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コルコニアの旅人たち  作者: 南河鯨
1章 / 旅立ち

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21/24

21 / 橋を渡る順番

夜になっても、川の音は弱くならなかった。

 

 濁った水が壊れた橋脚へぶつかるたび、低い轟きが川辺へ響く。その少し上では松明が幾つも揺れ、人々は暗くなってからも仮設の渡路を作り続けていた。

 

 完全に壊れた橋を元へ戻すことはできない。だから残った二本の橋脚と両岸の橋桁を利用し、人が一人ずつ渡れるだけの道を作る。

 

 イトゥアンからここまでロビの荷を運んできた馬車は、もう馬車の形をなしていなかった。

 

 荷台の床板が剥がされ、側板が外され、長く使える梁は川の上へ渡すために選り分けられている。車輪と車軸だけが少し離れた草地へ残され、その傍らでオルンが何事もなかったように草を食んでいた。

 

 クリルは松明の明かりの下で、ロビの横顔を何度か見た。

 

 彼はいつも通りだった。板の長さを測り、釘を集め、他の商人と荷の積み替えについて言い合っている。

 

 けれど、馬車の残骸へ視線を向ける回数だけは多かった。


 「そこ、持てるか?」

 

 声を掛けられ、クリルはすぐ木材の端へ手を掛けた。

 

 反対側には避難民の男がいる。二人で運び、橋際まで持っていく。

 

 アンティルは川の上へ黒い触手のような魔法を細く伸ばし、渡された木材がどこへ乗れば最も安定するかを確かめていた。大きな魔法で橋そのものを作ることはしない。何十人もの人間や家畜が渡る構造物を一時的な魔力だけに頼れば、術者が疲弊した時点で終わるからだという。

 

 代わりに縄を通す場所を補助し、板がずれないよう一時的に支え、作業をする者が落ちないよう足場を作る。

 

 魔法だけでは橋にならない。

 

 人の手だけでも足りない。

 

 その二つが噛み合うたび、川の上へ少しずつ道が伸びていった。

 

 クリルはそれを見ながら、ふと《旅人》の光を思い出した。

 

 道というものは、最初からそこにあるものばかりではないらしい。

 

     ◇

 

 作業が一段落した頃には、夜もかなり深くなっていた。

 

 渡るのは朝を待つことになった。暗闇の中で人や動物を動かす方が危険だという判断だった。

 

 川辺には幾つもの小さな焚火が作られ、商人も避難民も地元の者も、それぞれ空いている場所へ腰を下ろしている。

 

 昼間のような怒鳴り合いはなくなっていた。流石に疲れたのだろう。

 

 それでも問題が消えたわけではない。

 

 明日の朝、誰から向こう岸へ渡すのか。その話になると、どの焚火でも再び声が大きくなった。

 

 クリルは商隊の火のそばへ戻る途中で、昼間から気になっていた親子を見つけた。

 

 幼い男の子は母親の膝へ頭を置いたままだった。やはり頬が赤い。昼間より熱が上がっているように見えた。

 

 クリルは迷わずアンティルを探した。

 

 少し離れたところで縄の結び方を確認している。

 

 躊躇いながらも袖を引いて彼の気を引いた。


 「何だ」

 

 クリルは親子の方を指差した。

 

 アンティルの視線が子供へ向き、すぐ事情を察したらしい。


 「熱か」

 

 心配そうな顔で頷く。

 

 次に自分の鞄を開け、布へ包んだ銀鈴花を見せる。

 

 アンティルは何も言わず、クリルを見る。

 

 クリルも彼を見る。


 「それを使えば、依頼の数が足りなくなるぞ」

 

 そんなことは十分に分かっている。だからクリルは少しだけ迷った。

 

 初めて自分で受けた仕事だ。きちんと最後までやりたい。

 

 銀鈴花は群生地が少ない。この先でも見つかるとは限らない。それでも、熱を下げるための薬草を、熱のある子供の横で依頼品だからと大事に抱えているのは何か違う気がした。

 

 クリルは街道の先を指した。


 「また探す、か」

 

 また頷く。


 「見つからなかったら?」

 

 一瞬考え、肩をすくめた。

 

