23 / 捨てられない理由
宿場から商隊を出すこと自体は、さほど難しくなかった。
馬が怯え、建物の輪郭が何度も薄れ、魔力的な事象に精通したアンティルの測定具まで安定しない値を示している。商隊長も、わざわざ危険かもしれない場所に留まる理由はないと判断した。
問題は、宿場に住む人々だった。夜のうちに荷をまとめる商隊を見て、最初に笑ったのは食堂の主人だった。
「何だ、こんな時間からもう出るのか?」
ロビが荷袋を肩へ掛けながら答える。
「ああ、ちょっと外で野営することにした」
「宿があるのに?」
「馬が落ち着かねえんだよ」
「せいぜい獣や魔物に襲われないように気をつけろよ」
主人は笑いながら食堂の戸を閉めた。
その建物が数刻前、一瞬だけ夜空を透かしたことを、本人は知らない。
あるいは見たのかもしれない。けれど、見てもその記憶が残らない。
クリルには、そのどちらなのか分からなかった。
商隊の馬車は順に宿場の外へ移された。オルンも入口の看板を越えたところでようやく少し落ち着き、耳を前へ戻した。それだけでも、宿場の内側に何かあるように思えてしまう。
けれど、それも証拠とは言い切れない。動物が怖がる理由などいくらでもある。
クリルはアンティルに教わった通り、頭の中で分けた。見たことと、分かっていること。さらに、自分がそう思っているだけのこと。
宿場の外へ荷を運びながら、何度もそれを繰り返した。
◇
商隊が外へ出たことに気づいた住民たちが、少しずつ入口付近へ集まってきた。
やがて宿場を取りまとめているらしい男も現れた。五十代ほどの人族で、体格は大きくないが声はよく通る人物だった。
「私たちの宿場に何か問題でも?」
商隊長が簡単にこれまでのことを説明する。
宿場の名称を外部の者が記憶できないこと。人や建物の輪郭が何度も薄くなったこと。動物が一斉に逃げようとしていること。さらにアンティルの調査によって異常な結果が示されていること。
男は取りまとめらしい堂々とした態度で最後まで聞いた。そして、少し困ったように笑った。
「旅の途中で疲れているんでしょう」
ロビが眉を寄せる。
「全員同じものを見ててもか?」
「仲間同士で話をしていれば、似た思い込みをすることもあります」
「馬まで?」
「動物が騒ぐことくらい珍しくないでしょう」
答えに詰まらない。否定するための言葉は、いくらでもあるらしい。
次なる説得の材料としてアンティルが測定具を見せた。
「同じ地点で値が安定しない。この土地の魔力分布は普通じゃない」
「その道具が壊れている可能性は?」
「別の場所では正常だった」
「では、ここに何か特殊な鉱脈でもあるのかもしれない」
アンティルが考え込むように黙る。
それも可能性としては否定できない。だからこそ厄介だった。
ひとつひとつの事象になら、適当な説明をつけられる。
家が透けたのは見間違い。
名前が覚えられないのは疲労。
動物が逃げたのは天候のせい。
測定値が乱れたのは地質の影響。
そして、名簿から文字が消えたのは単なる書き忘れ。
すべてを並べれば異常にしか見えないのに、一つずつ切り離せばありきたりな出来事へ戻すことができる。
「とにかく」
宿場の代表者は声を少し低くした。
「住民を怖がらせるようなことは控えてください」
クリルの耳が動いた。
「ここは旅客を受け入れて暮らしている宿場です。『家が消える』『人が消える』なんて噂を流されたら、商売にならない」
「噂じゃねえ」
ロビが苛立ちながら言う。
「見たんだよ」
「あなたたちは明日には出ていけます」
その一言だけ、男の声にそれまでなかった信念のような強さが混ざった。
「我々は違う」
ロビは思わず閉口した。
「家も店も畑も、全部ここにある。根拠の曖昧な話で住民を逃がせと言われても、できるわけがない」
その言葉は真に迫るものがあった。そこに嘘やごまかしはないように思えた。
クリルは男を見る。
信じていないだけではないのかもしれない。信じたくないのだ。もし異変が本当なら、この人は宿場そのものを捨てる決断をしなければならない。
橋を渡った避難民たちを思い出す。鍋も寝具も家畜も抱えて、帰る場所から遠ざかっていた人々。
