24 / 忘れてはいけない場所
その夜、クリルはほとんど眠れなかった。
宿場から離れた草地に張った野営地では、普段より多くの焚火が残されていた。商隊の見張りだけでなく、逃げてきた住民たちも誰かしら起きていて、暗闇の向こうにある故郷を見つめている。眠ろうとして毛布に入っても、家族や友人を残してきた者にとっては目を閉じることの方が難しいらしかった。
クリルも焚火のそばに座り、膝の上で旅日記を開いていた。
書かなければならない。今日見たことを、記憶がまだ鮮明なうちに。
宿場の入口にあった看板。外から来た者はその名を聞いても覚えられなかったこと。建物や住民の身体が一瞬だけ透けたこと。犬が逃げ、馬たちが宿場から離れようとしたこと。住民名簿の文字が目の前で消え、アンティルの測定具も安定した値を示さなかったこと。
ひとつずつ書いていく。
アンティルから教わった通り、見たことと考えたことを混ぜないよう気をつけた。
『宿場が消えようとしている』
つい、そう書きたくなる。けれど、まだ消えたという事実は確定していない。
今も遠くには家々の灯りが見える。鐘楼の上半分は薄くなったままだが、その下を歩く人影もある。
だから、『建物の一部が長時間、透けた状態になっている。』とだけ書いた。
事実は事実のまま残す。未知への恐怖に負けて、結論を急いではいけない。そう思う一方で、クリルは何度も顔を上げていた。
まだ誰か来るかもしれない。宿場の入口から人影が現れれば、そのたび、ピョコと耳が立つ。
けれど近づいてみれば見張りに出た商隊員だったり、避難してきた者が戻ろうとして家族に止められていたりするだけだった。
夜半を過ぎてからは、新たに宿場を出てくる者はいなくなった。
「まだ待ってるのか」
アンティルが隣へ腰を下ろし、ため息をついた。
クリルは日記から顔を上げ、宿場の方を見る。
「強引にでも連れてきたいか?」
少し迷ってから、うん、と頷いた。
アンティルは意外にも否定しなかった。
「俺もできるならそうしたい」
クリルが彼の顔を見る。その言葉も少し意外だった。
「でも、力ずくで外へ引きずり出したら、それは押し付けだ。少なくとも今はな」
それは理解できる。前の晩よりはずっと。
危険を知らない人を助けることと、危険を伝えたうえで残ると決めた人を連れ去ることは同じではない。
それでも、明日の朝になって取り返しのつかないことが起きたら。そのとき自分は、本当に「本人が選んだから」で納得できるのだろうか。
クリルは日記へ視線を落とした。まだ書いていないことが一つある。それは宿場の名前だった。
何度聞いても頭には残らないその名前。それでも、文字にすれば残るのではないか。
クリルは焚火の向こうを見た。
厩舎で出会った少年が、両親の間でまだ起きている。あの子だけは宿場名を覚えている。クリルが近づくと、少年はすぐに気づいた。
「どうしたの?」
クリルは日記を見せ、空けておいた場所を指差した。それから宿場の方を指す。
「名前?」
少年は不思議そうな顔をしながら、宿場名を口にした。
その瞬間には、クリルにも分かる。頭から抜け落ちる前に、すぐに文字へと変換した。
一文字ずつ、大切に。
少年にもう一度言ってもらい、間違っていないことを確かめる。
「うん。それで合ってる」
クリルは日記に写したその名前を見る。大丈夫、ちゃんと読める。しかし目を閉じると、やはり音としては思い出せない。けれど文字はそこにある。
少しだけ安心した。
少年が日記を覗き込む。
「これなら忘れない?」
クリルは笑って頷いた。そうであってほしいと願いながら。
◇
明け方近くになって、宿場の灯りが一つ消えた。家の窓から漏れていた暖色の光が、不意に暗くなった。
誰かが灯火を消したのかもしれない。それなら時刻を考えれば不思議なことではない。けれど、その家の形まで見えなくなってしまった。
クリルは反射的に立ち上がった。隣で見張りをしていた商隊員も気づいたらしく、息を呑む。
暗いから見えないのではない。宿場の向こう側にあるはずの夜空が、その場所だけそのまま見えている。
しばらくすると、隣の建物も薄くなり始めた。