 そのときは依頼に失敗する。それは嫌ではある。

 

 でも、苦しんでいる子どもを見て見ぬ振りすることより後悔しないと思えた。

 

 アンティルは小さく息を吐いた。


 「分かった。持ってこい」

 

 銀鈴花を数株取り、鍋と水を借りた。

 

 薬として使うにはそのまま食べるわけではなく、花と葉を適量煮出して使うらしい。アンティルが手際よく処理する横で、クリルは母親へ事情を伝えるため黒布を出した。

 

〈熱に使える薬草を持ってる。飲ませてもいい?〉

 

 母親は文字を読んだあと、すぐには答えなかった。


 「でも、それ……あなたの薬じゃないの?」

 

 クリルは少し驚いた。

 

 昼間、自分が銀鈴花を何度か確かめていたところを見られていたのかもしれない。

 

 クリルは首を横へ振る。

 

 自分に使うものではない。少なくとも、もうそう決めている。

 

 母親は何度も礼を言った。そのたびにクリルは困ったように笑い、もういいというように片手を振った。

 

 やがて、程よく冷ました薬湯が子供へ飲ませられる。

 

 すぐ熱が下がるわけではない。けれど、水分を取れたこと自体が良かったらしく、少年は少しだけ目を開けた。

 

 クリルを見ている。


「お姉ちゃん、ありがとう」


 声は弱かった。

 

 クリルは笑って頷いた。

 

 鞄へ戻した銀鈴花は、依頼に必要な数より少なくなっていた。

 

 それを見ても、後悔はしなかった。

 

 失った声を呼び戻してくれる花ではなかった。

 

 でも、誰かの役に立つ花ではある。

 

 それで十分だった。

 

     ◇

 

 朝になると、仮設渡路は形になっていた。

 

 壊れず残った橋の両端から、川の中に残る石造りの橋脚へ太い板が渡され、その上をさらに何本もの横木と縄で固定している。

 

 元の橋よりずっと細い。人なら一人ずつが限界だろうか。荷を背負ったままなら、なおさら慎重に歩かなければならない。

 

 家畜については種類ごとに綱をつけ、一頭ずつ渡すことになった。

 

 問題は、順番だった。


 「うちの者を先に渡せ」

 

 地元の男が言う。


 「橋はこの辺りの村で管理してきた。これ以上向こう岸へ人が溜まれば、こっちの生活まで止まる」


 「何言ってんだ」

 

 避難民の側から反論が飛ぶ。


 「俺たちは行く場所がなくて移動してるんだぞ。家があるあんたらとは違う」


 「だからって、こっちを後回しにする理由にはならん!」

 

 商人も加わる。


 「人ばかり先に渡して、荷を最後まで置いとけっていうのか? 昨日から川辺に置きっぱなしだ。傷む商品だってある」


 「商品と子供のどっちが大事なんだ!」


 「その商品を売って家族を食わせるんだよ!」

 

 どの言い分にも、それぞれの事情がある。

 

 だからこそ決まらない。昨日と全く同じ言い争いをしていた。

 

 クリルは少し離れたところで、人の集まりを見ていた。

 

 避難民だから先。住民だから先。商人だから後。

 

 それでは、集団の名前が変わるだけで昨日と同じだと思った。

 

 同じ避難民の中にも、元気な若者と歩くのも難しい老人がいる。

 

 同じ地元住民にも、幼い子を抱えた者がいる。

 

 商人の中にも怪我をした者がいる。

 

 どこから来たかより、今どれくらい危ないか。誰が先に渡らなければ困るのか。

 

 そう考えたところで、クリルは黒布を取り出した。

 

 これは身振りでは伝えられない。ちゃんと意思を伝えるために少し長めに書いた。

 

 アンティルが隣から覗き込んだ。

 

〈避難民とか住民とか商人で決めない方がいい。病気の人、怪我した人、小さい子、老人から。次に歩ける人。動物。そのあと必要な荷物。商品は最後〉

 

 アンティルは最後まで読んだ。


 「悪くない」

 

 そう言って布を指す。


 「自分で見せるか?」

 

 クリルは人の多さを見る。

 

 全員に布を回していたら時間がかかる。

 