ここに住む人たちへ同じことを求めようとしている。
それが軽い話ではないことを、クリルは身を持って知っていた。
◇
話し合いは宿場の中央へ移った。
住民全員を集めるつもりはなかったが、やり取りを聞きつけた者が増え、結局二十人以上が集まった。
「家が透けた?」
誰かが笑う。
「なら俺の借金帳も透けて消えてくれりゃいいんだけどな」
別の者がまた笑った。その笑いにつられる人もいた。
けれど全員ではない。
腕を組んだまま黙る者、子供を背後へ隠す女性、厩舎の方を何度も気にする男、と反応は少しずつ違っていた。
クリルは一人ひとりの顔を見ていた。
「名前を覚えられないっていうのは?」
一人の女性が尋ねた。
アンティルが入口の看板を指した。
「あなたたちには言えるか?」
住民たちが口々に宿場名を言う。
その瞬間はクリルにも聞こえる。たしかに理解できる。そして次の瞬間には消える。
アンティルが外から来た商隊員へ順に尋ねた。誰一人、視線を外した状態では答えられなかった。
その様子を見て、住民側の笑いが少し減った。
「じゃあ、あんたらの方がおかしいんじゃないか?」
誰かがぽつりと言った。同調して別の誰かが頷く。
また説明が逆転する。宿場ではなく、旅人の方に問題がある。たしかにそれでも成立してしまう。
クリルは黒布を握った。
何を書けば信じてもらえるのだろう。目の前で家が透ければ。名簿の文字が消えれば。
それならば信じるだろうか。
「嘘じゃない!」
そのとき、子供の声が広場を響き渡った。
厩舎で会った男の子だった。人混みの中から勢いよく飛び出してくる。
「僕も見た! 柵がなくなったんだ! 井戸も変だった!」
「ちょっと! またその話?」
母親が困った顔で追いかける。
「夢じゃないって言っただろ!」
「はいはい、分かったから」
「分かってない!」
男の子は母親の手を振りほどいた。
子どもの癇癪ではなく、そこには一人の人間が真実を訴える真剣さがあった。
「アンも帰ってこない! 昨日までは呼んだら戻ったのに!」
誰かが、「犬なんてそのうち戻る」と言った。
「戻らないよ!」
男の子の声が裏返った。
クリルは人の間を抜け、男の子の近くへ行った。何かを言う必要はなかった。そばへ立つだけで、少し呼吸が落ち着いたように見えた。
「まったく……旅の子まで巻き込むんじゃない」
住民の一人が呆れた口調で言う。
クリルはその人を睨み、黒布を出してこう書き始めた。
〈私はこの子から聞く前に異変を見た〉
さらに続ける。
〈この子が私たちに合わせているわけじゃない〉
アンティルがクリルの声となって読み上げた。
反論も思い浮かばず、人々の間に少し沈黙が生まれる。
その中で老記録係がゆっくり前へ出てきた。
「わしも一つ、気になることがある」
夕方に会ったあの老人だった。片手には古い日誌を抱えている。
「さっきは年のせいじゃと言ったが……」
一度言葉を止める。
「どうにも腑に落ちん」
住民たちがどよめきながら、老人を見る。
「三日前の日誌じゃ。ここに、名簿の文字が薄くなったと書いてある」
その頁を開き、 自分の筆跡を読み上げる。
「『住民名簿の一部、墨が薄れる。書き直す』」
そして次の行。
「『同日夜、再び同箇所が薄れる。紙に損傷なし』」
老人は疲れ切った表情で顔を上げた。
「わしは今日、そのことを忘れとった」
広場の空気が少し変わった。
「自分で書いたんじゃ。それも二度。なのに、あの兄さんに帳簿を見せられるまで思い出せなんだ」
アンティルが日誌を受け取る。文字はまだなんとか読めた。
「三日前」
クリルは厩舎の男の子を見る。
彼も三日前くらいからだと言っていた。
アンティルもその一致に気づいた。
「一致してる」
それでも代表者の男は難しい顔を崩さなかった。
「たった二人が変な夢を見ただけかもしれない」
「おい」
ロビの声が低くなる。
「なら何人になったら認めるんだ?」
「認めてどうする」
男もすかさず言い返した。
「今すぐ全員で荷をまとめ、暗い街道へ出ろというのか? 老人も子供もいる。魔物が出たら? 明日何も起こらなかったら? 店を空けた間に盗まれたら誰が責任を取る?」
その問いに答えられる者はいなかった。
