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コルコニアの旅人たち  作者: 南河鯨
1章 / 旅立ち

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2/24

2 / 火鳥の羽

 西の見張りが戻ってきたらしいとクリルが気づいたのは、昼を少し過ぎたころだった。


 朝に森へ置いてきた弓はすでに回収してあり、今はオウロウの大樹の根元に腰を下ろして、弦の具合を確かめていた。昨日張り直したばかりなので緩んでいるはずはない。森鹿を逃した原因を弓のせいにできないことは分かっている。それでも何か一つくらい悪いところを見つけたくて、指先で弦を弾いては首を傾げていたところへ、西へ続く道の方から聞き慣れた声が届いた。


 顔を上げるより先に、頭の上の狐耳がそちらへ向く。


 話しているのは三人。そのうち一人はジグで、残る二人にも聞き覚えがあった。午前中から西の森へ入っていた見張りの二人だ。


 クリルは弓を膝から下ろしかけ、そこで一度だけ手を止めた。


 森へ探しに行くな、とジグには言われている。里長からも、羽が見つかれば里へ持って帰ると言われた。


 だから、待っていた。


 森へも行っていない。ならば何も問題はないはずだと自分の中で話をまとめると、クリルは弓を大樹の根へ立てかけ、西の道へ向かった。

 

 走ってはいない。ただ、歩幅がいつもより少し広かっただけである。


「クリル、走ると危ないよ」


 家の軒先で干していた布を取り込んでいた女性から声をかけられ、クリルは振り返って片手を上げた。いったん歩幅を狭め、その家を通り過ぎてから、また少しだけ速くする。


 西側の小道へ着くころには、見張りの二人を囲むように何人かの里人が集まっていた。


 片方の男は背負っていた弓を下ろし、もう一人が小さな革袋を手にしている。二人から話を聞いていたジグは、人垣の隙間から白銀の髪が覗いたところでこちらへ目を向けた。


「来ると思った」


 クリルはすぐに黒布を取り出した。白筆を走らせ、書き終えた面をジグへ向ける。


 〈森には行ってない〉


「ああ、分かってる」


 それだけでは足りない気がして、下へもう一行書き足した。


 〈約束守った〉


「分かったって。別に怒ってない」


 クリルは満足して布を畳もうとしたが、ジグがその顔を見て眉を寄せた。


「なんでちょっと得意そうなんだよ」


 当然の権利として見せてもらうつもりだったことまで見抜かれた気がして、クリルは視線を逸らした。


 革袋を持っていた男が笑う。


「見せてやればいいだろ。俺たちも何なのか分からんし、危ないものには見えなかった」


 そう言って袋の口を開き、指先で中身を摘み上げる。現れたものを見た途端、クリルは畳みかけていた黒布をそのままにして一歩近づいた。

 

 一本の羽だった。


 長さはクリルの掌より少し大きい程度で、形だけなら森で見かける大型の鳥の風切羽とそれほど変わらない。それなのに男の手の中にある羽は、周囲の木々や土壁の家々から、そこだけ別の景色を切り取ったように鮮やかに浮かんでいた。


 赤い。


 根元に近いところでは深い朱色だったものが、先端へ向かうほど明るさを増し、羽枝の一本一本へ橙と金を溶かしたような色が走っている。男が何気なく手首を傾けると、昼の陽を受けた表面から細かな輝きがこぼれ、それがほんの一瞬、火の粉のように見えた。


 クリルの狐耳がぴんと立った。


「ほら」


 男が羽を右へ動かす。


 クリルの顔も右へ動いた。


 左へ戻すと、今度はそちらへ。


 二度ほど繰り返したところで周囲から笑い声が起こり、クリルはようやく自分が遊ばれていたことに気づいた。


「お前、簡単に釣られてるな」


 ジグに言われ、むっとして男を見る。


「悪い悪い。触るか?」


 表情がすぐに戻った。

 両手を差し出す。


「乱暴にするなよ」


 掌へ載せられた羽は、見た目から想像していたよりずっと軽かった。軸を指先で摘み、空へ向けて持ち上げる。陽へ透かした瞬間、赤い羽の奥に細い金色が一本浮かび上がり、クリルは思わず目を細めた。


