3 / 旅人
商隊が泊まった翌朝、クリルが目を覚ましたときには、家の外からすでに何人もの話し声が聞こえていた。
普段のレナルドなら、朝の音はもう少し疎らだった。薪を割る乾いた音がどこかで響き、鶏が鳴き、早くから森へ入る者の足音が家の前を通り過ぎていく。そうした音が一つ、また一つと増えながら、眠っていた里全体がゆっくり目を覚ましていくのだが、今日はそこへ馬の鼻を鳴らす音や荷物を動かす物音、聞き慣れない声まで混じっている。
昨夜はロビの土産話を聞きながら、いつもより遅くまで起きていた。まだ少し重い瞼を擦りながら寝台の上で身体を起こしたクリルは、窓から差し込む朝の光の中に黒布が置かれているのを見つけ、昨夜の出来事を思い出した。
いつも使っているものとは別にして、机の上へ残しておいた一枚だった。手に取って広げれば、白い文字はそのまま残っている。
〈ロビたちが南東で集落を探した〉
そこから始まり、家が九軒あったこと、井戸や畑があったこと、分かれ道には割れた石柱が立っていたことが続き、最後には昨日の自分が書いた一文が残っている。
〈名前は思い出せない〉
昨夜も何度か読み返したはずなのに、朝になって見ても妙な感じは消えていなかった。存在していたことを示すものはいくつもあるのに、その場所へ行く道と名前だけが抜け落ちている。
布を畳みかけたところで、クリルは昨夕に見たものを思い出した。
赤い鳥。
西の森へ消えていった翼には、見張りが持ち帰った羽と同じような金色が浮かんでいた。
あれも書いておいた方がいいのだろうか。昨日までなら、そんなことを考えもしなかった。黒布は誰かと話すためのもので、書いた言葉は役目を終えれば消してしまうものだったからだ。
けれど、アンティルは消すなと言った。
クリルは布をもう一度広げ、空いているところへ日付を書いた。
〈夕方。赤い鳥を見た。西へ飛んだ〉
白筆を少し浮かせ、昨日の光景を思い返す。翼の縁に見えた金色まで書くべきか迷ったが、あれは夕陽だった可能性もある。見たものと、自分がそう思っただけのものは分けた方がいい気がして、
〈翼に金色の光。夕陽かもしれない〉
と付け加えた。
読み返してみる。
昨日、里長の家で描いた細長い葉よりは、ずっと役に立ちそうだった。
◇
家を出ると、荷馬車の周りではすでに何人かが働いていた。
レナルドへ来る商隊は、その日のうちに品を売って翌朝には発つこともあれば、数日ほど滞在することもある。今回は予定より早く着いた分、急ぐ必要もないらしく、昨夜ロビは二日ほど休ませてもらうと言っていた。
つまり今日も、あの荷馬車がある。
クリルは朝食より先にそちらへ向かった。
三台並んだ荷馬車を順に眺めながら歩いていると、昨日ロビに止められた細長い木箱を見つけた。ほかの荷物とは形が違い、蓋には見覚えのない印まで焼き付けられている。
近くにロビはいない。荷を見張っている者も、こちらには背を向けている。
クリルは箱の前で足を止め、焼き印をよく見ようと身を屈めた。少しだけ蓋を持ち上げれば、中身が何なのか分かるかもしれない。
「開けるなよ」
伸ばしかけた指が空中で止まった。聞こえてきたのはロビの声ではない。
振り向くと、アンティルが少し離れたところに立っていた。昨日と同じ黒を基調とした旅装のまま、片手には朝食に使ったらしい木の器を持っている。耳にかかる黒髪には寝癖なのか元からなのか分からない緩い癖が残り、本人はそれを気にしている様子もなかった。
クリルは箱から手を離し、黒布を取り出した。
〈開けてない〉
「今から開けようとしているように見えた」
〈見てただけ〉
「そうか」
それ以上追及するでもなく、アンティルは横を通り過ぎていく。
クリルは少し拍子抜けした。