クリルは仮眠をとっていたアンティルの肩を強く叩いた。眠りは浅かったようで、彼はすぐに起きた。
みなまで説明する必要はなかった。宿場を見た瞬間、表情が一変する。
「全員起きろ!」
その声で野営地が動き始めた。疲れ切った住民たちもそろそろと起きてくる。
「何が起きてる?」
「家が……」
「消えた?」
子連れで逃げてきた女が、二人の子供を抱き寄せた。夫を宿場へ残した人だった。
「あの人は?」
誰に訊いたのでもない。ただ名前を呼びながら、吸い寄せられるように宿場へ向かおうとした。
ロビと別の女が腕を掴んで止める。
「離して!」
「今戻ったら駄目だ!」
「あの人がいるの!」
「分かってる!」
「分かんないわよ! あなたには!」
我を忘れたかのように女が暴れる。
その光景を見て、クリルは身体が動きかけた。自分が一緒に行けば。自分なら速い。家の場所を聞いて、走って、連れてくれば。
その考えをアンティルの手が止めた。肩を掴まれたわけではない。身体を抱かれたわけでもない。
ただ、片手を上げた。止まれ、と。
それは昨日、橋で覚えたクリルの手の合図だった。
クリルの足が止まる。アンティルは宿場から目を離さない。
次に、指を自分の目へ向けた。見ろ、と。
クリルも冷静さを取り戻し、あらためて宿場を見る。入口の看板が消えた。倒れたのではない。砕けたのでも、燃えたのでもない。柱も、板も、文字も、そこに何もなかったことにされたように消えた。
その向こうの地面まで様変わりしている。街道から宿場へ続いていた踏み固められた道が途中で途切れ、その先に草が生えていた。まるで何年も人が歩いていないような茂みだった。
「馬鹿な……」
老記録係が震える声を漏らした。
宿場の端から中央へ向け、建物が一つずつなくなっていく。
遠くて住民の姿までは見えない。誰かが逃げているのか。何も知らず眠っているのか。恐怖に叫んでいるのか。
何も分からない。奇妙な程に音がしない。それが何より怖かった。
何かが崩れる音もない。木材の軋みも、悲鳴も聞こえない。ただ、あるものがなくなっていく。
昨日まで人が食事をしていた食堂が消えた。井戸が消えた。鍛冶場も消えた。クリルが昼間に話しかけた家もなくなった。
そして最後に鐘楼だけが残った。
すでに半分透けていた鐘楼が、明け方の薄い光の中に浮かんでいる。不意に鐘が揺れた。
一度、鐘が鳴る。澄んだ音が夜の平原に鳴り響いた。
昨日聞いたのと同じ鐘の音だった。だが、二度目はなかった。
間もなく、鐘楼も消えた。
◇
誰もすぐには動けなかった。
そのまま時が経ち、東の空がゆっくり明るくなっていく。夜の色が薄れたことで、かえって何が起きたのかがはっきり見えるようになった。
何もない。本当に、何もなかった。五十人ほどが暮らしていた宿場があった場所には、低い草の生えた土地が広がっている。
建物の残骸さえない。井戸の穴もない。柵も厩舎も、家畜の踏み跡も、灰を捨てていた場所さえ残っていない。
さらに異様なのは道だった。東から伸びてきた街道は、宿場があった場所の手前で途切れている。その先は草地になり、宿場跡を越えた向こう側から、また何事もなかったように街道が始まっていた。
まるで何者かが、長い道の途中から宿場の分だけを切り取ったようだった。
「……行くぞ」
アンティルが最初に動いた。クリルもすぐに続く。
それから、住民の何人かも歩き出した。逃げてきた女は、まだロビに肩を支えられている。
宿場の境界だった場所を越える。だからといって、何が起きるわけでもない。
アンティルはしばらく何も言わず、建物の痕跡が消えた地面を歩いていた。やがて立ち止まり、土の間から何かを拾い上げる。それは親指ほどの青い石だった。磨かれた様子もなく、何に使われていたのかも分からない。ただ、村のほとんどが痕跡ごと失われた中で、それだけが不自然なほどはっきりと残っていた。
怪訝そうに覗き込むクリルを横目にアンティルは魅入られたようにその石を観察していた。
「何かは分からん。だが、既存の鉱物には当てはまらないように見える」