 アンティルへ差し出した。


 「読めってことか」

 

 少し申し訳なさそうに頷いた。

 

 アンティルは少しだけ口元を緩め、それから人々の方へ歩いた。


 「一つ案がある!」

 

 至る所で言い争いをしていることもあって、最初は近くの者しか振り返らなかった。

 

 それでもロビが、「ちょっと聞け、お前ら!」と声を飛ばすと、少しずつ静かになる。

 

 アンティルはクリルの黒布を掲げた。


 「どの集団を先にするかで決めるから揉める。出身や職業じゃなく、危険度で分ける」

 

 アンティルは内容を読んだ。

 

 病人と負傷者。幼い子供と高齢者。その付き添い。次に自力で歩ける者。その後で家畜。

 

 最後に食料や薬、水、寝具など移動に必要な荷物。商売の商品はさらにその後、といった具合だ。

 

 当然、すぐには納得されなかった。


 「商品を最後にしたら駄目になる!」

 

 商人は簡単には引き下がらない。


 「家畜を後にしたら暴れないか?」

 

 地元の農夫も尋ねた。


 「病人だけ渡して、その先でどうするんだ」

 

 別の声も上がる。

 

 アンティルは一人で答えなかった。橋番や商隊長、地元の者たちと相談しながら、案を少しずつ変えていく。

 

 病人には必ず付き添いを一人つける。渡った先には医療や休憩に使う場所を先に作る。子供は家族全員ではなく、必要な保護者一人と渡る。家畜は長く待たせると暴れる種類から先にし、十分距離を空ける。食料、薬、水、寝具は商品とは別扱いにする。食べ物を売るために持っている商人の荷についても、一定量は生活物資として先に渡す。

 

 クリルが最初に書いた順番そのままではなかった。

 

 けれど、それでよかった。クリルはこの橋のことも、ここにいる全員の事情も知らない。最初の線を引いただけだ。

 

 そこへ他の人が知っていることを足せばいい。


 「なら、俺たちもそれでいい」

 

 最初に折れたのは、避難民の中の年配の男だった。


 「元気な奴まで子供より先に行く必要はない」

 

 地元の者からも、「病人を後にしろとは言えん」という声が出る。

 

 商人たちは最後まで不満そうだった。

 

 それでも生活物資だけは先に運べること、商品の一部も余裕があれば渡すことが決まり、完全な納得ではなくとも作業は始められるところまでまとまった。

 

 ロビがクリルの頭を軽く叩いた。


 「やるじゃねえか」

 

 クリルは少し顔をしかめて、その手を払いのけた。


 「たまには素直に褒められとけ」

 

 なら頭を叩かなくてもいい。

 

 そう言いたげな顔だけ返した。

 

     ◇

 

 最初に橋へ入ったのは、昨夜銀鈴花を飲んだ少年だった。熱はまだ残っているものの、夜中より顔色は良かった。

 

 母親が前を歩き、少年はその背中へ負われている。

 

 橋の両側には太い縄が張られていた。

 

 付き添いの冒険者が一人前へ、もう一人が後ろへつく。

 

 一歩、また一歩と。

 

 板が僅かに軋む。

 

 誰も喋らずに、その歩みを見守っていた。

 

 対岸へ着いた瞬間、こちら側から小さな安堵の息が一斉に漏れた。

 

 次は足を怪我した女性。その次は幼い子を抱いた父親。歩くのが遅い老人。

 

 最初の数人を渡すだけでも随分時間がかかった。

 

 クリルは橋の中央に近い橋脚の上にいた。

 

 板の継ぎ目で足を滑らせる者がいないかを見ながら、必要なら手を貸す。

 

 ここでは声が出ないことが、いつも以上に面倒だった。

 

 川の音が大きい。叫んでも互いの声が聞き取れないことさえある。

 

 けれど、手なら見える。

 

 レナルドで狩りをするときに使っていた簡単な合図が、自然と出た。

 

 止まれ。来い。待て。右。左。低く。音を出せない環境で使う合図は狩りで重宝していた。

 

 クリルが掌を向ければ、向こう側のロビが人を止める。

 

