20 / 崩れる橋と言い争い
街道を歩く人の数が増え始めたことに、クリルが最初に気づいたのは昼前だった。
イトゥアンを出た直後ほど道幅は広くなくなってきたものの、二台の荷馬車がすれ違える程度の余裕はまだある。それなのに商隊は朝から何度も速度を落とし、ときには完全に止まらなければならなかった。
原因は、向こうから来る人々だった。
旅商人は珍しくない。背嚢一つで歩く冒険者も、農作物を町へ売りに行く荷車も、昨日から何度もすれ違っている。
だが今朝から目につく者たちは、そういう人々とは性質が違っていた。
大きな包みをいくつも背負った家族がいる。鍋や寝具まで荷車へ積み、鶏かごを紐で括りつけて歩く老人もいた。幼い子を抱えた母親の後ろを、家具らしい木箱を二人がかりで運ぶ男たちがついてくる。
どれも、数日の旅へ出る荷物には見えなかった。
クリルはすれ違った一団を振り返った。
その中の少女もこちらを見ていた。
クリルよりずっと幼く、片腕に布の人形を抱いている。もう片方の手は母親らしい女性とつながれていた。
少女の目が、クリルの狐耳へ向く。
クリルが軽く手を振ると、少女も少し迷ったあと、小さく振り返した。
すぐ人の流れに隠れて見えなくなる。
「避難してきた連中だな」
ロビが御者台から言った。
クリルは顔を上げる。
「最近増えてる。理由は一つじゃねえみたいだけどな」
前を歩く商隊がまた詰まり、オルンが歩みを止める。ロビは手綱を緩めながら、街道脇で休んでいた人々へ目を向けた。
「魔穴が近くにできたとか、魔物が増えたとか、道が使えなくなったとか。しばらく親戚のところへ逃げるだけって奴もいれば、家ごと捨ててきた奴もいる」
クリルの耳が僅かに伏せた。
レナルドの近くにも魔穴は現れた。
もしあれが里のすぐ中に開いていたら。もし閉じることができなかったら。大樹も家も置いたまま、ミーリャやジグが荷物を背負って外へ出ることになったのだろうか。
想像しただけで、胸の奥が少し重くなる。
「全員が同じ方向へ逃げてるわけでもない」
アンティルが隣から言った。
彼はさっきから人の流れを観察していた。
「イトゥアンへ向かう者もいれば、内陸へ行く者もいる。安全な場所がどこか分からないまま、知っている町や親族を頼って移動してるんだろう」
それはクリルが考えていた「旅」とはずいぶん違った。
自分は見たいものがあるから歩いている。
大図書院へ行きたいから、知らない道を楽しめる。けれど、今すれ違っている者たちは、帰りたい場所から離れるために歩いている。
同じ街道を使い、同じように荷物を背負っていても、それだけで意味がまるで違っていた。
しばらくして、商隊が再び動き始める。
クリルも歩き出した。
朝から見えていた遠い山並みは少しずつ近づいているのに、今日は昨日ほど道そのものへ心を奪われなかった。
◇
異変があったのは、その日の午後だった。
街道は丘の間を抜け、やがて大きな川へ行き当たった。かなり幅がある。
水は茶色く濁り、流れも速かった。上流ではここ数日まとまった雨が降ったらしく、普段より水量が増えているのだと、先に情報を聞いてきた商隊員が話していた。
川には一本の橋が架かっていた。石造りの橋脚の上へ太い木材を渡した古い橋で、街道と同じだけの幅はなく、荷馬車は一台ずつしか通れない。
その入口で人の列が完全に止まっていた。
「長いな」
ロビが御者台から身を乗り出す。
橋の手前には何台もの荷馬車が並び、その間を避難民らしい人々が埋めている。向こう岸にも同じような列があり、橋の中央では一台の荷車がゆっくりと進んでいた。
近くまで行くと、橋番らしい男が声を張り上げている。
「一台ずつだ! 前の荷車が向こうへ着いてから次を出せ! 歩く者は端へ寄れ!」
怒鳴らなければ聞こえないほど騒がしかった。
子供が泣き、馬が落ち着かず足踏みをし、列から抜けようとする荷車へ別の御者が罵声を飛ばしている。
クリルは橋を見た。
