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コルコニアの旅人たち  作者: 南河鯨
1章 / 旅立ち

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22/25

22 / 消えかけの宿場

 橋を越えてから二日ほど、街道は驚くほど穏やかだった。


 壊れた橋の周囲で見た人の群れも、少し西へ進めば次第に散っていった。キルガス方面へ向かう者、途中の町へ身を寄せる者、街道を外れて親族の住む村へ向かう者。それぞれが違う道へ分かれ、ロビたちの商隊もようやく普段の速度を取り戻していた。


 クリルは歩きながら、ときどき右脚へごく少量だけ魔力を流した。


 走らない。跳ばない。それと、木へ向かって試さない。


 アンティルから三つも条件をつけられたので、今のところは歩幅を変えずに足の中へ魔力を巡らせ、数歩維持して止めるだけにしている。


 最初に試したときのような身体が軽くなる感覚はあるが、力を入れすぎなければ普段の歩き方を大きく崩すこともない。むしろ魔力をどこまで流したのか、自分の脚のどこがいつもと違うのかを探ること自体が面白かった。


「そろそろ切れ」


 少し前を歩くアンティルが振り返りもせず言った。


 クリルは素直に魔力を止めた。


「よく分かるよな、見てもねえのに」


 ロビが御者台から訊く。


「歩幅が少し伸びる」


「俺にはさっぱりわからん」


「お前は手綱だけ見ておけ」


「言われなくても見てるっての」


 オルンが鼻を鳴らした。


 クリルには、不毛な小競り合いにオルンが呆れているように聞こえた。

 

 カレンは別の馬車の横を歩きながら、商隊員から荷札の見方を教わっている。イトゥアンを出てから、彼女は本当に商人見習いらしいことばかりしていた。海蝕洞で見せた力を思い出さなければ、高ランクの冒険者であることさえ忘れそうになるほどだった。


 旅はまた静かなものへ戻ったように見えた。


 だから、最初の違和感はあまりに小さかった。


     ◇


 昼を過ぎた頃、アンティルが地図を開いた。


「この先に宿場がある」


 街道脇の石へ地図を広げ、現在地を指す。


 橋を越えてから歩いてきた道の先に、小さな黒い印がある。


「規模は?」


 ロビが御者台から降りて覗き込む。


「宿が二軒。食堂、鍛冶屋、雑貨屋。記録が古くなければ五十人前後が住んでる」


「ちょうどいいな。馬も休ませてえ」


 ロビがオルンを見る。


 橋で馬車を失って以来、彼は他の商隊員の荷馬車に荷を分けてもらい、自分ではオルンを引いて歩くことが増えていた。本人は「たまには歩かねえと鈍る」と言っているが、商品を失った分を気にしていないわけではないことくらい、クリルにも分かっている。


