25 / 牛人の里への来訪
宿場が消えてから二日目の朝、旅の列にはまだ十七人分の足跡が増えたままだった。
馬車を引く音に護衛の足音、車輪が小石を踏む音が絶え間なく響く。その間に、これまでの商隊にはなかった足音が混じっている。歩き慣れていない子供の短い歩幅や、杖をつく老人のゆっくりした音。家を失った翌日に遠くまで歩くことなど考えていなかった者ばかりなので、商隊は以前より何度も休憩を取るようになっていた。
クリルは列の中ほどを歩きながら、ときどき後ろを確かめた。老記録係もいる。宿場の名前をまだ覚えている少年も、両親の間を歩いている。
夫を宿場へ残した女性は、二人の子供と一緒だった。初日はほとんど誰とも話さなかったが、今朝は子供の靴紐を結び直し、朝食も少し口にしていた。元気になった、とは思わない。ただ、歩いている。それだけだった。
彼らの当面の行き先は、ミル・ヤルピに決まっていた。キルガスは遠すぎるからだ。
大人だけの旅ならともかく、子供や老人を含む十七人を、ほとんど荷物もない状態でそこまで連れていくのは現実的ではない。それに、ニージャ湖沿岸のミル・ヤルピなら規模も大きく、多くの種族が暮らす都市なので、住居や仕事を含めた受け入れ先を探せる可能性が高いという。
そこまでの道は、クリルたちの旅程とも重なっている。だから一緒に行く。単純な話だった。
ただし、ミル・ヤルピへ着くまでにはまだ幾つかの土地を越えなければならない。その一つが、今日立ち寄る予定の牛人族の里だった。
「あと半日くらいですか?」
カレンがロビへ尋ねた。
「順調ならな」
ロビは歩きながら答えた。橋で自分の馬車を失って以降、彼はずいぶん歩くようになった。残った商品は商隊の他の馬車へ分散して積んでもらい、オルンには必要な旅道具を背負わせている。
「里に入れば、今日はちゃんと屋根の下で寝られる」
その言葉に、後ろを歩いていた宿場の住民が何人か顔を上げた。
クリルも気づいた。
屋根の下、以前なら何でもない言葉だった。だが今は少し違う。彼らにとって、次に体を休められる家はもう自分の家ではない。
「泊めてもらえるんでしょうか?」
カレンが尋ねた。
「商隊が寄る里だから客用の建物もある。十七人増えてるから全員ってわけにはいかねえけど、野宿よりはましだろ」
「急にこれだけ人数が増えても大丈夫でしょうか」
「そこは着いてから相談だな」
ロビはそこで少し笑った。
「まあ、追い出されることはないと思うぞ。牛人はそういうところ、結構律儀だからな」
クリルは首を傾げる。
「行きゃ分かる」
最近、この言葉をよく聞く気がした。けれど不思議と嫌いではなかった。
説明されるより先に、自分の目で見る。それこそ旅に出た理由の一つだった。
◇
昼前、街道脇に太い木杭が現れた。最初は一本だけ。人の背より少し高く、上部へ赤茶色の布が巻かれている。
クリルは通り過ぎながら振り返った。杭の中央に、浅く紋様が彫られている。それは文字ではない。円の中へ角張った線を重ねたような図形だった。
それからしばらく進むと、同じ杭がまた現れた。三本目、四本目と一定の間隔で街道の両脇へ立っている。
「境界ですか?」
カレンも気づいた。
「大体そんなもんだ」
ロビがすぐに答える。
「ここから先は牛人たちが管理してる土地になる」
クリルは紋様をもう一度見る。境界を示すだけなら、もっと単純な印でもよさそうなものだった。
アンティルも同じものを見ている。
「あの印、知ってるか?」
ロビが尋ねた。
「意匠としては見たことがある。ただ、意味までは知らん」
「物知りのアンティルさんでも?」
「何でも知ってると思うな」
「肝心なときに役に立たねえな」
「護衛料を返してほしいなら、次に魔物が出ても自分で何とかしろ」
「前言撤回」