 指を二本立ててから対岸を示せば、二人分空けて送ってくる。

 

 最初はロビも少し迷った。数回繰り返すうち、理解するようになった。

 

 アンティルにはもともと何度か教えていたので、さらに早い。カレンも、周囲の動きを見ながらすぐ覚え始めた。

 

 クリルが拳を閉じれば停止。手を低く水平に振ればゆっくり。指先を自分の目へ当ててから足元を指せば、板を見ろ。

 

 声のない合図が、川の轟音の中ではかえって便利だった。


 「クリル!」

 

 ロビが呼ぶ。

 

 振り返ると、次に渡ろうとしている老人が杖を持っている。クリルは杖では板の隙間へ先端が落ちる可能性があると気づき、首を横へ振った。

 

 杖を自分へ渡すよう手を出す。老人が理解し、渡した。空いた手で縄を掴んでもらう。

 

 その方が安全だと判断した。

 

 こうして少しずつ、人が対岸へ移っていく。

 

 誰かが渡るたび、一つ空間が生まれる。

 

 昨日まで同じ場所に密集していた人々が、川の両岸へ分かれていく。

 

 昼近くになる頃には、病人や子供、高齢者のほとんどが向こう岸へ渡り終えていた。

 

     ◇

 

 次は家畜だった。これは人間の移動より数段難しい。


 アンティルの魔法で一時的に橋を補強して、なんとか渡せるかどうかだ。

 

 それでも、馬は狭い板を怖がるし、牛は体重がある。山羊は思い通りに動いてくれない。

 

 オルンも最初、渡路の入口で足を止めた。川の音を嫌がっている。

 

 ロビが手綱を引いても進まない。


 「おい、昨日まであんなに歩くの好きだっただろ」

 

 それとこれとは別らしい。

 

 クリルが横へ行き、オルンの首筋を撫でた。

 

 耳が後ろへ向く。

 

 しばらく撫でたあと、クリルが先に渡路へ一歩乗った。

 

 振り返り、安心させるように手招きする。

 

 オルンは鼻を鳴らした。

 

 それでも、クリルがもう一歩下がると前脚を板へ乗せた。


 「何でお前なら行くんだか」

 

 ロビが不満そうに言う。

 

 クリルは少し笑った。

 

 オルンは最後まで落ち着いて渡った。

 

 他の馬や荷役獣もそれに続く。

 

 人と動物がほとんど渡り終えた頃には、太陽は高くなっていた。

 

 残っているのは主に荷物と、それを運ぶ商人や商隊員だった。

 

 ここから急に作業の空気が変わった。

 

 人命だけを考えれば、もう最も危険なところは越えた。だからこそ、今度は「何を持っていけるのか」が問題になる。

 

 橋番と商隊長は重量を見ながら、一度に渡す量を厳しく制限した。

 

 だが、全部を捨てることなど誰にもできない。

 

 少しでも多く。せめてこれだけは。そう考えるのは当然だった。

 

 クリルにもそれは痛いほど分かった。


      ◇

 

 事故は、あと数往復で終わるというところで起きた。

 

 一人の商人が、小型の荷車を渡そうとしていた。決して大きな馬車ではない。二輪の荷車で、今は人が前後から押し引きしている。

 

 本来なら最低限の荷だけを載せる決まりだった。けれど、その荷車には明らかに多い数の木箱が積まれていた。


 「ダメだ、重すぎる」

 

 ロビが入口で止めた。


 「三箱下ろせ」


 「大丈夫だ。この車ならいける」


 「車の問題じゃねえ。板が持たない」


 「もう何十人も渡っただろ」


 「だから弱ってんだよ」

 

 商人は箱を見る。

 

 その中身が何なのかクリルには分からない。ただ、男が簡単に諦められないものだということは、その顔を見れば分かった。


 「……これを置いていったら、俺は何のためにここまで来たんだ」

 

 ロビの表情が僅かに変わる。

 

 自分も昨日、同じように商品を置いてきた。だから強く責めることができないのかもしれない。


 「二箱」

 

 少し譲った。


 「二箱だけ下ろせ。それが限界だ」

 

 男は渋い顔をしながら長いこと迷った。

 

 結局、一箱しか下ろさなかった。

 