 少し傾けると消える。


 元へ戻せば、また現れる。


 ただ光を反射しているだけなのかもしれない。それでも、角度を変えるたびに赤の濃淡までゆらゆらと移り変わる様子は、まるで羽の中に小さな火を閉じ込めているようだった。


「そんなに珍しいか?」


 隣から覗き込んできたジグへ、クリルは黒布を見せた。


 〈きれい〉


「それは俺にも分かる」


 その下へ続ける。


 〈見たことある?〉


「ないな」


 白筆が止まった。


 ジグはクリルよりずっと長くこの森を歩いている。狩りへ出る範囲も広く、クリルがまだ一人では行かせてもらえない場所まで知っている。そのジグが見たことがないというだけで、掌にある羽が急に重みを増したように感じられた。


 クリルは見張りの男へ向き直る。


 〈どこ?〉


「西の沢を越えて、もう少し行った辺りだ。昨日見たときは木の上にいたんだが、今日は姿がなくてな。近くを探したら、枝にこれが引っかかってた」


 〈一羽?〉


「見たのは一羽だけだ」


 〈鳴いた?〉


「いや。少なくとも俺は聞いてない」


 〈大きさ〉


 男は少し考え、両手を広げた。


「これくらいだったか?」


「もうちょっと大きくなかったか」


 もう一人が横から口を挟む。


「そうだったか?」


「飛んだとき、結構でかく見えたぞ」


「羽を広げたからだろ」


 二人が言い合い始める。

 クリルはさらに質問を書こうとしていたが、横から伸びてきたジグの手に白筆の先を押さえられた。


「待て。二人とも帰ってきたばかりなんだから、少しくらい休ませてやれ」


 まだ聞きたいことがある。

 そういう顔をしていると、見張りの男が苦笑した。


「あとでな。俺たちだって、分からないことの方が多いんだ」


 仕方なく頷き、羽を返す。

 男の手へ戻る直前、陽を受けた羽の先で、もう一度だけ金色が瞬いた。


     ◇


 羽は里長のところへ持っていかれた。


 その後ろについていこうとしたクリルはジグに襟を掴まれ、朝から頼まれていた薪割りがまだ途中だったことを思い出させられた。


 家へ戻り、斧を振る。


 乾いた音とともに薪が二つへ割れた。


 次を置く。


 斧を振り上げる。


 振り下ろした刃は薪の中心から大きく外れ、切り株へ深く食い込んだ。


「クリル」


 洗った布を干していたミーリャの声が背中から飛んでくる。


 クリルは何事もなかったように斧を引き抜こうとしたが、思ったより深く刺さっている。両手で柄を握って何度か揺すっているうちに、後ろから笑い声が聞こえた。


「羽のこと考えてるでしょう」


 クリルは振り返り、首を横に振った。


「じゃあ、今のは?」


 切り株を見る。

 斧を見る。

 もう一度ミーリャを見る。


「いいわよ、行ってきても」


 狐耳が立った。


「残りはあとでやってくれればいいから。気になるまま続けて、薪じゃなくて自分の指を割ったら困るもの」


 そこまで不器用ではない、と書こうか迷ったが、その時間すら惜しい。

 クリルは斧を抜いて脇へ置き、里長の家へ向かった。


「走らないの」


 背後から言われたので、最初の十歩ほどは歩いた。角を曲がってミーリャの姿が見えなくなったところから、少し速くなった。

 

 里長の家へ着くと、戸は開いていた。中を覗けば、例の羽が机の上に置かれている。赤い色を見つけた途端、クリルの身体は自然とそちらへ傾いた。


「そんなところから覗いとらんで、入りたければ入ればいいじゃろ」


 奥から声がする。

 