ロビの変わり身は早い。そのやり取りを見てカレンが小さく笑う。クリルも口元を緩めながら、もう一度杭を見た。
ひとまず、牛人の里の境界に同じ紋様の杭がある。それだけは覚えておくことにした。
意味を決めるのは、まだ早い。
◇
その日の昼食は、街道脇の草地で取った。商隊の料理係が大鍋を出し、保存肉と豆を煮ている。人数が増えたので、一人分の量は以前より少なかった。
ロビが乾燥パンを割りながら、
「里で補充しないとな」
とぼやく。
「足りませんか?」
カレンが訊く。
「この人数のままならな。ミル・ヤルピまで全部こっちで持つのは無理だ」
現実的な話だった。食料には限りがある。養う金にも限りがある。
橋で荷を失い、さらに旅人が十七人増えた。助けたいと思うだけでは腹は膨れない。宿場の者たちも、そのことは十分に理解しているようだ。
「働ける者は働く」
老記録係の近くに座っていた男が言った。
「金がないなら、この先の町で仕事を探す。ずっと世話になるつもりはない」
ロビはパンを噛みながら頷いた。
「そうしてくれると助かる。でも今日明日くらいは気にすんな。腹減って歩けねえ、なんて言われたら余計面倒だからな」
言い方は少し乱暴だったが、その言葉に男は笑った。クリルはそのやり取りを聞きながらもぼんやり食事を続けた。
助け、助けられる。それだけで関係が固定されるわけではない。橋のときもそうだった。最初は商人と避難民が怒鳴り合っていたのに、最後には同じ板を運んでいた。
役割は、状況によって変わる。
ふと、冒険者登録のときに試験官のレオンから言われたことを思い出した。向いていることと、やりたいことは同じとは限らない。
最近、似たようなことばかり考えている気がした。
◇
牛人の里が見えたのは、午後の陽が少し傾き始めた頃だった。
最初に見えたのは壁ではない。広い放牧地だった。街道の向こうへ草原が続き、その中で大型の家畜が群れになって草を食んでいる。柵はあるものの、里そのものを囲むものではない。その奥へ家々が点在していた。
クリルは少し目を見開いた。すべての大きさに圧倒された。一つひとつの建物が、レナルドの家より明らかに大きかった。戸口は高く、梁も太い。荷を載せる台車まで幅がある。
そして、その間を歩いている牛人たちも大きい。
イトゥアンで何人か見かけてはいた。けれど、周囲のほとんどが牛人という光景は初めてだった。
体格だけではない。角の形も一人ずつ違う。前へ大きく湾曲した者。外側へ広がった者。短く太い者。
子供たちの角はまだ小さい。クリルが眺めていると、その子供たちもこちらを見ていた。正確には、クリルの耳を、だ。
一人が何か言ったことをきっかけに、全員がクリルの方を物珍しげにを見る。クリルは少し居心地が悪くなり、自分の耳へ手をやった。
「珍しいんでしょうね」
カレンが軽い口調で言った。
「狐人はこの辺りではあまり見ないんじゃないですか?」
なるほど、と合点がいった。イトゥアンではあれだけ種族が入り混じっていたから、自分が見られる側になることを忘れていたのだ。
一人の牛人の子供が手を振った。クリルもぎこちなく振り返す。すると残りの子供たちまで一斉に手を振り始めた。
少しおかしくて、笑った。
◇
商隊が里へ入ると、すぐに幾人かの牛人が近づいてきた。
「久しぶりだな、ロビ」
「おうよ」
「馬車はどうした」
ロビの顔が固まった。
「……聞くな」
「壊したか」
「壊れてねえよ」
「じゃあ売ったのか」
「そうじゃねえけど、もっと悪い」
相手の牛人が声を立てて笑った。
「相変わらず奇妙な旅をしてるな」
「俺は普通の商売がしたいんだけどな」
ロビは不満そうだったが、顔馴染みらしい。
別の牛人が商隊長と話し始める。荷馬車を置く場所に馬や荷役獣を休ませる場所を決める。商品の取引、宿泊人数も交渉しなければならない。