 ロビが何か言おうとしたが、向こう岸から別の荷について呼ばれ、そちらへ顔を向ける。

 

 その短い間に、荷車が渡路へ入った。

 

 中央の橋脚にいたクリルは、異変にすぐ気づいた。板の沈み方が、今までより明らかに大きい。

 

 手を上げる。止まれ、と。

 

 それを見て前側で押していた男が止まった。だが後ろ側には意味が伝わらず、荷車は止まらなかった。

 

 もう半歩進んだところで、木が軋む音が一段大きくなった。

 

 クリルの耳が伏せる。

 

 今度は両腕を交差する。

 

 ロビがそれを見た。


 「止まれ!」

 

 ロビの声が飛ぶ。

 

 荷車が止まった。その瞬間、左側の板が沈んだ。

 

 車輪が横へ滑る。荷車全体が傾いた。商人が悲鳴を上げる。

 

 積み上げられた木箱が一方へ寄った。板がどうしようもない程にさらに捻れる。


 「離れろ!」

 

 ロビが走った。

 

 荷車を押していた者たちは後ろへ逃げる。

 

 だが荷車は中央近くまで来ている。

 

 このまま川へ落ちれば、荷車へ結んでいる補助縄が渡路ごと引っ張ってしまう。

 

 最悪の場合、昨日から作った道そのものが壊れる。

 

 ロビは荷車の横へしゃがみ込み、橋脚へつながった縄の結び目へ手を伸ばした。


 「これ切るぞ!」


 「待て!」

 

 商人が叫ぶ。


 「荷を下ろせばまだ戻せる!」


 「時間がねえ!」

 

 荷車がまた滑った。

 

 木箱が一つ川へ落ちる。

 

 水へ当たる音すら、流れの中ですぐ消えた。

 

 ロビが短剣を抜き、縄へ刃を当てる。そのとき、傾いた荷車の片側が大きく沈んだ。

 

 張り詰めていた縄が跳ねた。


 「ロビさん!」

 

 カレンの声はもう叫びに近い。

 

 縄がロビの脚へ絡む。

 

 次の瞬間には、荷車が川へ引かれていた。

 

 ロビの身体も一緒に動く。

 

 クリルは走っていた。

 

 中央の橋脚から板が二枚分。距離は短い。

 

 身体強化は使わない。今必要なのは速さではなく、正確性だと判断したからだ。

 

 ロビの足が板から離れる。身体が川側へ傾く。

 

 荷車に積まれた箱を固定している太い綱が見えた。あれを残せば、まだ商品を幾つか救えるかもしれない。

 

 先に荷を下ろし、車体を軽くすれば。

 

 一瞬だけ可能性が頭をよぎる。

 

 でも遅い。ロビの足はもう半分、板の外だった。

 

 クリルはサリフの短剣を抜いた。

 

 商品を見て、そしてロビを見る。

 

 この段階ではもう迷わなかった。木箱をまとめていた綱へ刃を叩き込む。

 

 一度では切れない。もう一度。刃が食い込む。三度目で綱が裂けた。

 

 はち切れるように積み荷が一気に崩れた。

 

 幾つもの箱が荷車から川へ落ちる。


 「やめろ!」

 

 商人の叫びが聞こえた。

 

 それでもクリルは止めない。躊躇せずに残った綱も切る。

 

 荷車が急に軽くなったことで傾き方が変わり、ロビの脚へ絡んでいた縄が僅かに緩んだ。

 

 クリルは短剣を手放し、咄嗟にロビの腕を掴んだ。

 

 目いっぱいの力で引く。

 

 ロビは小柄とは言えどクリルからすると重い。自分の筋力だけでは足りない、と直感したとき後ろから別の手が伸びた。

 

 カレンだった。彼女がロビの上着を掴む。

 

 一瞬だけ、海蝕洞で見た力を思い出した。だが今回は、人に不自然と思われない程度に抑えているのが分かった。

 

 さらに黒い帯がロビの腰へ巻きつく。一目見ただけでわかる、アンティルの魔法だ。

 

 三人の力で引く。

 

 ロビの足が板の上へ戻った。

 