 商隊長も宿場で一泊することを決めた。


 クリルは地図へ目を落とす。


 宿場の印の横に名前が書かれている。


 ちゃんと読める。珍しい名前でもない。それなのに地図を閉じた直後、クリルはもう一度名前を確かめたくなった。


 アンティルが地図を畳みかけている。


 クリルは袖を引いた。


「何だ」


 地図を指しながらアンティルを見つめる。


「まだ見るのか?」


 頷き、 もう一度開いてもらった地図の宿場名を読む。


 やはり普通に読める。


 クリルは一度目を閉じた。


 頭の中で繰り返そうとする。


 だが、名前が出てこない。


 目を開き、また地図を見る。


 ちゃんと書いてある。ちゃんと読める。


 けれど、視線を外すと夢のように消え失せる。


 クリルの耳が僅かに伏せた。


「どうした」


 今度は黒布を出した。


 〈宿場の名前が覚えられない〉


 そこでようやくアンティルの表情が変わった。


「読めないのか?」


 素早く首を横へ振る。


 〈読める。でも目を離すと名前だけ思い出せない〉


 ロビも横から覗いた。


「そんなことあるか? ここだろ」


 疑いながらも地図の名前を読み、そして口を閉じた。


「……は?」


 信じられないといった様子でもう一度地図を見る。


 ちゃんと読む。そして目を離す。


「待て、何だった?」


 アンティルは何も言わず、自分でも同じことを試した。


 数秒後、長いため息とともに地図を閉じる。


「俺もだ」


 ロビの顔から軽さが消えた。


「書いてあるのに?」


「書いてはある……が」


 アンティルは地図を再び開き、宿場名の部分へ指を置いた。


「文字が読めなくなってるわけじゃない。意味も分かる。視界から外した瞬間、名前との繋がりだけが抜け落ちる」


 レナルドの近くで、知っているものの名前が一瞬出てこなくなったことをクリルは思い出した。


 あのときは短い時間だった。それに、場所を離れれば戻った。


 だけど今回は違う。


 地図には残っている。なのに頭の中へ残らない。


「やっぱこの宿場に行くの……やめとくか?」


 ロビが低い声で訊いた。


 アンティルは街道の先を見る。


「不確定要素を避けるのも一つの判断だ。ただ、ここから次の安全な野営地までは距離がある。馬も休ませたい。それに」


 何かを決めたような顔で地図を畳む。


「もしこれがレナルド周辺で見たものと同じ種類の異変なら、調べる価値はある」


 ロビは嫌そうな顔をした。


「おーい、俺らの護衛ってこと忘れるなよ?」


「半分は護衛だ」


「頼むから残り半分も護衛であってくれ」


 クリルは街道の先を見た。


 宿場そのものは、まだ見えない。


 けれど《旅人》の光も現れなかった。


 進むなとも、進めとも言わない。


 結局、自分たちで決めるしかない。いつだってそうだった。


     ◇


 宿場が見えたのは、それから半刻ほど歩いた頃だった。


 街道が緩やかな丘を越え、その向こうへ小さな集落が現れる。


 最初に見えたのは大きな木の看板だった。


 街道の両側に低い柵が続き、その奥へ二階建ての宿、厩舎、食堂らしい建物が並んでいる。宿場の中心には井戸があり、そこから細い道が幾つか建物の間へ伸びていた。


 ごく普通の宿場だった。煙突から煙が出ている。軒先では女性が洗濯物を干している。笑い声がする方を向けば子供が二人、木の輪を棒で転がしながら走っていた。鍛冶場から金属を打つ音もする。


