26 / 大きな背中
翌朝、クリルは低い唸り声で目を覚ました。
獣の声だった。危険を告げるものではない。喉の奥で長く震える、どちらかといえば不満そうな鳴き方で、少し間を置いてもう一度聞こえた。
客舎の窓を開けると、朝の冷たい空気と一緒に乾いた草の匂いが入ってくる。牛人の里はすでに動き始めていて、遠くでは鍛冶場から火を起こす音がし、家々の間を水桶を持った者たちが歩いていた。
そして、昨日までは商隊の馬車に隠れてよく見えていなかった広場の端に、クリルの知らない動物がいた。
馬より背は低い。その代わり、身体の幅が妙に広かった。灰褐色の粗い毛に覆われた長い胴の下から、短く太い脚が六本伸びている。三対の脚はどれも蹄が大きく、ぬかるんだ地面でも沈み込みにくそうだった。首は短く、頭の左右には丸みのある大きな耳が垂れている。
背中には木枠が載せられ、その両側へ麻袋や樽が幾つも括りつけられていた。それでも身体はほとんど沈んでいない。
クリルは窓から身を乗り出した。
獣がもう一度唸る。近くにいた牛人が、その鼻先へ干した草を一本差し出した。すると鳴き声はぴたりと止んだ。そして当たり前のように食べ始める。
クリルは少しだけ目を細めた。分かりやすい動物だと思った。
着替えを済ませ、客舎を出る。朝食より先に広場へ向かった。
「やっぱり来たか」
そこにはロビがいた。昨日取引した荷の確認をしているらしく、片手に帳面を持っている。
クリルは灰褐色の獣を指差した。
「シェグだ、見たことなかったか?」
ロビがそう答える。初めて聞く名前だった。
「この辺じゃよく使う荷役獣だ。東の街道でもたまにいただろ」
クリルは首を横へ振った。
「馬車の後ろばっか歩いてたから見てなかったんじゃねえの」
そう言われるとそのような気もしていた。これまで「荷役獣」と聞けば、オルンのように荷車を引く馬ばかり思い浮かべていて、他の動物は眼中になかったのかもしれない。
ロビはその顔を見て、何を疑問に思っているのか察したらしい。
「荷役獣ってのは馬ばっかりじゃねえぞ」
帳面を閉じる。
「荷を運ばせる家畜のまとめた呼び方だ。馬だって荷役に使えば荷役獣だし、土地によっちゃ別の獣を使う。速さが欲しけりゃ馬、重いものなら力のある種類、山なら足場に強い奴ってな」
クリルはシェグを見る。
「こいつは遅い。でも力があって、足場が悪くても転びにくい。六本脚だからな。雨のあとなんかは馬より使いやすい」
昨日の街道を思い出す。雨で柔らかくなった土に馬車の車輪が沈んだ場所もあった。なるほど、あそこならこの脚の方が向いていそうだった。
シェグは食べ終えると、今度は地面へ腹をつけるように身体を落とした。六本の脚を順番に折り畳んでいくので、最後には背中の木枠が人の腰ほどの高さまで下がる。牛人たちはそこへ新しい荷を積み始めた。
クリルの耳が立つ。
「自分でしゃがむんですか?」
後ろからカレンの声がした。
振り返ると、朝食を終えたらしく、ロビの帳面と同じような小さな記録板を持っている。
「合図でな」
ロビが答えた。
「立ったままだと荷を載せにくいから覚えさせる。大体どこのシェグもそうだ」
「賢いんですね」
「その代わり頑固だぞ」
ちょうど一頭が荷を載せ終えた。牛人が首元を二度叩く。シェグは前脚を伸ばした。中脚、後脚と順番にゆっくりと立つ。そのまま歩き出すかと思ったら、三歩目で止まった。
一度こうなったシェグは簡単には動かない。手綱を引かれてもぴくりとも動かない。
牛人が溜息をつき、懐から乾燥した根菜を一片取り出した。鼻先へ見せると、ようやくシェグが歩いき始めた。
カレンが口元を緩める。