 クリルは戸を潜った。


 里長は壁際の棚の前にいた。高いところに置かれた古い木箱へ手を伸ばし、少し背を伸ばして片手で引き寄せると、埃を被ったそれを抱えて机まで運んでくる。


 クリルは箱より羽の方へ近づいた。


「持って帰ってはいかんぞ」


 伸びかけていた指が止まる。


「見るだけなら好きにせい」


 椅子を引き、机へ身を寄せた。外で見たときより、羽の赤は深く見えた。窓から差し込む陽は弱く、直接光が当たっているわけでもないのに、羽枝の奥にはまだ微かな明るさが残っている。顔を近づければ消え、少し離れるとまた見える気もして、クリルは何度か姿勢を変えた。


 その横で、里長が木箱の蓋を開ける。中には何枚もの紙が重ねられていた。取り出された一枚に鳥が描かれている。


 クリルの視線が羽からそちらへ移った。


 次の紙にも鳥。


 その次には四つ脚の獣があり、さらに下からは魚や虫まで出てきた。


「昔、この辺りで見たものを描いて残したもんじゃ。わしが描いたわけではないぞ」


 クリルは一枚ずつ覗き込んだ。


 似た鳥を探す。


 嘴の長いもの、尾羽が二股になったもの、翼に斑点のあるもの。赤く塗られた鳥も一羽いたが、形が違う。


 最後まで見ても、あの羽を持っていそうな鳥はいなかった。


 〈いない〉


「そうじゃの」


 〈昔も?〉


「少なくとも、わしは見たことがない」


 クリルは机の上の羽へ目を戻した。


 里長でも知らない。その事実がなぜか嬉しくて、口元が少し緩む。


「なんじゃ、その顔は」


 クリルはすぐに真顔へ戻った。


「わしが知らんと言って喜んどるじゃろ」


 首を横に振る。


「耳まで嘘はつけんぞ」


 慌てて両手で狐耳を押さえると、里長は喉を鳴らして笑った。


「知らんものがあるのは当たり前じゃよ。わしらが長くこの森で暮らしとるからといって、木の一本、鳥の一羽まで全部知っとるわけではない」


 里長は古い絵を箱へ戻しながら、羽へ一度目をやった。


「森の向こうには、もっと知らんものがあるじゃろうしな」


 クリルはその言葉を聞きながら、赤い羽を見つめた。


 森の向こう。


 ロビが来るたび、何度も聞いてきた言葉だった。


 大きな街。

 海。

 見たことのない種族。


 どれも遠くにあるものだと思っていたのに、今日は知らないものの方からレナルドの森へ入り込んできた。


「気になるなら覚えておけばいい」


 里長が言った。


「次に同じものを見たとき、今日より一つ多く分かるじゃろ」


 クリルは少し考え、黒布の空いている面へ羽を描いてみた。


 軸を一本。

 その両側へ羽枝を足す。

 先を尖らせる。

 描き終えて眺める。


 どう見ても細長い葉だった。


「……鳥の羽か?」


 クリルは無言で布を畳んだ。

 里長がまた笑う。


 そのときだった。


 開いた戸の向こうから、小さな鈴の音が聞こえた。

 一つではない。いくつもの鈴が異なる調子で重なり、その下に馬の蹄と、重い車輪が土を踏む音が混じっている。


 クリルの耳が立った。


「今日は商隊が来る日じゃったか?」


 首を横に振る。

 あと五日ある。

 ロビが前に来たとき、自分でそう言っていた。クリルはちゃんと覚えている。


 それでも、この音を聞き間違えるはずはなかった。

 椅子を蹴るように立ち上がる。


「行ってこい。羽は逃げん」


 クリルは戸口まで行き、そこで一度だけ振り返った。


 赤い羽が机にある。


「隠したりせん」


 考えていたことを先に言われ、クリルは今度こそ外へ飛び出した。


     ◇


 荷馬車が三台、里へ入ってくるところだった。馬の首につけられた鈴が揺れ、車輪が道の窪みを越えるたびに積み荷ががたがたと鳴る。その音を聞きつけた里人が家々から出てきて、まだ荷馬車が止まってもいないうちから何を持ってきたのかと声をかけ始めていた。