 ほぼ同時に、荷車が完全に横倒しになった。残っていた二つの箱が無念にも川へ落ちる。そして、車体だけが補助縄一本でぶら下がった。

 

 ロビが息を吐く。


 「……死ぬかと思った」

 

 クリルはその言葉を聞いた瞬間、力が抜けそうになった。

 

 けれどまだ終わっていない。

 

 一本指を立てる。離れろ、の合図だ。

 

 ロビがすぐ理解した。

 

 カレンもすかさず後退する。

 

 アンティルが黒い帯を板へ絡ませ、渡路への負荷を支える。

 

 ロビは今度こそ荷車をつないでいた最後の縄を切った。

 

 車体が濁流へ落ちる。

 

 川へ吸い込まれ、数秒もしないうちに見えなくなった。これに人が巻き込まれたら、ひとたまりもないだろう。

 

 残った渡路が大きく揺れる。それでも間一髪のところで崩壊は免れた。。

 

 クリルは橋脚の上へしゃがみ込み、ようやく息を整えた。

 

     ◇


 「全部……」

 

 荷車の持ち主だった商人は、川を見たまま動かなかった。

 

 怒鳴っていた声も、もう出ない。

 

 木箱は一つも残っていない。

 

 その顔を見た途端、クリルの胸に重いものが落ちた。

 

 この人には必要な物だったのだろう。たしかに、そう思う。

 

 けれど、ロビを助けるには、ああするしかなかった。

 

 渡路まで壊せば、まだ渡っていない者全員が困った。

 

 それでも、あの箱は男にとってそれよりも大事だったのかもしれない。

 

 クリルが近づこうとすると、ロビが先に立った。


 「悪かった」

 

 商人が振り返る。


 「……何がだ」


 「止めきれなかった。もっと早く荷を下ろさせるべきだった」


 「切ったのはあの子だろ」

 

 男の視線がクリルへ向く。

 

 きっと声を荒げて言葉の限り責められるのだろう。そう覚悟していた。

 

 けれど男は、しばらくクリルを見たあと、視線を落とした。


 「俺だって分かってる。あのままだったら荷車ごと橋を持っていっただろう。俺も死んでたかもしれん」

 

 拳を握る。


 「でもな、でも……あれで冬まで食うつもりだったんだ」

 

 ロビは何も言わなかった。

 

 言葉だけの軽い慰めでは足りない。失った物は戻らない。クリルにもそれくらいのことは分かる。

 

 男は顔を擦った。


 「命より荷が大事だったわけじゃない。ただ、荷を失ったら、その後どう生きるかって話になるんだよ」

 

 昨日、誰かが言っていた。

 

 商品も家族を食わせるためのものだと。クリルはその言葉の意味を、ようやく少し実感した。

 

 人を助ければ、それですべてが元通りになるわけではない。

 

 何かを守るために何かを捨てれば、それがまた誰かの暮らしを壊してしまう。

 

 正しかったと思う。それでも、何も痛まない正解ではなかった。


 「お前の残りの荷、うちで持てる分は持つ」

 

 ロビが言った。


 「イトゥアンまで戻るなら、帰りの商隊も探す。全部はどうにもならんけどな」

 

 男は意表を突かれたようにぽかんとした顔で返す。


 「お前……自分の馬車も昨日ばらしたんだろ」


 「ああ、だから仲間だな」


 「嬉しくねえよ……だが、助かる」

 

 今度はほんの僅かに、周囲から笑いが漏れた。

 

 男も最後には小さく笑った。

 

 失ったものは戻らない。

 

 でも、生きてさえいれば失ってからも行動することはできる。

 

     ◇

 

 最後の荷が対岸へ渡ったのは、陽が西へ傾き始めた頃だった。

 

 丸一日近くかかった。

 

 馬車の一部と多くの商品が川のこちら側へ残り、持っていけない物は地元の者へ預けるか、使える者へ譲ることになった。

 

 ロビの馬車もない。

 

 これからしばらく、彼は他の馬車へ荷を分けてもらい、自分自身は歩くことになる。

 