そこまではいつも通りだった。問題は行き場を失った十七人の追加だ。事情を聞いた牛人の男が、宿場から来た者たちをいぶかしげに見る。
「家ごと消えた?」
商隊長が頷く。
「信じろとは言わん。ただ、この連中に帰るところがないのは事実だ」
男は少し黙り、考え込んだ。
クリルは何を言われるのだろうと、次の言葉をただ待った。
「寝る場所はある」
思ったより早かった。
「客舎だけじゃ足りん。集会所も開けよう。子供と年寄りを先に入れろ」
宿場の者たちの間に、小さなどよめきが起きる。
「代金は」
ロビが尋ねた。
「それは後でいい」
「いや、後でって」
「腹を空かせた客と金の話をするほど、うちは困っていない」
先払いをさせるつもりもなければ、暴利を搾取するつもりもないということだろう。この気前の良さが牛人族の性質をまさに反映するものだった。
ロビは一瞬黙った。それから肩をすくめる。
「負けた」
「何にだ」
「商人として」
牛人の男がまた笑った。
クリルは二人の会話を聞きながら、宿場の人々を見る。
誰かが泣いたわけではない。大声で礼を言ったわけでもない。ただ、肩の力が少し抜けた。その変化だけはなんとなく分かった。
今夜は屋根の下で眠れる。それだけで、人の顔は少し変わるらしい。
◇
里の集会所は、クリルが想像していたより広かった。牛人の身体に合わせているため天井も高く、十七人が寝具を広げてもまだ余裕がある。
里の者たちが毛布や水を運んできた。食事の準備まで始まる。宿場の住民も座っているだけではなかった。動ける者は荷運びを手伝い、料理ができる者は厨房へ入る。
老記録係は最初こそ何をすればいいか迷っていたが、里の男から記録用の名簿を書いてほしいと頼まれると、急に背筋が伸びた。
「名簿なら任せい」
昨日は自分の作った名簿から名前が消えて、目に見えて落ち込んでいた。それでも、紙と筆を持つ姿は以前より少し元気に見えた。
クリルはそれを眺めていた。
「気になりますか?」
カレンが隣へ立ち話しかけてきた。クリルは少し考え、頷く。
「元気になったように見えますね」
また頷く。
「やることがあるからでしょうか」
クリルは老記録係を見る。昨日、何もない草地で名簿を抱えていたときとは違う。書く相手がいる。残すものがある。
それだけで、人は少し前を向けるのかもしれない。
「私も何か手伝ってきます」
カレンがそう言い、動き始める。
「クリルさんはどうしますか?」
その問いかけは、彼女らしくいつも通り丁寧だった。
クリルは周囲を見回した。もう人手は足りている。それよりも、知らない里を見てみたいと思った。
その意思は表情だけで伝わったらしい。
「見て回るんですね」
笑われた。クリルは少し頬を赤らめながら頷く。
「あまり遠くへ行かないでくださいね」
少し不満そうにする。
「知らない土地ですから」
それはたしかに正論だった。仕方なくもう一度頷いた。
「では、行ってらっしゃい」
カレンは厨房の方へ向かい、背を向けたクリルも外へと歩き出す。
それにしても宿泊者の名簿まで提出させることには何か意味があるのだろうか。わざわざ牛人に聞くほどには気にならなかったが、クリルはふと疑問に思った。
◇
里の中には、武器が多かった。それに気づくまで、あまり時間はかからなかった。誰も抜き身で歩いているわけではない。
空気は穏やかだ。家の前では老人が話し、子供は走り、食料を干している者もいる。レナルドと変わらない普通の暮らしがそこにはあった。
けれど、そのすぐ横に槍が立て掛けてある。斧に剣、見たことのない長柄の武器。鍛冶場では農具だけでなく槍先まで並べられていた。
クリルは足を止める。