 誰かが消えかけているような場所には見えない。


 クリルは少しだけ安心しかけた。


 ふと、入口の看板を見る。そこにはしっかりと宿場名が彫られている。


 大丈夫、読める。地図と同じ名前だった。


 そして、もう一度覚えようとする。だが、看板から目を離すした途端に、霧がかかったように思い出せなくなる。


 ぞわりと、尾の付け根から背中へ寒気が上がった。


「どうだ?」


 アンティルが小声で問う。


 クリルは目を伏せ、首を横に振った。


「……読んだ直後なのに、思い出せません」


 カレンも看板を見て、つぶやいた。


 そして、ロビは幽霊でも見たかのように腕を擦った。


「……気味悪いな」


 宿場の入口では、一人の男が荷車の整理をしていた。こちらへ気づき、明るく手を上げる。


「商隊かい? ご苦労様だな。泊まりならあっちの宿の方が空いてるぞ」


 異変の真っただ中にいるとは思えない、いたって普通の声色だった。


 クリルたちは一瞬互いを見た。それから、ロビが代表して話しかける。


「変なことを聞くがな……ここ、何て宿場だ?」


 男はやはり変な顔をした。


「何って、見りゃ書いてあるだろ」


 看板を指す。


「まあ何言ってんだって思うだろうけどよ。ここの名前を教えてくれねえか」


「だから……だよ」


 男は宿場の名を言った。


 クリルにははっきり音として聞こえた。確かに宿場の名を聞いた。その瞬間は理解できたはずだった。


 なのに、次の瞬間には何を聞いたのか分からなくなっている。


 さすがにロビの顔も引きつっていた。


「もう一回」


「……何なんだよ」


 男は苦笑いしながらもう一度宿場の名を言った。


 もちろん同じ言葉だった。


 男本人には何の違和感もないらしい。


「お前ら、長旅で疲れてるんじゃないか?」


 そう言って、奇妙なものを見たように男はまた荷車へ戻った。


 クリルはその背中をじっと見つめていた。


 本人は覚えている。外から来た自分たちだけが覚えられない。


 少なくとも今は、そう判断した。


     ◇


 その後、商隊は予定通り宿場へ入った。


 異変がある可能性については商隊長にも伝えたが、全員を今すぐ引き返させるほどの根拠はまだない。


 ただし長居はせず、馬を休ませ、必要な補給をしたら翌朝早く出ることになった。


 宿場の中へ入ってからも、奇妙なことは続いた。最初はクリル自身、目の錯覚だと思うほどにこの町の光景は異常だった。


 井戸の横を歩いていた女性の向こうに、家の壁が見えた。もちろん、人間の身体を透かして壁が見えるはずなどない。


 驚いて瞬きをすると、次の瞬間には女性は普通にそこにいた。服も肌も透けていない。何事もなかったかのように水桶を運んでいる。


 クリルは思わず足を止めた。


「見たな」


 アンティルも止まっていた。


 こくりと頷く。


「どのくらいだった?」


 クリルは指でほんの一瞬を示す。


「俺も同じだ」


 カレンが周囲を見回した。


「何がです?」


「今の女、一瞬だけ透けた」


「……透けた?」


 恐る恐るカレンが女性を見る。だが、今はいたって普通に見える。


「光の加減では?」


「その可能性は少なからずある」


 意外にもアンティルはすぐ認めた。


「一回ならな」


 その直後だった。通りの反対側に立っていた家の輪郭が、僅かに薄くなった。まるで空気に溶けるように、屋根の端と壁の一部が背景へ透ける。


 それは一呼吸する間に何事もなかったかのように元へ戻った。


 今度は全員が見ていた。もはや否定する言葉は見つからなかった。


 ロビが低く息を吐く。


「……見間違いじゃねえな、残念なことに」


 すぐ近くを住民が通った。誰も騒いでなどいない。


 薄くなった家から男が出てきて、隣家の住民へ挨拶をしている。そこにはいつも通りの日常があった。


 クリルはその男を追いかけ、家を指した。そして家が透けていく様子をなんとか仕草で表してみる。


「何だ嬢ちゃん、どうした?」


 さすがに身振り手振りで伝えるには難しかった。


 しびれを切らして黒布を出した。


 〈今、家が一瞬透けた〉


 男は文章を読み、何事かとクリルの顔を見る。


「家が?」


 怪訝な顔でその家を振り返る。


 だが、家はいつもと変わらずそこに健在していた。


「おいおい、そんなわけないだろ」


 笑われた。


「この家が消えちまったら俺はどこに帰るってんだよ」


 冗談の口調でそれだけ言うと、男は隣人と一緒に行ってしまった。


 クリルは何も返せなかった。


 本人に見えていなければ伝えようがない。いや、見えたとしても異常だとは信じられないだろう。


 これがどういった現象なのかはまだ分からない。


「まだ、決めつけるな」