「確かに頑固ですね」
「頑固というより、ずる賢いだけかもしれねえな」
ロビの説明に、クリルはシェグへの認識を変えた。
少し親近感が湧いた。
◇
朝食のあと、商隊では荷の組み替えが始まった。
橋で失った馬車の分を他の荷車へ分散させたままだったので、牛人の里で買い足した品まで載せれば重量が偏る。そこでロビは、湖沼地帯へ入るまでの一部区間だけシェグを二頭借りることにしたらしい。
クリルは自然と作業の近くにいた。
一頭目は昨日見た灰褐色の個体。もう一頭は毛が黒く、耳の端だけ白かった。どちらも背中の木枠の左右へ同じ程度の重さになるよう荷を分けている。片側へ重い箱を置けば、反対側には樽と布束を組み合わせる。
「見た目だけで同じにしても駄目ですよね?」
カレンが荷札を確認しながら訊いた。
「駄目だ。中身の重さが違う」
ロビが即答する。
「こいつらは馬車より傾きに強いけど、だからって片側に全部積んでいいわけじゃねえ。長く歩かせりゃ背を痛める」
クリルはシェグの背中を見る。荷を運ぶ道具ではない、彼らも生き物だ。考えてみれば当たり前のことなのに、荷役獣という言葉だけで聞いていたときより、ずっとはっきり分かった。
灰色の個体が尾を振る。その先がクリルの脚へ当たりそうになり、一歩退く。短い尾の先だけに長い毛が生えていた。
「後ろに立つなよ」
ロビがそう注意する。
「シェグは馬ほど蹴らねえけど、踏まれたら骨折れるぞ」
クリルは六本の脚を見る。踏まれる可能性も脚の本数分増えるのではないかと思った。そんなことを考えている間に、広場の向こうからベルカがやってきた。
「クリル!」
遠くからでもよく通る声だった。こちらへ手を振っている。
クリルも笑いながら振り返す。
「今日は何してるの?」
ベルカはシェグの横まで来て、積み荷を見る。
クリルが荷を指し、自分も運ぶ仕草をする。
「手伝ってるんだ」
ちょっと誇らしげに頷く。
「じゃあちょうどいい」
何がちょうどいいのか分からないが、ベルカはロビを見て何事かを言い出した。
「この子、ちょっと借りてもいい?」
「何に使う気だ?」
「薪」
「人んちの子を勝手に労働力にすんな」
「でもクリル、行きたいでしょ?」
クリルはベルカを見る。
薪を拾うのか、木を切り出すところからなのか、どこへ取りに行くのかは分からない。でも、知らない場所へ行けるのならと、頷いた。
「ほら」
「お前も即答すんな」
ロビが額を押さえた。
「昼までには返せよ」
「分かった」
「あと北の聖域には近づけんな。こいつの好奇心をなめるなよ」
その一言で、ベルカの表情がほんの少しだけ変わった。
すぐに、「分かってるって」と返す。
クリルはその変化を見たが、何も聞かなかった。
◇
薪、と聞いていたので森へ行くものだと思っていた。実際には、里の西側にある低い林までシェグを連れていく仕事だった。
ベルカのほかに若い牛人が二人。そしてクリルとシェグが一頭。
背中の木枠にはまだ何も積んでいない。歩き始めると、荷のないシェグは思っていたより速かった。六本の脚が少し独特な順番で動く。前と後ろの脚だけでなく、中央の一対が身体を支えるため、斜面でも胴がほとんど揺れない。
クリルはしばらくその足運びを見ていた。
「そんなに珍しい?」
ベルカが尋ねる。
「東の方にはいないの?」
クリルは手を左右へ揺らした。見たことがなかっただけかもしれないが、少なくともレナルドにはいなかった。
「この辺じゃ普通だよ。山の手前くらいまではシェグ使う家も多いし」
ベルカは獣の首を軽く叩いた。
「こいつら、足元強いから」