ちょうど一人の若い牛人が、長い槍を受け取ったところだった。試すように二度振る。大きな身体なのに動きは重くない。踏み込みも安定している。
クリルはつい見入った。
「槍、好き?」
突然横から声を掛けられ、耳が跳ねた。
振り返ると、そこには若い牛人の女がいた。クリルより少し年上ぐらいだろうか。周囲の成人の牛人ほど大柄ではないが、それでもクリルが正面へ立てばかなり見上げることになる。
表情は明るい。初対面の旅人へ話しかけたことなど気にもしていないようだった。
クリルは槍と自分を交互に指し、最後に手を横へ振った。
「使わない?」
二度ほど頷く。そして今度は腰の短剣へ手を置く。
「ふーん、そっちなんだ」
女性が少し屈んだ。
「見てもいい?」
クリルは短剣へ手を置いたまま少し考え、鞘から数寸だけ抜いた。サリフから受け継いだ刃が光を受ける。
「きれいな刃」
女性は覗き込んだが、勝手に触ろうとはしなかった。クリルは少しだけ安心して鞘へ戻す。
「商隊についてきたんだよね?」
肯定の意で頷く。
「冒険者だったりする?」
腰袋からカードを出した。女は名前のところを見てつぶやいた。
「クリル」
突然、名を呼ばれた。クリルは笑いながら頷く。
「私はベルカ」
にっと笑い、手を差し出した。クリルも握り返すが、その一瞬で筋力の強さを悟った。普通に握られただけだろうが、持っている力そのものが違いすぎる。
ベルカがすぐ気づいて力を抜いた。
「ごめん。強かった?」
クリルは少しだけ、という意味で指を狭くする。
「やっぱり?」
ベルカが笑った。
「狐人だよね、初めて近くで見た」
今度はじっと耳を見る。思わずクリルは少し後ろへ引いた。
「触らないって」
クリルの言わんとすることを先に言われた。それならいいと鼻を鳴らす。
「でも、こんなに白いんだね。髪も耳も」
次はゆっくりと視線が尾へ移る。クリルは尾を身体の後ろへ隠した。
「ふふ、警戒された」
ベルカは楽しそうだった。悪意がないことはすぐ分かった。
◇
「どうしてこんなところに来たの?」
ベルカは何も考えていないような顔でどんどん質問を重ねる。
クリルは少し返答に迷った。遊びに来たわけではない。目的のある旅の途中だ。
黒布を取り出し、〈キルガスへ行く途中〉と書く。
「キルガスまで!?」
少し驚かれた。やはり大陸中央までの旅というのはとんでもなく長いようだ。
「遠いなあ」
ベルカは素直に言った。その声音に、羨ましさがほんの少し混じった気がした。
クリルは首を傾げる。
「私、あんまり外へ出たことないから」
ベルカはすぐ笑った。
「って言っても、ここが嫌なわけじゃないよ」
生まれ育った里の方を見る。
「好きだし」
それだけ言うと、「見て回るなら案内しよっか?」と尋ねてきた。
クリルの耳が立った。どうやら答えは分かりやすかったらしい。
「決まりだね」
ベルカが先へ歩き出す。こうして、頼んでもいないのに彼女による里案内が始まった。
◇
ベルカはよく喋った。まずは共同井戸、それから鍛冶場に家畜を預かる広場、祭りで使うという大きな空き地や商人向けの倉庫、どこへ行っても誰かがベルカへ声を掛けた。
「また仕事抜けてきたのか?」
「抜けてないって」
「じゃあ何してる」
「お客さんの案内」
「誰に頼まれた」
「私だよ?」
「それを仕事を抜けたと言うんだ」
「細かいなあ」
何度目かのやり取りで、クリルは笑いを堪えられなくなった。
「クリルまで笑わないでよ」
ベルカが不満そうに言う。けれど本人も笑っているのだから仕方ないだろう。
重ね合わせるようにレナルドを少し思い出した。誰が誰を知っているのか説明する必要もない場所。少し何かをすれば、翌日には里の半分が知っているような場所。
家の大きさも、住んでいる種族も違う。でも似ているところもある。
クリルは黒布へ、〈ここ、私の故郷に少し似てる〉と書いた。