ロビなら、ここから昨日のことまで持ち出して何か言ってくる。ジグならそもそも手を伸ばす前に止める。ところがアンティルは、クリルの言い分を信じたのか信じていないのかも分からないまま、もう別のものを見ていた。
視線の先には水桶がある。
アンティルがそちらへ向かったので、クリルも木箱のことを忘れて後を追った。
桶の底近くから細い水が流れ、地面に小さな染みを作っている。近くで馬具を整えていた商隊の男も気づいているらしく、アンティルが桶を指差すと「ああ、それか」と手を止めた。
「朝になったら漏れてたんだよ。昨日どっかにぶつけたかな。あとで直す」
「今使うんじゃないのか」
「もう一つあるから困らんよ」
男はそう言って馬具へ戻った。
アンティルは桶の前へしゃがみ込み、底へ走った亀裂を指先で確かめている。クリルも反対側から覗き込んでみたが、木板が割れていること以外には何も分からない。
ところが、アンティルが亀裂へ指を添えた次の瞬間、その指先に黒いものが灯った。
クリルの狐耳が立った。
火。
そう思ったものの、揺らぎ方が違う。煙も出なければ木が焦げる匂いもしない。黒い光としか言いようのない細い筋が指先から伸び、亀裂へ染み込むように入り込んでいく。
光は木目に沿ってゆっくり広がった。
割れていた木が軋みも立てずに寄り合い、隙間が細くなっていく。完全に傷が消えたわけではないものの、やがて残ったのは一本の薄い線だけになり、それまで地面へ落ち続けていた水も止まった。
アンティルが指を離すと、黒い光も跡形なく消えた。
クリルは桶へ手を伸ばし、亀裂のあったところを指で押した。濡れてはいるが、新しい水は出てこない。
今度はアンティルの指を見る。
何もない。
火傷もしていない。
「何だ」
クリルは急いで黒布を開き、少し傾いた文字を見せた。
〈今のなに?〉
「補修した」
それでは答えになっていない。クリルはもう一度筆を動かす。
〈魔法?〉
「ああ」
やっぱり。
クリルは桶の亀裂へ視線を戻したものの、今度はそこではなく、たった今見たアンティルの口元を思い返していた。
動いていなかった。少なくとも、何かを唱えてはいない。
〈何も言ってない〉
黒布を読んだアンティルは、それがどうしたという顔で答えた。
「必要なかったからな」
クリルには、その意味が分からなかった。魔法を使う者なら何度も見たことがある。里にも簡単な術を扱える者はいるし、ロビの商隊にも火を起こしたり、小さな灯りを作ったりする者がいた。彼らは決まって何かを唱え、それから魔法を起こしていた。
クリルはもう一度書く。
〈言わなくても魔法できる?〉
「術による」
〈今のは?〉
「簡単だからな」
〈みんなできる?〉
「いや」
そこまで答えると、アンティルは木の器を拾い上げて歩き始めた。クリルも当然のようについていく。
「朝飯は?」
まだ食べていないと首を左右へ振って示すと、アンティルは足を止めることなく家々の方を指した。
「先に食え」
クリルはその横へ回り込み、黒布を見せた。
〈教えて〉
「何を」
〈今の〉
「朝飯を食ってからにしろ」
それなら食べれば教えてくれるのだろうか。
クリルは確認するようにアンティルを見つめ、それから布いっぱいに大きな文字を書いた。
〈約束?〉
アンティルは少しだけ眉を上げた。
「説明するとは言ってない」
クリルの耳がわずかに伏せる。
「教えるとも言ってない」
さらに伏せた。
しばらくクリルの耳を見ていたアンティルは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「飯を食ったら来い」
それだけ聞けば十分だった。クリルは踵を返して家へ向かい、途中からほとんど駆け足になった。
◇
「ちゃんと噛みなさい」
その朝、ミーリャは同じことを三度言った。
