1 / 森の朝
書き溜めてる分が終わるまでは毎日投稿します。
朝露を踏む音は、自分で思っているよりも大きい。
森で獲物を追うようになってから、クリルはそれを何度も思い知らされてきた。濡れた落ち葉はまだいい。厄介なのは、その下に隠れた枯れ枝や、乾いた木の実の殻だった。ほんの少し体重をかけただけで音を立て、その一度きりの失敗で、それまで慎重に詰めてきた距離がすべて無駄になる。
だから足を下ろす前に、まず見る。
苔の浮いた石、半ば土に埋もれた木の根、落ち葉の重なり具合まで確かめてから右足を置き、ゆっくりと重心を移す。左足を動かすのは、梢を渡ってきた風が木々を揺らし、葉の擦れ合う音が森を満たした瞬間だった。
わずかな衣擦れも靴底が土を押す音も、森そのものが覆い隠してくれる。
クリルは満足そうに狐耳をわずかに立てた。
白銀の髪が頬へ落ちてくる。さらりとした直毛は背中まで届く長さがあり、邪魔にならないよう後ろで細く束ねてあるものの、動けばどうしても何本かは逃げ出してくる。眉の辺りで真っ直ぐに切り揃えた重い前髪の下から、薄黄色の瞳だけを動かして前方を窺った。
十歩ほど先の低木、その隙間に小さな角が見えている。
若い森鹿だった。
まだこちらには気づいていない。草を食んでは顔を上げ、黒い鼻先を動かして空気の匂いを確かめると、また安心したように頭を下げている。
クリルは腰を落とし、左手で短弓を支えた。
弓が好きではないわけではない。獲物を仕留める道具として便利なのは分かっているし、里の狩人たちから何度も教わってきた。ただ、短剣を手に森を駆けるときほど、どうにも身体が思った通りに動いてくれない。
矢を一本番える。
弦を引き、息を吐く。
森鹿が顔を上げた。
耳が動いた瞬間、クリルは指を離した。
弦の鳴る音とともに飛び出した矢は、低木の葉を一枚掠め、森鹿のすぐ横を通り抜けて、その向こうの木へ深々と突き刺さった。
森鹿とクリルの目が合った。
次の瞬間、森鹿が地面を蹴ったので、クリルも考えるより早く弓を放り出していた。
低木を飛び越え、張り出した木の根を踏み台にして身体を横へ振る。森鹿を真後ろから追っても追いつけないことくらい分かっているから、クリルは獲物ではなく、その周囲の地形を見た。
右には密生した灌木があり、左は緩やかな斜面になっている。正面には細い沢が流れていて、若い森鹿なら水へ飛び込むより、斜面に沿って逃げる可能性が高い。
クリルは鹿とは別の方向へ走った。
姿が木々の向こうへ消えても、足音は残る。耳を澄ませながら一度だけ右へ身体を振り、すぐに違うと判断して前へ進路を戻すと、低い枝の下を身を屈めて潜り抜けた。倒木へ片足を乗せ、朽ちた樹皮が崩れるより早く身体を捻って反対側へ飛び降りる。
読みは当たっていた。
数歩先に森鹿がいる。
突然前方へ現れたクリルに驚いたのか、森鹿は大きく身を翻した。クリルも予想していたより距離が近いことに驚いたものの、足は止めず、低く重心を落としながら腰の短剣を抜いた。
あと一歩踏み込めば届く。
「クリル!」
遠くから自分を呼ぶ声が響いた途端、森鹿の耳が跳ね上がった。
しまったと思ったときには、もう遅かった。
森鹿はクリルの間合いから一息に飛び出し、木々の奥へ駆け去っていく。その姿が完全に見えなくなるまで、クリルは短剣を構えたまま立ち尽くしていたが、やがて頭上の狐耳が見るからに力を失って伏せた。
「クリルー! どこだー!」
もう一度、今度は先ほどより近いところから声が届く。
クリルは短剣を鞘へ戻し、声のした方角を振り返った。
返事をしようとして、両手を口元へ添える。
喉の奥を空気が抜けただけで、音にはならなかった。
自分でも分かっているのに、たまにやってしまう。遠くから名前を呼ばれたとき、背後から突然声をかけられたとき、何かに驚いたときには、考えるより先に身体が昔のやり方を選んでしまう。
クリルは口を閉じ、少しだけ眉を寄せた。誰に見られているわけでもないのに、妙に気恥ずかしい。