「そうなの?」
〈みんな知り合い〉
「ああ」
ベルカはすぐ納得した。
「それは同じだね」
少し考えたあと、「悪いことしたらすぐばれる?」としかめっ面で聞かれた。
クリルは大きく何度も頷いた。
「同じだ」
二人で笑った。
◇
里の北側へ進むにつれ、家の数が減っていった。その代わりに石柱が数が増え、存在感を強めていく。
石柱は街道の木杭よりずっと古そうだった。そして高さもある。一本、二本と一定の間隔で立つ石柱の間へ、太い縄が張られている。
その向こうには緩やかな丘があった。丘の上に、古い石造りの構造物が見える。建物なのか、祭壇なのだろうか、ここからではよく分からない。
クリルは自然と足をそちらへ向けた。
「そこまで」
ベルカの声がした。
反射的にクリルの足が止まる。振り返るとさっきまでと同じベルカが立っている。
しかし、先ほどまでとは違い、笑ってはいなかった。怒ってもいない。ただ、声だけが少し違った。
「この先は聖域だから、入っちゃ駄目」
クリルは縄を意味ありげに見つめ、それから丘の先、最後にベルカをもう一度見た。
「よそ者だからじゃないよ」
ベルカは少し口元を緩めた。
「里の人でも勝手には入れないんだ」
クリルは頷き、これ以上進む意思はないことを示すように一歩下がる。
その動きを見て、ベルカの肩から少し力が抜けた。
「聞かないの?」
クリルは一瞬考えた。本心ではこの先に何があるのか、根掘り葉掘り聞きたいところだった。クリルの好奇心はこういったものに弱い。なので正直に大きく頷いた。
我慢しきれずにベルカが吹き出して笑った。
「聞きたいんじゃん」
けれど、簡単に聞いてはいけないようなものだと思った。今度は首を横へ振る。
「変なの」
ベルカは笑った。
そのとき、縄の向こうから足音がした。大柄な牛人が一人、丘から下りてくる。手には長い槍を携え、里で見た住民たちよりさらに大きく、歩き方に無駄がない。
クリルは無意識にその足を見る。重心、歩幅、槍を持つ位置から察するに、かなり戦える人物だろう。それも相当な手練だ。
「ベルカ」
男が呼ぶ。
「ガラド、お疲れさま」
ベルカは親しげに返した。ガラドと呼ばれた男はクリルを見る。
「客か」
「うん。今日来た商隊の子」
「ここまで連れてきたのか」
「中には入れてないよ」
「当たり前だ」
ガラドの視線が一度、クリルの腰の短剣へ向かった。敵意ではない。何かを確認するような目だった。
「ここは聖域だ」
クリルは神妙に頷く。
「縄より先へは入るな」
もう一度頷いた。
ガラドはそれだけ確認すると、里の方へ歩き出した。
少し離れたところでも、別の牛人が槍を持って立っている。さらに奥にも人影が見えた。一人ではない。何人かが、この場所を守っている。
声では聞けないので、クリルはガラドを指し、それから槍を示した。
「ああ、《守人》だよ」
ベルカが意図を汲み取って、そう答えた。
「聖域を守る人たち」
クリルはその言葉を覚えた。守人と呼んでいるらしい。
なぜここまで厳重に聖域を守るのか。奥に何があるのか。いつから守っているのか。聞きたいことはいくらでもある。
それでも黒布は出さなかった。
ベルカも自分から続きを説明しようとはしない
二人でしばらく縄の向こうを見ていた。
「戻ろっか」
先に言ったのはベルカだった。
「夕飯、もうすぐだと思う」
クリルは後ろ髪を引かれながらも頷き、歩き出した。
ただ一度だけ、後ろを振り返った。
ガラドは別の守人と短く話したあと、再び聖域の方へ戻っていくところだった。長い槍を持って。何かを守るために。
◇
夕食では、牛人の里らしさを別の意味で思い知らされた。
なんせ一人分が大きい。器からパンから、肉も、何もかもすべてが大きかった。目の前へ置かれた皿を見て、クリルはしばらく黙った。