 アンティルが静かに言った。そしてクリルを見る。


「今分かってることは何だ?」


 はやる気持ちを抑え、それから黒布へ書いた。


 〈宿場の名前を外から来た私たちは覚えられない〉


 〈建物と人が一瞬透けることがある〉


 〈住民は違和感を感じていない〉


 納得したようにアンティルは頷く。


「最後だけ少し修正だ。まだ全住民へ聞いたわけじゃない」


 ハッとした表情でクリルは文字を見直す。確かにそれは正しい。


 〈今話した住民は変だと思っていない〉


 と書き直す。


「それでいい」


 アンティルは子供へ説明するような口調ではなく、同じ調査をしている者へ話すように続けた。


「推測は後だ。先に、同じ現象が繰り返されるか確認する」


 クリルは頷いた。


     ◇


 いざ異変を探そうとすると、どうしてか普通の暮らしばかりが目についた。


 食堂では大鍋から煮込み料理の匂いが漂っている。鍛冶場では若い男が馬蹄を打っている。宿の前では従業員が客の荷を運び、井戸では住民たちが橋の崩落について噂していた。


 数日前まで街道の向こうで何が起きていたのか、ここにもすでに話は届いているらしい。


 普通だった。普通すぎる。


 その中で、思い出したかのようにときおり一部分だけが欠ける。


 食堂の看板に書かれた店名が、ほんの一瞬だけ消えた。通りを横切った老人の腕が、肘から先だけ薄く透けた。井戸の縁が一部分消え、向こう側の地面が見えた。


 ひとつひとつの異変は数秒も続かない。


 クリルたち以外、誰も立ち止まらない。


 アンティルは小さな測定具を取り出していた。細い金属針のついた器具を地面や壁へ当て、数字を記録していく。


「魔力が減ってるんですか?」


 カレンがそう尋ねた。


「違う」


「じゃあ、増えているんですか?」


「それも違う」


 アンティルは眉を寄せる。


「値が安定しない」


 同じ壁、同じ位置で魔力値を測る。念入りに三度も。


「測るたびに違う。魔穴の周囲でもこんな動き方はしない」


 クリルは記録している数字を覗いた。独自の理論で書かれたその記録の意味までは分からない。


 ただ、アンティルがいつもより何度も測り直していることから、普通ではないのだと理解せざるを得なかった。


「なあ……ここから出た方がいいんじゃねえか?」


 ロビが気まずそうに言う。


「俺たちだけならそうするところだが」


 アンティルが遠い目で宿場を見渡す。


 住民は今日も普通に暮らしている。


「問題は、ここに住んでいる連中だ」


     ◇


 最初に自分から異常を口にした住民は、大人ではなかった。


 それはクリルが宿の裏手でオルンへ水をやっていたときだった。


 ふと厩舎の隅から視線を感じ、振り返る。


 そこには十歳前後の男の子がいた。物陰から半分だけ顔を出し、こちらをうかがっている。


 クリルが首を傾げると、男の子は少し迷いながら近づいてきた。


「さっき、家のこと聞いてた人?」


 クリルはぽかんとしながらも頷いた。


「変だよね?」


 さらに頷く。


 男の子は警戒するように周囲を確認した。まるで大人がいないことを確かめるように。


「やっぱりそうだ……」


 押しつぶされそうな小さな声だった。


「僕も変だと思う」


 クリルの耳が立つ。


「みんな、変じゃないって言うんだ。父さんも母さんも。でも、昨日、家の裏の柵がなくなった」


 泣きそうになりながらも男の子は話し続ける。


「朝になったら戻ってた。でも夜は、本当になかった。触ろうとしても何もなくて」


 手で柵の高さを示す。


「アンも……犬も最近、家に入ろうとしない。外へ出したら、ずっと街道の方へ行こうとする」


 アンと名付けられた犬は異変を感じていたのか。


 ふとクリルは厩舎を見る。オルンも宿場へ入ってから少し落ち着きがない。耳を頻繁に動かし、普段なら気にしない物音にまで反応している。


 大人には言ったのか、と声では聞けないので、クリルは男の子を指してから、宿場の方を示し、口元へ手を当てる。


 意図は伝わったようだ。


「言ったよ。でも夢だって」


 男の子は唇を尖らせた。


「アンのことも、雷が近いんじゃないかって」


 空はこれ以上なく晴れている。天候の不安はないだろう。


 クリルは一度空を見上げた。


「雷なんか来ないよ」


 その言い方は、子供の思い込みというより、何度も説明して諦めた人のものだった。


 クリルは黒布を出した。


 〈いつから?〉


「三日前くらい」


 橋が崩れた頃と近い。ただ、関係があるかどうかは分からない。記録するにとどめておく。


 〈他にも見た?〉


「井戸」


 男の子は顔を上げてすぐに答えた。


「昨日、底が見えなくなった。暗いんじゃなくて、何もなかった」


 背中へ冷たいものが走った。