覗き込んだクリルへそう言うと、アンティルは石を布へ包み、見つけた場所と時刻を帳面へ書き留めた。クリルも旅日記の隅に、小さく青い石の形を描いておいた。
「だからこそ保管して調べる意味がある。キルガスへ持ち込めば詳しい人間もいるだろう」
それだけ言い残しアンティルは歩き始めた。
クリルは昨日、井戸があった位置へ向かった。そこには、もう草しかなかった。
しゃがみ、手で土を払う。しかし、井戸の石組みは出てこない。土は固くもなく、掘り返された跡すらなかった。
近くではアンティルが測定具を地面へ当てている。
「どうですか?」
カレンが尋ねた。アンティルは何度か場所を変えながら測定し、一つの結論を出す。
「正常だ」
「昨日までは異常だったんですよね?」
「ああ、安定しなかった」
「今は何も?」
「少なくとも、この道具で拾える異常はない」
消えたあとには異常まで残らない。それが意味することを考えようとして、クリルはやめた。
今はまだ分からない。分かったことにして、結論を急ぐ必要はない。その代わりに全てを見て、覚えて、残す。
顔を上げたとき、昨日の少年が少し離れた場所に立っていた。両親と一緒ではない。彼は一人でただ地面を見ていた。
クリルは驚かせないようゆっくりと近づいた。
「ここ」
少年が足元を指した。
「ここに僕の家があった」
今は草しかない。
「こっちが入口で、父さんが作った棚があって……」
一歩一歩噛み締めるように歩きながら少年は続けた。
「ここに机。こっちに僕の寝るところ」
何もない空間を、一つずつ指す。
クリルは後ろを振り返った。少年の父親と母親は少し離れたところにいる。母親は泣いていた。父親は呆然と足元を見ている。
「父さんたち、家の場所は分かるって」
少年が言った。
「でも、名前は言えない」
クリルは少年を見る。
「僕は言えるよ」
そして宿場の名前を口にした。その瞬間だけ、クリルの頭の中に音が生まれる。
だが、すぐ消える。昨日と同じ。いや、同じではない。
宿場そのものが消えたあとでも、この子だけは覚えている。なぜかは分からない。
クリルは黒布を出しかけ、やめた。今聞くべきことではない。
少年は自分の家があったはずの場所へしゃがんだ。
「角のパン屋もない」
少し先を指す。
「あそこの甘いパン、好きだった」
昨日も言っていたことだ。思い出深い場所だったのだろう。
「井戸も、看板も、全部ない」
泣いてはいなかった。
だから余計に、クリルはどうすればいいのか分からなかった。なぐさめるのも、違うような気がした。
結局、少年の隣へしゃがみ。二人で何もない草地をただ眺めた。しばらくして、少年が小さな声で言う。
「忘れたくない」
クリルは強く頷いた。
その気持ちだけは迷いなく肯定してあげたかった。
◇
避難した住民は十七人だった。老記録係を含め、大人が十一人、子供が六人。宿場に残った者の正確な人数は分からない。
名簿を確認すれば分かるはずだった。老記録係は震える手で鞄から切り離した頁を取り出した。
「昨夜は……もっと書いてあったはずじゃ」
紙そのものは残っている。線も、欄もある。住民の名前もかなりの数が読めた。けれど所々に空白がある。
宿場の名前を書く欄は、ほとんど何も残っていなかった。
「これは誰じゃ」
老人が一つの名前を指した。自分で作った名簿のはずなのに、分からない。
数秒後、別の住民が答えた。
「鍛冶屋の……」
途中で言葉が止まる。
「鍛冶屋?」
「いたでしょう。あそこの角に」
「角って?」
別の者が眉を寄せる。昨日まで隣人だった人のことが、もう曖昧になり始めている。
痺れを切らして少年が口を挟んだ。
「馬蹄作ってたおじさんだよ」
何人かが顔を上げる。
「赤い前掛けしてた。右手に火傷の跡があって」
少年は覚えている。ハッとした顔をして、老記録係が彼を見た。
「そうじゃ……そうじゃった」
老人は慌てて日誌を開いた。
「書くぞ。覚えとるうちに」
急いで筆記具を出す。殴りつけるように紙へ名前を書いていく。その横へ、鍛冶屋、と記す。
クリルも自分の手帳を取り出した。アンティルに言われるまでもなく分かった。残さなければならない。