 

 先頭の馬の横を歩く、小柄な姿が見える。


 クリルは駆け出した。


 向こうもすぐに気づいたらしく、柔らかな茶色の短髪の下で目を細めると、こちらへ片手を上げた。


「よう、出たな森の小狐。相変わらず元気そうだな」


 知らない者が見れば少年と間違えるかもしれない顔で、ロビが笑う。

 クリルはその前まで走っていき、息を整えるより早く黒布を開いた。


〈五日早い〉


「久しぶりに会った相手に、最初に言うことがそれか?」


 〈あと五日って言った〉


「言ったな」


 〈覚えてる〉


「見れば分かるよ」


 ロビが笑いながら手を伸ばしてきたので、クリルは反射的に腰を沈めた。頭を撫でようとした手が空を切り、ロビは呆れたようにその手を見る。


「お前、本当にそれだけは避けるの上手いな」


 クリルは少し離れたところで耳を立てた。


「褒めてないぞ」


 耳が戻る。

 後ろから笑い声が上がった。


 ロビの商隊には何度もレナルドへ来ている者が多く、クリルも大半の顔を知っている。荷馬車の上から手を振る者へ振り返し、馬の手綱を取っている男には軽く頭を下げながら、列の後ろへ目を移していく。

 二台目の荷馬車の脇に、知らない男がいた。


 黒っぽい服を着ている。


 最初に目についたのは、それだった。


 商隊の者たちが土埃の目立たない茶や灰色の服を着ている中で、その男だけは旅装の大半を黒でまとめている。二台目の馬が道の窪みに前脚を取られかけると、男はすぐに手綱を短く持ち替え、首筋へ手を添えた。強く引くでも声を荒らげるでもなく、何度か軽く撫でるうちに馬は落ち着き、またゆっくりと歩き始める。


 その横顔を、クリルはじっと見た。


 耳にかかる黒髪には緩い癖があり、風に揺れるたび毛先が好き勝手な方向へ動いている。表情はあまり変わらないものの、馬へ触れていた手つきは思っていたより柔らかかった。


 男がこちらを向く。


 黒い瞳と目が合った。


 クリルは逸らさない。


 向こうも、特に困った様子を見せずに見返してくる。


「何やってんだ、お前ら」


 間へ入ってきたロビの声で、クリルはようやく視線を外した。


 男を指差す。


「指差すな」


 黒布へ書き直した。


 〈だれ?〉


「アンティル。しばらくうちで雇ってる護衛だ」


 呼ばれた男が、馬の手綱を別の者へ渡してこちらへ来る。


「アンティルという」


 近くで見ると、やはり表情は薄い。ただ、眉間に皺を寄せているわけでも、相手を値踏みするような目をしているわけでもなく、どこか静かな顔だった。


「お前がクリルか」


 自分の名前が出てきたので、クリルは黒布を上げた。


 〈知ってる?〉


「道中で聞いた」


「俺はそんなに喋ってないぞ」


 ロビが言う。


「十分だ」


 アンティルはそれだけ答えると、後ろで呼ばれた声へ振り返り、荷馬車へ戻っていった。

 クリルはその背中を見送る。


 〈変な人〉


「本人が見えるところで書くなよ」


 ロビに黒布を押し下げられた。


     ◇


 商隊が来れば、里の午後はたちまち賑やかになる。


 荷馬車から塩の袋が降ろされ、布や薬、金属製の道具、見慣れない香辛料の瓶が並べられていく。その横ではレナルドから渡す毛皮や薬草、木の実の袋が積み上げられ、あちこちで値段を巡る声が飛び交っていた。