 クリルはさらに聞こうとしたが、厩舎の外から女性の声がした。


「誰と話してるの?」


 男の子の母親らしい女性が現れた。


 思わず男の子がびくりと跳ね上がる。


「何でもない!」


「知らないお客さんの邪魔しちゃ駄目でしょ」


 母親はクリルへ軽く頭を下げた。


「すみません……この子、最近変な夢ばかり見てるみたいで」


 その言葉に、男の子は何か言い返したそうだった。


 けれど、黙って母親に連れられていく。その途中で一度だけ振り返った。


 クリルは小さく手を上げた。


 なんとかする、とまでは言えない。ただ、ちゃんとあなたの話は聞いた。


 それだけは伝えたかった。


     ◇


 夕方、アンティルは宿場の記録を管理している人物へ会いに行くことにした。


 街道宿では、宿泊者や荷の出入り、税、住民数などを簡単な帳簿に残していることが多いらしい。


 案内された先は、宿場の中心から少し外れた古い家だった。そこに住んでいたのは白髪の老人だった。腰は曲がっているが、その目はしっかり前を見据えている。


「記録を見たいとな?」


 アンティルの唐突な要請に、老人は怪訝そうな顔をした。


「何のためじゃ」


「最近、宿場で変わったことがなかったか調べたい」


「変わったことなどないぞい」


 また同じ返事だった。それでも、アンティルが旅の記録を調べている考古学者だと説明すると、老人は少し興味を示した。


「古いものなら、わしの方が詳しいぞ、若造」


 そう言って部屋の奥から何冊もの帳簿を運んできた。


 宿泊者の記録に住民の名簿。税の記録や家畜の頭数までこの宿場の記録という記録がそこにはあった。何十年も前のものまである。


「昔はもっと人が多かったのか?」


 ロビが気安く尋ねる。


「いいや、だいたい同じくらいじゃ。ちっとは増えたり減ったりするがの」


 老人は嬉しそうに古い帳簿を開いた。記録を見せること自体が好きらしい。


 クリルも横から覗く。びっしりと名前が並んでいる。家ごとに分けられ、誰がいつ生まれ、誰がいつ別の町へ移ったかまで簡単に残してある。


「これはなんとも……几帳面ですね」


 カレンが感心したように言う。


「前の記録係がうるさい爺でな。『書かなんだことは、なかったことになる』が口癖じゃった」


 クリルはその言葉へ反応した。


 老人はそんなことには気づかず続ける。


「わしも長くやっとるうちに似たような爺になっちまった」


 おもむろにアンティルが一冊の新しい名簿を手に取った。


「これは現在の?」


「そうじゃ。今年の分じゃな」


 最初の数頁はいたって普通の名簿だった。しかし、途中でアンティルの指が止まった。


「ここ」


 老人が覗く。


「何じゃ?」


 アンティルが指摘した一行だけ、文字が薄かった。名前らしいものが書かれていた痕跡はある。けれど墨が古くなったという薄れ方ではなかった。


「この人が誰か教えてくれ」


「この人だと?」


 老人がその名を読もうとする。だが、声が出ることはなく、口を閉ざして考え込んでしまった。


「……誰じゃったかの」


 アンティルの目が鋭くなる。


「あなたが書いたのか?」


「もちろんじゃ。これは全部わしが」


 老人は眉を寄せた。


「いや、待て。ここには……」


 指で文字をなぞる。


「確か、誰かおったはずじゃ」


 クリルの背中が冷たくなった。


 老人は記憶を手繰り寄せるように別の頁をめくる。


「家番号から見れば……この家じゃな」


 名簿を確認し、窓の外を指す。


「あそこに住んどる家族の……」


 言葉が続かない。


 たしかに誰かがいた。でも、名前が出てこない。


 クリルは窓の外を見る。


 夕暮れの通りを、一人の女性が歩いていた。次の瞬間、その身体が一瞬だけ向こうの家を透かした。


 そして何事もなかったかのように元へ戻る。


「アンティル」


 ロビの声が低くなる。


「分かってる」


 アンティルは測定具を取り出した。即座に床へ当てると、その針が大きく揺れた。


 一度右へ、次は左へと、針は止まらない。


「昼より悪い」


 老人が怪訝そうに見る。


「何がじゃ? 何を知っておる?」


 アンティルは答えず、もう一度名簿を見た。


 さっき薄かった文字を彼につられて全員が見つめていた。


 ほんの少し前には、まだ線が残っていた。そして今、その最後の一画が消えた。


 何も書かれていない行だけがそこには残った。


 空気が凍りつく。


「今……」


 ロビも見ていた。


 老人は空白の行を見る。


「うん? 何じゃ、ここ。書き忘れたか」


 ついさっきまで、文字があった。そして老人自身も、それを見ていた。それなのに、もう忘れている。


 クリルは慌てて自分の手帳を開いた。今見たことを書かなければ、と思った。