少年が覚えていることを一つずつ話してくれた。
入口の看板。中央の井戸。角のパン屋。二軒の宿。鍛冶屋。厩舎。自分の家。犬がよく寝ていた場所。子供たちが木の輪を転がして遊んでいた道。
大人にとってはなんてことのない、記録に残さないようなことばかりだった。けれど、それこそがその場所で人が暮らしていた証拠のようにクリルには思えた。
アンティルは口を挟まずに聞いていた。時折、少年が曖昧になったところだけ確認する。
「井戸は食堂の東?」
「違う。食堂から見たら左」
「街道は?」
「真ん中を通ってた」
その答えを細かく地図へ書き込んでいく。
もう存在しない宿場の地図が、白い紙の上だけに少しずつ作られていった。
◇
夫を残した女は、昼近くまで草地から動かなかった。子供たちも母親の近くを離れようとしなかった。誰も急かすことなどなかった。
商隊は本来なら朝のうちに出発する予定だったが、商隊長も時間を置くことを認めた。
クリルは少し離れた場所から、その家族を見ていた。自分が昨日、あの女へ何と書いたか思い出す。
『私は、今夜ここでは寝ない』
女はそれを読んで外へ出ることを選んだ。けれど、夫は残ることを選んだ。
もしもっと強い言葉を選んでいたら。
『絶対に出た方がいい』
『残れば死ぬかもしれない』
そう書いていれば、夫も来たのだろうか。そんなことは分からない。
クリルは自分の手を見る。昨日アンティルに言われたことが頭をよぎる。他人の選択を代わりに決めることはできない。それは正しいのだと思う。
でも、正しいからといって、胸が痛まないわけではなかった。
「あの女の人に何か言われましたか?」
カレンが心配するように隣へ来た。クリルは否定の意味で首を横へ振る。
「私なら……たぶん考えてしまいます」
カレンの顔を見る。
「もっと何かできたんじゃないかって」
同じことを考えていた。クリルはゆっくり頷いた。
「でも」
カレンは少し間を置いた。
「あの人が外へ出たのは、クリルさんがちゃんと話したからだと思います」
女と、その子供二人を見る。
「少なくとも三人はここにいます」
それだけ言った。慰めようとする言葉ではなかった。できなかったことではなく、できたことも覚えておけということだろうか。
クリルはもう一度三人を見る。もちろん、夫はそこにいない。でも妻と子供たちはいる。
両方を同時に覚えておかなければならない気がした。
◇
昼を過ぎ、商隊は再び西へ向けて進み始めた。宿場から逃げてきた住民たちも同行することになった。
最も近く、これだけの人数を受け入れられる可能性が高いのは大陸東部最大の都市ミル・ヤルピだという。キルガスへの旅路で立ち寄る予定である街だ。
持ち出せた荷物は少ない。一晩だけ避難するつもりだった者ばかりだから、ほとんどが着の身着のままだった。
商隊は橋で商品を失ったばかりなのに、食料や毛布をまた分けた。ロビも、自分の残り少ない荷の中から乾燥果物を子供たちへ渡していた。
「売り物じゃなかったんですか?」
カレンが冗談っぽく訊く。
「売り物だよ」
「いいんですか?」
「腹減らしてる奴の前で値札つけるほど腐っちゃいねえんだよ」
そう答えたあと、少しだけ悔しそうに残りの袋を数えている。商人らしいのか、商人らしくないのか、クリルにはよく分からなかった。
あの少年は両親と歩いている。何度か、何もない草地を振り返っていた。
クリルもその気持ちはわかった。丘を越える直前、最後に一度立ち止まる。
もう宿場は見えない。全て消えてしまったのだから、見えるはずもない。そこには何もない草地が広がっているだけだった。
クリルは旅日記を確かめた。昨夜書いた頁には、見たことも起きたことも残っている。
名簿の文字が消えたこと。犬が逃げたこと。少年が宿場名を覚えていること。そして、一番上に書いた宿場の名前もある。
まだちゃんと読めた。
少し安心して、日記を閉じた。
◇
異変に気づいたのは、その日の夜だった。
野営地で今日の記録を加えようとして、クリルは昨夜の頁を開いた。不自然な空白があった。文章の途中ではなく、頁の最初。宿場の名前を書いた場所だけが、きれいに白くなっている。