 それでもオルンはいる。人も全員いる。橋を渡り終えた避難民たちも、川辺の広い場所へ集まっていた。


 昨夜熱を出していた少年は、母親の隣で自分の足で立っている。まだ元気いっぱいとはいかないが、額へ触れた母親の顔は昨日より明るかった。

 

 クリルが近くを通ると、少年が手を振った。

 

 クリルも振り返す。

 

 銀鈴花は減った。商品も減った。馬車も一台なくなった。

 

 川へ流れていったものは多い。

 

 それでも、あの橋を渡ろうとしていた人間は全員、今こちら側にいる。

 

 その事実だけは、失われていなかった。

 

 アンティルが隣へ来る。


 「記録しておけ」

 

 クリルは彼を見る。


 「橋が壊れたことだけじゃない。どうして壊れたか。その結果、何が起こったか。どんな順番で渡したか。何を捨てたか。何が必要だったか」

 

 クリルは少し考える。

 

 確かに、ただ『橋が崩れた』とだけ書けば、大事なところのほとんどが消えてしまう。

 

 橋は古かった。でも、昨日までは使えていた。

 

 そこへ普段より多くの人が集まった。

 

 なぜ集まったのか。誰が何を選んだのか。その結果、何を失ったのか。

 

 それは全部つながっている。

 

 クリルは納得した顔で頷いた。


 「それから」

 

 アンティルが続ける。


 「今日使ってた手の合図。あとで俺にももう少し教えてくれ」

 

 それは意外な申し出だった。

 

 思わずクリルの耳が立つ。


 「騒音の中じゃ声より早い。戦闘でも使える」

 

 どこからともなくロビも横から入ってくる。


 「俺も覚える。今日、何回かお前が何言ってんのか分からなかったからな」

 

 クリルは少し不満そうな顔をした。


 「途中から分かったって」

 

 カレンまで近づいてくる。


 「私もお願いします。『止まれ』と『待て』は覚えましたけど、他はまだ曖昧なので」

 

 あらためて三人を見る。

 

 クリルは少しだけ戸惑った。

 

 レナルドでは当たり前に使っていた。声の出ない自分に合わせて、ジグやミーリャや里の人たちが覚えてくれた手の言葉。

 

 旅へ出れば、また黒布で伝えていくのだと思っていた。

 

 けれど、今ここにも覚えようとしてくれる人がいる。

 

 胸の奥が少し温かくなった。

 

 クリルは笑って、まず片手を上げた。

 

 掌を前へ。これは『止まれ』。

 

 次に手を低く動かす。『ゆっくり』。

 

 指で二つ。『二人』。

 

 まずアンティルが真似をする。ロビは一つ間違えた。カレン要領よくすぐに覚えた。


 「何で俺だけ間違うんだよ」

 

 ロビが文句を言う。

 

 クリルは肩を揺らして笑った。

 

 声はなくても、三人には何を笑っているのか十分伝わっていた。

 

     ◇

 

 その夜、クリルは旅日記を開いた。

 

 まずは橋のことを書く。

 

 古かったこと。普段より人が多かったこと。二台の荷車が同時に入り、中央が崩れたこと。ロビの馬車を解体して渡路を作ったこと。

 

 それに、病人や子供を先に渡したこと。荷車が滑ったこと。商品を川へ落としたこと。ロビが無事だったこと。

 

 最後に筆が止まった。

 

 昼間、商品を失った商人が言った言葉を思い出す。

 

 命より荷が大事なのではない。荷を失えば、その後どう生きるかという話になる。

 

 クリルは少し考え、『人を助ければ、それで全部が解決するわけではない。』と書いた。

 

 少し暗い言葉にも見えた。

 

 その下へ、もう一行加える。

 

 『それでも、先に助けなければ、その後を考えることもできない。』

 

 今度は消さなかった。

 

 旅日記を閉じ、暗い川の方を見る。

 

 壊れた橋の向こう側では、もう人の明かりはほとんど見えない。

 

 道は一度途切れた。それでも、今日は全員がこちらへ渡ってきた。

 

 クリルは掌へ小さな光を灯した。白い光は以前より安定していて、旅日記をしまう手元を静かに照らした。

 

 明日になれば、また西へ進む。

 

 次に待っているものが何なのかは、まだ誰も知らなかった。

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