 名簿の一行は不自然に文字が薄かった。


 老人は誰かいたはずだと言った。


 目の前で文字が完全に消えた。


 老人はそれを見たはずなのに、一呼吸する間に忘れた。


 書くべきことを一通り書き終えた。まだ文字は残っている。少なくとも今は。


 アンティルがその記録を確認し、低い声で言った。


「宿場を出る準備をした方がいい」


 老人が呆れたように笑った。


「何を言っとるか。文字がちっと抜けとったくらいで」


「それだけじゃない」


「この町の家も人も透明化する現象が起こっている。外から来た俺たちは宿場の名を覚えられない。魔力値も安定してない」


 老人はそれでも首を横へ振った。


「疲れとるんじゃ。旅の者はすぐ大袈裟な話を作る」


「今、あなた自身が名前を思い出せなかった」


「年じゃ」


 あまりにも簡単に答えられた。


 勢いを削がれたアンティルが黙りこむ。


 クリルには、その沈黙の意味が分かるような気がした。


 証拠を見せれば信じてもらえると思っていても、その証拠自体を認識できないのなら。


 どうすればいい。


     ◇


 老人の家を出たときには、外は暗くなり始めていた。


 宿場には夕食の匂いが漂っている。遊んでいた子供たちは家へ帰り、店の戸もあちらこちらで閉まり始める。誰かが井戸からその日最後の水を汲んでいる。


 何も知らなければ、穏やかな日常にしか見えない。


 その中を、一匹の犬が走った。昼間、男の子が話していた犬かもしれない。首輪をつけたまま、宿場の外へ向かって走っていく。


「こら! 戻れ!」


 飼い主らしい男が追いかける。


 それでも犬は振り返らず、ただまっすぐに走り抜けていく。


 厩舎の方から馬の嘶きが響く。それは一頭どころではなく、何頭も騒ぎ始めていた。


 オルンの声までも混ざったところで、いよいよクリルは走り出した。


 厩舎へ着くと、馬たちは宿場の外側へ身体を向け、手綱を引き千切りそうなほど暴れていた。


 商隊員たちが必死に押さえている。


「急にこうなった!」


 ロビがオルンの首へ腕を回している。


 クリルが近づいても、今日に限っては落ち着くことはなかった。目が大きく開き、どうしてか宿場の奥を見ようとしない。


 逃げたい。その強い意志が、言葉がなくても伝わってきた。


 そのとき、クリルの視界の端で宿が揺らいだ。


 一階から二階、屋根にかけて建物全体が薄くなる。


 向こう側の夜空が透ける。


 一呼吸しても戻らない。さらにもう一呼吸してやっと元に戻った。明らかに昼間より長い。


 商隊の者たちが静まり返っている。今度は何人も見た。見てしまった。


 騒ぎを聞きつけて住民の一人が宿から出てきた。


「馬が騒いでるみたいだが、何かあったのか?」


 あくまで他人事のような住民の言い様にロビの語気が強まる。


「今、消えかけたぞ」


「消えかけた? 何が?」


「この宿がだよ!」


 何を言っているのかとでも言いたげな顔で、住民は自分の宿を見る。


 もちろん宿は今も普通に建っている。


「いったい何言ってるんだ」


 笑いながらそう言った。


 クリルはその笑顔を見て、昼間よりずっと怖くなった。


 異常を感じていないのではない。異常を感じたという事実が残らないのかもしれない。


 自分たちの住む場所が少しずつ消えてかけているのに、それを異常として抱えて続けていられない。


 クリルは宿場を見渡した。


 窓には灯りがついている。夕食の声がする。人がいる。生活がある。その全部が、今はまだここにある。


 アンティルがゆっくりと隣へ来た。


「今夜、ここには泊まらない」


 ロビが即座に頷いた。


「ああ、商隊は外へ出す」


「……住民はどうするんですか?」


 カレンは先延ばしにしていたことを問いかける。


 その問いに誰もすぐには答えられなかった。


 クリルは昼間の男の子を思い出した。柵が消えたと言った。井戸の底がなくなったと言った。犬が逃げようとしていると言った。


 そう、彼だけは気づいていた。


 そして名簿を守ってきた老人は、目の前で文字が消えたというのに、それすら忘れた。


 あまりにも違いすぎる。


 この宿場にいる全員を納得させて連れ出せるだろうか。果たして、説明すれば信じてもらえるのだろうか。


 クリルは腰の黒布へ手を置いた。書いたことは伝えられる。見たものも、分かったことも、記録に残せる。けれど、書いた答えを相手に選ばせることまではできない。


 宿場の中央では、夕食を知らせる鐘が鳴った。


 いつもと同じ時間を告げる、穏やかな音だった。


 その鐘楼の輪郭が、音の余韻とともにほんの一瞬だけ夜の中へ透けた。

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