普段から食事が遅い方ではないが、今日は明らかに速い。パンを口へ運びながら次の一口を用意しているクリルを見て、向かいに座ったジグまで訝しげな顔をしていた。
「何かあるのか?」
口の中にパンがあるので答えられない。もともと声は出ないが。飲み込んでから黒布を取ろうとしたところで、ミーリャに手を止められた。
「食べ終わってから」
仕方なく残りを食べる。ただし速度は落とさなかった。
食器を片づけるとすぐに家を出て、大樹の方へ向かう。アンティルは昨夜と同じ根元に腰を下ろし、膝の上に帳面を広げていた。
クリルが近づいても顔を上げない。
何を書いているのか気になって横から覗くと、大樹の根元らしい線が紙いっぱいに描かれていた。昨日の集落の地図よりもずっと細かく、幹に走る古い傷や、土から大きく盛り上がった根の形まで書き込まれている。
「近い」
昨日と同じことを言われ、クリルは半歩だけ身体を引いた。それでも帳面からは離れない。
アンティルは何本か線を書き足してから立ち上がり、大樹の根元に置かれた小さな祠へ歩き出した。木板へ刻まれた古い紋様を眺め、角度を変えながら帳面へ写していく。
クリルにとっては、物心ついたころからそこにあるものだった。遊んでいて近くへ来ることもあれば、雨宿りに使ったこともある。あらためて真剣に眺めたことなど、ほとんどない。
「これはいつからある?」
尋ねられて、クリルは黒布へ〈ずっと〉と書いた。
「お前が生まれる前から、という意味か」
今度は首を縦に動かして答える。
「誰が作った」
知らないことを示すように肩をすくめると、アンティルはそれ以上聞かず、紋様へ視線を戻した。
どうしてそんなものが気になるのだろう。質問を書きかけたところで、もっと大事な用事を思い出した。
〈魔法〉
黒布を差し出すと、アンティルの筆が止まった。
「忘れてなかったか」
忘れるはずがない。クリルは黒布を裏返し、新しく書く。
〈なんで喋らなくていい?〉
アンティルは祠の前から大樹の根へ戻り、腰を下ろした。クリルもすぐ隣ではなく、話を聞きやすい位置へ座る。
「魔法を使うのに必要なのは、言葉そのものじゃない」
クリルの耳がアンティルへ向いた。
「術式を組んで、そこへ魔力を通す。詠唱はその手順を外さないための補助だ。言葉に沿って組み上げれば途中で崩れにくいし、精神への負担も少なくなる。複雑な術なら、俺も詠唱を使う」
知らない言葉がいくつもある。それでも、一番聞きたかったところだけは分かった。言葉そのものが魔法を起こしているわけではない、と言っているらしい。
クリルは慎重に白筆を動かした。
〈声がなくても?〉
「ああ」
答えは短かった。けれど、その一言だけで、クリルの中では十分すぎるほど大きなものが動いた。
これまで魔法を見るのは好きだった。
火が何もないところから生まれるのも、暗い場所に灯りが浮かぶのも、水が空中で形を変えるのも、見かけるたびに近くへ寄って眺めた。幼いころには自分もやってみたいと思ったことがあったが、術者が言葉を唱える姿を何度も見るうちに、その気持ちはいつの間にか胸の奥へしまい込んでいた。
声が出ない自分にはできない。誰かにそう言われたわけではない。自分でそう決めていた。ところが、今朝アンティルの口は動かなかった。それでも黒い光は生まれ、水桶の亀裂は閉じた。
クリルは自分の掌を開き、そこに何かが現れるところを想像した。もちろん何も起こらない。それでも昨日までとは違って、その何もない掌の向こう側に、初めて道らしいものが見えた気がした。
〈私でもできる?〉
書き終えてから、アンティルの顔を見る。今度はすぐに答えが返ってこなかった。
「魔力を扱えるなら、可能性はある」
クリルの狐耳が勢いよく立った。
