった者たちをゆっくり見回した。


 年老いてはいるが、背筋はまだまっすぐ伸びている。長い年月の中で白いものが増えた耳も、周囲の声を拾うたびに細かく動いていた。


「昨日のことじゃ」


 それだけで、何について話すのかは全員に伝わった。里長の視線がクリルへ向く。


「クリルにファルナが降りた。名は《旅人》。ここまでは、本人も含めて皆が知っておるな」


 何人かが返事をし、別の者たちは黙ったまま耳だけを里長へ向けている。


「昨夜から古い記録も見直したが、儂が知る限りレナルドには同じファルナを得た者はおらん。先代の長が残した記録にもない」


「じゃあ、どういう役割なんだ?」


 猟師の一人が尋ねると、里長は隠すことなく首を横へ振った。


「分からん」


 ざわめきが広がった。


 クリルは大樹の根元近くに座り、膝の上で黒布を握っていた。昨日は自分だけが知らないのだと思っていた。けれど里長も知らず、ロビも知らない。年長者たちも首を傾げている。

 

《旅人》

 

 たった二文字なのに、それが何を求めているのかを知る者はいなかった。


「名前の通りなんじゃないのか?」


 誰かが言った。


「旅をする役割ってことか?」


「でも、旅をして何をするんだ」


「商人なら商人、狩人なら狩人だろ。旅するだけの役割なんて聞いたことがないぞ」


 声が重なる。


 最初は純粋な疑問だった。


 しかし、話しているうちに別の言葉が混ざり始めた。


「……役割なら、従わないとまずいんじゃないか?」


 その一言で、周囲の声が少し小さくなった。


 クリルは顔を上げた。


 発言したのは、里の外れで家畜を飼っている男だった。クリルもよく知っている。小さいころ、柵を越えて子山羊を追い回して怒られたことがある。


 男はクリルを見ていた。


 嫌っている顔ではなかった。


 むしろ、困っていた。


「昔から言うだろ。ファルナには逆らうなって」


「昔話じゃないか」


 別の男がすぐに返した。


「そうかもしれない。でも、俺たちはずっとそうやってきた」


「役割に合わない仕事をしてる奴だっているだろ」


「仕事の話じゃない。《旅人》って名前が出てるんだ。ここにずっといることが、その役割に逆らうことになるならどうする」


 大樹の葉が風に鳴った。


 その音が、急に近く感じられた。


 ファルナに逆らえば不幸が起こる。クリルもその話なら知っていた。


 子供を寝かせるための昔話に出てくることもあれば、大人たちが酒を飲みながら、どこか遠い土地で本当にあったことのように話すこともある。


 与えられた役割を捨てた者の家だけ作物が枯れた。


 ファルナを嫌って別の生き方を選んだ男が旅に出たあと、故郷に大水が来た。


 役割を拒んだ女の家系から、それ以降ファルナを得る子供が生まれなくなった。


 どれも、クリルが生まれるよりずっと前の話だった。誰が見たのかも分からない。場所を尋ねれば、話す人によって違う答えが返ってくる。


 それでも、何度も聞けば心のどこかには残る。


「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」


 ジグの声がした。いつもより低かった。


 家畜飼いの男が顔をしかめる。


「分かってる。クリルを嫌って言ってるんじゃない」


「だったら何だ」


「怖いんだよ」


 男は逃げずに答えた。


「俺には子供がいる。妻もいる。もし本当に、役割に逆らったせいで何か起きるって話がただの昔話じゃなかったらどうする。何も起きなきゃ、俺が馬鹿だったって笑えばいい。でも何か起きてからじゃ遅いだろ」


 ジグが言葉を失った。


 男の後ろには、その妻がいた。さらに少し離れた場所では、クリルよりずっと幼い子供が母親の尾にじゃれついている。


 クリルはその子を知っている。森へ入るたび、何か見つけてきてほしいと頼んでくる子だった。


「それで、クリルに出ていけって言うの?」


 今度はミーリャだった。静かな声だったが、周囲のざわめきはそれだけで止まった。


「十四の子に?」


「そういう言い方をするな」


「どういう言い方をすればいいの?」


「だから、俺だって……」


 男は途中で言葉を詰まらせた。ミーリャの顔を見ることができなくなったのか、視線を地面へ落とす。


「自分の娘だったら同じことが言えるかって聞かれたら、たぶん言えない。でも、だから余計に怖いんだ」


 その答えに、ミーリャも何も返せなかった。


 誰か一人が悪ければ簡単だった。クリルを嫌う者が、自分を追い出そうとしているのなら怒ればいい。ジグの後ろに隠れて、二度と話さなければいい。


 けれど、目の前にいる男は昨日まで普通にクリルへ声をかけ、狩りから帰れば獲物の大きさを尋ねてきた人だった。

 