近くの木へ手をかけ、幹の窪みに足を置いて身体を持ち上げた。太い枝だけを選ぶ必要はなく、細い枝には体重を預ける時間を短くすればいい。折れそうなら、その前に次の足場へ移ればいい。
こういうことなら弓よりずっと得意だった。
枝から枝へ身体を運び、木々の上へ顔を出す。
朝の森が広がっていた。
低い場所にはまだ薄い霧が残り、木漏れ日がその表面を淡く照らしている。沢の流れる音の向こうから鳥の声が聞こえ、遠くでは何羽もの小鳥が一斉に梢から飛び立っていた。
その森の中に、一つだけ周囲の木々とは明らかに違うものがある。
白い葉を茂らせた巨大な樹が、森から頭一つどころか、いくつも抜け出すように立っていた。
オウロウの大樹。
レナルドの里は、その下にある。
クリルは指を口へ入れ、鋭い指笛を鳴らした。森の静けさを裂いた音に近くの鳥が驚いて飛び立ったが、少しすると里の方角から「いたか!」という声が返ってくる。
クリルは木の幹へ額をつけた。
どうやら、鹿を逃がした上に叔父からの小言も受けることになるらしい。
◇
「だから、一人で奥まで入るなって言っただろ」
里へ戻るなり、ジグはそう言った。
クリルは視線を逸らしたが、向こうも長い付き合いなので、それで話を終わらせてはくれない。
「聞いてるのか?」
仕方なく頷く。
「じゃあ、なんで入った」
クリルは腰に下げた小さな袋から、使い込まれて端の柔らかくなった黒布を取り出し、白筆を滑らせた。
〈鹿がいた〉
「鹿なら手前にもいる」
少し考えてから、クリルは続きを書いた。
〈大きかった〉
「さっき若い鹿だったって言ったよな?」
白筆の先が止まる。
顔を上げると、ジグは腕を組んでこちらを見ていた。誤魔化せそうにない。クリルは無言で布を裏返した。
「書くところを変えても駄目だ」
横から笑い声が聞こえた。
「もう、そのくらいにしてあげたら?」
畑から戻ってきたらしいミーリャが、野菜の詰まった籠を両腕に抱えて立っていた。クリルは助けを見つけたとばかりにそちらへ移動し、その背後へ回り込む。
「あ、こら」
ジグが眉を寄せた。
「私を盾にしないの」
そう言いながらも、ミーリャは笑っている。
「ミーリャも甘やかすなよ」
「甘やかしてないわよ。クリルだって、危ないことくらい分かってるでしょう」
「分かってたら奥まで行かない」
「鹿を追っていたら入っちゃっただけでしょう?」
「それを分かってないって言うんだ」
二人の間で言葉が往復している間に、クリルは少しずつ後ろへ下がった。
「お前の話をしてるんだぞ」
すぐに気づかれた。
仕方なく戻ると、今度はミーリャの籠へ手を伸ばす。
「大丈夫よ。これくらい持てるから」
構わず籠を受け取って両腕で抱え、これを家まで運ぶからこの話は終わりにしよう、という顔でミー
リャを見た。
長く一緒に暮らしていれば、黒布を使わなくてもその程度は伝わる。
「……はいはい。ありがとう」
ミーリャが笑い、ジグは深いため息をついた。
クリルはほんの少しだけ耳を立てた。
朝のレナルドは、すでに一日の営みを始めていた。狩りから戻った者たちが獲物を解体し、軒先では森で採れた木の実が籠いっぱいに広げられている。少し離れた場所から薪を割る乾いた音が響き、家々の煙突から立ち上る朝食の煙には、焼いた穀物と肉の匂いが混じっていた。
水場では子供たちが桶を取り合っている。
その誰もが、クリルと同じ狐獣人だった。
赤みの強い髪を持つ者もいれば、茶色や黒に近い者もいる。耳の大きさや尾の太さ、毛並みも一人ずつ違っているが、この里に人族や他の獣人は暮らしていない。
もっとも、クリルにとっては意識するようなことですらなかった。
幼いころの彼女にとって、人とは頭に狐耳があり、腰の後ろから尾が伸びているものだった。商隊が里を訪れるようになってから、耳も尾も持たない人族や、自分たちとは違う姿をした獣人、さらにはまるで異なる種族が世界にはいるのだと知ったものの、それらの多くはいまだ誰かのの土産話の中にしか存在していない。