「できるとは言ってない」
それでも構わなかった。可能性がある。ゼロではない。
白筆がすぐに走る。
〈教えて〉
「今からか?」
クリルは期待を込めて顔を上げた。
「無理だ」
立っていた耳が下がった。
「そんな顔をするな。まず、お前が魔力を扱えるか確かめないと始まらない。」
〈いつ?〉
「今日は荷の確認がある」
〈明日?〉
「明日もここにはいる」
クリルは少し考え、黒布へ大きく書いた。
〈明日〉
「勝手に決めるんじゃない」
そう言いつつ、アンティルは小さく息を吐きはしたものの、断りはしなかった。そのことが嬉しくて、クリルは自分の掌をもう一度眺めた。
黒い光。
火のようで、火ではなかった。
いつか自分の手からも、あんなものが生まれるのだろうか。
◇
昼前になると、大樹の周囲には自然と人が集まり始めた。
商隊が滞在している間に交換する品物をまとめ、次に持ってきてもらうものをロビへ伝えておかなければならない。家々から毛皮や薬草、乾燥させた木の実が運ばれ、その横では塩や布、薬の残りを数える声が飛び交っている。
クリルもミーリャに頼まれ、乾燥させた薬草の束を抱えて何度か家と大樹を往復した。最後の束を置いたところで、ようやく仕事がなくなる。
近くの根へ腰を下ろすと、少し離れた場所にアンティルがいた。朝と同じ帳面を開き、何かを書いている。
何を書いているのだろう。大樹、祠、それとも昨日の集落のことか。
気づけば、またそちらを見ていた。
「クリル」
隣から肩を軽く突かれた。同じくらいの年の少女が、クリルの視線を追ってアンティルを見る。
「さっきからあの人ばっかり見てない?」
否定するように首を左右へ動かしたものの、少女は納得しなかった。
「見てるよ」
クリルは黒布を出した。
〈魔法〉
「あの人、魔法使うの?」
今度は肯定を示し、その下へ続ける。
〈呪文なし〉
「そんなことできるの?」
クリルが勢いよく肯定すると、少女も興味を持ったらしくアンティルを眺めた。
「騙されてるんじゃないの?」
二人で見る。ちょうどそのとき、アンティルは帳面を持ったまま大きな欠伸をしていた。
少女が少し考える。
「でも悪い人には見えないね」
クリルも少し考えた末、それについては同意した。
少女が笑う。その声につられてクリルの口元も緩んだ、そのときだった。
頭上から、何かが落ちてきた。
反射的に顔を上げる。青い空が見える。大樹の白い葉が風に揺れている。鳥もいない。それなのに、確かに何かが自分へ近づいてくる。
光だった。
白とも金ともつかない淡い光が、葉の隙間をすり抜けるように降りてくる。
クリルは周囲を見た。誰も空を見ていない。少女も、ロビも、荷を運ぶ者たちも、それぞれの仕事を続けている。
もう一度、上を見る。
光は消えていない。
まっすぐ、自分へ降りてくる。避けるという考えが浮かぶより早く、それはクリルの胸へ触れた。
音はなかった。衝撃もない。
それでも胸の奥へ温かなものが染み込み、身体の中心を通って静かに広がっていく感覚だけは、はっきりと分かった。
クリルは胸元へ手を当てた。
「どうしたの?」
隣の少女が怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
答えられない。声がないからではなかった。
頭の中へ、何かが浮かんでいた。文字を読んだのとは違う。誰かの声を聞いたわけでもない。
それなのに、その名前だけは最初から知っていたもののように、意味を伴って意識の中へ収まっていく。
《旅人》
クリルは胸を押さえたまま動かなかった。
「クリル?」
少女の声が少し大きくなる。近くにいた何人かがこちらを見る。
だが、クリルはそれどころではなかった。
ファルナ。