 今だって、嫌いだから出ていってほしいと言っているわけではない。だから余計に、胸の内側が落ち着かなかった。


「皆、一度静かにせい」


 里長の声が、重くなりかけていた空気を押しとどめた。

 騒いでいた者たちが口を閉じるまで待ち、老人は先ほどの男へ視線を向けた。


「お前が恐れること自体を責めるつもりはない。昔から伝わってきた話じゃ。儂とて知らぬわけではない」


 男が顔を上げる。


「じゃがな。それが本当にファルナに逆らったために起きた災いだったのか、確かめた者はおらん」


「でも……」


「作物が枯れた後で、『あいつが役割に逆らったからじゃ』と言うこともできる。川が氾濫した後でも同じじゃ。起きたことに理由をつけるのは簡単じゃが、理由が先にあったとは限らん」


 里長はゆっくり言葉を選んでいた。


 伝承を笑っているわけでもなければ、男の不安を否定しているわけでもない。ただ、知っていることと知らないことを分けようとしている。


「そもそも、《旅人》が何をするファルナなのかすら分かっておらん。旅をしろという意味なのか、旅をする者を助ける役割なのか、あるいは我々が想像もできん別のものなのかもしれん。それを名前だけで決めつけて、クリルを里から出すことはできん」


 クリルは里長を見つめた。


「じゃあ、どうするんだ?」


「調べるんじゃ」


 老人はそれだけを迷わず答えた。


「分からぬものを、分からぬまま怖がって決める必要はないじゃろう」


「でも、どこで?」


 その問いに、里の者たちの視線が行き場を失った。


 レナルドにある記録は、昨夜のうちに調べた。隣の里へ聞いたところで、《旅人》を知っている保証はない。


 しばらく沈黙が続いたあと、離れた場所から声がした。


「大図書院になら、記録があるかもしれない」


 全員がそちらを見る。


 大樹の根元に座っていたアンティルだった。

 里人の視線を一斉に受けても気にする様子はなく、帳面を閉じて膝の上へ置いている。


「何か知ってるのか?」


 里長が尋ねる。


「《旅人》については知らない。俺も聞いたことがない」


 期待しかけた空気が少し萎む。


「ただ、キルガスの大図書院には各地のファルナ記録が集められている。地方で数例しか確認されていないものや、今は途絶えた役割についてもな。どこかに記録があるとすれば、あそこが一番可能性は高い」