「食える食える」
冗談交じりにロビが言った。クリルは自分の腹と皿を見比べる。
「まあ、残ったら俺が」
皿を引き寄せられる前に両手で押さえた。
「何だよ」
出されたものは食べる、その意思を目で示した。
「なら最初っからその顔すんなっての」
カレンが横で微笑んだ。
「無理して食べなくてもいいと思いますよ」
雑談を交えながら、クリルは一口食べた。豆と肉を長く煮込んだ濃い味だった。独特な香草の匂いが強い。歩き通した身体には染み渡るようだった。不思議と二口、三口目と匙が止まらない。
「普通に食い切りそうだな」
ロビが呆れる。クリルは聞こえないふりをした。
同じ建物の少し離れた卓では、宿場から来た人々も食事をしている。里の者たちと話している者もいた。子供同士はもっと早かった。言葉を交わして数時間しか経っていないのに、すでに外で何かをして遊んでいる。
そこには宿場名を覚えている少年も混じっていた。走って、笑って、そんな子どもらしい一面を見られることがなぜか嬉しかった。クリルはそれを見て、少しだけ胸が軽くなった。
「ここに来てよかったですね」
カレンも同じ方向を見ていた。クリルは心から頷いた。
「ミル・ヤルピまではまだありますけど、少し休めそうです」
その話し方は誰に対しても変わらない。かたくなに丁寧なままだ。けれど初めて会ったときより、ずっと柔らかく聞こえる。
クリルはふとカレンを見る。
「どうしました?」
変に感の鋭い彼女にはすぐ気づかれる。何でもないと首を横へ振った。
「そうですか?」
少し疑われた。それでも追及はしてこない。その距離感が居心地良かった。だから、クリルも同じようにしている。
聞かないというのも、ときには相手を知るための方法なのかもしれない。
◇
夜になり、クリルは客舎の外へ出て旅日記を開いた。
昨日の頁には《忘れてはいけない場所》について書いた文字が残っている。真っ先にそこを確認した。大丈夫、消えていない。
少し安心して、次の頁を開く。
今日見たものを書いていく。牛人の里の壮大さ。大きな家に大きな食事、槍や斧を持つ人が多いこと。宿場から来た十七人を気前よく受け入れてくれたこと。ベルカという若い牛人の女。
そして里の北側で見たもの。
『石柱と縄で区切られた立入禁止区域がある。住民は《聖域》と呼ぶ。』
さらに続ける。
『《守人》と呼ばれる者が複数人で守っている。今日会った一人はガラド。長槍を持つ。』
そこで筆が止まる。
いったい何を守っているのか。それ以上は書けない。何も分からないからだ。
代わりに、
『何を守っているのかは分からない。』
と書いた。
その一文を見て、少しだけ満足する。
少し前なら、想像したことまで一緒に書いていたかもしれない。それは宝物かもしれない。神聖な遺跡かもしれない。危険なものかもしれない。
けれど全部、想像だ。
分からないものを分からないまま残すことにも意味がある。アンティルから教わり、消えた宿場でそのことを嫌というほど思い知らされた。
クリルは少し考えたあと、最後へもう一つ書いた。
『この里では、何かを守ることが暮らしの真ん中にあるように見える。』
そしてその横に、
『今日見たことから推測した私の考え。』
と小さく付け加え、旅日記を閉じる。
遠く、聖域の方向に灯りが見えた。守人の持つ明かりだろう。一つ、少し離れて、もう一つ。夜になっても誰かが守り続けている。
昨日、クリルは一つの町が何も残さず消えるところを見た。今日たどり着いた里では、誰かが夜通し何かを守っている。その二つが不思議なくらい正反対に思えた。
守れば、失わないのだろうか。それとも、守っていても失うものはあるのだろうか。
答えはまだ分からない。
クリルは聖域の小さな灯りをしばらく見つめてから、客舎へ戻った。