古い。素人の自分でもそう思う。板の一部は色が黒く変わり、何度も補修した跡がある。橋脚そのものは石で頑丈そうだが、その上へ渡された梁には継ぎ足しが多かった。
「あれ、平気なのか?」
ロビも同じことを思ったらしい。
「普段ならな」
商隊の年長の御者が答えた。
「前にも何度か通った。古いが、ちゃんと荷重を守れば持つ橋だ」
その言葉の最後は、今の状況を見て少し弱くなった。
この状況は普段ではない。
橋の手前だけでも、いつもの何倍の人間と荷車が集まっている。しかも誰もが先を急いでいた。
クリルたちの商隊も列の最後へついた。
しばらくは待つしかない。
ロビたちが他の商人と話を始めたので、クリルは街道脇へ少しだけ場所を移した。
すぐ近くに、避難民らしい一家が座っている。
母親の膝へ幼い男の子が頭を乗せていた。顔が赤い。母親は濡らした布を額へ当てているが、子供は目を閉じたまま浅く息をしていた。
クリルは足を止めた。
昨日採った銀鈴花が頭に浮かぶ。
解熱に使える。
鞄には依頼分が入っている。
規定数だけ採ったので、勝手に減らせば依頼を満たせなくなる。
もう少し先にも生えている可能性はあるが、見つかる保証はない。
クリルは少し迷った。
その視線に母親が気づいた。
「大丈夫よ。この朝から熱が出ただけだから」
その言葉とは裏腹に大丈夫には見えなかった。
けれど、この場で銀鈴花を渡しても、薬として使うには処理が必要だ。
クリルは一度子供を見てから、商隊の方へ視線を戻した。
アンティルなら扱い方を知っているかもしれない。
そう考えたとき、橋の方から怒鳴り声が聞こえた。
「待て! まだ前が渡り切ってない!」
橋番の声だった。
クリルが振り返る。
大きな荷馬車が一台、列から強引に前へ出ている。
「いつまで待たせる気だ! こっちは傷む荷を積んでるんだぞ!」
御者が怒鳴り返した。
橋の上にはまだ別の馬車がいる。
その後ろにも、歩いて渡っている人が何人か残っていた。
「戻れ! 一台ずつだと言ってる!」
「歩いてる奴らを止めろよ!」
「子供もいるんだぞ!」
「こっちだって商売がかかってんだ!」
声が重なる。
押し合う人の列が動いた。誰かが一歩前へ出れば、後ろも詰める。
橋番が止めようとしても、全体を抑えきれない。
クリルの耳が伏せた。
嫌な音がした。木が軋む音。商隊の車輪の音でも、馬具が鳴る音でもない。
もっと低く、長い。
橋そのものが鳴っている。
クリルは反射的に走り出していた。
「おい!クリル!」
ロビの声が後ろから聞こえる。
橋の入口へ近づく。
もう一度、橋が軋む。
中央の荷馬車が止まった。馬が落ち着かず前脚を上げる。
板の隙間から細かな木屑が落ちた。
クリルは橋番の男へ腕を伸ばし、橋を指差した。
「何だ?」
言葉では間に合わない。
クリルは両腕を交差させ、大きく首を横へ振った。
『止めて』と。
耳も完全に伏せていた。
橋番が一瞬怪訝な顔をする。
そのときだった。
ぱきり、と。今度は誰にでも聞こえる音がした。
「止まれ!」
橋番が叫ぶ。
だが遅かった。
中央付近の板が一枚沈み込む。
馬車の右輪が傾いた。
馬が暴れる。御者が手綱を引く。その動きでさらに荷重が片側へ寄った。
太い梁が折れる音は、思っていたより乾いていた。
次の瞬間、橋の中央が大きく沈んだ。
人々の悲鳴が上がる。
「下がれ!」
誰かが叫ぶ。
クリルの視界の中で、橋の上にいた人々が一斉に両岸へ走った。
中央の荷馬車は動かない。片輪が板を突き破り、車軸が引っ掛かっている。
そのすぐ後ろで幼い子供が一人、転んだ。
周囲の大人は逃げるのに必死で気づいていない。
クリルは考えなかった。それより先に足が動いた。
橋へ中央へ疾風のごとく走り抜ける。
「クリル、戻れ!」
止める声はアンティルだった。
しかし、子供までの距離はもう半分もない。
橋がさらに沈む。揺れる足場の上を、クリルは板の継ぎ目を避けながら進んだ。
昨日試した身体強化が頭をよぎる。
使えば速くなる。
けれど、その考えは一瞬で捨てた。