 クリルは荷下ろしを手伝いながら、その合間に見覚えのない荷物を探した。


 細長い木箱を見つける。


 蓋へ手をかける。


「開けるなよ」


 離れたところからロビの声が飛んできた。


 まだ開けていない。そういう顔で手を離す。


「前に一回やったからな」


 クリルは別の荷へ移った。


「場所を変えても駄目だ」


 振り返る。


 ロビは別の相手と話しながら、こちらを指差していた。


 クリルは諦めて荷下ろしへ戻った。


 そのうち、アンティルが大きな木箱を一人で抱えているのが目に入った。身体つきは細く、ロビの商隊にいる屈強な護衛たちと並べれば、とても力仕事を好むようには見えない。それでも箱を運ぶ足取りは安定しており、地面へ下ろすときにも大きな音を立てなかった。


 クリルは少し離れたところからその様子を見ていたが、アンティルが顔を上げたので慌てて自分の荷物を持ち直した。


「何だ」


 首を横に振る。


「そうか」


 それ以上は聞かれなかった。少し拍子抜けしながら、クリルも荷物を運ぶ。


 商隊の者たちが泊まる場所を整え、馬へ水をやり、荷の確認が終わるころには、陽はずいぶん西へ傾いていた。


     ◇


 ロビから話を聞く時間ができたのは、そのあとだった。


 大樹の根へ腰を下ろしたロビが水筒を傾けているところへ行き、クリルは当然のように隣へ座る。


「来ると思ったよ」


 黒布を膝へ広げる。


 〈なんで早い?〉


「やっぱりそれか」


 ロビは水筒の蓋を閉め、少し離れたところへ目を向けた。


「アンティル」


 呼ばれた男は、荷馬車のそばで小さな帳面を開いていた。声に気づくと顔を上げ、その頁へ何かを書き足してからこちらへ歩いてくる。


「なんだ」


「こいつに例の話してやろうと思ってな」


 アンティルはクリルを見る。


「話すのか」


「どうせ聞くまで離れないぞ」


 クリルは否定しなかった。

 ロビが大樹へ背を預ける。


「予定じゃ、ここへ来る前にもう少し南を回るはずだったんだ。けど途中で道を変えた」


 〈なんで?〉


「前に寄った集落へ、行けなかった」


 クリルは白筆を止めた。


「前回この辺りを回ったとき、南東の街道から少し外れたところに小さな集落があったんだよ。そこで水をもらって、食い物を買って、馬も休ませた」


「家は九軒」


 横からアンティルが言った。


 ロビが見上げる。


「そこまで数えてたのか?」


「ああ」


「なんで?」


「気になったからだ」


「何がだよ」


 アンティルは答えず、帳面を開いた。


 クリルはすぐにそちらを見る。何枚か捲られた紙には、小さな文字と線がびっしり並んでいる。文章だけではなく、植物らしい絵や、見たことのない模様、建物の一部のようなものまで描かれていた。