クリルも同じだった。ここを出れば絶対安全だとは言えない。宿場が今夜消えるとも言えない。
ただ、異常がある。それしか分かっていない。
「少なくとも今夜だけ外へ出てくれ」
アンティルが最後に言った。
「宿場から十分距離を取って野営する。それなら家を捨てる決断まではいらない。明日の朝、何も起きていなければ戻ればいい」
現実的な提案だった。
それでも、すぐには誰も動かなかった。
◇
最初に荷造りを始めたのは、広場で声を上げた人ではなかった。通りから少し外れた家の中で、家族だけで話していた人たちだった。
クリルが厩舎から商隊の荷を取りに戻る途中、半開きの戸から声が聞こえた。
「俺は行かない」
男の声だった。
「でも馬があんなに怯えてるのよ」
「馬は馬だ。家まで捨てる理由になるか」
「一晩だけよ」
「一晩でも同じだ。誰が店を見る?」
クリルは立ち止まりかけ、すぐ歩き出した。盗み聞きするつもりはなかった。
けれど後ろから戸が開く音がして、さっきの口論の相手であろう女性が出てきた。
避けることもできない間に目が合い、女は気まずそうに笑った。
「……聞こえた?」
クリルは少し迷い、こくりと頷いた。
「恥ずかしいところ見せちゃったわね」
笑いながら首を横へ振る。決して恥ずかしいとは思わなかった。
「主人はここで生まれたの」
女は家を見上げた。
「この店も、主人のお父さんから継いだもの。私は外から嫁いできたから……たぶん、少し違うのね」
家を捨てやすいという意味ではないのだろう。ただ、同じ場所にいても背負っているものは違う。
「子供が二人いるの」
家の中から小さな影がこちらを覗いることに気付いた。
「私は連れて出たい。でも主人を置いていくのも……嫌」
どうしたらいいと思う、と尋ねられなかったことに、クリルは少し安堵した。
答えられないからだ。
代わりに黒布へ書く。
〈私には、ここがどうなるか分からない〉
女は真剣にクリルの言葉を読む。
〈でも私は、今夜ここでは寝ない〉
それだけだった。
外へ出ろとは書かなかった。残るなとも書かない。自分が何を見て、どう決めたかだけを伝えた。
女は長い間その文字を見て、一言つぶやいた。
「……そう」
会話の終わりを察知して、クリルは布をしまった。
そのとき、家の中からくたびれた顔をした男が出てきた。
「行商は気楽だな」
さきほどまで口論をしていた張本人だった。
戸に体重を預けながら投げやりな態度で続ける。
「危なきゃ次へ行けばいい」
敵意というより、苛立った声だった。
クリルにはその言葉を否定できない。自分には帰る場所があるし、自分の意志で次の目的地に進むこともできる。
だがこの人は今、帰る場所そのものを失うかもしれない話をされている。
まったくもって、同じではない。
「ちょっと、この子に当たらないで」
女がたしなめるように言う。
「分かってる」
男は顔を背けた。
「……分かってるよ」
その声の方が、最初より弱かった。
◇
宿場の外では、商隊が野営の準備を終えていた。町の入口からかなり離れた街道脇の草地。建物は見えるが、何か起きてもすぐ巻き込まれない程度の距離を取っている。
住民はまだ誰も来ていない。
ロビが焚火へ薪を足しながら宿場を見る。
「来ねえな」
アンティルは返事をしなかった。
クリルも反応せず、ただ祈るように町の入口を見つめていた。
そこへ一人、 誰かが歩いてくる。背中は曲がっているものの足取りには力強さを感じる、その人物は老記録係だった。
大きな荷物は持っていない。肩掛けの鞄を一つだけ抱え、杖をついて歩いてくる。
「じいさん!」
ロビが思わず立ち上がる。
「来たのか」
「一晩だけじゃ」
老人は不機嫌そうに答えた。
「何もなければ朝には帰る」
「それでいい」
アンティルが少し安心したように言う。
老人は鞄を抱えたまま座った。中には、住民名簿の一頁と日誌が入っているらしい。
「荷物は……それだけか」
ロビが意外そうに訊く。
「持ち出したいものは山ほどあるわい」
老人は鼻を鳴らす。
「何十年分あると思っとる。全部運んどったら夜が明ける」
それでも一頁だけ切り離した。異常が始まった頃の記録だけ。彼もまた、残すべきものを残そうとしたのだ。