そう理解した瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
待っていた。
十歳を過ぎても現れなかった。
十一歳でも。十二歳でも。十三歳でも。
同じ年の子にファルナが降りたときには一緒に喜んだし、年下の子に先を越されたときにも気にしていない顔をした。遅い者もいる、十五歳までには分かると聞かされ、そのたびに自分でもそう思おうとしてきた。
けれど、本当に気にしていなかったわけではない。
ようやく来た。その喜びが胸の内側から湧き上がりかけたところで、意識の中にある名前がもう一度、その動きを止めた。
《旅人》
知らない。言葉の意味なら分かる。けれど、そんなファルナを聞いたことがない。
狩人でもなかった。森番でも、斥候でも、薬師でもない。
クリルは周囲を見た。
みんな、こちらを見ている。それでも彼らには、何が起きたのか分かっていない。
「おい、どうした?」
少し離れたところからロビの声が飛んできた。その声を聞きつけたのか、ジグもこちらへ向かってくる。
クリルは黒布を開いた。白筆を持つ指が、いつもより少しだけ震えている。
最初に書いたのは、
〈ファルナ〉
それだけだった。
「ファルナ?」
少女が声を上げた。
周囲がざわめく。
「出たのか?」
「クリルに?」
「今?」
ジグが人の間を抜けてきた。
「本当か?」
クリルは顔を上げ、喜んでいるジグの表情を見た。
その後ろからミーリャも来る。
「クリル!」
二人とも笑っていた。待っていたことを知っているからだ。
クリルも笑おうとした。けれど、まだ伝えていない。
白筆を布へ戻す。
〈旅人〉
書いた。
今度は、すぐには誰も何も言わなかった。
ジグが黒布を見る。ミーリャも見る。ロビが横から覗き込み、少し眉を寄せた。
「旅人?」
その言葉を聞きつけて、周囲の者たちが顔を見合わせる。
「そういうファルナがあるのか?」
「聞いたことないぞ」
「旅人って、あの旅人か?」
答えられる者はいなかった。
クリルは人垣の向こうに里長を見つけた。いつからそこにいたのか、老人は急ぐ様子もなくこちらへ歩いてくる。人々が道を開けると、そのままクリルの前まで来て、差し出された黒布へ目を落とした。
「《旅人》か」
里長はしばらく文字を眺め、それからクリルへ目を向けた。
「わしも知らんの」
昨日と同じ言葉だった。赤い羽について尋ねたときは、それが嬉しかった。
だけど、今は違う。
クリルは自分が書いた《旅人》の文字へ目を落とした。ようやく手に入ったはずのものなのに、そこだけ自分の知らない場所へ続く入口のように見えた。
けれど、里長はその文字をもう一度見たあと、杖も持たない手でクリルの肩を軽く叩いた。
「まあ、知らんからといって、めでたくないわけではない。ずいぶん待たされたが、ちゃんとお前にも降りてきたんじゃからな」
その言葉をきっかけに、張り詰めていた周囲の空気が少し緩んだ。
「そうだな。おめでとう、クリル」
「よかったじゃないか」
「これでジグも心配しなくて済むな」
次々に声をかけられ、クリルは少し戸惑いながらも、その一つ一つへ笑顔を返した。
ジグの手が頭へ伸びてきた。普段なら避ける。今日はそのまま受け入れた。
「よかったな」
髪を乱されながら、クリルは目を細めた。
ミーリャも隣で笑っている。
「今夜は何か作らないとね」
それを聞いた途端、胸の中に残っていた硬いものが少しだけ解けた。
知らないファルナだった。
それだけだ。
分からないなら調べればいい。昨日だって、知らない羽を見つけた。アンティルの魔法だって、今朝まで自分は知らなかった。知らないことは、あとから知ることができる。
そう考えれば、それほど怖がる必要はないように思えた。
ただ、人々がそれぞれの場所へ戻り始めたころ、少し離れたところから聞こえた声だけは、クリルの耳に残った。