レナルドは、大きな街道から外れた森の中にある小さな里だった。立派な石造りの建物も、高い城壁も、大勢の商品が並ぶ市場もない。家々は森から得た木と土と石で造られ、雨が続けば道はぬかるむ。それでもクリルは、どこに何があるのかをほとんど知っていた。
森のどこに木苺がなるのか。雨のあとにはどの小川が渡れなくなるのか。誰の家の屋根が雨漏りして、直すと言いながら何年も放ってあるのか。朝早くから働く者と、日が高くなるまで起きてこない者、子供たちが大人に隠れて木の実を焼いて食べる場所まで知っている。
誰かが怪我をすれば、薬草を持ってくる者がいる。獲物を多く仕留めれば隣家へ肉を分け、冬に薪が足りなくなった家があれば、誰が置いたとも言わず軒先に束が増えている。
クリルにとって、それが世界だった。
そして里のどこからでも、一本の大樹が見えた。
里の中央に立つオウロウの大樹は、白い葉をいっぱいに茂らせ、周囲の家々など比べものにならないほど高く枝を広げている。太い幹には幾筋もの古い傷が走り、何人もの大人が腕を広げても一周できない。
クリルが物心ついたころには、すでにそこにあった。ジグが子供だったころにもあり、里の年長者に尋ねても、自分が幼いころから大きさなど変わっていないと笑う。
誰が植えたのかと聞けば、返ってくる名前は決まっていた。
遠い昔、争いを鎮めた英雄オウロウ。
里の者にとって、その名は歴史の中だけにあるものではなかった。大樹の根元には小さな祠が置かれているが、だからといって毎日誰かが跪いて祈るわけでもない。子供たちは太い根を椅子や遊び場にし、暑い日には大人たちが木陰で休む。祭りの日には枝へ飾りを吊るし、誰かが結婚すれば皆がその下へ集まった。
敬われていると同時に、暮らしの中へすっかり馴染んでいる樹だった。
風が吹くと、白い葉が一斉にざわめいた。
「クリル姉ちゃん!」
大樹の下から声が飛んできた。
数人の子供がこちらへ駆けてくる。先頭の少年は勢い余って転びかけ、クリルの目の前で両腕を振ってどうにか踏みとどまった。
「今日も森行ったの?」
クリルは籠を抱えたまま頷いた。
「何捕った?」
そこで動きが止まった。
少し後ろを歩くジグを振り返ると、向こうもこちらを見ている。クリルは何食わぬ顔で黒布を開き、白筆を走らせた。
〈鹿〉
「鹿!? でっかいやつ?」
クリルはほんの少し迷ってから頷いた。
「逃げられたけどな」
ジグの一言で、子供たちの視線が一斉に戻ってくる。
クリルの耳が伏せた。
「ジグ」
ミーリャが笑いながらたしなめる。
「事実だろ」
子供たちが笑い始めたので、クリルは不満そうにジグを睨み、黒布へ大きな文字を書いた。
〈次は捕る〉
「捕ったら見せて!」
「角も欲しい!」
子供たちが口々に言うのを聞いて、クリルは得意げに胸を張った。
「まず弓を当てられるようになってから言え」
またジグの声が飛んできた。
今度はクリル自身も耐えきれず、肩を揺らして笑った。
音は出ない。
けれど、この里でそれを笑っていないと思う者はいなかった。
ジグもミーリャも、クリルが幼いころから使ってきた簡単な手話を知っているし、里の者たちも日常で頻繁に使うものなら理解できる。水、食べる、待つ、危ない、大丈夫、帰る、ありがとう。もっと複雑なことを伝えたければ、黒布と白筆を使えばいい。
もちろん、不便はある。
誰かと歩きながら話すときには、そのたびに足を止めなければならない。暗い場所では文字が読めず、両手が塞がっていれば布も筆も使えない。怒っている最中に長い文章を書こうものなら、書き終えるころには少しだけ怒りが冷めてしまう。
それでも、それがクリルの日常だった。
里の者は彼女が書き終えるのを待つ。急ぐときには手振りで済ませ、それでも分からなければ顔を見る。耳と尾が本人の思っている以上に感情を表してしまうことは、里の誰もが知っていた。だから普段、クリルが自分に声がないことを意識する時間はそれほど長くない。
森の中で名前を呼ばれ、思わず返事をしようとした朝のような瞬間だけ、失ったものの形がふいに喉の奥へ戻ってくる。
◇