ちょうど道の一部が雨で崩れていた。人なら少し足を取られそうな斜面を、シェグはほとんど迷わず降りる。前脚が柔らかい土へ沈むと、その横へ中脚を置き、身体が傾く前に残りの脚を移した。
クリルは思わず立ち止まった。面白い、と思った。動物の身体は、暮らしている場所に適応するようによくできている。森の獣なら木々の間を抜ける。崖の獣なら石へ蹄を掛ける。この獣は重いものを載せたまま、不安定な地面を歩く。
自分が身体強化を使って転びそうになったことを思い出すと、少しだけ悔しかった。六本も脚があるなら楽なのだろうか。
その考えが顔に出たのか、ベルカが不思議そうに見る。
「どうしたの?」
クリルは首を横へ振った。
説明するほどのことではなかった。
◇
林では、すでに倒れた枝や間伐材だけを集めた。どうやら生きた木を好き勝手に切るわけではないらしい。
牛人の若者が太い枝を肩へ担ぎ、ベルカも同じくらいのものを軽々持ち上げる。
クリルも一本持とうとしたが、あまりにも重い。持てないわけではないが、これを何本も運んでいては日が暮れる。
見かねてベルカがひょいと横から半分持った。
「無理しない」
クリルは少しむっとする。
「身体の大きさ違うんだから仕方ないって」
ベルカの言葉は正しいが、それが少し悔しい。代わりに細い枝をまとめ、手際よく縄で縛る。こうした作業ではクリルの器用さが役立つ。切断面の乾き方を一目見れば、どれが薪に向いているかも大体分かるのだった。
「へー、森のこと詳しいんだ」
ベルカは割と感心した様子でその作業を見ていた。
クリルはちょっと嬉しそうに頷く。故郷では狩りもしていたと、身振り手振りで伝えた。
「へえ。じゃあ獣の跡とかも?」
さらに頷く。
「ならこれ、何か分かる?」
ベルカが地面を指した。その先、湿った土に動物の足跡があった。
クリルはしゃがんで観察を始める。
小型の草食獣だろうか。四本指で前脚より後脚の跡が深い。数頭はいそうだ。消え方からして昨夜か、早朝か。その横には特徴的な細長い糞もある。
クリルは耳を澄ます。林の奥から高い鳴き声が一度聞こえた。危険を知らせる声ではない。群れを呼ぶ声だ。
クリルは林の奥を指し、指を三本立てた。
「三匹?」
少し考えてから、もっと、という意味で手を振る。
「三匹以上?」
自信ありげな表情で頷く。
「ほんと?」
ベルカが耳を澄ませる。距離が近づいたのか、牛人たちにも聞こえるようになったらしい。少しして、木々の間を茶色い小さな影が横切った。
「いた」
ベルカがにやりと笑う。クリルもなんだか嬉しくなって笑い返した。
こういうことなら、自分にもできる。体格ではどう足掻いても牛人に勝てない。でも、森の歩き方には誰よりも慣れている自負があった。
役に立つ方法は一つではない。
◇
一通り薪を積み終えると、シェグの姿はかなり変わってしまった。背中の左右へ長い薪束を二段ずつ固定し、その上へ細枝の束を載せる。
クリルには積みすぎに思えたが、シェグは特に嫌がる様子もなく、ただ一度だけ低く唸った。
「まだいけるってさ」
ベルカが当たり前のように言う。
クリルは疑いの目でシェグを見た。ベルカはときおりいい加減なことを言うから、本当かどうか怪しいものだった。
「ほんとほんと。無理させたら動かなくなるから」
シェグがベルカを見る。何となく、信用されていない顔にも見えた。
「何、その目」
ベルカが鼻先を押すと、シェグはやや不満そうに顔を逸らした。その様子が面白くて、クリルは声を出さずに笑った。
帰路では荷を積んでいる分、歩みが少し遅くなった。それでも斜面で足を滑らせることはない。