「旅人ってことは、やっぱり旅をするのかな」
誰が言ったのかは分からなかった。
責めるような声でもない。
ただ、聞いたことのないファルナの名前から、誰でも思いつきそうなことを口にしただけだった。
それでもクリルは、無意識に自分の胸元へ手を添えていた。
◇
夕食は、いつもよりずっと豪華になった。
ミーリャは昼に言ったことを本当に実行し、保存していた肉まで惜しげなく使った。ロビから分けてもらったばかりの香辛料も少し入れたらしく、鍋から立ち上る湯気には普段の煮込みとは違う匂いが混じっている。
「ファルナが出た日なんだから、これくらい普通でしょう?」
ミーリャがそう言ってクリルの器へ肉を追加すると、向かいに座っていたジグが呆れた顔をした。
「それ、もう三杯目だぞ」
クリルは器を自分の方へ引き寄せた。
「別に取らないって」
疑っているわけではない。ただ念のためだった。
「今日はいいじゃない。ずっと待ってたんだから」
ミーリャの援護を得たクリルは、ジグへ少し得意そうな顔を向けてから、追加された肉を口へ運んだ。
「お前はそういうときだけ味方を見つけるのが早いな」
食卓に笑い声が広がる。昼間のざわめきなどなかったような、いつもの家だった。
クリルも途中までは食事に夢中になっていた。けれど、ジグとミーリャが明日の予定について話し始めたころ、不意に昼間の言葉を思い出した。
旅人ってことは、やっぱり旅をするのかな。
手にしていた匙が少しだけ止まる。
旅をする。言葉の意味は分かる。
ロビは旅をしている。アンティルも、ここへ来るまでどこかを旅してきたはずだ。
けれど、それと自分が結びつかない。
「どうした?」
ジグに声をかけられ、クリルは考えを振り払うように残っていた煮込みを口へ運んだ。心配するほどのことではないと伝えるために軽く手を振ると、ジグもそれ以上は聞かなかった。
食事を終え、ミーリャと一緒に片づけを済ませてから部屋へ戻る。
窓の外では虫が鳴き始めていた。
昼間に商隊の荷馬車が並んでいたせいで賑やかだった里も、夜になればいつもの静けさへ戻っている。遠くから馬の鼻を鳴らす音が一度聞こえた他には、ときおり風が木々を揺らす音がするくらいだった。
クリルは寝台へ腰を下ろし、腰の袋から記録用の黒布を取り出した。
昨日の集落。
赤い鳥。
その下に空いている場所がある。
白筆を置き、今日の日付を書いた。
〈ファルナが降りた〉
続けて、その下へ記す。
〈旅人〉
書き終えた文字を見ていると、昼間と同じ奇妙な感覚が戻ってきた。自分で書いたはずなのに、自分のことではないように見える。
旅人とは、何をするファルナなのだろう。どこかへ行くこと自体が役割なのか。それとも、旅をしながら何かをするのか。そもそも、本当に旅へ出なければならないのだろうか。
クリルは白筆を置き、部屋の中を見回した。
小さな棚には森で拾った石や木の実が置いてあり、窓辺には以前ロビからもらった白い貝殻がある。寝台の横の壁には、自分で短剣を振って傷をつけ、ジグに叱られたときの跡までまだ薄く残っていた。
どれも、ずっとここにある。
扉の向こうにはジグとミーリャがいる。家を出れば、オウロウの大樹がある。その先には森があり、いつもの狩り場があり、もう少し西へ行けば昨日赤い羽が見つかった沢がある。
ここがクリルの知っている世界だった。
もちろん、その外に何かがあることは知っている。
ロビから海の話を聞いたこともある。大きな街の話も、遠い土地に暮らす種族の話も聞いた。いつか見てみたいと思ったものだって、一つや二つではない。
今日、アンティルの魔法を見たときには、自分もやってみたいと思った。けれど、見てみたいことと、ここを離れることは同じではなかった。