クリルには、その選び方が少し分かる気がした。
やがて二人目、三人目が来た。厩舎の近くに住んでいた家族。小さな子を抱いた女性。
皆、一様に荷物は少ない。明日には戻れると信じているからだ。
それでも、ここへ来た。
宿場から避難してくる人の顔を見るたびに、クリルの心は少し温かくなった。
同時に、宿場に残る明かりの数を数えてしまう。やはり圧倒的に多い。
まだほとんどの人が残っている。
◇
厩舎で会った男の子が来たのは、それから少し経ってからだった。
母親に手を引かれ、その後ろを父親が歩いている。三人ともそれなりの量の荷物を背負っていた。
男の子はクリルを見つけると、真っ先に駆け寄ってきた。
「来たよ、お姉ちゃん!」
クリルは笑って頷いた。
「父さんがさ、最後まで嫌だって言うから遅くなっちゃった」
「それを言うな」
後ろから父親の声がする。
怒っているわけではない。ただ疲れ切った男の顔だった。
「……犬が帰ってこないんだ」
父親は宿場を振り返る。
「あいつ、臆病なくせに家から離れたがらない犬でな。雷でも床の下に潜るような奴なのに」
今回は家ではなくて町の外へ逃げた。その事実が最後の一押しになったらしい。
「朝、何もなければ戻ればいい」
誰に言うでもなく、父親は繰り返した。
男の子と並んでクリルは宿場を眺めていた。まるで別れの挨拶でもするように。
入口の看板が松明の光に照らされている。書いてあるはずの宿場名は、ここからでは読めなかった。
「ねえ」
男の子がクリルを見る。
「お姉ちゃん、本当に名前忘れちゃうの?」
クリルは頷いた。
「今も?」
もう一度頷く。
「……変なの」
少し笑って、そしてごく普通のことを言うように宿場の名前を口にした。
クリルの耳が立つ。言葉としては聞こえる。今度も同じだ。
一瞬だけ理解できる。だが、そのあと崩れるように頭から消える。
「僕は覚えてるよ」
ここに暮らす住民はちゃんと覚えている。それならばいいのではないか。今までなら、そう考えればよかった。
「母さん、名前言って」
男の子が母親へ振り返った。
「え、何よ急に」
「いいから言って」
母親は笑いながら答えようとした。
口が止まった。一瞬、時が止まったかのように硬直する。
男の子の表情から笑みが消えた。
「母さん?」
「やだ。ちょっと待って」
母親はもう一度宿場を見て、記憶の引き出しを開け始める。
父親はその様子を怪訝そうに見守り、我慢しきれず口を挟んだ。
「お前、何言って……」
しかし、父親も止まってしまった。二人とも今日まで暮らしていた町の名を言うことができなかった。
ついさっきまで住んでいた場所の名前を。
「ほら」
男の子がもう一度言った。はっきりと、迷わずに。
「僕は覚えてる」
クリルはアンティルを見た。
彼もまたクリルを見ていた。二人の目が合う。
まさかと思い、すぐ近くにいた老記録係へ尋ねる。
「宿場の名前は?」
老人は眉を寄せた。
「何を馬鹿な……」
だが、続かない。鞄の中から日誌を取り出し、表紙を見る。そこに宿場名が書かれていたはずだった。
確かに書かれている。けれど、老人は黙りこくったままで、その顔色は次第に悪くなっていく。
「……読めん」
クリルが日誌を覗く。そこには宿場の名と思しき文字が並んでいる。
けれど薄い。昼間よりも明らかに。
男の子だけが、もう一度宿場名を言った。
「ここだよ」
自分の家を指すような声だった。
「僕の家があって、井戸があって、角のパン屋で甘いパン売ってて、入口に大きな看板があるところ」
その一つひとつを、男の子は鮮明に覚えている。
母親は口元を押さえた。父親は何も言わなかった。そして、老記録係は日誌の文字をただ見つめている。
クリルは黒布に書いた言葉を男の子に見せる。
〈名前、忘れないで〉
男の子は涙を拭い、それから強く頷いた。
「忘れないよ、絶対に」
その言葉を聞いて、クリルはなぜか胸が苦しくなった。
◇
夜が深くなるほど、宿場から来る人は少なくなった。
せいぜい十数人。子供を含めても、その程度だった。宿場には五十人ほどが住んでいるというのに、それだけだった。
つまり、大半は残った。