途中、小さな流れを越える場所で、一頭の前脚が濡れた石へ乗った。クリルは少し身構えた。しかし滑った前脚を、中脚がすぐ横から支える。ほとんど身体を揺らさず立て直した。
ベルカがあらためて言う。
「だから、重いものを遠くへ運ぶときは便利なんだよ。馬より遅いけどね」
速い方が優れているわけではない。クリルは何となく、その言葉を覚えておきたくなった。
自分は人に比べて速く動ける。それは事実であるし、クリル自身もそれが強みだと思っている。実際、冒険者登録試験のときにはレオンにもそこを評価された。
でも昨日、速くなりすぎて木へぶつかった。
一方で、シェグはまあ遅い。その代わり、重いものを載せたまま転ばず歩く。
必要な力は、場所によってまったく違うこともあるのだ。
◇
里へ戻る少し前、シェグが急に足を止めた。今度は餌を要求しているときとは違った。
不意に頭が上がり、大きな耳が前へ向いた。鼻を鳴らし、明らかに何かを警戒している様子だった。
つられてクリルも止まり、風向きを確かめる。何かの匂いがする。薄い、知らない臭いだった。獣の血ではない。腐肉とも違う。湿った土の匂いに、わずかに焦げた金属のような臭気が混じっている。
ベルカも異変に気づき、表情を変えた。
「どうした?」
同行していた牛人の一人がシェグへ近づく。だが獣は進まなず、逆に一歩下がった。
クリルは警戒体制に入り、周囲を見る。鳥の声が少ない。さっきまでは枝の間で鳴いていた小鳥が、いつの間にか聞こえなくなっている。
林の中にいた草食獣の気配も遠い。それを伝えようと、クリルは自分の耳を指し、それから林の方へ向けて首を横へ振った。
「静か?」
ベルカが理解する。他の牛人たちも周囲を見て、異常をいち早く発見しようとしていた。
「魔物か?」
一人が槍へ手を掛ける。
ベルカはすぐに答えなかった。その表情が、昨日聖域の前で見せたものに少し似ていた。
「里に戻ろう」
声が低い。
「守人に知らせる」
そう言ってシェグの手綱を引く。かたくなに動かなかった獣は里の方向へなら素直に歩いた。
そのことが、何より不気味だった。
◇
報告を受けて、ガラドはすぐにやって来た。里の入口でベルカから話を聞き、クリルたちが歩いてきた方向を睨みつける。
「臭いは?」
ベルカが答える前に、クリルが手を上げた。自分の鼻を指し、分かるという意味で頷く。
ガラドが少し意外そうな顔をした。
「お前が気づいたのか」
こくりと頷き、黒布に詳細を書き始める。
焦げた匂い。金属や湿った土のような匂いも混ざったような何か。言葉にして伝えづらい情報をなんとか伝えようと文字を連ねる。
「鳥もいなかった」
ベルカが横から補足した。
「シェグも嫌がった。里へ戻る方には普通に動いたのに」
ガラドの顔からすっと日常の色が消えた。昨日会ったときも警戒心の強い男ではあったが、今はもっと鋭い。具体的に何か事件が起こったわけではないと言うのに、すでに大事件が起こったかのような変わりようだった。
「どこだ」
ベルカがその場所を説明する。
ガラドは別の守人を二人呼んだ。槍に短剣、厚い革の防具と、今すぐにでも戦える準備がすでに整っていた。
「私も行く」
ベルカが真剣な表情で言った。
「駄目だ」
だが、ガラドの返事は反論を許さない即答だった。
「何で駄目なの」
「いいから、里にいろ」
「私だって——」
「ベルカ」
ガラドの声色が明らかに変わった。それだけで、ベルカがぴたりと止まった。
クリルはあらためて二人の関係性を考えてみる。それは、ただ年長者が若者を危険から遠ざけているだけ、という当たり前の行動にも見える。
でも、少し違う。ベルカが行ってはいけない理由を、二人とも知っているような空気だった。