「キルガス……」


 誰かが呟いた。クリルも名前だけは知っている。ロビの話に何度も登場した町だった。大陸の各地から人と物が集まり、世界中の本を収めた大図書院があるという。


 レナルドから歩いて行けるような場所ではない。地図の上でさえ、気が遠くなるほど遠い。少なくとも気軽に調べ物をしに行ける距離ではなかった。


「だったら、そこへ行けばいいんじゃないか」


 言った者に悪意はなかったのだと思う。


 けれど、その一言は思ったよりはっきりと耳へ届いた。


「《旅人》のことも分かるし、旅をするなら役割にも合ってる」


「簡単に言うな」


 ロビの声が飛んできた。いつの間にか立ち上がっていた。


「キルガスは裏山の向こうじゃねえぞ。十四の娘に、分からないから行ってこいで済む距離じゃない」


「商隊に乗せればいいだろ。お前たちだって向こうへ行くんじゃないのか?」


「そういう話をしてるんじゃねえ。俺たちだって命を懸けてここまで旅して来てるんだ」


 ロビの声には珍しく笑いがなかった。


 そのやり取りを聞いているうちに、クリルの胸の中で朝から引っかかっていたものが少しずつ形になっていった。


 みんな、自分のことを話している。


 どこにいるべきか。どこへ行くべきか。いつ発つのか。何をすれば災いが起きないのか。


 それなのに、そのどれにも自分の考えが入っていない。


 クリルは膝の上に置いていた黒布を開いた。そして白筆を持つ。


 最初は小さく書こうとしたが、それでは遠くの者に見えないと思い、布の中央へ大きな文字を並べた。


 〈私はまだ行くって決めてない〉


 立ち上がって、胸の高さまで掲げる。


 近くにいた者から順番に文字を読み、やがて声が止まった。


 里長もそれを見た。ロビも。ジグとミーリャも。


 クリルは続けて書く。


 〈旅人が何なのか知りたい〉


 一度区切ってから、もう一行を加えた。


 〈でも、旅に出るかはまだ分からない〉


 書いてみると、それが今の自分の気持ちに一番近かった。


 海は見てみたい。大きな町にも興味がある。アンティルの魔法だって覚えてみたい。


 けれど、それだけで明日ここを離れることなんて決断することはできない。


 里長が黒布からクリルの顔へ視線を移した。


「そうじゃな」


 老人の口元に、わずかな苦笑が浮かんだ。


「本人がおるのに、本人抜きで随分先まで話してしもうた」


 何人かが気まずそうに耳を伏せた。


 家畜飼いの男もその一人だった。クリルと目が合うと、男はすぐには逸らさず、しばらく迷ったあとで口を開いた。


「悪かった」


 クリルは何も書かなかった。


「怖いのは、本当なんだ。でも、お前に今日出ていけって言いたいわけじゃない」


 その言葉を受け入れられたのか、自分でもよく分からなかった。だからクリルは無理に笑わず、黒布を膝の上へ戻した。


 里長が周囲を見回す。


「今日は何も決めん。《旅人》について調べる。それまでは、クリルはこれまで通りここで暮らす。異論がある者がおるのも分かっておるが、よくわからん噂や伝承を理由に追い出すような真似を、儂は認めん」


 反論はなかった。納得したからではないだろう。まだ何か言いたそうな顔をしている者もいたし、安心したように息を吐く者もいた。


 意見は揃わなかった。それでも、ひとまず話し合いは終わった。


 クリルは立ち上がり、黒布を畳みながら大樹を見上げた。


 白い葉は、昨日と同じように風に揺れていた。


 里が変わったわけではない。みんなも昨日までと同じ人たちだ。変わったのは、自分に一つ名前が増えたことだけだった。


 それだけで、こんなにも見えるものが違ってしまう。


     ◇


 午後になると、里はいつもの姿へ戻っていった。


 話し合いに集まっていた者たちは仕事へ散り、干してあった毛皮が裏返され、子供たちは大樹の周りを走り回る。商隊では荷物の積み直しが始まり、ロビの大きな声が何度か聞こえてきた。

 クリルも家へ戻ろうとしたところで、小さな子供に呼び止められた。


「クリル!」


 振り向くと、先ほど話し合いにいた家畜飼いの男の子供が走ってくる。父親と同じ赤茶色の耳が、走るたびに揺れていた。


「旅に行くの?」


 またその質問かと苦笑した。


 クリルが黒布を出そうとすると、子供は返事を待たずに続ける。


「海まで行く?」


 少しだけ考え、クリルは肩をすくめた。


「海に行ったら、でっかい貝殻取ってきて」


 今度は思わず笑った。


 黒布へ、〈まだ行かない〉と書く。


「じゃあ、行くとき」


 子供の中では、いつか行くことがもう決まっているらしい。クリルは否定しようとして、白筆を止めた。


 いつか。


 その言葉なら、不思議と嫌ではなかった。いつかなら、海を見てみたい。そのとき大きな貝殻を見つけたら、持って帰ってもいい。


 クリルは書きかけた文字を消し、


〈見つけたら〉


 と書き直した。


「絶対だぞ!」


 子供は満足したらしく、すぐ仲間のところへ走っていった。


 その背中を見送っていると、横から声がした。


「もう土産を頼まれたのか」


 アンティルだった。


 朝から持っていた帳面に加え、今度は細い木箱を抱えている。


 クリルは思い出した。


 魔法。


 里の会議のせいですっかり後回しになっていた。期待が戻ってきたのを見抜いたのか、アンティルは木箱を軽く持ち上げた。


「時間はあるか」


 クリルの返事は早かった。


     ◇


 大樹から少し離れた空き地に、アンティルは木箱を置いた。


 中から取り出したのは、拳より小さな灰色の石だった。見たところ、何の変哲もない。


 クリルは手渡された石を両手で持ち、表面を確かめた。


 冷たい。それ以外には何も感じない。


「魔法を使わせる前に、魔力を動かせるかを見る」


 アンティルはクリルの向かいへ腰を下ろした。


「目を閉じろ」


 言われた通りにする。


「石を強く握る必要はない。自分の中に何か流れていると思え」


 思えと言われても困る。血なら流れているだろう。食べた煮込みも、たぶん今ごろ腹の中にある。


「考えすぎるな」


 目を開ける。


〈分からない〉


「最初から分かったら苦労しない」


 アンティルは特に失望した様子もなく、石を指差した。


「これは魔力を通すと少し温かくなる。壊れないし、失敗しても爆発しない」


 最後の一言で、クリルは石を見る目を変えた。


「しないと言っただろ」


 もう一度目を閉じる。今度は、自分の中を探そうとするのをやめた。


 朝、アンティルが桶を直したときの黒い光を思い出す。


 あれが指先から流れていた。なら、自分にも何かあるかもしれない。


 腕。掌。指先。


 そこへ向かって何かを押し出そうとしてみる。


 しばらくして、石が温かくなった気がした。

 