朝食は、焼いた平パンと野菜の煮込み、それに昨夜の残りの燻製肉だった。クリルが自分の皿へ肉を二枚取ると、向かいに座ったジグがその手元を見る。視線に気づいたクリルは一瞬だけ動きを止めたあと、何食わぬ顔でもう一枚取った。
「見えてるぞ」
手が止まる。
「別に食うなとは言ってない」
それなら問題ない、と三枚目を皿へ載せる。
「増やすなって」
鍋を運んできたミーリャが笑った。
「朝からあれだけ走ったんだから、お腹も空くでしょう」
「走った原因が問題なんだよ」
「鹿を追っただけじゃない」
「それで森の奥まで入ったんだろ」
また話が戻ってきたので、クリルは平パンを煮込みへ浸し、自分へ矛先が向かないうちに食べ始めた。
ミーリャが椅子へ腰を下ろしてから、思い出したようにジグへ顔を向ける。
「そういえば、西の見張りが何か見たって話は?」
クリルの手が止まった。
ジグは露骨に嫌そうな顔をした。
「クリルの前で聞くなよ」
「遅かれ早かれ耳に入るでしょう?」
すでにクリルは目を輝かせて話の続きを促すようにジグを見つめている。
「ほらな」
ジグはため息をついたものの、隠し続けるほどの話でもないと思ったらしい。
「大したことじゃない。昨日、西の見張りが森で見慣れない鳥を見たらしい。それだけだ」
鳥なら森にいくらでもいるので、クリルは首を傾げた。
「羽が赤かったそうだ。ただの赤じゃなく、陽が当たると火の粉みたいに光って見えたらしい」
クリルの耳が分かりやすく立つ。
「そうなると思った」
ミーリャが笑った。
すぐに〈見たい〉と手話で伝えると、ジグは文字を読み終えるより早く首を横に振った。
「探しに行くのは駄目だ。見張りも一瞬見ただけで、森の奥へ飛んでいったそうだからな」
クリルは少し考えてから、〈魔物?〉と黒布に書いた。
「分からん。ただ、見張りはそう感じなかったらしい」
その答えに、クリルは納得した。
森には時折、魔物が入り込む。
姿形だけで動物と区別できるものばかりではないが、森で暮らしていれば、そこに何か異質なものがいると気づくことがある。鳥や小動物が近づかない場所、妙に静まり返った一角、鼻の奥へ残るような空気の匂い。理由を説明しろと言われれば難しくても、普段の森とはどこか違う。
見張りがそう感じなかったのなら、少なくともすぐに魔物と決めつける必要はないのだろう。
〈捕まえる?〉
「捕まえない」
〈羽〉
「落ちてるのを拾うくらいなら構わない。ただし、見つけても追って森の奥へ入るなよ」
クリルは大きく頷いた。
「その頷き、信用していいんだろうな」
もう一度、今度はさらに大きく頷く。
ジグはまだ疑わしそうだったが、クリルは何食わぬ顔で三枚目の燻製肉を口へ入れた。
◇
食事を終えると、クリルはミーリャと一緒に水場へ向かった。途中で何度も呼び止められた。朝の狩りについて聞かれ、薪を運ぶのを手伝い、年配の女性からは籠を隣家へ届けてくれと頼まれる。
里の端から端まで歩いても、それほど時間はかからない。その小ささを、クリルは不便だと思ったことがなかった。むしろ、どこへ行っても知っている顔があることの方が自然だった。
水場で桶を満たしていると、街道へ続く道の方から鈴の音が聞こえた。
クリルはすぐに顔を上げた。荷馬車ではない。里の男が一頭の馬を引いて戻ってきただけで、その馬の首に小さな鈴がついていた。
ほんの少しだけ肩が落ちたのを、ミーリャは見逃さなかった。
「ロビさんじゃなくて残念だった?」
クリルはすぐ首を振る。
「そう? じゃあ、今度来るのはいつだったかしら」
〈あと五日〉と五本の指で示して見せると、ミーリャは感心したように眉を上げた。
「よく覚えてるわね」
忘れるはずがなかった。
ロビたちの商隊が来る日は、クリルにとってちょっとした行事だった。塩や金属製品、布、薬といった里では作りにくい品が届くことも楽しみだが、それ以上に、ロビは外の世界の話を持ってくる。
一日歩いても端まで行けないような大きな街。山より大きく見える船。耳も尾も持たない人族。背の低いハーフリング。水の中を自在に泳ぐ海人や、翼を持つ有翼人。
クリルは、その話を聞くのが好きだった。