 一枚の頁で指が止まる。


「これだ」


 クリルは身を乗り出した。紙の中央を道らしい線が走り、途中から細い線が枝分かれしている。その先には小さな四角が並び、少し離れたところに丸が一つ描かれていた。


 四角を数える。


 九つ。


「近い」


 アンティルに言われ、クリルは顔を少しだけ引いた。それでも帳面からは離れない。


「集落の中央に井戸があった。東側に畑、西側は林。分岐には割れた石柱が立っていた」


 アンティルの指が頁の上を移動する。


 クリルは黒布へ書いた。


 〈今回なくなった?〉


「集落だけじゃない」


 アンティルの指が、分岐の位置で止まった。


「ここへ戻った。石柱がなかった」


 〈壊れた?〉


「その可能性も考えた。周囲を探したが、破片も基礎もなかった」


 〈道は?〉


「なかった」


 クリルはアンティルの顔を見る。


 表情はほとんど変わっていない。だからこそ、冗談ではないことが分かった。


「俺は最初、道を間違えたと思ったんだよ」


 ロビが言った。


「アンティルは違うって言い張るし、他の連中も見覚えがあるっていうから、近くの村まで行って聞いた。そしたら誰も知らないって言うんだ」


 〈誰も?〉


「少なくとも俺たちが聞いた奴はな」


 〈集落の名前は?〉


「それが……」


 ロビが言葉を止めた。

 眉間へ皺を寄せ、何かを探すように宙を見る。


「なんだったかな」


 クリルは瞬きをした。


「いや、覚えてたんだぞ。前に寄ったときは。入口にも何かあったよな?」


「木の板があった」


 アンティルが答える。


「そう、それだ。名前が書いてあった」


「書いてあったはずだ」


 アンティルの言い方に、ロビが顔を向ける。


「お前も覚えてないのか?」


 アンティルは答えず、帳面へ視線を落とした。


 クリルも同じ場所を見る。

 九つの四角。

 井戸。

 畑。

 石柱。


 その周囲には細かな文字が並んでいる。

 集落の名だけが見当たらない。


「書かなかったのか?」


「そうかもしれない」


 アンティルはしばらく頁を見たままだった。


「ただ、いつもなら最初に書く」


 大樹の葉が風を受け、頭上でざわめいた。


 里では誰かが夕食の支度を始めたらしく、薪を割る音が遠くから聞こえている。子供たちが大樹の反対側を駆け回り、その声に驚いた鳥が枝から飛び立った。


 いつもの夕方だった。


 クリルはもう一度、帳面を見る。そこにないものを探すように。


「物品はある」


 ロビが立ち上がった。荷馬車へ行き、しばらくして小さな布袋を持って戻ってくる。


「その集落で買ったやつだ」


 袋を開けば、赤黒く乾いた果物が入っていた。


 クリルは一つ摘む。鼻へ近づけると甘酸っぱい匂いがする。


「食っていいぞ」


 口へ入れる。


 噛めば、凝縮した甘みが広がった。そのあとから少し酸味が追いかけてきて、特別珍しい味ではないのに、クリルはすぐには飲み込まなかった。


 この果物を乾かした者がいる。

 袋へ詰めた者がいる。

 ロビに渡した者もいる。


 なのに、その者たちが暮らしていた場所を、近くに住む人間は知らないと言う。


 アンティルは袋を手に取り、口元に施された小さな刺繍へ指を這わせていた。しばらく眺めたあと、帳面の余白へその形を写し始める。


 クリルはその手元を見つめた。


 朝に赤い羽を見たとき、自分は何をしただろう。


 色を見た。

 形を見た。

 どこで見つけたのかを聞いた。

 そして、里長のところで絵にしようとした。

 細長い葉になったけれど。


 アンティルは、それをずっとやっている。


 クリルは自分の黒布を開いた。いつもなら会話を書き、場所がなくなれば水で拭って消してしまう。その中からまだ何も書いていない面を探し、最初に今日の日付を記した。


 その下へ、ゆっくり白筆を走らせる。


 〈ロビたちが南東で集落を探した。前には家が九軒。井戸。畑。分かれ道に割れた石柱。今回は道も石柱もない。近くの村の人は知らない。干し果物と袋は残っている〉


 そこで筆を止める。

 帳面へ目をやる。

 もう一行。


 〈名前は思い出せない〉


「お前も書くのか」


 顔を上げると、アンティルがこちらを見ていた。


 クリルは頷いた。


 アンティルの視線が黒布の文字を追う。


「なら、それは消すな」


 クリルは布を見る。普段なら、明日には消している文字だった。残しておく理由など、これまで考えたこともない。けれど、名前を覚えていたはずのロビが忘れている。いつも地名を書くというアンティルの帳面にも、その名だけがない。