クリルは入口へ何度も目を向けた。まだ誰か来るかもしれない。荷造りをしているだけかもしれない。一人ずつ説得しに行けば、あるいは。
そう思って立ち上がろうとした。
「クリル」
アンティルに止められた。
「何をしに行く」
〈まだ残ってる〉
「知ってる」
〈もっと話せば来るかもしれない〉
「かもしれない……か」
アンティルは否定しなかった。
「でも、もう話した」
いつもの彼らしく論理的に、冷静に、感情を抑えた語り口で話し始めた。
「見せられるものも見せた。名簿も、測定も、動物も。ここから先は、同じことを何度言っても変わらない奴もいる。世の中にはいるんだ、そういう奴が」
黒布へ白筆を強く押しつけそうになり、クリルは力を抜いた。
〈死ぬかもしれない〉
「そうだ」
アンティルの声は不思議なほどに静かだった。
〈それでも?〉
「それでもだ」
納得しきれず、クリルは俯いてしまう。
「他人の選択を、お前が代わりに決めることはできない」
強い言葉ではなかった。けれど、その言葉はクリルの胸に深く突き刺さった。
「危険を伝えることはできる。逃げ道を示すこともできる。手を差し出すこともできる」
一度、宿場を見る。
「でも、その手を取るかどうかは向こうが決めるんだ」
クリルは黒布へ視線を落とした。ふと、光る道を思い出す。《旅人》は道を示す。安全にはしてくれない。
あくまで歩くのは自分だ。
それを、自分以外の人にも当てはめなければならないのだろうか。
道を見せても、それを選ばない人はいる。そのとき、自分は何をすればいい。
「お前は納得できないだろうけどな」
クリルは少しだけ顔を上げた。アンティルの表情も辛そうだった。
「俺も納得できん」
それだけだった。アンティルは簡単には答えをくれない。
たぶん答えなどないのかもしれない。
◇
夜半を過ぎた頃、宿場の鐘が一度鳴った。夜の静寂に重厚な鐘の音がいつまでも鳴り響くようだった。時間を知らせる鐘ではない。風もほとんどない。
何事かと全員が顔を上げた。遠くに見える鐘楼、その輪郭が薄くぼやけていた。
今回はなかなか戻らない。
鐘楼の上半分が、夜空へ溶けたように透けたままになっている。
その下を住民らしい人影が歩いていく。
明らかに何かが起こり始めている。逃げてきた人々の間から、小さな悲鳴が漏れた。
「あれは……」
老記録係が立ち上がる。鞄を抱える手が震えていた。もう、年のせいだとは言わなかった。
厩舎で会った男の子は、母親の腕へしがみついている父親が二人を抱くようにして立っていた。何があっても離さないと言わんばかりに。そして宿場に残る家々を見つめている。
あそこには知っている人がいる。
昨日まで挨拶していた人。パンを焼いてくれた人。井戸で話した人。笑っていた人々。今も灯りはついている。
クリルは立ち上がった。今度はアンティルも止めなかった。ゆっくりと宿場の入口まで歩き、境界の少し手前で止まった。
もはや中へ戻るつもりはない。それでも最後まで見続ける。
誰かが出てこないか。まだ間に合う人はいないか。
しばらくその場でじっと待った。そこへ、一人の女性が現れた。
先ほど家の前で話した女性だった。左右には子供を連れている。荷物は小さな袋一つだけだ。
クリルの耳が立つ。
女性はどうしてか、走っていた。何度も後ろを振り返りながら。夫はそこにいなかった。
クリルは入口まで駆け寄り、子供の一人の手を取る。
女性が荒い息のまま吐き出すように言った。
「あの人……あの人、残るって」
泣いていた。とめどなく溢れる涙を拭うことすらしない。
「店を置いていけないって」
クリルには何も言えない。女性も答えを求めてはいなかった。
「朝になったら迎えに行くの」
自分へ言い聞かせるように繰り返す。
「何もなかったら、笑われていい。それでまた……みんなで朝食を食べるの」
クリルは子供の手を握ったまま、首を縦へ振った。それしかできなかった。
四人で野営地へ戻る。途中でクリルは一度振り返った。
鐘楼はもう半分近く見えなくなっていた。それでも宿場の窓には灯りがある。人々はたしかにまだそこで暮らしている。
クリルはその光景を目に焼きつけた。
見たものは必ず残す。忘れない。
少なくとも今は、そうすることしかできなかった。