今の自分には制御できない。
こんな足場で距離を一歩分でも間違えれば、そのまま川へ落ちる。
使い慣れた身体だけで行く。
子供が起き上がろうとする。そして足を滑らせた。
クリルは最後の数歩を一気に詰め、襟元を掴んだ。
自分よりずっと小さい。片腕で引き起こし、その勢いのまま子供を橋の入口側へ押し出す。
『走って!』
声は出ない。だから空いた手で岸を指し、大きく振る。
意味は伝わったようだ。子供が走る。
クリルも続こうとした。
そのとき背後で、さらに大きな破砕音がした。
中央の荷馬車が傾く。荷台から木箱が一つ滑り落ちた。橋の板へ当たり、そのまま川へ落ちていく。
その衝撃で足元が跳ねた。
クリルの身体が浮く。
着地点に板がない。
反射的に左足を伸ばす。
梁はあまりにも狭い。足裏の半分しか乗らない。それでも足場にして踏む。
重心を低くし、身体が外へ流れる前に次の板へ移った。
横から黒いものが伸びてくる。アンティルの魔法だった。
墨を流したような黒い帯が折れかけた欄干へ絡みつき、一瞬だけ揺れを抑える。
「今だ!」
クリルは最後の距離を跳んだ。
岸へ着いた直後、背後から轟音が響いた。
振り返ったときには橋の中央部分が、濁流の中へ落ちていた。
完全に分断されている。
対岸には人と馬車が取り残され、こちら側にも大勢が残った。
川の中では折れた板や荷物が流されている。
子供が泣きながら母親のところへ戻っていくのを見届けてから、クリルはようやく息を吐いた。
膝が少し震えている。
「お前なあ……」
ロビが駆け寄ってきた。
怒っているのか心配しているのか分からない顔だった。
「助けたのは偉い。偉いけど、ちょっとは考えて行動しろっての」
クリルは困ったように眉を下げた。
同じ場面になったら、多分また行く。
そういう顔になっていたらしい。
「その顔はやめろ」
ロビは額を押さえた。
◇
幸い、橋の崩落そのもので命を落とした者はいなかった。
川へ流された荷物は多かったが、橋の中央にいた馬車の御者も、暴れていた馬も、周囲の者たちに引かれて岸へ戻ることができた。
ただ、橋はもう使えない。中央の三分の一ほどが完全に失われ、残った橋板にも亀裂が入っている。
アンティルが崩れた部分を調べて戻ってきた。
「魔法的な破壊じゃない」
商隊の者たちが集まる中で、短く結論を出す。
「梁がかなり腐食してた。補修も繰り返されてる。普段の交通量ならまだ持ったかもしれないが、これだけ人と荷車が集中したところへ二台入ったらな」
「じゃあ、ただ壊れただけか」
ロビが尋ねる。
「原因だけを見ればな」
アンティルは川沿いへ集まった人々を見る。
「ただ、これだけの人数がここへ集中した原因は別だ」
避難民に商人、旅客や冒険者。行き場を変えた者たちが、一本の橋へ集まった。
世界の異変が橋を壊したわけではない。
道が消えて橋を切り取ったわけでもない。
それでも、各地で起きていることが何もなければ、この橋は今日壊れなかったのかもしれない。
クリルはそのことを覚えておこうと思った。
目に見える異変だけが、世界を変えるわけではない。
「で、どうすんだ」
近くにいた商人が苛立った声を出した。
「ここが渡れないなら南へ回るしかないぞ」
「何日かかる?」
「荷車なら三日、下手すりゃ四日だ」
「冗談じゃない。食料がもたん」
その言葉に、避難民の側から声が飛んだ。
「こっちはもっと持たない!」
空気が一気に悪くなった。
橋の手前へ集まっていた者たちが、自然といくつかの集団に分かれる。
商人たちは荷と馬車を気にしている。避難民たちは食料や幼い子供、老人を抱えている。
近隣の住民らしい者たちも集まってきた。
「橋は村のもんだぞ!」
一人の男が声を上げる。
「勝手に壊した連中で何とかしろ!」
「勝手に壊したって、俺たちだけのせいじゃないだろ!」
「荷馬車を二台入れたのは商人だろうが!」
「そもそも避難民が橋を塞いでたからだ!」
徐々に言葉が荒くなる。