 クリルは白い文字へ指先で触れたあと、布を丁寧に折った。文字が擦れないよう内側へ巻き込み、そのまま腰の袋へしまう。


「なんだよ」


 ロビが二人を見比べた。


「もう仲良くなったのか?」


 クリルは首を傾げた。

 アンティルもロビを見る。


「何を見てそう判断した」


「そういうところだよ」


「分からない」


「もういい」


 ロビがため息をつく。


 クリルは少しだけ肩を揺らした。


 そのとき、大樹の向こうからミーリャがこちらへ歩いてきた。


「クリル、夕飯の準備を手伝ってくれる?」


 頷いて立ち上がる。


「ロビさんたちも一緒に食べるから、今日は多いわよ」


「悪いな、世話になる」


「いつものことでしょう」


 ミーリャが笑う。クリルはその隣へ並び、数歩進んだところで振り返った。


 ロビはまだ大樹の根へ座っている。その横で、アンティルは閉じたばかりの帳面をもう一度開いていた。何かを書き足している。


 何を書いているのだろう。


 聞きに戻ろうか少し迷ったが、ミーリャに先へ行かれそうになり、クリルはその背中を追った。


 家々の間には夕食の匂いが漂い始めていた。子供たちを呼ぶ声が聞こえ、仕事を終えた者たちが道端で立ち話をしている。商隊が来たぶんだけ普段より騒がしくはあるものの、クリルが生まれてから何度も繰り返してきたレナルドの夕暮れだった。


 明日になれば、また森へ行く。ロビからまだ聞いていない土産話もたくさんある。里長のところへ行けば、あの赤い羽をもう一度見せてもらえるかもしれない。


 クリルは腰の袋へ手を添えた。中には、いつもなら消してしまうはずだった文字が残っている。

 それだけが、いつもの一日とは少し違っていた。


 ふと、視界の端を赤いものが横切った。


 クリルは足を止めた。


 大樹の向こう、家々の屋根よりさらに高いところを、一羽の鳥が飛んでいる。夕陽を受けた翼が赤く輝き、その縁から金色の粒がこぼれたように見えた。


 朝の鳥だ。


 そう思ったときには、もう遠い。


 クリルは無意識に一歩踏み出していた。


「クリル?」


 ミーリャの声がする。


 返事の代わりに、空を指差した。けれど、赤い鳥は森の向こうへ消えていた。残っているのは夕焼けだけだった。


 ミーリャが隣へ戻ってきて、クリルの指す先を見る。


「何かいた?」


 クリルはしばらく空を見つめ、それから黒布を取り出そうとして手を止めた。腰の袋には、さっき書いた記録が入っている。代わりに両手を広げ、鳥が翼を動かすような仕草をしてから、西の森を指した。


「鳥?」


 頷く。


「あの羽の?」


 もう一度頷いた。


 ミーリャは森の方を見たものの、そこにはもう何もいない。


「戻ってきたのね」


 クリルは首を傾げた。


 戻ってきた。確かにそうなのかもしれない。けれど、どこから戻ってきたのだろう。


 クリルはもう一度、森を見る。夕陽が木々の上へ沈み始め、枝の隙間に残る光が少しずつ赤くなっている。その色に紛れてしまえば、あの鳥を見つけることはもうできなかった。


「行きましょう。暗くなるわよ」


 ミーリャが歩き出す。


 クリルもあとを追った。


 今度は振り返らなかった。


 それでも、頭の中には赤い羽の色が残っていた。


 そして腰元には、名前のない集落の記録がある。その二つに何か関係があるなどとは、まだ考えていなかった。


 ただ、今日一日でクリルは二つ、自分の知らないものを見つけた。


 世界は昨日より、ほんの少しだけ広くなっていた。


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