「……分かった」
ベルカは不満そうに答えた。一息ついて、次にガラドはクリルへ視線を向けた。
「お前もついて来るなよ」
まだ何も言っていないというのに釘を刺されてしまった。クリルは眉を寄せた。
「その顔を見たらわかるんだよ。お前の隣のやつで見飽きてるからな」
その言葉を聞いてベルカはよりいっそう不満げな顔になる。そんなに私たちの顔は内面を語っているのだろうか。
「何か見つけても、まず俺たちが確かめる」
ガラドは槍を担ぐ。
「そのための守人だ」
その言葉を聞いて、クリルは昨日の夜に見た灯りを思い出した。夜にも関わらず聖域の前へ立っていた人たち。何かを守っている。その何かだけではなく、里で異常があればそれを真っ先に確かめるのも彼らの役目なのだろう。
それから、ガラドたちは林の方向へ歩いていった。
ベルカはその背中を黙って見送る。その顔はいつもの明るい表情ではなかった。
◇
昼になっても、ガラドたちは戻らなかった。
クリルは集会所で宿場の人々と昼食を取りながら、何度も入口の方を見た。
「気になるんですか?」
カレンが尋ねる。クリルは浮かない顔でこくりと頷く。
「シェグが先に嫌がったんですよね」
もう一度頷く。
「やはり獣はそういったものに敏感なんですか?」
クリルは少し考えた。
いつでも気づくわけではない。動物が逃げる理由は多い。人、火、捕食者、雷なんかもそうだ。知らない臭いにも真っ先に反応する。だから今回も、何がいたのかまでは分からない。
クリルは手を左右へ揺らし、それから自分の目を指し、最後に獣が逃げる仕草をした。
「理由は分からないけど、いつもと違うのは分かる?」
カレンは少し複雑な内容の手話でも意味を汲み取ってくれる。クリルにはそれが嬉しくて、笑いながら頷いた。
「なるほど」
カレンは少しだけ真面目な顔になった。同じ卓にいたアンティルも会話に参加してきた。
「動物の反応は軽く見るな」
アンティルも思い当たる節があるのだろうか、真剣な口調でそう言った。
「人より先に気づくものは多い」
「魔穴でしょうか?」
カレンが尋ねる。
「まだ分からん」
アンティルは即答しなかった。
「まだ分からないものを、知ってる定義へ無理に押し込むな」
その言葉はクリルに向けたものでもあったのだろう。クリルは小さく頷いた。
宿場の一件で覚えたことだ。見たことと、考えたことは分けて記録しなければならない。何が事実だったのか曖昧になるからだ。
シェグが何かを嫌がった。鳥が不自然に少なかった。知らない臭いがした。
今分かっているのはそこまでだ。
◇
ガラドたちが戻ったのは、陽が西へ傾き始めた頃だった。三人とも自分の足で歩いている。それを見て、ベルカの肩から僅かに力が抜けた。
ただ、手ぶらではなかった。ガラドが布に包んだ何かを持っている。それを里の入口で待っていた別の守人へ渡した。
布が少し開き、中にあったのは黒っぽく変色した木片だった。枝のようにも見える。けれど表面に、細い穴が幾つも開いていた。虫食いではなく、何かが内側から突き破ったような穴だった。
アンティルが真っ先に近づく。
「見せてもらえるか」
あまりにも前のめりな態度に、ガラドは少し戸迷った。
「考古学者なんだって」
ベルカが助け舟を出す。
「魔法にも詳しいよ」
「一応、商隊の護衛でもある」
不信感を持たせてしまっただろうかと、アンティル自身が補足した。
見せて問題のあるようなものではないだろうと判断して、ガラドは布を開いた。
すかさずアンティルが木片へ手を近づける。触れずに、あくまで見るだけだ。
「何かいたのか?」