以前、ロビが海について「向こう岸が見えない」と話したときには、さすがに嘘だと思った。どれほど大きな湖でも岸はあるのだから、高い木へ登れば見えるはずだと黒布へ書いたところ、ロビはしばらく腹を抱えて笑っていた。
次に里へ来たとき、海辺で拾ったという白い貝殻を土産にくれた。
今も部屋の棚に置いてある。
「いつか、自分でも海を見てみたい?」
ミーリャに尋ねられ、クリルは桶の水面から顔を上げた。
ロビが話してくれた海や大きな街、見たことのない種族を、自分の目で見てみたいという気持ちは確かにある。少し考えてから頷くと、ミーリャは穏やかに笑った。
「そう。見られるといいわね」
クリルは黒布へ何かを書こうとして、結局やめた。
外の世界を見てみたいという気持ちと、旅に出たいという気持ちは、まだ同じものではなかった。
ロビの話を聞くのは好きだ。知らない土地を想像するのも、遠くから運ばれてきた品物を手に取り、それがどんな場所で作られたのか考えるのも好きだった。
けれど夕方になれば、この里へ帰る。
夜になればミーリャの料理を食べ、朝になれば森へ入る。季節が変われば採れるものが変わり、冬が来れば皆で薪を蓄え、春になれば森の匂いが変わる。
そういう明日を、クリルは疑ったことがない。
いつか海を見られたらいいとは思う。ただ、その「いつか」がいつなのかまで考えたことはなかった。
外の世界は、遠くに見える山とよく似ていた。そこにあることは知っていて、眺めれば少し胸が躍るけれど、だからといって明日そこへ向かわなければならないわけではない。
少なくとも今のクリルにとって、帰る場所と呼べるところはレナルド以外になかった。
◇
昼を過ぎるころ、クリルはオウロウの大樹の下にいた。
朝に森へ置いてきた弓を回収し、弦の具合を確かめたあと、腰の短剣を抜いて刃を布で拭う。朝露と土がわずかに残っていたものの、刃こぼれはない。
新しい短剣ではなかった。柄にも鞘にも細かな傷があり、華美な装飾もない。それでもクリルは、使った日には必ず手入れをしていた。
刃の表面に、薄黄色の自分の瞳がぼんやり映る。
「またそれ磨いてるのか」
声がして顔を上げると、大樹の根を回り込んでジグが歩いてくるところだった。
クリルは短剣を少し掲げて見せた。
「刃は?」
問題ないという意味で手を動かす。
「そうか。大事に使ってるな」
ジグは隣へ腰を下ろし、短剣へ目を向けた。クリルも自分の手の中にある古い柄を見る。
クリルの父、サリフも短剣の名手だった。
その名前を思い浮かべるだけで、記憶の奥からいくつかの景色が浮かんでくる。大きな手、低い声、森を歩く背中。その先にあるものへ触れそうになって、クリルは無意識に柄を握る指へ力を込めた。
ジグはそれに気づいたらしい。
「無理に思い出さなくていい」
クリルは少しだけ俯いたあと、首を横に振った。
忘れたいわけではない。
それを伝えようとして黒布へ手を伸ばしたものの、うまく言葉にできる気がせず、そのまま手を戻した。
ジグも続きを求めなかった。
大樹の下には、少し離れたところで遊ぶ子供たちの声と、頭上を渡る風の音が流れている。何かを話さなくても居心地が悪くならない沈黙を、クリルは昔から知っていた。
やがてジグが大樹の幹へ背を預けた。
「夕方、長のところへ行く」
クリルの耳が動いた。
「西の見張りが、あの鳥の羽らしいものを見つけたそうだ」
今度ははっきり耳が立った。
「お前は来なくていい」
立っていた耳が元へ戻る。
「その顔をしても駄目だ」
クリルが黒布へ手を伸ばすと、ジグは先回りするように首を振った。
「書いても駄目」
白筆を持ちかけた手が止まった。
ジグの口元が少しだけ緩む。クリルはむっとして短剣を鞘へ戻した。
「何を揉めとるんじゃ?」
声のした方を見ると、大樹の向こうから里長が歩いてきていた。
まだ壮年の男性で、身体つきにも衰えは見えない。里の者と同じ簡素な服を着ているが、騒ぎが起きれば自然と皆がこの男のところへ集まる。その落ち着いた話し方と、すぐに結論へ飛びつかず相手の話を最後まで聞く姿勢を、クリルも幼いころからよく知っていた。