誰か一人が悪いわけではない。それでもこんなときには、誰が悪いのかを決めたくなるらしい。
クリルは少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。
レナルドでも意見が割れたことはある。《旅人》になった自分を、里に残すかどうかでも言い争いになった。
あのときも、漠然とした恐怖心からクリルに外へ出てほしいと言う人がいた。
その人たちが自分を嫌っていたわけではないことは、今なら少し分かる。
目の前の人々も同じなのかもしれない。
荷を失えば生きていけない商人がいる。今日中に向こうへ行かなければ食料が足りない家族もいる。橋を失えば、これから困る地元の人々もいる。
全員に理由がある。
だから全員が自分を先にしてほしい。
「静かにしろ!」
橋番が叫んだ。
それでも事態は収まらない。
「とにかく、残った橋を直せばいいだろ!」
「どうやって直すんだよ! 材木なんてすぐ来ねえぞ!」
「荷車の板でも使え!」
「てめえの荷車を壊しやがれ!」
「なんだと……」
そこで、急に声が減った。
誰も自分のものを差し出したくはない。それは当然だ。
旅に必要な馬車を壊せば、その先へ進めなくなる。商品を下ろせば、雨に濡れるかもしれないし、持って歩くこともできない。
クリルはロビを見る。さっきまで声を上げていた彼が、今は黙って自分の馬車を見ていた。
オルンの後ろにつながった馬車。
イトゥアンで仕入れた商品が積まれている。
乾物に布、香辛料。小さな木箱が山積みになっている。
クリルには一つひとつの値段までは分からない。でも、ロビが朝から市場を歩き、何度も帳面とにらめっこして選んだものだということは知っている。
ロビは馬車の車輪を蹴った。
軽い音がする。
「この馬車なら使える」
近くにいた商隊員が振り返った。
「ロビ?」
「荷台の側板と床板。車軸までばらせば結構な長さが取れる。橋脚は残ってるんだろ?」
アンティルが崩落した橋を見る。
「二本は使える。向こう側の梁も一部残ってる」
「なら渡せるだろ。人が一人ずつ歩ける幅でいい」
「待てよ」
別の商人が声を上げた。
「その馬車、まだ使えるんだぞ。迂回すりゃ済む話だろ」
「避難民の食料が三日持つならな」
ロビの声はいつもより低かった。
「うちだって余裕はねえ。でも食い物は分けられる。馬車はまた買える。あの子らが腹減らして歩けなくなったら、それで終わりだ」
「商品はどうする」
「運べるだけ他へ積む」
「残りは?」
ロビは少しだけ黙った。
「置いてく」
あっさりした言い方だった。
けれど、クリルには本当に軽い決断ではないことが分かった。市場でロビが一つの商品を買うまで、どれだけ細かく値段や重さを確認していたか知っている。
あれを全部、金に換わる前に捨てるというのだ。
「馬車だって、お前だけの判断じゃ」
「俺の担当だ。商隊長には話す」
「……損するぞ」
「分かってるよ」
ロビはそこで初めて苛立った顔をした。
「分かってるから考えてんだろ」
誰も返せなかった。
クリルはオルンを見る。
馬車を失っても、オルンは歩ける。ロビも歩ける。商品は失ってしまうが。
けれど人は残る。
少しして商隊長が呼ばれ、橋の状況とロビの案を確認した。
すぐに了承はしなかった。
商隊全体の荷を組み替え、どこまで積み替えられるかを調べ、馬車一台を失った場合の進行速度まで確認する。
それでも、他に今日中に川を渡る方法はなかった。
「やろう」
最後に商隊長が言った。
「ただし、ロビ一人の損にはしない。積める荷は全員で分ける。橋に使えるものも、ほかの馬車から出せるなら出す」
「……悪いな」
ロビは頷いた。
そうと決まれば、商隊の動きは早かった。
荷を下ろす。種類ごとに分ける。他の馬車へ積めるものを選び、重量を計算する。
アンティルは崩れた橋脚を調べながら、黒い魔法を細く伸ばして亀裂の位置を確認している。カレンも荷運びへ加わったが、海蝕洞のときのような力は使わず、一般的な女性が運べる量を一つずつ運んでいた。