ロビは散歩にでも行ってきたかのような聞き方をした。
「いや、これというものは見つからなかった」
ガラドが低い声で答える。
「だが、獣の死骸が二つ。それと木が何本かこうなってた」
クリルの耳が伏せる。
「魔物か?」
ロビが訊いた。
「……分からんものは分からん」
ガラドはアンティルと同じような答え方をした。
「魔穴も見つけてない。足跡も残ってなかった」
ベルカの顔から笑みが消えた。
「じゃあ、何がやったの?」
「それはこれから調べる」
ガラドは店仕舞いとばかりに布を閉じた。
「今夜から外周の見張りを増やす。家畜は里の近くへ戻せ」
「聖域は?」
ベルカが尋ねる。
「人数は減らさん」
迷いのない即答だった。
里の外に何かいるかもしれない。それでも聖域を守る人数は減らさない。クリルはその判断を少し不思議に思った。
普通なら、危険が外から来るなら外へ人を回すのではないか。それでもガラドたちは、あの場所を空けない。そこまでして守らなければならない何かがある。
思わず黒布へ手が伸びかけた。けれど、止める。簡単に聞いてはいけないことなのだろう。本当に聞く必要がなければ聞かない、昨日決めたことだった。
ガラドがそんなクリルを見る。
「何だ」
クリルは首を横へ振った。
「そうか」
それ以上の追求はなかった。けれど立ち去る前、ガラドは少しだけ口元を緩めた。
「あのシェグが止まったのに気づいたのは、お前だったな」
クリルは小さく頷く。
「助かった」
短い言葉だった。けれど、なぜだか彼の気持ちが強く伝わってくる言葉だった。ガラドはそれ以上何も言わず、守人たちの方へ戻っていった。
クリルはその背中を見送った。
昨日より少しだけ、この人を知ったような気がした。
◇
その夜、里の家畜はいつもより目の届く内寄りへ集められた。
馬に山羊、シェグもいた。放牧地にいた大型獣も柵の中へ戻され、里の外周には松明が増えた。
昼間薪を運んだシェグは、広場の端で地面へ身体を伏せている。六本の脚を折り畳み、長い胴を丸めるように眠っていた。
クリルは少し離れた場所から見る。朝にはあれほど大きく見えた身体も、眠っていると妙におとなしい。荷を背負い、雨の道を歩く。嫌なものがあれば止まる。言葉はなくても、自分なりに世界を見ている。
普通の動物だ。魔物ではない。だからこそ、あれが嫌がったものが何なのかがどうしても気になった。
クリルは旅日記を開いた。今日の頁には、まずシェグの絵を描いた。胴が少し長すぎるし、六本の脚の位置も間違えた。
なんだか納得いかず、描き直す。その下へ特徴を書き込んだ。
『シェグ。荷を運ぶためによく使われる動物。六本脚。馬より遅いが、ぬかるみや斜面に強い。合図すると伏せて荷を載せやすくする。餌がないと動かないことがある。』
最後の一文は必要か迷ったが、それも特徴だと思い直し、残した。
それから今日の異常を書く。
『林の帰り、シェグが進むのを嫌がった。鳥の声が減っていた。焦げた金属に似た知らない臭いがした。』
さらに続ける。
『守人が調査。獣の死骸二つ。穴の開いた木。魔穴は見つかっていない。原因不明。』
そこで筆を置いた。魔物だとは書かない。まだ分からないからだ。
ふと顔を上げると、北の方角には、今日も聖域の灯りが見えた。昨日より一つ多い。そして里の外周にも、いくつもの火が並んでいる。守る場所が増えたから、守る人も増えた。それでも聖域の灯りは減っていなかった。
クリルはしばらくそれを眺めていた。
一陣の風が吹く。近くで眠っていたシェグの大きな耳が一度だけ動いた。けれど今度は起きなかった。
里の夜は、まだ静かだった。