「クリルが西の森へ行きたそうにしてるんですよ」
ジグが答える。
「まだ何も言っとらん顔じゃが」
「言う前に分かります」
里長はクリルを見て、少し笑った。
「ジグにそこまで読まれるようでは、隠し事は向いとらんな」
クリルは黒布へ〈羽を見るだけ〉と書いた。
「ほら」
ジグが言う。
里長は文字を読み、顎へ軽く手を当てた。
「見張りが拾ったものなら、あとで里へ持ってくるじゃろう。わざわざ森へ探しに行く必要はないの」
言い方は穏やかだが、判断はジグと同じらしい。
クリルは諦めて布を畳んだ。
「それにしても、もう十四か」
里長がふと口にした。
クリルは顔を上げる。
「十五まではまだあります」
ジグの声が少し硬くなった。
「分かっとる。急かしとるわけではない」
何の話かは、クリルにも分かった。
ファルナ。この世界で生きる者へ示される役割。
早ければ十歳ほどで分かる者もいて、十二、十三ともなれば同年代の多くが自分のファルナを知っている。十四になってなお何も示されないクリルは、決してあり得ないほど遅いわけではないものの、周囲が少しずつ気にし始める年齢にはなっていた。
「遅い者もおる。まだ決まらんからといって、それ自体が悪い兆しというわけではない」
里長は、クリルではなくジグにも聞かせるように言った。
「ただ、気にする者が出てくるのも仕方はないじゃろう。分からんものを前にすると、人は理由を欲しがるからの」
ジグは何も答えなかった。
クリルも黒布を開かなかった。
いつか分かる。
分からなくても、この里にいればいい。
ジグもミーリャも、ずっとそう言ってきた。クリル自身も、普段はそれで構わないと思っている。
それでも、同じ年ごろの者たちが一人、また一人と自分のファルナを知っていった。
狩人、薬師、木工師、織り手。
自分より年下の子が役割を得たと聞いた夜には、胸の奥に何とも名づけにくいものが残った。羨ましいのか、不安なのか、それともただ自分だけ取り残されたように感じたのか、クリル自身にもよく分からなかった。
里長は、そんなクリルの顔をしばらく見ていた。
「役割は大事じゃ。軽く考えていいものではない。じゃが、まだ分からんことを考え続けても答えは出ん。今できることをしておればいい」
クリルはゆっくり頷いた。
「お前は森のこともよく見とる。狩りも、弓はともかく短剣の使い方なら大人顔負けじゃろう」
弓のところだけ余計だと思い、クリルが眉を寄せる。
里長は笑った。
「その顔ができるなら大丈夫じゃ」
ジグも小さく息を吐いた。
「さて、わしは見張りの話を聞いてくる。ジグ、お前も来るか?」
「はい」
二人が立ち上がる。
クリルも反射的に腰を浮かせたが、ジグに見られて座り直した。
里長はその様子を見て何か言いかけ、結局、笑っただけだった。
二人が大樹から離れていく。
クリルはしばらくその背中を見送った。
頭上で白い葉が擦れ合い、風に押された一枚が枝を離れる。ひらひらと落ちてきた葉を、クリルは片手で受け止めた。
掌の上に収まった白葉は、見慣れたものだった。珍しくもない。秋だけでなく一年を通じて少しずつ葉を落とすので、里の道を歩けばどこかしらに落ちている。
クリルはそれを指先で弄びながら、大樹の向こうへ目を向けた。
ジグと里長はもう見えない。
西の森で見つかった、火の粉のように光る羽。
見たことのない鳥。
あと五日もすれば、ロビの商隊も来る。
そのときには、また知らない土地の話を聞けるだろう。
クリルは白葉を黒布の間へ挟み、立ち上がった。
外の世界へ出たいわけではない。少なくとも、今はまだ。
けれど知らないものを見つけたとき、それが何なのか知りたくなる気持ちだけは、昔からどうにも抑えられなかった。
西の森へ行くなとは言われた。
羽はあとで里へ持ってくるとも言われた。
ならば約束を破る必要はない。クリルは短剣の位置を確かめてから、大樹の下を離れた。まずは見張りが戻ってくるのを待てばいい。
その程度なら、ジグに怒られる理由もないはずだった。
きっと。