クリルは目を開ける。


「俺が握ってみてもいいか」


 差し出す。


 アンティルが石を受け取り、しばらく触れてから返してきた。


「変わってない」


 クリルの耳が下がった。


「一回目だぞ」


 慰めているのか事実を言っているだけなのか、相変わらず分かりにくい。


 クリルはもう一度石を受け取った。今度は先ほどより真剣に構える。


「力を入れるな。魔力を出そうとして筋肉を使っても意味はない」


 肩から力を抜く。


「それと」


 クリルが目だけをアンティルへ向ける。


「さっきの話を考えながらだと、たぶん無理だ」


 手が止まった。


 アンティルは大樹の方を見ていた。


「随分揉めてたな」


 クリルは石を膝へ置き、黒布を広げた。


〈盗み聞きしてたね〉


「聞こえたんだ」


〈どう思う?〉


 アンティルはすぐには答えなかった。風が吹き、黒髪が額へ落ちる。


「《旅人》が何なのかは知らない」


 それはもう何度も聞いた。


「だから、旅に出なければ役割に逆らうのかも分からない。そこを分かったふりして答えるつもりはな

い」


 クリルは布へ視線を落とした。


 少し期待していたのかもしれない。アンティルなら、何か知っているのではないかと。


「ただ、大図書院について言ったことは本当だ。あそこなら手がかりはあるかもしれない」


〈行ったことある?〉


「ああ」


 クリルの耳が上がる。


〈どんなところ?〉


「本が多い」


 当たり前だ。


 クリルが不満そうに見つめると、アンティルは少し考え直した。


「一日では歩き切れないくらい広い。世界中から本と記録が集まる。古い地図も、誰も読まなくなった伝承も、珍しいファルナの記録もある」


 黒布の上を白筆が走る。


〈魔法の本も?〉


「ある」


〈無詠唱も?〉


「俺の知る限り、まともな本は少ない」


〈海の本は?〉


「あるだろう」


〈竜は?〉


「ある」


〈火鳥は?〉


「それは知らない」


 質問を書き続けていた白筆が止まった。気づけば、《旅人》について聞いていたはずなのに、途中から別のものばかり尋ねている。


 大図書院。行ったことのない町。見たことのない本。知らない魔法。


 その向こうには、もっと知らないものがあるのだろう。胸の奥が、わずかにくすぐられるような感覚がした。


 今朝、「いつ発つの」と聞かれたときとは違う。里の会議で「キルガスへ行けばいい」と言われたときとも違う。


 これは誰かに言われたからではない。ただ、聞いてみたいと思った。


 アンティルが何度か指を鳴らした。


「石」


 クリルは我に返り、膝に置いたままだった灰色の石を持ち直した。


「大図書院は逃げない。今はこっちだ」


 少しだけ残念そうな顔をしてから目を閉じる。


 今度は余計なことを考えないように、掌の中だけへ意識を向けた。


 冷たい石。指に触れるざらつき。自分の呼吸。その奥に、何かがある。


 そう信じてみる。


 しばらくの間、二人の間には風と鳥の声だけがあった。そして、その静けさを破ったのは、里の西から聞こえてきた足音だった。


 かなり速い。一人ではない。


 クリルが目を開けると、森へ入っていたはずの猟師たちがこちらへ走ってくるのが見えた。先頭にいる男の顔から、普段の余裕が消えている。


「長はどこだ!」


 声を聞きつけ、近くにいた者たちが振り返る。


 猟師は息を整える時間すら惜しむように大樹の方を指した。


「西の猟道がおかしい。朝通った道が、帰りには消えてたんだ」


 クリルの手の中で、灰色の石が冷たいまま沈んでいた。


 昨日までなら、その話を聞いても不思議な顔をするだけだっただろう。


 けれど今は、大樹の下で交わされた言葉が頭に残っていた。


 役割に逆らえば、災いが起こる。誰かがそう言ったばかりだった。


 そして里の西では、本当に何かが起き始めていた。

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