クリルは動けなかった。確かに書いたはずだった。少年にもわざわざ聞いた。二度聞いて、間違っていないことも確認した。墨が擦れた跡すらない。まるで最初から何も書かれていなかったように紙が白い。
クリルはすぐに少年を探した。少し離れた焚火で両親と食事をしているようだった。
呼ぶことができないので近づき、肩へ軽く触れた。
「どうしたの?」
宿場の方を指し、名前を求めるように首を傾げる。
少年はすぐ答えた。まだ彼は覚えている。
すぐにクリルは日記へ書き直した。今度は、書き終えた文字から目を離さなかった。
一呼吸し、二呼吸しても何も起きない。それを少年にも見せる。
「合ってるよ」
頷き、頁を閉じた。ゆっくり十まで数えてまた開くと、名前は消えていた。
クリルの耳が完全に伏せた。
「ど、どうしたの?」
藁にもすがる気持ちで、もう一度書いてみる。今度は頁の中央へ大きく、濃い文字で。その隣へ普通の文章も一つ書いた。
『入口には木の看板があった。』
そして頁を閉じ、しばらくしてから開くと、また宿場名だけが消え去っていた。
看板の文章は残っている。
クリルは日記を抱え、アンティルのところへ走った。
「三回目もか?」
クリルは暗い顔で頷いた。そしてアンティルの前で、もう一度試す。
少年にも来てもらった。彼が宿場名を言い、クリルがまた書く。それをアンティルが年入りに確認した。
「間違ってない」
頁を閉じる。今度はアンティルが持つ。一分ほど待ったところで頁を開くと、やはり宿場の名は消えていた。
アンティルは何も言わず、別の紙へ自分で同じ名前を書いた。横へ現在の日付と、『クリルの旅日記より消失した宿場名』と記す。
紙を裏返し、少し待つ。やはり宿場名だけが消えていた。
説明文はちゃんと残っている。
「場所が消えただけじゃないな」
アンティルの声が低くなる。
「その名前を記録として固定すること自体ができなくなってる」
少年をまっすぐ見る。
「でも、お前は覚えてるな」
「……うん」
「どうしてか、心当たりはあるか?」
「知らない」
それもそのはずだ。アンティルですら分からないことが、宿場の少年に分かるはずがない。
アンティルもそれ以上は追及しなかった。
「理由は分からないままでいい。今は、覚えているという事実だけ残す」
クリルは日記へ目を落とした。名前を書いても消える。なら、何を書けばいいのか。
宿場があった事実まで消されるのだろうか。今日起きた出来事も。助けられなかった人たちも。少年の好きだったパン屋も、少しずつ、いつか、世界中の人の中からも。
クリルは白筆を握り、空白になった場所へ文字を書く。
今度は宿場名ではない。
『忘れてはいけない場所』
そう書き終えて、しばらく待ってみるが文字は消えなかった。
クリルはその文字をじっと見つめた。名前を残せないなら、名前以外を残す。井戸があり、食堂があり、鍛冶屋がいて、パン屋があった。アンと名付けられた犬がいた。子供たちが走り回って遊んでいた。五十人ほどがそこで暮らしていた。逃げた人がいて、残った人もいる。消えた人もいる。
それを記録する。忘れてはいけない場所の下へ、一つずつ。
アンティルも自分の記録を開いた。
老記録係は持ち出した名簿と日誌を抱え、少年が覚えている人々のことを聞き始めた。
ロビとカレンも近くへ来たが、誰も急かさなかった。
クリルは書き続けた。自分が見たものを。聞いたものを。そして、そこにいた人々のことを。
名前を奪われても、その人たちまで最初からいなかったことにはさせたくなかった。文字が世界に勝てるのかは分からない。今日書いたものが明日も残っている保証もない。それでも、残っている間は書ける。消えたなら、もう一度書けばいい。
クリルは空白になった頁の上へ、白筆ではなく旅日記用の筆を走らせ続けた。
夜が深くなっても、焚火のそばから動かなかった。
やがて少年が眠り、老記録係の手も止まり、ロビたちがそれぞれ休みに戻ったあとも、最後の一行を書き終えるまで日記を閉じなかった。
『ここには、人がいた。』
その文字は、朝になっても残っていた。