クリルもすぐ荷台へ上がった。
「それは向こう」
ロビが箱を指す。
「それは残す」
別の箱を今度は地面へ。
何度か繰り返すうち、馬車の床が見え始めた。その床さえ、これから剥がすのだ。
クリルは初めて、旅を続けるために何かを「持っていく」だけでなく、「捨てる」場面を見ていた。
レナルドを出たとき、自分は必要なものを一つずつ選んだ。
黒布に白筆、旅日記。父の短剣も。大樹から舞ってきた白い葉だって、全部持っていきたいものだった。
けれど旅が長くなれば、持ち続けられないものだって出てくるのだろう。
ロビは一つの木箱を手に取った。中を確認する。それはイトゥアンで仕入れた布だった。
他の馬車はもう重量に余裕がない。
ロビは数秒考えたあと、箱を地面へ置いた。
「これは置いてく」
感情を押し殺したような声だった。
それでもクリルは、彼が箱から手を離すまで僅かに時間がかかったのを見ていた。
何か言おうとは思わなかった。
代わりに次の荷を取った。
ロビもすぐ次へ移った。
◇
日が傾き始める頃には、ロビの馬車はほとんど空になっていた。
オルンが馬車から外される。長く引いてきた馬車との間に何か特別な別れがあるわけではなく、雌馬は近くの草を噛みながら時折尾を振っていた。
「お前は気楽でいいな」
ロビが首筋を撫でる。
オルンは鼻を鳴らした。
商隊の職人が工具を出し、荷台の側板へ手を掛けた。最初の釘が抜かれる。
木が軋む。板が一枚外れる。
それを見ていた避難民の中から、何人かが近づいてきた。
「手伝わせてくれ」
一人の男が言った。
さっき橋の手前で商人へ怒鳴っていた者だった。その後ろにも数人いる。
「俺らも渡るんだ。商人だけにやらせるわけにはいかん」
ロビは少し驚いた顔をしたあと、工具を一つ渡した。
「釘、曲げんなよ。使い回すから」
「細けえな」
「商人だからな」
今度は笑いが起きた。
大きなものではなかった。けれど、さっきまで怒鳴り合っていた空気は少しだけ緩んだ。
地元の者も、残った橋の近くから使えそうな材木を持ってくる。商人たちは縄を出す。冒険者は橋脚へ渡る方法を相談し、泳ぎに自信のある海人が対岸へ綱を運べないかと申し出た。
一つずつ。
誰か一人では足りないものが集まっていく。
クリルは外した板を運びながら、それを見ていた。
《旅人》の光は出ていない。必要とも思わなかった。道がなければ何もできないわけではない。
壊れたなら、作り直せばいい。
やがて川の上に一本目の縄が渡り、そのあとを追うように二本目が張られた。
残った橋脚と岸へ、太い板を渡す準備が始まる。
一人ずつなら、明日の朝までには向こうへ渡れるかもしれない。そう見通しが立ったところで、別の問題が持ち上がった。
「最初は荷だろ」
一人の商人が言った。
「夜露で商品を駄目にするわけにはいかない。人間は待てる」
「ふざけるな!」
避難民の側からすぐ声が返った。
「子供も老人もいるんだぞ!」
「こっちの商品だって生活がかかってる!」
「橋を壊したのは荷馬車じゃないか!」
「またその話かよ!」
一度静まりかけた場所へ、再びざわめきが広がる。
地元の者からも、「まずこっちの住民を渡せ」という声が上がった。
全員を渡す道は作れそうだった。だが、今度は誰を先に渡すのかが問題になった。
クリルは周囲を見た。商人、避難民、地元の住民、怪我をしている者、子供、老人、馬や荷役獣。食料に商品。全部を一度には渡せない。けれど、どれも誰かにとっては大事だった。
少し離れた場所では、昼間見た母親が熱のある子供を抱えている。男の子は朝より苦しそうだった。
クリルの鞄の中には銀鈴花がある。その奥には、キルガスまで届けなければならない公文書も入っている。
自分にも守らなければならないものがある。
それでも、何を一番先に守るべきなのか。
答えは、まだ誰にも決められていなかった。
夕暮れの川辺で、人々の声だけがいつまでも響き渡っていた。