クリルは黒布へ書かれた《旅人》を指先でなぞった。
そのとき、戸が軽く叩かれた。顔を上げると、もう一度音がする。
戸を開けた先にはジグがいた。
「まだ起きてたか」
クリルは少し身体を横へずらし、部屋へ入れる。ジグは机の上に広げられた黒布を見つけたらしく、壁際へ寄りながら《旅人》の文字へ目を向けた。
「それ、考えてたのか」
クリルは布を手に取り、ジグにも見えるようにした。
しばらく文字を眺めていたジグは、すぐに何かを言うのではなく、近くの壁へ背を預けた。
「昼から何人かに聞いてみた」
クリルの耳がそちらへ向く。
「やっぱり、知ってる奴はいなかった。長も知らないって言ってただろ。ロビも、旅先で聞いた覚えはないらしい」
期待していた答えではなかった。
それが顔に出たのか、ジグは少し困ったように頭を掻いた。
「だからって、悪いものだって決まったわけじゃない」
クリルは布へ目を落とした。
「それに、旅人って名前だから旅に出ろ、なんて単純な話でもないだろ。何をするファルナなのかも分からないんだから」
昼間の言葉を思い出していたことまで見抜かれたようで、クリルは顔を上げた。
ジグは少しだけ間を置いてから、今度ははっきりと言った。
「ここにいたければ、いればいい」
白筆を握っていた指から力が抜けた。
「ファルナが何だろうと、お前の家はここだ。明日になったら急に出ていけなんて、誰も言わない」
クリルは何かを書こうとした。
ありがとう。大丈夫。分かった。
どれもしっくりこなかった。
結局、黒布を机へ置き、ジグのところまで歩いていって服の裾を掴んだ。
「どうした?」
返事の代わりに、そのまま少しだけ掴んでいる。
ジグも急かさなかった。やがて手を離したクリルは黒布へ戻り、今度は迷わず一言だけ書いた。
〈ありがとう〉
「ああ」
ジグの手が頭へ載せられた。
普段ならすぐに逃げるところだが、今夜はそのまま髪を乱されるに任せた。
「もう寝ろ。明日、長ともちゃんと話そう。分からないなら調べればいい」
クリルは口元に小さな笑みを浮かべ、分かったことを示した。
ジグが部屋を出て戸が閉じたあとも、クリルはしばらくその場に立っていた。やがて寝台へ戻ると、黒布を膝の上へ広げる。
ジグの言葉は嬉しかった。
ここにいていい。
その言葉を聞いたとき、胸の奥にあったものが確かに軽くなった。それでも《旅人》の二文字が消えたわけではない。
クリルは窓の外へ目を向けた。
夜の向こうには森がある。
その先には、自分がまだ見たことのない土地がある。
海も。大きな街も。アンティルが使うような魔法も。
知らないものを見てみたいと思う気持ちは、ずっと前からあった。けれど、それはロビの土産話を待つこととは違う。
自分の足でそこへ行くなら、ここを離れなければならない。そのことを今日初めて、クリルは現実のものとして考えた。
怖い。
知らない場所へ行くことよりも、もうこの家に戻って来られないことを想像する方が怖かった。だから、今すぐ旅へ出たいとは思わない。
誰かにそう言われたとしても、簡単には決められない。
クリルは《旅人》と書いた黒布を丁寧に折り、昨日から残している記録と一緒に枕元へ置いた。
窓の外から風が入り、白銀の髪をわずかに揺らす。遠くではオウロウの大樹の葉が重なり合い、夜の静けさの中に低いざわめきを残していた。
聞き慣れた音だった。生まれてから、何度も聞いてきた。クリルはその音を聞きながら横になり、薄暗い天井を見上げた。
旅人。その二文字が何を意味するのかは、まだ分からない。
明日になれば、何か分かるかもしれない。分からなくても、その次の日がある。そう思えば、今夜は眠れそうだった。
クリルは目を閉じた。
まだ、旅には出たくなかった。




